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近代革命の社会力学(連載第163回)

2020-11-02 | 〆近代革命の社会力学

二十二 タイ立憲革命

(1)概観
 第一次世界大戦に起因する革命潮流が一段落した戦間期になると、革命の頻度は世界中で低くなるが、1929年の世界大恐慌がもたらした経済危機を背景に、いくつか周縁的な国で散発的な革命が起きている。その一つが、1932年6月のタイ立憲革命である。
 タイ―革命前の国名は「シャム」であるが、便宜上、ここでは革命後の国名「タイ」で表記する―では、18世紀に成立したチャクリー王朝が長期的な成功を収め、それ自身がマレー半島やベトナム、ラオスなど近隣諸国を勢力圏に収める一種の帝国と化していたが、西欧列強が東南アジアにも侵出してくると、周辺領土を列強に譲りつつ、タイ本土の独立は保持した。
 結局、タイはイギリスとの間で不平等条約の締結を余儀なくされたものの、タイ本土は一貫して独立を維持したのであったが、その秘訣として、40年以上君臨統治したラーマ5世及び5世を継いだ6世による上からの先駆的かつ長期的な近代化改革が成功したこと、また列強にとっても、マレー半島とインドシナ半島をつなぐタイを中立的な緩衝地帯として保障することが地政学上有益であったこと等の事情もあった。
 ラーマ5世が没した後は、5世の二人の兄弟王子が6世及び7世として順次登位したが、ラーマ6世は父王を継承し、種々の近代化政策を遂行する一方で、放漫財政を放置したため、跡を継いだ弟王ラーマ7世時代に波及効果を受けた大恐慌と相まって、財政が破綻状態となる。
 そうした財政危機に対処するため、ラーマ7世が財政再建を名目に政府機構の過激なリストラを断行しようとしたことへの反作用として、文民官僚と職業軍人が連合して決起したのが、タイ立憲革命であった。
 この革命は従来の絶対君主制から立憲君主制への転換を志向したものであり、君主制を廃する共和革命には至らない保存的な革命であった。そのため、実態としてはクーデターに近いが、軍部中心の軍事クーデターではなく、文民官僚が参画したことで、革命に進展した。
 その点では、軍民相乗りの中産エリート階級による革命であり、革命自体は簡単に成就したが、その後の権力闘争の中で、物理力を掌握する軍人の優位性が強まり、最終的には革命功労者の一人であった軍人ピブーンソンクラームの疑似ファシズム体制に転化していった。
 結局、タイ立憲革命を契機に軍部の政治的発言力が増し、今日に至るまで、政局の重要な節目で軍事クーデターが頻発する軍部中心の政治体質が形成されることとなった。その点で、タイ立憲革命は、民主主義の定着という点では、不徹底ないし逆効果面すらあった。
 また、革命の周辺諸国への波及も見られなかった。実際、同時代の周辺諸国は軒並み列強の植民地となっており、革命が成立する状況にはなかった。結局、タイ立憲革命とは、タイの特殊な地政学的事情と内政上の危機を背景とする構造変動であったと言える。


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