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近代革命の社会力学(連載第146回)

2020-09-15 | 〆近代革命の社会力学

十九ノ二 ハンガリー革命

(4)ソヴィエト共和国の挫折と反革命
  ハンガリー・ソヴィエト共和国の革命統治評議会議長には社会民主党幹部のガルバイ・シャンドルが就いたが、彼は表の顔にすぎず、指導的な実権は外交人民委員(外相)に就任したクン・ベーラが握っていた。
 クンがあえて外務担当職に就きつつ、実質的な指導者となったことには理由があった。それはソ連のレーニン政権と密接な連絡関係を保つことである。実際、レーニンはクン政権を衛星国家として扱っており、その第一歩として社会民主党を政権から排除するよう指示している。
 ハンガリーのソヴィエト革命は、前回見たように、社民党と共産党の合併をベースに成功したにもかかわらず、クンはレーニンの指示に従い、表の顔役のガルバイを除く社民党出身の政権要人を次々と追放し、独裁体制を固めた。
 このようにして展開されたクンのソヴィエト共和国の基本は、ボリシェヴィキからの引き写しとしての「プロレタリアート独裁」であったが、権力基盤の弱さを補うため、徹底した抑圧政策が敷かれた。そのために、「レーニン少年隊」なる青少年民兵組織を使った「赤色テロ」が断行された。
 こうした粗野な強権統治の一方、ルカーチ・ジェルジュのような哲学者を教育人民委員(教育相)に起用して、普通教育の整備や労働者大学、文化施設の民衆開放などの民主的教育・文化政策も追求した。
 経済政策の柱は産業の国営化や農地の国有化であったが、そのプロセスはロシア革命よりも急激であった。そのような急進政策を可能とした要因として、ハンガリーには大規模な反革命勢力が存在せず、内戦に陥らなかったことがある。
 国防に関しては独立革命後に喪失した領土の回復が大きな課題であり、ここに政権の命運がかかっていた。とはいえ、ソヴィエト共和国がにわか仕立てで組織した赤軍はまだ弱体であった。
 そのため、まずはドイツとの交通路を遮断していた北部の新生国家チェコスロヴァキアへの攻勢をかけた。ハンガリー以上に軍が弱体なチェコスロヴァキアへ向けたこの作戦は成功し、スロヴァキアの領域に傀儡国家としてスロヴァキア・ソヴィエト共和国を樹立させた。
 続いて、東部トランシルヴァニアのルーマニア占領軍を駆逐するべく、赤軍を差し向けたが、弱体なチェコスロヴァキア軍と異なり、ルーマニア軍には太刀打ちできなかった。期待されたソ連からの軍事的支援は、ソ連側の内戦により得られなかった。
 その結果、ハンガリー赤軍は1919年7月末までには敗北し、8月以降、進撃攻勢に出たルーマニア軍により首都ブダペストを占領され、ソヴィエト共和国はあっけなく転覆されたのである。クンは亡命し、ソヴィエト共和国は5か月に満たない命脈に終わった。
 一方、保守派の立場からルーマニア軍の占領に抵抗したのは、二重帝国時代の海軍軍人ホルティ・ミクロ―シュであった。彼はにわかにハンガリー国民軍を組織し、ルーマニア占領軍と対峙した。これに対して、ソヴィエト政権を打倒して一応目的を達したルーマニアは不戦撤退し、その後にブダペストを制圧した国民軍により、共産主義者を排除する白色テロが断行された。
 最終的には、1920年の国民投票の結果、共和制を廃して立憲君主制へ移行したが、ハプスブルグ王家の復活に反対する大戦連合国やルーマニアの干渉により、君主不在の君主制という変則体制の下、ホルティが「摂政」という地位で権威主義独裁政治を展開することとなった。
 かくして、ハンガリーのソヴィエト革命は前年のフィンランド未遂革命のような内発的な反革命ではなく、外国からの侵略によって挫折させられるという経過をたどった。いずれも、自力で革命体制を維持できる段階に達していなかったからであった。


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