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近代革命の社会力学(連載第278回)

2021-08-11 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(6)リビア革命

〈6‐2〉直接民主制理論と個人崇拝政治の乖離
 1969年リビア共和革命は、当初は汎アラブ主義・アラブ社会主義を指向するナセリスト革命と見え、事実、ガダーフィ政権はエジプトのナーセル政権と同盟しつつ、ソ連圏に接近するが、アラブ連続社会主義革命としては最終のものとなった。
 翌年にはガダーフィらにとってのメンター的存在であったナーセルが急死したため、後ろ盾を失うこととなった。この先の展開は、同年に先行して同種の革命を経験したスーダンとは対照的なものとなる。
 スーダンがナーセル死後に脱社会主義・親イスラエルへと転回したエジプトのサーダート政権と歩調を合わせたのに対し、リビアはガダーフィの特異な政治思想に基づく独自の社会主義体制へ進むからである。
 その移行期となったのは1973年から77年にかけての時期であったが、この間、ガダーフィは75年に著書『緑の書』を発表し、その中で、一種の直接民主主義に基づくリビア独特の社会主義の理念を打ち出した。 
 それはジャマヒリーヤ(人民共同体)というキー概念を中心とする政治経済理論で、それによると、リビアの新体制は政党や議会によらず、18歳以上の全員参加が義務付けられた基礎人民会議を通じて、人民総会議が最高機関となる会議体民主主義の政体を採るとされる。
 ガダーフィはこうしたジャマヒリーヤを土台に、資本主義でもマルクス‐レーニン主義でもない第三の道を「第三インターナショナル理論」と銘打って体制教義とした。
 ただ、その内容はユーゴスラヴィアのチトー主義や中国の毛沢東主義などが部分的に混在した混交的な「理論」であって、政治経済思想として十分練り上げられたものとは言い難かった。
 実態としては、69年革命以来、大佐に自己昇進したガダーフィを長とする自由同盟将校団メンバーが中心となった軍事政権が継続していた。この間、76年には民主化を求める学生のデモが発生しているが、ガダーフィ政権はこれを弾圧し、学生運動指導者らの処刑で臨んだ。
 その後、1977年にはガダーフィの理論に基づき、改めて「社会主義人民リビアアラブ人民共同体」なる特異な呼称の新体制が発足した。この体制は標榜上直接民主制であるから、国家元首も存在しないとされたが、ガダーフィは当初は人民総会議総書記として、その後は「革命指導者」の称号で引き続き政治指導を行っていた。
 経済的な面では、78年に公刊された『緑の書』第二巻で小売りや賃金、家賃といった搾取手段の廃止が打ち出され、代わって「パートナー」と言い換えられた労働者による自主管理や利益参加などの新機軸や、複数の住宅所有の禁止など急進的な政策が導入されていった。
 その結果、1970年代から80年代前半頃にかけてのリビアは、石油収益にも支えられて、一人当たりGDPでは一時欧州や米国をすら抜く福祉国家的な繫栄を享受するなど、ジャマヒリーヤ体制は順調な発展を見せているかに見えた。
 しかし、その陰では、直接民主制とは名ばかりの革命指導者ガダーフィによる個人崇拝的独裁政治が定着し、人民総会議などの議事が形骸化していた点では、ソ連共産党支配体制下のソヴィエト制度と同様の経緯を辿っていた。
 またガダーフィ政権は対外的には反イスラエル・反西側の姿勢を強く打ち出し、国際テロリズムを支援したため、1986年には当時のレーガン政権による空爆を受け、その報復として88年には自ら工作員を使ってパンアメリカン航空機爆破テロ事件を起こすなど、テロ実行国家とすらなった。
 このように、ジャマヒリーヤ体制はその標榜上の急進的な民主主義理論と実態との著しい乖離ということを特徴とした。それを長期にわたって可能にしたのは、リビアでは近代国家の外形の下で、実際は部族主義が生き残っており、ガダーフィ自身も属したベドウィン遊牧部族が権力基盤となっていたというリビアの前近代的な社会構成のゆえであった。
 このような奇妙な乖離現象はガダーフィの長期支配が成功している間はさしあたり隠蔽されていたが、2010年代のアラブ連続民衆革命の潮流を防ぐことはできず、リビアでも革命が勃発する中で露呈し、ガダーフィ自身を悲惨な末路に導くこととなる。


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