ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

生活保護叩きの統治術

2012-05-27 | 時評

高収入とされるタレントの母親が生活保護を受給していた「問題」で、渦中のタレントが謝罪会見をさせられる事態になった一件は、生活保護を叩くことが一つの統治術となっている現今の政治状況を示す出来事であった。

なぜこんな個別的な特殊事例が「問題」となったかと言えば、政治家が大々的に取り上げ糾弾したためである。そして政治家がこれを「問題」化したことには政治的な意味がある。要するに、生活保護叩きを通じて、あたかも生活保護費削減が「行政改革」の切り札であるかのように見せかけようという術策なのだ。

このように特殊事例を一般化してみせ、生活保護受給者を財政悪化の元凶として排斥する風潮を作り出す与野党阿吽の象徴暴力的な作戦は早くも功を奏し、厚労大臣は生活保護受給者の親族らが受給者を扶養できる場合、親族らに保護費の返還を求める考えを早速表明した。これにより、従来からの本人の稼得可能性チェックに加え、受給を制限する水際阻止作戦の武器が一つ増えたことになる。

とはいえ、現行生活保護法4条2項は「民法(明治二十九年法律第八十九号)に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする。」と定めており、生活保護を親族による扶養等の可能性がない場合の最後の手段とする「補足性の原則」をとっているので、息子に高収入があれば母を扶養すべきだという批判は法的に誤っていない。

しかし、法的な正しさが政策的な正しさを保証するわけではない。親族の扶養という古典的な家族福祉の思想を捨て切れていない現行生活保護制度こそが後進的なのだ。それは公的な社会サービスを充実させず、福祉を企業福利や親族扶養に押し付けてきた日本式“福祉社会”の名残である。

今回は高収入が推定されるタレントが受給者親族であったため、問題視されてもやむを得ないケースではあったが、一般市民の場合、扶養可能性の判断は困難で、厳密に行うなら親族の収入・資産調査も徹底しなければならず、プライバシー侵害の問題を生じる。

3月の拙稿「生活保護から社会連帯へ」で述べたように、生活保護制度は悪制であり、根本的に改廃されるべきであるが、現行制度が維持される間は、親族扶養の要件はできる限り緩やかに解釈して、餓死を招くような受給制限は避けなければならない。

たとえ悪制であろうと、生活保護のような社会扶助制度は生活保護叩きに精を出す政治家らが信奉する資本主義に不可欠の付属品なのだから、それを粗末に扱っては資本主義自体の命運に関わるのではないか―お節介ながら。

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不能を強いる護国司法

2012-05-26 | 時評

25日に名古屋と大阪の高裁で出された二つの司法判断、すなわち名張毒ぶどう酒殺人事件の再審請求審決定と抗がん剤イレッサによる副作用死をめぐる民事裁判の控訴審判決は、事件の年代も内容も、訴訟の種別も全く異なるが、いずれも薬品の性質や作用が主要な争点となり、しかもいずれも請求人ないし原告の側に厳密な立証を求めて請求を棄却した点に共通項がある。

一般に薬学・医学の素人である原告側(再審の場合は請求人)に薬品の性質や作用に関して厳密な立証を求めればその請求は否定される方向に働きやすいことは明白である。そのため、原告救済の視点に立てば、立証の程度を緩和しなければならないわけだが、いずれの司法判断もそうはしなかった。

そうはせず、原告側に不能な立証を強いることによって上級審が国の責任を免除しようとしたという点でも、両判断には共通項がある。すなわち、名張事件では死刑確定事件で5件目となる再審無罪事例が出現しかねないことで司法制度の信頼性、さらにはその存続が国是である死刑制度が深刻な打撃を受けることを避けようとしたのだし、イレッサ事件では薬事行政を担う国による副作用監視義務の水準が著しく高度化することを避けようとしたのだ。

ここには、法的理屈を盾に国民を犠牲にしてでも国家の利益を護ろうとする司法の姿勢が明瞭に示されている。「護国司法」である。

司法をめぐっては、今月施行3年の節目を迎えた裁判員制度をもって司法は国民本位に変わったなどという宣伝がメディアや法曹界を巻き込み官民一体で行われているが、表面上の変化にもかかわらず、行政に対して国民を護らない司法の根幹的本質は不変であることを示したのが、昨日同時に出された二つの司法判断であった。

再審や民事裁判には裁判員制度は適用されないから―裁判員制度がそれほど素晴らしいならなぜだろうか―、これらは「変化」の埒外だというのは形式論的な言い訳にすぎない。現行司法はいったいどちらを向いているのか、宣伝に惑わされず、しかと見つめる素材としたい事例である。

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地中海の乱

2012-05-08 | 時評

フランス大統領選挙とギリシャ議会選挙でともに「緊縮財政」が拒否された。言わば、地中海の乱である。

ゆったりした時間を生きる楽天的な地中海人たちにとって、資本主義の延命のために暮らしを犠牲に供するなど真っ平ごめんというわけであろう。

ただ、いずれの選挙でもはっきりした勝者はおらず、敗者だけがいる。フランスでは現職サルコジが敗れ、ギリシャでは二大政党政治そのものが敗れたのだ。

フランスではさしあたり二大政党の片割れ・社会党に政権が17年ぶりに戻ったわけだが、フランス社会党はすでに新自由主義の洗礼を受けた社会‐新自由主義の党である。その意味では、敗北したサルコジ保守党とは濃淡の差があるにすぎない。

ギリシャでは社会党に相当する与党―債務危機の戦犯ともされた―が保守系野党と大連立を組んで緊縮財政に取り組んだために惨敗し、代わって左右の諸派政党が乱立する結果となった。

選挙結果にさっそく反発した市場を擁護する日本の大手メディアはこうした結果を「懲罰選挙」だと断じ、非難しているが、選挙には悪政を罰する審判機能があることを忘れた論難である。

とはいえ、この結果はまさに懲罰であって、革命ではない。この先どうするかが明確に示されたわけでもない。地中海人たちも資本主義をきっぱりやめる決断には至っていない。

それでも、民衆が暮らしを犠牲にしてまで資本主義の延命に手を貸す意思のないことを示した―特にギリシャ―点では、大きな意義がある。

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子どもが紡ぐ地域社会

2012-05-05 | 時評

子どもの日である。だが、この日の主役たる子どもの姿が見えない。かつては子どもたちの笑いさざめく声が響いた筆者の住む郊外団地でも、子どもの姿はめっきり減った。代わって高齢者が増え、団地内は昼間から閑散として静まり返っている。

4日に発表された総務省の人口調査によると、子どもの数は31年連続で減少し、過去最少を更新というから、さもありなんである。

子どもの数が減少の一途を辿ってきた過去約30年は、地域社会の解体過程とも軌を一にしている。考えてみれば、かつての地域社会では子どもが影の主役であった。同年代の子どもたちを通じて、その母親たちが知り合いになり、コミュニティーを横につないでいたのだ(反面、仕事に没頭する父親たちの影は既に薄かった)。

従って、子どもの数が減少すれば、子どもが紡いだ地域社会も解体していくのは必然である。

これに対して、地域社会の再生がスローガンとしては叫ばれるが、外出機会の減る高齢者中心では地域社会の再生も虚しいかけ声だけに終わる。地域社会再生のカギはやはり子どもの復権にある。

この点、資本主義体制での「少子化対策」は専ら将来の労働力確保という観点―要するに資本主義の延命策―に偏るが、そういう狭い了見から脱して、地域社会の再生―それは日常の暮らしの回復を意味する―という観点から、子どもを増やすことを考えてみるべきではなかろうか。

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非常事態改憲という幻想

2012-05-03 | 時評

3・11後の改憲論として、憲法上災害に備えた非常事態条項を追加すべきとする議論が活発化し、先ごろ自民党が公表した改憲草案でも「緊急事態」の章が設けられている。

伝統的な改憲論にあっては交戦権放棄を定めた9条が標的であったところ、国民の間では依然、9条尊重論が多い状況にかんがみ、3・11当時の政府対応の拙劣さへの国民的批判を利用しつつ、非常事態条項追加という論点から言わば迂回的に改憲論を喚起しようという新たな改憲戦略が、この非常事態改憲論であろう。

こうした議論に対しては、護憲派・識者の間から、非常事態下で国民保護を名目とする権力集中体制―とりわけ自衛隊・警察の権力増強―が作り出されることで、かえって市民的自由が広範囲に侵害されるという懸念が出されている。筆者もこうした懸念を共有するが、ここでは少し別の角度から議論してみたい。

それは、憲法に非常事態条項を置くことで、本当に災害対応がより迅速的確に行われるようになるのかということである。

非常事態下では中央政府への権力集中がなされるわけだが、災害直後の混乱の中で中央政府が被災地の状況を的確に把握して指示を下すことは不可能であり、災害直後の現場を一番よく知るのは被災者自身とかれらに最も近い位置にある市町村自治体である。

ならば、災害時にはむしろ市町村自治体に権限を大幅に委譲してしまうほうが有益である。この場合、中央政府は自治体のニーズを汲みつつ、連絡・調整に当たるコーディネーターに徹することになる。そういう「非常事態」制度ならば、憲法改正によらずとも、法律レベルで規定できる。

非常事態制度により中央省庁の縦割り行政を廃する効用を強調する論者もいるが、そうした官僚制特有のセクショナリズムは非常事態下でも変わりない。

なお、災害復旧過程でしばしば重大問題となる財産権の制限は、非常事態制度ではなく、現行憲法29条でも規定されている公用収用の問題である。

歴史的には、1923年の関東大震災時にも当時の明治憲法に明記されていた最も強力な非常事態制度である戒厳令が発動されたが、そのおかげで犠牲者(死者・行方不明者10万人)が大幅に減ったわけでも、災害復旧が迅速に進んだわけでもなく、かえって治安維持を名目とする社会主義者・無政府主義者らへの超法規的処刑や朝鮮人虐殺という副産物を産んだだけであった。

非常事態改憲論は大いなる幻想というほかない。

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驚愕の「先軍」憲法案

2012-05-03 | 時評

去る4月27日に自民党が公表した「日本国憲法改正草案」(以下、自民草案という)は幾多の問題点をはらみ、ある意味で挑発的な内容となっているが、ここでは個別詳細な批評はさておき(個別批評しない理由については拙稿参照)、全体構造上の問題点を指摘したい。

自民草案で最も驚かされるのは、その構成である。第一章天皇から入るのは現行憲法と同様であるが、第二章を「戦争の放棄」から「安全保障」へさりげなく改題したうえで、ここに九条ノ二を挿入して、全五項にわたり国防軍を規定し、さらに九条ノ三で国の領土保全の責務を規定している。

このような改変は何よりも“「戦争の放棄」の放棄”を宣言するに等しいという点で挑発的であるだけでなく、憲法構成上も第二章という憲法冒頭に近い部分に軍に関する規定を置くという点で、少なくとも標準的な民主国家の憲法には例を見ない「先軍」憲法となる。

軍に関する憲法規定を持つ国は多いが、そうした場合でも軍条項は憲法の後半部分に置かれることが多く、冒頭近い部分に軍条項が来る憲法を持つ国は相当な軍国主義国家であり、少なくとも海外からそのように受け止められても反論し難いだろう。

しかも、権利章典の意味を持つ第三章国民の権利及び義務より先行して、第二章に軍条項を含む安全保障の規定が来るという構成は、体系上も基本的人権より安全保障が優先するということを示すこととなり、ほとんど戦時憲法のような性格を帯びるのである。

このような構成を採った理由をいささか善解するならば、自民草案も正式立法化する場合は形式上現行憲法の改正という手続きを踏まざるを得ないがゆえに、現行憲法の構成をほぼ踏襲する形を取ったことから、結果として九条を包含する第二章に軍条項が来てしまったとも考えられる。

しかし、元来自民党は現行憲法を占領下押し付け憲法とみなし、「自主憲法」制定を唱導しており、その成果が今般草案であるとするならば、現行憲法の構成の踏襲に固執せず、構成を組み替えることを考えるべきではないか。

少なくとも、第二章戦争の放棄を放棄するならば、それを安全保障にすりかえるような姑息な真似をせず、堂々と憲法後半部に規定すればよろしい。自民草案では軍の最高指揮官は内閣総理大臣とされているのであるから(九条ノ二第一項)、体系上は内閣に関する章(自民草案第五章)の後に規定すべきであろう。

さらに、自民草案九条ノ二第五項では国防軍審判所なる軍事裁判の制度を規定するが、これは司法の特則という意味もあるので、安全保障規定は司法に関する章(同第六章)よりも後に来るのが、体系的にも整合するはずである。

もっとも、以上は「先軍」憲法案を善解した場合の話で、悪意に受け止めるなら改憲勢力が最大の目の敵にしてきた九条をずたずたに引き裂きたいという衝動から、軍隊の廃止を規定する九条を含む第二章をあえて改変したうえ、ここに言わば「再軍備宣言」の意味で軍条項を挿入したのだとも取れる。

どちらにせよ、自民草案がそのまま立法化されれば、それは当然各国語に訳され、参照されるから、世界的にもその特異な「先軍」憲法がただではすまない波紋を呼ぶことは間違いない。そこまで草案起草者が計算済みなのか、それとも無邪気な改憲ごっこなのかはまだ見極めがつかないが。

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