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近代革命の社会力学(連載第151回)

2020-10-02 | 〆近代革命の社会力学

二十 エジプト独立‐立憲革命

(5)1923年憲法と立憲君主制の展開
 イギリスとの妥協の産物として条件付き「独立」を勝ち取ったワフド党はナショナリズムに重心を置く党であって、独立後のエジプトの政体に関して、定見がなかった。
 立憲君主制を打ち出していたワタニ党創設者ムスタファ・カミルよりも一回り年長で、本質的に保守派であったザグルールは立憲制に反対で、時の国王フアード1世も立憲君主として権限が制約されることを恐れていた。
 しかし、22年にはワフド党内のリベラルな勢力が離党して自由立憲党を結党する動きもあり、23年には議院内閣制を基本とする立憲君主制を定めたエジプト初の近代憲法が取り急ぎ制定された。これにより、エジプトの独立革命は立憲革命の性格を併せ持つこととなった。
 この新体制下の政治的なパワーバランスは、ワフド党と王室、依然として権益を保持するイギリスの三者で分け持たれ、ワフド党が君主、イギリスの間を取り持つ関係であった。同党は、新憲法下初の1924年総選挙で圧勝し、ザグルールを首相とするワフド党政権が発足した。
 しかし、イギリスの軛はなお強く、イギリスのリー・スタック総督暗殺事件を機に関係が緊張する中、ザグルール首相を辞職に追い込み、ワフド党政権を約300日で瓦解させ、出鼻をくじくことに成功した。その結果、翌25年総選挙で、ワフド党は大きく議席を減らした。
 ザグルールは27年に死去したが、跡を腹心のモスタファ・ナハスが継ぎ、以後は1952年革命で強制解散措置を受けるまで、五度にわたって首相を務めたナハスの指導体制が続いた。
 一方、君主との関係でも、立憲君主制に否定的なフアード1世は1930年、政治介入して23年憲法を保守的に修正する新憲法を公布した。これは国民の反発により35年に廃棄され、旧憲法に復帰とはいえ、36年にフアードが死去するまで、君主と議会政治の関係はぎごちないものであった。
 とはいえ、23年憲法下のエジプトは、皮肉なことに、今日のエジプトよりも民主的な時代を享受した。この間、ワフド党が最大の優位政党ではあったが、独裁ではなく、首相は如上の立憲自由党のほか、同じくワフド党から分離した穏健なイスラーム政党であるイッティハド党(連合党)からも輩出され、ある程度の多党制が機能していた。
 イギリスとの関係でも、1936年の条約により、スエズ運河防衛のための部隊を除き、イギリス軍をエジプトから撤収させる合意を勝ち取り、括弧付きだった「独立」の内実を一段高めることにも成功した。
 しかし、独立‐立憲革命は、総体として、ブルジョワ革命の段階にとどまっており、主要三党はいずれも出自を同じくする毛色の異なるブルジョワ政党であり、近代化の中で増大する労働者の利害を代表する政党は育たなかった。イギリスも、スエズ運河の権益護持だけは絶対的に譲らず、国王も依然イギリスを後ろ盾としていた。
 独立‐立憲革命が積み残したこうした構造的な課題は、第二次世界大戦後、君主制を廃し、スエズ運河国有化を打ち出した1952年の共和革命を誘発することになる。


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