ザ・コミュニスト

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比較:影の警察国家(連載第33回)

2021-02-28 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

2‐1‐3:国境隊及び移民執行局

 前々回と前回に見た国家犯罪庁と保安庁はいずれも内務大臣の管轄下にありながら、内務省の部局でなく、一定の独立性を持った特殊機関という性格を持つが、内務省の部局として設置されている法執行機関として、国境隊(Border Force)と移民執行局(Immigration Enforcement)がある。
 2010年以降のキャメロン保守党政権下では、警察・治安機関の大幅な再編がなされたが、この二つの機関も同政権下の2012年に設置された新機関である。それ以前、労働党政権下の2008年に設置された英国国境庁(UK Border Agency:UKBA)を分割・再編したものである。
 この前身機関UKBAは、それまで複数の機関に分散されていた国境警備・関税・移民などに関する法執行権限を集約した集権的機関として登場したが、包括的な機関となりすぎ、業務に関する苦情が発足当初より集中したため、政権交代後、分割される形で再編された経緯がある。ここでは、警察機関の分散というイギリス的伝統が作用したようである。
 国境隊はその名の通り、国境での人と物の出入りを直接に統制する任務を持つが、軍に近い性格を持つ他国の国境警備隊よりも文民警察の性格が強く、国境ではあらゆる犯罪の被疑者を拘束し、警察官に引き渡す権限を持っている。
 また、近年はテロ対策の任務も加わり、テロリストによる武器や放射性物質・核物質の持ち込みを監視し、取り締まることも重視されている。
 一方、移民執行局は移民法の執行を専任する法執行機関である。移民法違反の取り締まりが中心的任務であるが、特捜班として犯罪・金融捜査チームを擁し、人身売買や現代的奴隷制その他の組織犯罪・経済犯罪の取り締まりにも拡大されている。
 従来、イギリスの国境・移民管理は欧州連合の枠内での行政管理的な方式で行われてきたが、欧州連合脱退という新たな状況下で再び単立国家となったイギリスの国境・移民管理は「テロとの戦い」テーゼや移民排斥的風潮の高まりとともに、より警察的・抑圧的となる可能性を秘めている。

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近代革命の社会力学(連載第204回)

2021-02-26 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(3)抗日レジスタンスの展開
 1930年代、国民党と共産党(中共)の内戦が激化していく中、満州を占領し、傀儡国家・満洲国を建てた日本はさらに西へ進攻して、華北の占領を狙っていた。内戦に乗じた硬軟両様の作戦は成功し、1930年代半ばになると、日本は北京占領を窺うまでになった。
 そうした中、中国民衆の間で抗日の動きが高まると、中共はいったん国内の革命を先延ばしにし、抗日レジスタンスを優先する方針に転換する。その端的な表れが、長征中の1935年8月1日に発した内戦停止・抗日民族統一戦線結成の呼びかけである。
 しかし、国民党の蒋介石はこれを懐柔策と見て無視したことに対し、党内の実力派軍人・張学良が蒋を西安で拘束、中共との連携を要求する反乱を起こした。この西安事件は中共幹部の周恩来の仲介により解決したことで国共間に和平機運が高まったが、連携が直ちに実現したわけではない。
 局面を急転させたのは、1937年7月の盧溝橋事件を機に日本軍が一気に攻勢を強め、同年度中に北京と上海の二大都市を落とした後である。こうした日本軍の攻勢に対し、装備で劣る当時の国民党軍は単独では対抗することができなかった。
 こうして、1937年9月には国民党・中共間で第二次となる国共合作が協定され、両党は連携して抗日レジスタンスに乗り出すこととなった。このように、共産勢力と反共勢力が合同してレジスタンスに当たるのは、バルカン半島のレジスタンスでは見られなかった事象として注目される。
 おそらく、国民党も元をただせば1911年共和革命(辛亥革命)の基盤となった革命勢力に沿革があり、単純な反共民族主義勢力ではなかったこと、それゆえに、蒋からは睨まれながらも、党内に中共との連携を志向する容共派を抱えていたことが国共合作を促進したものと思われる。
 共産党とその武装部門が主導したバルカン半島レジスタンスとのもう一つの違いとして、この国共合作レジスタンスにおいてレジスタンスの前線に出たのは国民党軍であって、共産党軍は主として農村部を拠点とした後方攪乱的なゲリラ戦を展開したことである。
 実際、華北方面の共産党軍(中国工農紅軍)は、国民党軍である国民革命軍の方面軍に相当する第十八集団八路軍(八路軍)に編入される形で組織上も国民党軍に組み込まれ、日本軍相手の攪乱工作を担当した。この役割分担は的中し、日本軍は大都市と幹線道路を制圧できたものの、都市周辺や農村部に侵攻できず、点と線の支配にとどまっていた。
 役割分担は共産党軍にとっては抗日戦の前線には直接出ないことで戦力を温存することを可能にしたが、そこには、当時の共産党軍は装備上、前線で日本軍と太刀打ちするだけの物量を欠いていたという現実もあったであろう。とはいえ、抗日の主導権を国民党に握らせる戦略は、中共の武力を維持し、将来再び内戦が再開された際の基盤となったこともたしかである。
 一方、華南方面の共産党軍は国民革命軍新編第四軍(新四軍)として組織された。ただ、華南は主戦場ではなく、国民党の牙城と言える地域であっただけに、新四軍は国民党軍に編入されながらも国民党とは緊張関係にあり、後の内戦再開の予兆を内包していた。

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近代革命の社会力学(連載第203回)

2021-02-24 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(2)革命根拠地の建設
 中国では、共和革命に相当する1911年辛亥革命の後、ロシア革命のように引き続いて社会主義革命へ移行するというプロセスを辿ることはなく、軍閥支配の混乱が後続したことは、第十六章でも見たところである。
 そうした混沌とした状況の中から、孫文の後継を自認する国民党の蒋介石が台頭してくる。彼は1924年、コミンテルンの仲介で成立した第一次国共合作の最中、北方軍閥を駆逐する北伐作戦の成功で声望と威信を高めていた。
 蒋は反共主義の職業軍人であり、国共合作体制の中、国民党左派と中国共産党(以下、中共)の発言力が増強されていることに危機感を持っていた。そこで、党内左派と共産党を排除すべく、1927年4月、上海にてクーデターを起こし、南京に国民政府を樹立した。
 この流血の軍事クーデターはよく練られており、蒋の目論見通り、中共は弱体化した。この時期の中共は依然として知識人中心の思想政党の性格が強く、国民党のように武装部門(国民革命軍)も擁していなかったから、国民党の軍事的攻勢には対抗できなかった。
 もっとも、中共も、1927年8月、クーデターに対抗して江西省南昌にて大規模に武装蜂起した。この蜂起は革命的様相を呈したものの、最終的には軍事的に優位な国民党軍に押し返され、撤退を余儀なくされた。
 こうして中共はいったん表舞台から去ることとなるが、そうした閉塞期に台頭してきたのが毛沢東であった。毛は教員出身で、早くからカリスマ的な指導力を発揮していたが、彼が党の主流と異なっていたのは、労働者階級より、当時の中国庶民階級の大多数を占めていた農民階級を軸とする党の組織化を志向したことである。
 毛のこうした志向性は、労農革命を目指したレーニン以上に農民及び農村に基盤を置く主義であり、帝政ロシア時代のナロードニキの思潮に近いものがあり、党内では異端視されたが、実践としては中国共産党の基盤を農村に置くことに成功し、やがてはこれが革命の成功要因ともなるのである。
 毛はまた、共産党を思想政党から革命政党へと変貌させるうえでも重要な役割を果たしているが、そうした党の性格転換の最初の明瞭な表れは、1930年の江西省瑞金を首都とする中華ソヴィエト共和国の樹立である。
 ソヴィエトを標榜するとおり、これはソヴィエト連邦を多分に意識した名乗りであったが、実態は農村に樹立した地方革命政府であった。中華ソヴィエトの樹立は中共が名実ともに革命政党となって実行した初の本格的な革命行動でもあり、19年後の人民共和国の樹立に至る建国革命から遡れば、予行革命とも言うべき段階に相当する。
 しかし、ここで外力の干渉が再び中共の性格を転換する契機となる。1931年、満州事変の勃発を契機に日本軍の攻勢が強まり、日本軍による満州占領という事態を迎えると、中華ソヴィエト共和国も1934年には日本に対して宣戦布告する。これに伴い、中共も単純な革命政党からレジスタンス政党へと転換することになった。
 ただ、このことが国民党の攻勢を阻止する契機にはならず、むしろ国民党は中華ソヴィエト共和国を新たな脅威ととらえ、軍事的な包囲作戦を発動した。五次に及んだ包囲作戦の結果、中共は瑞金を放棄し、1936年までかけて総計1万2500キロの行程を西遷するいわゆる長征に出ることになる。
 この長征の最終到着地は陝西省延安となり、以後、中共は1947年に至るまで延安を根拠地とする。かくして、革命根拠地が瑞金から延安に移された形となり、この延安時代に中共の基盤が確立されていく。

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近代革命の社会力学(連載第202回)

2021-02-22 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(1)概観
 バルカン半島では、対枢軸レジスタンス組織による革命の成否がユーゴスラヴィア及びアルバニアとギリシャとで分かれ、ギリシャでは革命戦争(内戦)に進展した末にレジスタンス勢力が敗北したのであったが、逆に、レジスタンス勢力が内戦に勝利し、革命に成功したのが中国大陸である。
 奇しくも、ギリシャ内戦が終結した1949年、中国大陸ではアジアにおける枢軸側主要国・日本に対する二大レジスタンス勢力であった国民党と共産党の内戦に後者が勝利し、共産党主導の革命体制が樹立されたのであった。
 この中国大陸革命の歴史的意義は多面的であるが、直接的には、アジアにおけるレジスタンス革命の成功例として、アジア各地に影響を及ぼしたばかりか、連合国系の帝国主義列強の支配下に置かれていたアジア・アフリカ諸国、さらには親米寡頭支配体制が少なくなかったラテンアメリカ諸国の革命運動にも影響を及ぼした。
 その点、第二次大戦後になると、戦勝した連合国系の欧米先発諸国―第一世界―ではすでに革命の時代は収束し、社会体制は安定化の方向に向かっていたところ、中国大陸革命は、次章で見るインドネシア独立革命と並び、革命の潮流をアジア・アフリカの新興独立諸国やラテンアメリカ諸国などのいわゆる第三世界に向け変える契機となった出来事と言える。
 他方、革命実践論の面では、共産党を軸としながらも、進歩的なブルジョワジーを含む諸派と連合して実行された中国大陸革命は1930年代にコミンテルンが打ち出しながら、西欧諸国では失敗に終わっていた人民民主主義・人民戦線路線による革命の成功例と見ることもできる。
 その点、第二次大戦後の中東欧圏では、ソ連の占領下に人民民主主義を標榜する社会主義国家が続々と誕生していたが、冷戦下で東側陣営の中核を成したこれら諸国は、革命ではなく、ソ連の操作や介入によって樹立されたのに対し、中国の人民民主革命は自主的に実行された点に相違があった。
 この相違はその後の経過にも影響し、中東欧社会主義諸国がおおむねソ連の衛星国家にとどまり、ソ連の統制下に第二世界を形成したのに対し、共産党中国は1960年代以降、ソ連から離反して独自の地位を占め、むしろ第三世界のリーダー格となっていった。
 より大きな世界史的な構造という視点から見ると、東アジアの大国である中国で共産党が政権を掌握したことは、30年遡るロシア革命とその後のソヴィエト連邦の成立以来の世界史的なインパクトを持つ出来事であった。
 これによって「東」にはソヴィエト社会主義共和国連邦と中華人民共和国という二つの巨大な共産党主導の社会主義国家が立ち現れることとなり、そのインパクトは、ソヴィエトが解体し、東西冷戦が終結した後も、共産党中国は存続し続けてきたことで、今日の世界秩序にも及んでいる。

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比較:影の警察国家(連載第32回)

2021-02-20 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

2‐1‐2:保安庁の公安警察機能

 保安庁(Security Service)は元来、20世紀初頭に設置された陸軍省(現国防省)系の諜報機関を沿革とする古い機関であり、第一次世界大戦を機に軍事諜報組織がその担当分野ごとに番号順に整理された際、防諜を担当するMI5 (Military Intelligence, Section 5)として位置づけられた。
 こうした経緯から、保安庁はMI5と通称されるようになり、第二次大戦後、これらの軍事諜報機関が統廃合された後も、対外諜報を担当する秘密諜報庁(Secret Intelligence Service:通称MI6)とともに、冷戦時代の主要な防諜機関として存続するとともに、内務大臣の管轄下に移った。
 諜報機関としての性格上、内務大臣の管轄下にありながら、内務省の機関ではないという微妙な関係にあるが、冷戦終結後は、それまでの主としてソ連を中心とした東側陣営からの防諜という本来任務の比重が落ち、代わってテロ対策が新たな任務となったことから、公安機関としての性格が強まった。
 こうした保安庁の公安警察機能は1990年代、それまで主に首都警察と北アイルランド保安隊の任務であった北アイルランド分離独立派武装組織・アイルランド共和軍(IRA)対策が保安庁の任務として明確にされたことに始まる。
 その後、21世紀に入り、9.11事件後、イギリスでも「テロとの戦い」テーゼが掲げられると、保安庁のテロ対策機能は強化され、テロ関係者と疑われる個人に関する秘密の情報収集に着手するようになったとされる。2006年には、およそ27万人分の個人情報を蓄積していたことが判明している。
 とはいえ、保安庁はあくまでも諜報機関であって、捜査機関ではないから、被疑者の拘束や尋問はできないが、活動の重点が防諜からテロ対策に遷移するにつれ、保安庁の公安警察機能が高まっており、イギリスにおける中央警察集合体の一角に加わりつつあることも、たしかである。
 その点、90年代後半には、一時、保安庁が重大犯罪の捜査に際し、犯罪捜査機関に対して電子監視や盗聴を支援する任務が与えられた。この任務が恒久化されれば、保安庁の公安警察化は一層進展したはずであるが、こうした任務は後に新設の国家犯罪庁(NCA)に移管された。
 一方、2018年には、政府が保安庁要員に対して、任務遂行に際し犯罪行為を犯すことを許可し、免責していたことが発覚し、問題となった。表の警察機関が法的に実行できない言わば裏仕事を保安庁が担っている疑惑が表面化したわけである。
 こうした裏仕事を身上とする諜報機関・保安庁のなし崩しの公安警警察化は、如上のとおり、機関の所属関係が曖昧なままであることと相まって、イギリスにおける影の警察国家化を進展させる要因となるだろう。

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近代革命の社会力学(連載第201回)

2021-02-18 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(4)ギリシャ・レジスタンス未遂革命

〈4‐4〉内戦の終結と革命の挫折
 激戦化したギリシャ内戦は当初、共産党系のギリシャ民主軍(DSE)の優位に推移し、1948年には首都アテネ制圧を狙える位置にまで進撃していたところで、共産党に内紛が発生したことが最初の躓きとなる。
 当時、共産党トップのニコラオス・ザカリアディス書記長とDSE総司令兼臨時民主政府首相マルコス・バフィアディスの間で、戦闘方針をめぐり、レジスタンス型のゲリラ戦を主張するバフィアディスに対し、ザカリアディスは臨時政府に常備正規軍を創設することを主張し、対立が高まっていた。
 この内紛は党を掌握するザカリアディスが征し、バフィアディスはDSE総司令を解任され、1949年初頭には全役職からも罷免される形で失権に追い込まれたのであった。これにより、従来成功していたゲリラ戦が停滞したことは、国軍を利する結果となった。
 こうした内的要因に加え、ギリシャ内戦にあっては、始まりと同様、終わりにも外的要因が大きく影響することとなった。すなわち、1949年に入り、ソ連とユーゴの関係が悪化し、同年6月に両国が断交したことである。この外部環境の激変がギリシャ内戦の帰趨を決したと言って過言でない。
 ギリシャ共産党は基本的にソ連の影響下にあったが、内戦中、DSEはユーゴのチトー政権の支援を強みとしていたため、両国の断交は共産党とDSEを股裂きにした。党内も親ソ派と親ユーゴ派とに分裂したが、親ソ派が優位となり、ユーゴは自国内のDSE拠点を解体し、支援を打ち切った。
 そのうえ、バフィアディスがDSE総司令を解任された49年8月以降、国軍は反転攻勢を強め、9月までにDSEを各個撃破していった。ユーゴから追放された後、アルバニアのホジャ政権を頼ったDSEであったが、ホジャ政権もDSEを見限り、追放したことがとどめとなり、同年10月、DSEは停戦を宣言、事実上の降伏であった。
 こうして、ギリシャにおけるレジスタンス革命は、ユーゴやアルバニアとは異なり、言わば赤軍と白軍の内戦という時代を30年遡るロシア革命やその余波としての周辺革命と同様の経過をたどった末に、白軍に相当する国軍の勝利に終わった。
 内戦の戦後処理は共産党員とDSEメンバーに対する投獄・処刑という定番であったが、当時の政府は穏健な保守政権であったため、スペイン内戦後のファシスト政権によるような大々的な弾圧は行われなかった。とはいえ、共産党は1974年に至るまで非合法化され、幹部はソ連に亡命した。
 このような結果に終わった人的な要因として、ギリシャのレジスタンス運動はユーゴのチトーやアルバニアのホジャに相当するカリスマ性と政治力を備えた指導者を輩出しなかったこともある。DSEを率いたバフィアディスにしても、戦略家ではあったが、政治力が不足しており、党内対立で敗北したことは如上のとおりである。
 かくして、ギリシャのレジスタンス革命が未遂に終わった結果として、バルカン半島はブルガリアやアルバニア(60年代まで)のような親ソ派衛星国と反ソ非同盟のユーゴ、そして親西側のギリシャが雑居する複雑な地政学構造を呈することとなった。

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近代革命の社会力学(連載第200回)

2021-02-16 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(4)ギリシャ・レジスタンス未遂革命

〈4‐3〉内戦激化への過程
 ギリシャのレジスタンスは、ユーゴやアルバニアと異なり、イギリスが支援介入してきたことで、より複雑になり、共産党主体のレジスタンスが平行移動的に戦後の支配勢力に座ることにはならず、新生国軍との間での激しい内戦を惹起する結果となった。
 イギリスがバルカン地域の中でもギリシャに並々ならぬ関心を示したのは、ギリシャに共産主義政権が出現することで、バルカン半島全体が共産化されることを阻止したいソ連を除く連合国勢力の意思を反映していたものと考えられる。
 そのため、ギリシャはレジスタンス継続中からレジスタンス勢力間の対立を仲裁するとともに、ドイツ軍を駆逐した後は、レジスタンス組織の武装解除を図った。手始めに、1944年9月には全レジスタンス組織をイギリス軍の指揮下に統制することとした。
 一方、ソ連もギリシャに関しては自己の勢力圏内に置くことにこだわらず、イギリスの管理下に置くことに同意していたため、ソ連の影響下にあったギリシャ共産党及び民族解放戦線(EAM)もその方針に従い、武装解除に応じようとした。
 しかし、EAMの武装部門として犠牲を伴うレジスタンスの前線を担ってきた民族人民解放軍(ELAS)はこの方針に不満を持ち、EAMとELASの間の亀裂が生じた。そして共産党内部でもユーゴのチトーと結んで、今度はイギリスを侵略勢力に見立ててレジスタンスを継続しようとするグループとモスクワに忠実なグループに分裂した。
 一方、亡命政権首班から新生ギリシャ首相となったパパンドレウは新たな国軍の設立を発表し、取り急ぎ、新政府の軍事力の強化を図ったが、ELASとの対立は避けられず、1944年12月以降、新政府軍+イギリス軍とELASの間で戦闘が開始された。
 ELASは一時的にアテネを占領したものの、年が明けるとイギリス軍に押し返され、1月初めにはアテネから撤収、最終的に武装解除に合意した。内戦第一段階はこうして、比較的限定的な戦闘をもって終結し、2月には全レジスタンス組織の武装解除を軸としたヴェルギサ合意が締結された。
 ところが、これで解決とはならず、水面下で反共組織や国軍による共産党排撃が始まると、対抗上、共産党もこれを受けて立つ形で、改めて君主制打倒のための武装闘争を宣言した。こうして、枢軸国へのレジスタンスを終えた共産党は、ここから真の革命の道に乗り出したとも言える。
 この第二段階の内戦は1946年3月、旧ELASが改めてギリシャ民主軍(DSE)として再編された時に始まった。 DSEはユーゴやアルバニアの共産主義政権の支援を受け、山岳地帯を拠点にゲリラ戦を展開ししたため、政府軍とこれを支援するイギリス軍は苦戦を強いられた。
 一方、1946年には戦後初となる議会選挙が施行されたが、共産党はこれをボイコットしたため、君主制支持派の右派政党が圧勝、国王ゲオルギオス2世が帰還して、ギリシャ王国が復活した。これ以降、内戦は共産党対新王国政府軍の間のものとなる。
 翌年の1947年に入ると戦線は拡大し、DSEが優勢となった。勢いに乗るDSEは同年末、アルバニア国境のグラモスに新たな革命政府となる臨時民主政府を樹立、首相には古参の共産党員でレジスタンス指導者でもあったマルコス・バフィアディスが就いた。
 この後、DSEは地方農村部にシンパ組織を構築する一方で、親政府の集落は焼き払う戦術で、首都アテネの再奪回に向けて進撃を続けたため、ギリシャ本土全域に戦火が拡大し、内戦はレジスタンスを超える犠牲を伴い、激しさを増していった。

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近代革命の社会力学(連載第199回)

2021-02-10 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(4)ギリシャ・レジスタンス未遂革命

〈4‐2〉革命政府の樹立と戦後構想
 バルカン半島のレジスタンスでは、イデオロギー的な統一の下に、共産党系レジスタンスが最も一貫して戦い、全土解放に寄与しているが、ギリシャにおいても、最大のレジスタンス寄与勢力は共産党系の民族解放戦線(EAM)であった。
 しかし、ギリシャでは反共系レジスタンス組織も相当に強力で、しかも、ユーゴやアルバニアの対応組織のように、枢軸側に寝返ることもなかった。国民共和ギリシャ連盟(EDES)にしても、ナチスドイツと相互不戦の密約を結んだのは、EAMを牽制するためであった。
 そうしたことから、ギリシャではレジスタンス継続中からレジスタンス組織間での内戦の緒戦が始まっていた。それは1943年10月、EAMとEDES間での戦闘の開始として現れたが、この時はイギリスが仲裁し、翌年2月にはいったん停戦となった。
 一方、レジスタンスの戦況として、EAMは1943年半ばまでに中部山地からイタリア占領軍を駆逐することに成功し、その余地に解放区「自由ギリシャ」を設定することに成功した。枢軸側では、43年9月のイタリアの降伏後、ドイツがギリシャ占領を引き継ぎ、レジスタンス勢力の掃討を強化した。
 これに対し、EAMはドイツ軍への攻勢を強めつつ、1944年3月には、自由ギリシャ地域に民族解放政治委員会(以下、解放委員会)を樹立した。これは事実上の革命政府であり、標榜上の首都はアテネに置かれたが、事実上の首都は中央山地のエブリタニアに置かれたため、俗に「山岳政府」とも呼ばれる。
 解放委員会は、当時カイロに在所したギリシャ王国亡命政府や、イタリアの降伏後、ドイツが引き継いでいた占領統治下のアテネ傀儡政府に対抗したものであり、当然にも、アテネの最終的解放と共産党主導による新政府の樹立を目指していた
 解放委員会は共産党主導で立ち上げられたが、その綱領は簡素かつ穏健であり、初代議長には王党派系レジスタンス組織・国民社会解放運動(EKKA)出身者が充てられるなど、他党にも開かれた構成となっていた。
 そうした中、ギリシャの各政治組織代表者は、1944年5月、中東のレバノンに集結して解放後の政権構想に関して討議し、当時亡命政府首相であった進歩的保守主義者ゲオルギス・パパンドレウを首班とする挙国一致政権を樹立することが決定されたのである。
 この挙国一致政権構想では、EAMにも閣僚ポストが配分される予定であり、これで収まれば、共産党がそのまま平行移動的に支配政党に座ったユーゴやアルバニアとは異なる形であるが、共産党も加わった連合政権による新生ギリシャ王国が成立するはずであった。
 しかし、レジスタンスにおける最大の寄与を自認するEAMとしては、こうした他党主導の連合政権構想には不満があり、政権構想決定後も、レジスタンス終盤に向けて独自の活動を強化したため、政権構想には早くも暗雲が立ち込めていた。

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近代革命の社会力学(連載第198回)

2021-02-08 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(4)ギリシャ・レジスタンス未遂革命

〈4‐1〉レジスタンス組織の結成
 ギリシャでは、19世紀のオスマン・トルコ帝国からの独立後、ドイツ人やデンマーク人の王を招聘した君主制が断続的に続いていたが、政局は安定せず、1935年に復活成立したゲオルギオス2世の治世下では、共産党が伸張して政局が不安定化していた。
 そうした中、1936年、国王は反動的な軍人イオアニス・メタクサスを首相に任じたが、メタクサスは強権を発動してファシズムに傾斜した独裁統治を行い、労働運動や共産党を弾圧した。
 一方で、メタクサス政権はイデオロギー上親和的なドイツ・イタリアに接近しつつ、イタリアへの警戒感から保証的にイギリスとも関係を維持する二股外交を展開した。
 しかし、古代ローマ帝国の復刻版とも言える「地中海帝国」(我らの海)の野望を持ち、アルバニアを征服したイタリアのファシスト政権から枢軸側への加盟を要求されるとこれを拒否したため、1940年10月、イタリア軍の侵攻を受けた。
 ところが、ギリシャ軍はいったんイタリア軍を撃退することに成功したため、ドイツがイタリアを支援する形で1941年4月から侵攻を開始し、翌月にはギリシャ全土を制圧、枢軸同盟国であるイタリア、ブルガリアとの三分割占領体制を構築した。 
 面積では本土の大部分を含むイタリア占領区が最大であったが、占領統治の苛烈さでは主として本土北部とクレタ島を含む島嶼部に点在したドイツ占領区が最悪であった。ドイツは傀儡政府を通じて戦略物資や食糧の徴用など経済的搾取を徹底したため、ギリシャ経済は破綻、大規模な飢餓さえ発生した。
 こうした困難な状況下で、レジスタンスが組織される。その中心となったのは、ユーゴやアルバニアと同様に共産党であった。ギリシャ共産党はロシア十月革命翌年の1918年に結党されていたが、占領直前に病没した41年まで独裁を行ったメタクサス政権下では弾圧を受け、逼塞していた。
 しかし、占領が開始されると、共産党は1941年7月、全土でレジスタンス組織を結成し、占領勢力への抵抗活動を展開することを決議した。これに基づき、同年9月には共産党指導下のレジスタンス組織として民族解放戦線(EAM)が、翌年12月にはその軍事部門としての民族人民解放軍(ELAS)が立ち上げられた。
 これに対抗して、反共系レジスタンス組織が結成された点でも、ユーゴ、アルバニアと重なる。この系統のレジスタンスは多数あったが、特に反共共和主義の国民共和ギリシャ連盟(EDES)と王党派の国民社会解放運動(EKKA)を二大勢力とした。これらの反共系レジスタンスの多くは、退役者を含む職業軍人が率い、国軍との関わりが強かったことが、後の内戦過程で効いてくる。
 さしあたり、如上の三大レジスタンス組織の鼎立関係においては、共に反王党派という限りで共通点を持つEAMとEDESは当初共闘関係に立ち、1942年10月には、イギリス軍と共同して、枢軸側の枢要な補給路となっていたテッサロニキ - アテネ間の鉄道路線破壊作戦にも参加した。
 一方で、共産党の伸長を警戒するEDESはドイツ軍との間で相互に攻撃しない密約を結んでおり、消極的ながらも占領協力組織としての二重性格を持っていた。このことは、1943年以降、戦況が枢軸側劣勢となるにつれ、レジスタンス組織間での内戦の動因となる。

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比較:影の警察国家(連載第31回)

2021-02-07 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

2‐1‐1:国家犯罪庁の創設

 イギリスは、国土全域を管轄する集権的な国家警察を持たないばかりか、アメリカのFBIのように、国土全域で活動する専門的な犯罪捜査機関をも持たず、地方警察を主体とした警察機構態勢を長きにわたり維持してきたが、この伝統に初めて風穴を開けたのが、2013年の国家犯罪庁(National Crime Agency:NCA)の創設であった。
 もっとも、これに先立ち、イギリスでは、1990年代から、組織犯罪対策として中央捜査機関の組織化の動きが出ており、2006年には、当時の労働党政権が薬物犯罪の捜査なども統括する重大組織犯罪庁(SOCA)を創設しているので、正確には、これをもって初の全土的な犯罪捜査機関の創設と見るべきかもしれない。
 しかし、旧SOCAは捜査機関としての弱体さが指摘され、保守党政権への交代後、当時のキャメロン政権が改めてSOCAを発展解消する形で創設したのが、NCAである。NCAは内務省の管轄する閣外政府機関という性格を持ち、政府機関ながら独立性が保障されている。
 NCAの主要任務は全土及び国際レベルの組織犯罪に加え、人身・武器・麻薬取引、経済犯罪などの捜査であるが、対象犯罪には限定がなく、スコットランドでは権限が制約されることを例外として、北アイルランドを含むイギリス全土で活動することができる。
 また、NCAはインターポールやユーロポール等の国際警察協力機構との間で窓口機関となることからも、その権限と活動範囲の広さと合わせ、実質上はイギリスにおける国家警察としての機能を持つものと考えられる。
 ただし、公安警察としての機能は持たないものの、保安庁(通称MI5)と並び、イギリスにおける諜報機関協力体のメンバーを構成していることから、間接的には、諜報機関としての性格も帯び、イギリスにおける影の警察国家を象徴する新機関である。
 NCAはその名称からも、アメリカのFBIを意識しており、実際、「イギリス版FBI」とみなされることもあるが、5000人ほどの職員中、捜査官は1200人ほどで、自前に訓練された捜査官も少ない。また予算にも限りがあり、人的・物的な容量の点で、いまだアメリカのFBIとは比較にならない。
 NCAは現時点では創設から10年に満たない新機関であるため、NCAがイギリスの中央警察集合体における中核的な機関として増長するか、補完的な機関にとどまるかは、地方警察主体の伝統の中で事実上の国家警察機能を二面的に担ってきた首都警察との競合関係と、影の警察国家化を推進する政治力学との間の綱引きの結果いかんによるであろう。

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近代革命の社会力学(連載第197回)

2021-02-03 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(3)アルバニア・レジスタンス革命

〈3‐3〉社会主義体制の樹立と鎖国化
 前回見たように、アルバニアにおける二大レジスタンス組織のうち、民族戦線はナチスドイツとの協力組織と化して脱落、他に有力な受け皿となる勢力もなく、必然的にLANÇと事実上一体的だった共産党が政権を掌握することとなった。
 これも前回見たとおり、共産党はレジスタンスの組織化を通じて同時的に党の組織化を進めており、全土解放前の1944年5月には、来る政権樹立を見越して、すでに支配権を確立していた南部の町ペルメットに反ファシスト民族解放評議会を招集し、政権樹立の準備会合を開催していた。
 全土解放後の44年11月、エンヴェル・ホジャを首班とする臨時政府が樹立されると、戦後の46年にはすでに実体を失っていたゾグー朝君主制が正式に廃止され、社会主義体制としてのアルバニア人民共和国が建国された。
 こうしたレジスタンス革命の流れはレジスタンスにおいて援護・共闘関係にあったユーゴとも重なるが、その後の歩みは大きく異なるものとなった。名実ともに最高指導者となったホジャは、ユーゴの最高指導者チトーとはイデオロギー的な面で齟齬があったからである。
 すなわち、チトーが自主独立を重視し、間もなくソ連と決別して独自の自主管理社会主義へ赴いたのに対し、ホジャは教条的なスターリン主義者であり、親ソ路線を貫いた。そのため、1948年にはユーゴと断交、国内の親ユーゴ派を粛清した。
 ホジャのスターリンへの忠誠ぶりは、スターリンの指示により、共産党の党名を労働党に変更したことにも表れている。ただし、これは形式的な党名変更にすぎず、実態はいわゆるマルクス‐レーニン主義を教義とする他名称共産党にほかならなかった。
 こうして、一定の自由が保障されたユーゴとは対照的に、ホジャのアルバニアはまさにスターリン時代のソ連のコピーのような有様となり、鉄の規律に基づき、粛清と弾圧が常態化したホジャの独裁・恐怖政治体制として固まる。
 その後、1985年に死去するまで、チトーよりも長い40年以上に及んだホジャの独裁時代について詳論することは本連載の主旨を外れるが、ホジャの教条的スターリン主義は、冷戦時代、同じ社会主義陣営内部でも摩擦を引き起こした。
 すなわち、スターリン没後にスターリン批判を打ち出したソ連との関係途絶、その後、毛沢東時代の中国に接近し、大陸中国を台湾に代えて国際連合中国代表とする決議に尽力しながら、晩年の毛沢東や毛没後の中国にも批判的となり、中国との決別にもつながった。その結果、アルバニアを閉塞と貧困にあえぐ鎖国状態に陥れた。
 そうした危機的状況を危惧したレジスタンス時代からの盟友にして長年のナンバー2だったメフメット・シェフーはホジャと対立、1981年に謎の自殺を遂げた後に、親ユーゴ派のレッテルを張られて死後糾弾されるなど、教条主義は80年代に至っても不変であった。
 ユーゴではチトーの死から社会主義体制の崩壊までに12年ほどタイムラグがあったが、アルバニア社会主義体制はホジャの死から6年ほどで民衆革命によって崩壊したのは、体制がホジャ個人と一体であったことを示唆している。

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近代革命の社会力学(連載第196回)

2021-02-01 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(3)アルバニア・レジスタンス革命

〈3‐2〉レジスタンスの曲折と勝利
 アルバニアにおけるレジスタンスは、ユーゴにおけるそれよりも複雑に曲折した過程をたどった。当初はイタリア占領軍に対する諸派の連合的な抵抗運動として開始されたが、これは1941年までに挫折していた。
 その後、弱小政党にすぎなかったアルバニア共産党が1942年以降に台頭、青年の間で着実に党員を増やし、レジスタンス組織LANÇの結成につながる。翌43年には、正式な軍事組織として民族解放軍を創設して、イタリア占領軍に対するゲリラ戦を本格化させた。
 LANÇはユーゴにおける対応組織であるAVNOJと比べても共産党の指導性が強く、各前線パルティザン組織には共産党の政治将校が配置され、軍事組織が即、政治細胞でもあるという二重性を持った。
 このような組織形態となったのは、アルバニア共産党が実質上はいまだ結党中の新興政党であっただけに、パルティザンの組織化すなわち党の組織化を意味していたためである。
 他方、反共レジスタンスの民族戦線も独自に1942年以降、イタリア占領軍との戦闘を開始するが、かれらはアルバニアの領土を拡大する大アルバニア主義を掲げ、セルビア領内のアルバニア系地域であるコソボにも展開していた。
 幸いにも、イタリアは枢軸国陣営内では最も早くに敗色濃厚となった。そうした中、1943年8月、LANÇと民族戦線は、英国の仲介により、共闘してイタリア占領軍に最終攻勢をかけることで合意した(ムクジェ合意)。このように、共産系と反共系二つのレジスタンス組織が共闘関係を結ぶ動きは、ユーゴでは見られない展開であった。
 しかし、民族戦線はコソボのアルバニア統合を強調したため、統合に否定的なユーゴ・パルティザンの支援を受けていたLANÇとの間で対立し、両者の共闘は暗礁に乗り上げる。
 イタリアが1943年9月に降伏すると、いまだ戦争を継続する余力のあるナチスドイツが代わってアルバニアに侵攻・占領した。こうして、アルバニアはイタリアに続き、ドイツの占領下に置かれることになる。
 ところが、民族戦線はドイツ占領軍と戦うどころか、ドイツと協力してLANÇ掃討作戦に出た。ここで、かれらはユーゴのチェトニク同様に、レジスタンス組織から占領協力組織へと変貌してしまうのである。
 他方、LANÇはユーゴ・パルティザンと協力し、改めてドイツに対するレジスタンスを展開した。その結果、1944年11月中に、首都ティラナをはじめ、全土の解放に成功し、アルバニアのレジスタンスは完了する。

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