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近代革命の社会力学(連載第264回)

2021-07-19 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(2)チュニジア革命

〈2‐1〉独立から共和革命へ
 北アフリカのマグレブ地域では最も小さなチュニジアは近隣のアルジェリアやエジプトとともに、16世紀以降オスマン・トルコ領となったが、18世紀に現地総督(ベイ)が事実上オスマン帝国から独立し、世襲王朝(フサイン朝)を形成した。
 このフサイン朝チュニジアは19世紀になると独自の近代化を進め、1861年には時の君主サドク・ベイが進歩的な憲法を制定、立憲君主制を樹立したが、間もなく政治反動が起き挫折し、最終的にフランスの支配に下った。
 チュニジア独立運動の本格的な始動は第二次大戦後となり、その中心を担ったのは1920年に創設された民族主義政党・立憲自由党から分裂した新立憲自由党であった。同党は立憲自由党の急進派を中心に、より明確に完全な独立を求める新党で、その指導者は後に初代大統領となる弁護士出身のハビブ・ブルギバであった。
 ブルギバはオスマン・トルコ時代の貴族階級に出自する中産階級の生まれで、学生時代に立憲自由党に入党し、戦前からマグレブ地方の植民地解放運動に参加してきたベテランの活動家でもあった。
 チュニジアにおける独立運動は隣接するアルジェリアとほぼ同時並行で高まり、ブルギバも一時投獄されるが、アルジェリアのような武装革命の方向性を取らず、党内強硬派を排除したブルギバを中心とする穏健派によるフランスとの交渉を通じて進められた。
 フランス側も、古くからの植民地としてアフリカ最大級のフランス人植民者コミュニティーを擁したアルジェリアの独立阻止に注力するためにも、チュニジアの独立には前向きであったため、1956年には時のフサイン朝君主ムハンマド8世アル・アミーンを王とする立憲君主制の樹立を条件に独立を容認した。
 こうして、チュニジアはフランスとの長期の戦争に突入していくアルジェリアに先駆けて、1956年、革命によらずして独立を果たした。独立後最初の制憲議会選挙では新立憲自由党を中心とする政党連合が圧勝し、ブルギバは初代首相として実質的なチュニジアの最高執権者となった。
 しかし、ブルギバには立憲君主制を護持する意思は初めからなく、彼が主導する制憲議会の初仕事は王家の特権の廃止に始まり、王室財産の政府管理といった君主制の廃止に向けた諸措置であった。
 最終的に、1957年、政府軍が王宮を制圧、国王を軟禁した後、議会が君主制廃止と共和制への移行を宣言した。こうして、独立チュニジア王国はわずか一年で廃され、ブルギバを大統領とする共和国が改めて樹立されたのである。
 ただ、憲法の制定は1959年までずれ込み、ようやく採択された。この共和制最初の憲法は所有権その他個人の権利を保障する自由主義的な憲法であり、イスラームを国教と定めるなど、社会主義色は希薄であった。
 従って、これで終始すれば単純な共和革命であるが、憲法制定をはさんだ1960年代になって、ブルギバは社会主義を政策的に打ち出していった。
 この時間的なギャップからすると、チュニジアの事例は社会主義革命とは規定し難い面もあるが、初期のブルギバ政権にはチュニジアの労組センターであるチュニジア労働総同盟が重要な構成勢力として参加していたため、潜勢的な社会主義化の芽があったと言える。


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