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近代革命の社会力学(連載第110回)

2020-06-02 | 〆近代革命の社会力学

十五 メキシコ革命

(4)ブルジョワ民主化革命の始動
 メキシコ革命の背景的な要因は、外部からもたらされた。すなわち、米国発の1907年恐慌である。ディアスの開発独裁体制下で米国資本が進出していたメキシコは恐慌の余波を受け、経済的な打撃は大きく、支配層であり、ディアス独裁体制の支持基盤でもあった農園主層にも経済的損失が及んだ。
 これを機に、まずは比較的民主的な精神を持つ若手の農園主層が革命に決起する。その代表者となったのが、1873年生まれのフランシスコ・マデロである。マデロは当時のメキシコでも最も富裕な農園主の家系に生まれ、米国留学経験も持つまさに典型的なメキシコ支配階級エリートであった。
 彼はまた農園主であると同時に、繊維工場主でもあり、ディアス体制下で誕生してきていたメキシコ人の民族資本家という顔も持っていた。そうした点で、ディアス体制下で育ったマデロはまさにディアス体制の申し子と言える存在なのであった。
 しかし、マデロはディアスの長期執権に対する最大の敵対者となる。すでに憲法の大統領多選禁止規定を排除して終身的に居座る構えを見せていたディアスに対し、マデロは1909年に再選反対センターを設立し、1910年予定の大統領選挙でディアスを追い落とす運動を始めた。
 この段階は革命ではなく、あくまでも選挙を通じた「ディアス降ろし」の政治運動であり、マデロ自身も立候補を予定していたところ、ディアス側は機先を制してマデロを反乱扇動容疑で逮捕・投獄した。そのうえで、ディアスは実に九選を果たしたのであった。
 マデロは直後に釈放され、米国へ亡命したが、この寛大な処置がディアスにとっては失策となった。マデロは10月、テキサスでサン・ルイス・ポトシ綱領を発し、ディアス体制に対する武装革命を呼びかけたのである。ちなみに、サン・ルイス・ポトシはマデロが投獄されていた監獄の所在する町の名にちなんでいる。
 このマデロの呼びかけが、メキシコ革命の最初の導火線となる。この時点で、マデロは革命を組織化したわけではなかったにもかかわらず、農民運動を含む諸勢力が自然発生的に武装蜂起し、一挙に革命的状況に発展した。これは、20世紀初頭以来、メキシコ社会ではマグマのごとく革命的な潜勢力が隆起していたことを示している。
 革命軍がチワワ州の要衝シウダー・フアレスを制圧すると、ディアス政権は妥協による延命工作を画策するも失敗し、1911年5月、ディアスは政権維持を断念してフランスへ亡命した。
 その後、ディアス政権の外務大臣だったフランシスコ・レオン・デ・ラ・バーラの臨時移行政権を経て、同年10月の大統領選挙でマデロが大統領に当選を果たした。これにより、メキシコ革命の最初の段階が完了する。
 マデロが圧倒的な主人公であったこの段階は、本質上ブルジョワ民主化革命の性格を持っていた。というのも、マデロとその支持者は基本的に農園主層の出であり、独裁者ディアスを排除しても、かれらブルジョワ階級の支配権を放棄するつもりはなかったからである。
 このことは、呼びかけに答えて「マデロ革命」に参加した農民には幻滅を与えるとともに、かれらをして次なる革命運動に赴かせる契機となった。他方で、マデロには革命を収束させる政治手腕が欠如しており、このことは保守層の苛立ちを招き、誕生したばかりのマデロ政権が両極から挟み撃ちにあう事態を予期させた。


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