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近代革命の社会力学(連載第348回)

2021-12-17 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(4)共和革命への力学
 1979年のイラン革命は、当時西アジアで最も安定し、資本主義的経済成長著しかったイランで突発したように見えたため、通常の革命の法則が妥当しない、変則的な革命とみなされることが多い。革命後に現れたイスラーム共和制という特異な政体を含め、特に西側ではイラン革命は異形視されることが多い。
 表層的に見れば、たしかに1979年イラン革命には様々な点で従来の革命とは異なる特徴が認められようが、深層的に見てみれば、そこには革命につながる法則的な作用が認められる。
 まずは、「白色革命」のひずみである。前回も見たとおり、その筆頭政策でもあった農地改革は、地主層にも農民層にも不満をもたらす不完全なものであった。結果は、農業生産力の低下と農民の都市部流出に伴う都市の低所得労働者階級の増大であった。これは、農村における階級分裂とともに、都市でも階級分裂を引き起こした。
 さらに、1970年代に入って、モハンマド・レザー皇帝が政治的にもいっそう専制化したことがある。彼は1971年、伝統の「シャー」に加え、「アーリア・メヘル」(アーリア人の光)を皇帝の第二称号とし、古代ペルシャ帝国の建国を記念するイラン建国二千五百年祭を盛大に挙行するなど、いささか誇大妄想的なアーリア民族主義にのめり込んでいった。当然、それは国費の膨大な費消を伴った。
 とはいえ、イラン経済はオイルマネーにより金余りの局面にあったことがこうした豪勢な政治的投資をも可能にしていたわけであるが、1973年のオイルショック後は、インフレーションに見舞われた。このインフレは、皇帝や皇族には収入増をもたらしたが、インフレ対策としての緊縮政策は庶民の生活難をもたらした。
 そうした状況下で、皇帝が大衆慰撫策として、ある程度言論・集会の自由を緩和したことは、革命運動に弾みをつける結果となった。こうした慰撫策は1977年頃から徐々に進められた。
 一方で、同年の4月に当時進歩的なイスラーム主義思想家として知られたアリ・シャリアティ、10月にはホメイニーの子息にして側近で、自らも聖職者のモスタファ・ホメイニーがいずれも不可解な状況下で死亡している。反体制派はこれらを政治警察SAVAKによる暗殺として宣伝した。真相は不明であるが、この二つの「事件」が抗議活動を刺激したことは確かである。
 明けて1978年は、一年を通じて抗議運動が全国に拡大する年となった。政府系雑誌に掲載されたホメイニー批判に抗議する一月の神学生によるデモで数十人の死者を出した事件を皮切りに、抗議行動が全国に波状的に拡大していく。
 一年間に様々な革命の予兆的な出来事が集中的に継起しているが、当初は極力慰撫策で臨んだ政府の対応は9月、テヘランの街頭デモに対する治安部隊の発砲で100人近くが死亡した事件(黒い金曜日事件)を機に、皇帝がテヘランほか主要都市に戒厳令を布告して以降、一変する。
 しかし、この強権発動は逆効果となり、同月から11月にかけて、全国にストライキの波が拡大していった。11月にテヘラン大学生による大規模なデモが発生すると、皇帝は自ら政府を総辞職させ、軍事政権に取って替えた。
 これは皇帝自身による自己クーデターとも言える究極的な非常措置であったが、時機遅れであった。ホメイニーが亡命先から軍事政権の樹立を非難し、さらなる抗議を呼びかけたことに呼応し、ムハッラム月(イスラーム暦による最初の月)となる12月には抗議デモが一層拡大した。
 人口の5パーセントが参加したとも推計されるこの1978年ムハッラム抗議デモには多くの女性を含む一般市民層も参加し、この段階になると、デモ隊は皇帝の退位とホメイニーの帰国を公然と要求するようになっていた。後から振り返れば、この時こそ抗議運動が革命運動に転化した画期であったと言える。


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