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近代革命の社会力学(連載第84回)

2020-03-23 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(1)概観
 19世紀には、欧州諸国で立憲革命が進んだが、アジアにもまたがり、アジア的要素も内包するロシアでは絶対主義的なロマノフ帝政が続いていた。農奴解放は19世紀半ば過ぎにようやく成ったが、これも皇帝主導の上からの改革によるもので、革命の機運は訪れなかった。転機は20世紀に入ってから、1905年乃至07年の立憲革命である。
 より大規模な1917年の革命に対して、第一次ロシア革命とも呼ばれるこの先行革命の主要な背景となったのは19世紀末からの長期不況であり、直接の導火線は日露戦争での屈辱的な敗北であった。1917年革命も第一次世界大戦での敗戦に匹敵する膠着状態が導火線であり、20世紀の二つのロシア革命はいずれも戦争を導火線としている。
 ロシアの第一次革命は、西アジアのイラン―当時の国名は「ペルシャ」であるが、ここでは便宜上、現国名「イラン」で表記する―にも波及した。イランでは、18世紀後半以来、トゥルクマーン人のイスラーム教シーア派王朝であるカージャール朝による異民族支配が続いていたが、19世紀後半には近代化の過程で英国とロシアの権益争いの舞台となり、大国への従属が進んでいた。
 そうした中で、19世紀末からナショナリズムの波が隆起し、タバコボイコット運動などの抗議行動が発生するが、これが20世紀に入り、第一次ロシア革命の波及により、同様の立憲革命の動きにつながった。この革命は長期化し、1906年から11年にかけて継続された。
 イラン立憲革命の渦中で、イランと国境を接するトルコでも立憲革命が発生した。トルコは13世紀以来のオスマン朝帝政が続く歴史的な長期支配体制下で、19世紀後半には上からの改革により近代的憲法が制定されながら、わずか二年で停止され、非立憲的な専制に復帰する反動が起きていた。
 そうした中、19世紀の西欧近代化の過程で誕生した近代的な青年トルコ人集団がロシアやイランの立憲革命に触発されつつ、立憲体制の復活を求めて1908年に決起した。この青年トルコ人革命はロシアやイランのものよりも長期的な成功を収め、最終的にはオスマン朝600年の歴史を終わらせる1923年の共和革命にもつながった。
 以上のロシア、イラン、トルコの各立憲革命は必ずしも連続革命という形で直接に連動していたわけではないが、ロシアを皮切りに、歴史上ロシアとも地政学的に密接な関連を持ってきたイラン、トルコへと波及した前近代的な専制君主制に対する下からの革命的突き上げの動きとして、共通の要素を持つ。
 また、いずれの革命も君主制そのものを廃する共和革命に進展することなく収束しており、長期的成功を収めたトルコの革命を除けば、失敗した革命と評されるところではあるが、いずれも君主制は大きく揺らぎ、ロシアとトルコでは歴史的な長期の帝政が数年から十数年後の共和革命により打倒されている点で、共和革命への橋渡しとなった革命である。
 ただし、イランだけは共和革命を誘発することなく、軍事クーデターによる王朝交代という形で新たに専制的なパフラヴィ―朝が成立し、共和革命は遠く20世紀後半まで持ち越しとなったが、地政学的な近接域で発生し、重要な点で共通性を持つ三つの立憲革命事象について、本章ではこれらを包括して扱うことにする。


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