ザ・コミュニスト

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農民の世界歴史(連載最終回)

2017-07-18 | 〆農民の世界歴史

第12章 グローバル化と農民

(4)農業の工業化

 農業の商業化を物質的な土台として支えているのが、農業の工業化と言うべき現象である。これは、遺伝子組み換えのような生命工学技術を駆使した品種操作に始まり、近年は工場栽培といったまさしく工業化にまで進展している。
 考えてみれば、農業の歴史とは、より強靭な品種の開発とハウス栽培のように季節にかかわりなく量産できる栽培技術の進歩の歴史でもあり、人類の農業には元来、工業的な性質が備わっていたとも言える。しかし、その主役はあくまでも農民であった。
 しかし、近年の工業化の主役は農民よりも、モンサント社に代表されるような生命工学資本となりつつある。モンサントは20世紀初頭、アメリカで設立された化学工業会社を前身とし、殺虫剤や除草剤の開発で成長した後、1990年代以降、遺伝子組換え作物の開発・販売で多国籍企業に成長していった。
 モンサントは契約農家に自社開発の遺伝子組み換え作物を栽培させ、次期作では自家採種したものを利用させないとの制限をつけて、種子の特許権を独占するという悪名高いやり方で企業収益を確保している。これにより、とりわけ途上国農家は遺伝子組み換え作物のモノカルチャーに陥りやすくなる。
 このような生命工学資本主導による農業の工業化は、遺伝子組み換え作物の危険性の論議とともに、農業食糧資本とも結びついた―モンサント社は実際、カーギル社の種子部門を買収している―米国系多国籍資本主導の新植民地支配という構造問題を抱えている。
 一方、工場栽培は、ともに1970年代、高緯度で日照時間が短いため、野外栽培に限界を抱える北欧と、都市化による農地の減少に直面しつつあった日本で同時に研究開発が始まった。工場栽培は太陽光や人工補光を利用するなどの方法で植物を栽培する技術であり、成功すれば、気候変動に影響されず、かつ都市部でも栽培可能な新技術である。
 ただし、これが遺伝仕組み換え技術と結合する形で普及していけば、未来の農業の大半は大資本主導による工場栽培方式となるかもしれない。栽培工場で作物栽培に当たるのは、もはや農民ではなく、工員労働者そのものである。
 そうした工場栽培方式がグローバルに普及すれば、「農民」という社会的カテゴリーは消滅し、「農民の世界歴史」も終焉することになるかもしれない。果たして、そのような「歴史の終焉」が人類にとって理にかなうことなのかどうかは、本連載の論外である。(連載終了)

 

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http://blog.livedoor.jp/kobasym/archives/11500684.html

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農民の世界歴史(連載第52回)

2017-07-17 | 〆農民の世界歴史

第12章 グローバル化と農民

(3)農業の商業化

 あらゆる物やサービスを市場を介した商業ルートに乗せようとする市場原理主義的な風潮の中で、農業にも商業化の波が押し寄せている。そこにおけるキーワードとなるアグリビジネスという概念の創出は、1950年代に遡る。
 その発信地はハーバード・ビジネス・スクールにあり、当初はアメリカ農業の説明概念であった。アメリカでは、家族単位での大規模集約農業と、前回も見たような穀物商社とが結びつく形で農業の商業化がいち早く生じていたためである。
 アグリビジネスは長い間、特殊アメリカ的な現象であったが、他国でも小土地農家による家族農業に生産力と担い手という限界が見え始めて以降、農業への営利企業の参入が推進されるようになり、程度差はあれ、農業の商業化は進んでいった。
 その点で注目されるのは、南米チリの状況である。以前にも言及したように、チリでは社会主義政権を転覆した軍事政権下、農業分野を含む徹底した市場主義構造改革が強行される過程で、農地についても取引の自由化が推進された結果、農業企業体が多数設立され、国際競争力を伴ったアグリビジネスの中心的存在となっている。
 このような傾向は、農業分野での自由貿易主義の浸透を通じて他国にも広がっている。農協政治を通じて長く保護主義的な農業政策を維持していた日本でも、1990年代初頭の牛肉・オレンジの輸入自由化に始まり、ついには主食の米の輸入自由化を含む環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の締結にも踏み切った。ちなみに、チリはTPPを最も積極的に主導してきた国の一つである。
 しかし、こうした農業分野の自由貿易が伝統的な小農民を苦境に陥らせる懸念も強く、TPPに先駆けて1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)に際しては、これによって競争力の強いアメリカ農産物がメキシコ農業に打撃を与える恐れを背景に、貧農の多いチアパス州の農民らが武装蜂起した。
 かれらはメキシコ革命の英雄だったエミリアーノ・サパタの名にちなんで、サパティスタ民族解放軍を名乗り、一種の革命解放区を設定して政府に対抗してきた。しかし、この運動は武力闘争より政府との対話に重点を置くようになり、新しい手法の対抗的社会運動として、農民運動を越えた注目を集めている。
 こうした局地的な動きはあるものの、総体としては、グローバル資本主義の流れの中で、農業の商業化は否定することのできない現象となりつつある。これは、第一次産業という従来的な産業分類の見直しにもつながるだろう。

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農民の世界歴史(連載第51回)

2017-07-04 | 〆農民の世界歴史

第12章 グローバル化と農民

(2)農業食糧資本の攻勢

 近代帝国主義的なモノカルチャーには、植民地支配という近世の遺制という側面があった。それが第二次大戦後、ほぼ清算された後には、より洗練された経済的帝国主義の形態、すなわち食糧資本による農業支配が現れる。
 穀物メジャーとして知られる穀物流通商社はそれを象徴する先駆けである。こうした第一次産業を専門とする資本には米国系が多いが、これは19世紀以来、コストのかかる植民地主義よりは間接的な経済支配の形態の帝国主義を追求していた米国において、食糧資本が有効なマシンとして発達を見たからである。
 先に取り上げたユナイテッド・フルーツ社(現チキータ・ブランド)などはその先駆けたる国策企業であったし、穀物メジャーの一つで沿革的にはより古いカーギル社も米国系食糧資本の代表格である。
 しかし、穀物メジャーに代表される食糧資本が市場支配力を発揮し始めるのは1970年代以降であった。この頃から自由貿易主義が農業分野にも波及し、農産物貿易が盛んになる。特に72年の世界的凶作は米国からソ連圏への戦略的穀物輸出が活発化する契機となった。
 かくして、70年代は食糧資本の成長期であり、いわゆる五大穀物メジャーと称される寡占資本群が形成されるのもこの頃である。五大のうち二つは純米国系、二つは欧州系資本の米国法人と、米国の主導性が濃厚であった。
 こうした食糧資本は80年代の農業不況によってつまずき、業界再編を余儀なくされるが、90年代以降、自由貿易の拡大という新状況下で再編され、食肉、食品加工などを含めた総合的食糧資本へと成長している。
 これらの資本は、もはや在庫販売を主とした単純な商社ではなく、農家と直接契約して買い付ける仲買業社化し、自社の販売戦略に沿った品種及び栽培方法による栽培収穫を指示、時に融資まで行なう債権者的存在となっている。自社農場を所有し、農民を労働者として雇用する完全資本化形態は普及していないが、途上国ではいずれそれが常態化する可能性は高いだろう。
 そもそも20世紀後半以降は全般に、農業そのものの資本主義的商業化が進み、アグリビジネスの隆盛を招来し、一昔前の穀物商社からより広汎な農業食糧資本の成長を促進しているが、これに関しては稿を改めて論じる。

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農民の世界歴史(連載第50回)

2017-07-03 | 〆農民の世界歴史

第12章 グローバル化と農民

(1)モノカルチャーの盛衰

 農業は長い間、土地の人間の食を充たすために反復継続される地場産業の典型であり、生産物が何千何万キロも離れた外国に輸出されるということはなかった。そうした農業の言わば土俗性が決定的に変化し、今日的な意味でのグローバル化が最初に起こったのは、資本主義を土台とした近代帝国主義の時代であった。
 その起源は大航海時代後、東インドや西インド(カリブ地域)に侵出した列強が開始した商品作物の強制栽培プランテーションにあるが、19世紀以降の近代帝国主義の時代には、とりわけ「アフリカ分割」によってアフリカ各地へ侵出した列強による農業支配下での単一栽培制度(モノカルチャー)において頂点に達した。
 元来、アフリカの農村は自給自足と結束の固い部族的共同体による互助のシステムが確立されており、まさに地産地消の模範のような豊かな、ある種の共産主義によって充足していた。ところが、列強が強いたモノカルチャーで栽培される産品は、列強資本の需要に応じ、カカオや茶、モロコシなどの穀類、ゴムといった総じて嗜好品や飼料、工業用植物などに偏っていた。
 例外的に主食の帝国主義的モノカルチャーの例として、日本統治下の朝鮮における米産モノカルチャーがある。これは米騒動を契機に、朝鮮での産米増殖計画を強制し、増産分を日本内地に輸出して米不足の担保とするものであった。
 モノカルチャー経済下で共通する現象は農民の窮乏化と労働者化であるが、特にアフリカでは伝統的な農村共同体の解体と、自給自足システムの崩壊であった。その永続的効果は深刻であり、かつて豊かだったアフリカを貧しいアフリカに変えた。今日まで尾を引くアフリカにおける貧困や飢餓の下部構造的要因はモノカルチャー経済に存すると言っても過言でない。
 このようなモノカルチャーは、20世紀半ば以降の独立後も、新興独立諸国の農業経済に継承されていった。その中には単一産品の国際価格の上昇に応じて独立当初の国作りに寄与した例もあるが、国際価格が低迷するとたちまち挫折することとなり、モノカルチャーからの脱却は多くの途上国にとって大きな課題となっている。

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農民の世界歴史(連載第49回)

2017-06-20 | 〆農民の世界歴史

第11章ノ2 社会主義農業の転換

 20世紀後半期のソ連型の国家社会主義体制は、農政の面でも生産力・生産性双方において限界をさらしていた。最初に大きな転換に動いたのは中国である。中国では毛沢東の没後、文化大革命の大混乱を収拾する過程で台頭した改革開放派政権により、従前の中国農政の中核マシンであった人民公社制度の解体が断行された。
 人民公社に代わって導入されたのは生産責任制と呼ばれる仕組みである。これは、従来の農業集団化を改めて家族農に戻したうえ、各農家が政府から生産を請け負い、その生産物の一部を政府に納入した後、残余は自由に流通させることを認める制度である。
 政府への納入義務が課せられる点を除けば、市場経済的な農政の仕組みが復活したとも言えるが、これにより人民公社時代の生産性の低さが解消され、農民の生産意欲を動因として農業生産力が回復・増強されていったことはたしかである
 しかし、これで問題が解決したわけではなく、小規模農家の貧困は解消されなかった。かれらの生活改善の打開策は、都市への出稼ぎであった。いわゆる「農民工」であるが、これは社会主義を標榜する体制下における資本主義的な潜在的過剰人口の事例の発現と言える。まさに、社会主義と市場経済を掛け合わせた「社会主義市場経済」の特殊産物である。
 しかし、農民は都市に定住しても、人民公社時代の都市/農村分断政策の名残として、農民には都市戸籍が与えられなかったため、都市ではある種の不法滞在者として、社会保障等のサービスを受給する資格がないまま放置されてきた。これに対し、政府は農民工の都市戸籍切り替え策でしのいでいるが、都市に合法的に定住する農民工の増加は離農による農業生産力の低下という資本主義諸国同様の構造問題をいずれ生じさせるだろう。
 これに対し、本家本元ソ連では、その晩期になっても農業集団化政策は固守されていたが、1991年のソ連解体は集団化の一挙解体の契機となった。集団化の中核マシンだったコルホーズは伝統的な家族農への回帰と株式会社形態を含む農業法人制、さらには協働型の農民農場制に置き換えられていった。
 1990年代から2000年代にかけて、こうした脱集団化政策がロシアを含む独立した旧ソ連構成諸国全域で推進されていった。その進度や結果は各国によって異なるが、全体として市場経済を前提とする資本主義的な農政への移行が進展していった。これも農業資本主義の時代の趨勢と言えよう。

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農民の世界歴史(連載第48回)

2017-06-19 | 〆農民の世界歴史

第11章 農民の政治的組織化

(3)日本の農協政治

 総体としては資本主義体制を維持しながら、小土地農民を協同組合に組織化して、農業市場を政府が管理する体制で現在完了的に長期的な成功を収めたのが、戦後日本である。それは農協政治とも呼ぶべき独特の体制であった。
 日本の農協の沿革は戦時中に戦争目的で組織された生産統制組織に由来するが、占領軍は農地改革後の農政の中心組織として、取り急ぎこの旧制を衣替えした新たな農協組織を創設することとした。そのため、日本の戦後農協制度は家族農を中心としながら、中央統制的かつ行政直結型の独異な組織として発達した。
 それは、農地の売買・賃貸を厳しく制約して大土地所有の出現を阻止する農地法と、米麦を中心とした主食農産品の流通を政府が管理し、農家の所得を確保する食糧管理制度とリンクしつつ、混合経済的な管理農政の中核組織として機能したのである。
 同時に、中央指導部(中央会)を中心に全国にくまなく組織された農協が農政を政治的に指導する保守政党の集票マシンとなって、戦後のほとんどを占める保守優位体制の下支えともなったのである。その点、戦前の小作人を中心とする貧農らが社会主義的政党を組織し、農村にも共産主義思想が浸透していた流れを断ち切り、農村部を保守の牙城、まさしく「票田」とするうえで、農協制度は極めて重要な役割を果たしてきた。
 また農協は系列金融機関や病院組織すら傘下に持つ農村の総合サービス組織でもあり、中国の旧人民公社のレベルまではいかないが、農村生活の制度的基盤でもあった点で、おそらく他のいかなる類似組合組織よりも、高い団結力を保持してきた。
 しかし、1990年代以降、新自由主義・自由貿易主義の潮流が日本にも及んでくると、農協の状況も変貌する。すでに、60年代末から自主流通米制度が存在したが、1995年の食糧管理制度の実質的廃止により、農産物を農家が自由に流通させることができるようになったのは大きな転換点であった。
 さらに、09年の農地法大改正による農地の賃貸自由化は資本主義的な借地農業に道を開き、農協のライバルとなり得る株式会社を含む商業性の強い農業生産法人の増加を促進した。2016年には農協法の大改正により、聖域とも言える中央会の監査・指導権が削除され(将来的に廃止)、農協の分権化が図られた。
 内部的にも、離農・後継者断絶による組合員減少により、票田機能も期待できなくなり、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に代表される自由貿易主義の波に政治的に抵抗することも困難になる中、日本の農協政治は重要な岐路に立たされているところである。

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農民の世界歴史(連載第47回)

2017-06-06 | 〆農民の世界歴史

第11章 農民の政治的組織化

(2)北欧の農民政党

 農民の政治的組織化という点で早くから成功を収めてきたのは、北欧諸国である。北欧諸国は封建的な農奴制が弱く、農民層の自立が早くから進んだことにより、自作農民の近代政治的覚醒も早くから進み、農民の政治的組織化が都市労働者のそれと同時並行的に進展した。
 これらの農民政党は古典的な重農主義的自由主義を理念とする政党として出発しているが、中でも最も歴史が古いのは、デンマークの左翼‐デンマーク自由党である。当初は連合左翼の名で1870年に結党された同党は、貴族層に基盤を置く保守政党に対抗して地方農民層を代表する政党として誕生したことから、「左翼」の名となった。
 しかし、20世紀に入って都市労働者に基盤を置く社会主義的な社会民主党が台頭すると、対抗上中道主義を鮮明にしたため、党名にもかかわらず、社会主義的政党ではない。以来、今日まで社民党と二大政党政を構築し、交互に政権を取り合う存在となっている。
 類例は、スウェーデンの中央党である。1913年に農民同盟として結党され、57年に改称した同党も農民を最大支持基盤とする農民政党であるが、デンマークほどに主要政党とはならず、社会民主党と対立する保守系政党と連立を組むことが慣例として定着した。
 ノルウェーにも、1920年に農民党として結党された中央党がある。同党もスウェーデンのそれと似て、保守系政党との連立を基本としてきたが、2005年に初めて左派の労働党に連立を組み替え、左派側ににじり寄った。
 アイスランドでは、進歩党が農民政党として勢力を持つ。ただし、漁業が主産業である同国では、漁民の利益代表としての性格が強いことが特色である。デンマーク領時代の1916年に結党された同党は、1945年の独立後、右派の独立党と二大政党政を形成し、しばしば政権党にもなってきた。
 他方、歴史的に特殊な役割を果たしたのはフィンランド中央党である。同党は、フィンランドがまだロシア領に属した1906年、農業同盟の名称で結党された。その名のとおり、農民の利益を代表する政党であり、地方農村を支持基盤とし、中央集権的なロシア支配への対抗から誕生した政党であった。
 農業同盟はロシア革命後のフィンランド独立、さらにフィンランド内戦を生き延び、労働者に基盤を置く社会民主党よりも先に最大政党として台頭していった。
 第二次大戦後はしばしば首相を輩出し、連立政権を主導する存在となるが、中でも1956年から82年まで連続して大統領を務めたウルホ・ケッコネンは、冷戦時代真っ只中にあって、資本主義陣営に属しつつ、隣接するソ連と実質的な同盟関係を結び、フィンランドの安全保障の担保とする微妙政策で成功を収めたのである。
 当時のフィンランド大統領は内閣と協働して権力を行使する存在であり、25年以上も続いたケッコネン体制にはいささか権威主義的な側面も見られたが、基本的には多党制に基づく議会制が保持されていた。その間、農民同盟は1965年以降、中央党に改称し、中道主義を標榜するリベラル政党としての性格を明確化にして、しばしば社会民主党とも連立してきた。
 20世紀以降の北欧諸国はいずれも資本主義体制を維持しつつ、それを社会民主主義的な政策により大きく修正する福祉国家体制を程度の差はあれ敷いてきたが、その中にあって中道主義を標榜する農民政党は、まさに左右の中間に位置して、バランサーとしての役割を果たしてきた。
 自作農民は「持てる者」として、政治的に保守化しやすい共通傾向を持つが、北欧農民はある種の進歩的保守主義の傾向が強いことが、こうした独特の中道リベラル政党への組織化を現象させてきたと言えるであろう。

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農民の世界歴史(連載第46回)

2017-06-05 | 〆農民の世界歴史

第四部 農業資本主義へ

第11章 農民の政治的組織化

(1)英米農民の状況

 『資本論』のマルクスは、資本主義の発達につれて農業がどのように変化するかについて、次のように予測していた。

資本主義的生産様式の大きな成果の一つは、この生産様式が一方では農業を社会の最も未発展な部分のただ経験的な機械的に伝承されるやり方から農学の意識的科学的な応用に、およそ私的所有とともに与えられている諸関係のなかで可能なかぎりで転化させるということであり、この生産様式が土地所有を一方では支配・隷属関係から完全に解放し、他方では労働条件としての土地を土地所有からも土地所有者からもまったく分離して、土地所有者にとって土地が表わしているものは、彼が彼の独占によって産業資本家すなわち借地農業者から徴収する一定の貨幣租税以外のなにものでもなくなるということであ(る)。

 この言説の前半部分、すなわち農業の科学化はそのとおりになったが、後半の借地農業形態はまだ全世界で普及しているとは言えず、発達した資本主義国を含め、土地を所有する農民による自作農が広く行なわれている。
 しかし、そうした自作農らも、押し寄せる資本主義の波の中で変化を強いられていく。その点、資本主義祖国の英国では、産業革命後、独立自営農民ヨーマンが解体され、おおむね賃金労働者に転化されていったことは以前に見た。
 農業にとどまったヨーマンは土地を集約し、大規模農業を営んだり、地主階級のジェントリーから借地して農業経営に当たるなどし、新たな資本主義的農民階級が形成された。ただ、その数は少なく、英国では農民独自の利害を代表する政治政党が結成されることはなかった。
 それに対し、自由な開拓農民によって築かれたとも言ってよい米国では事情が異なった。南北戦争後、急速な資本主義的発達の中、南部の困窮した綿花農民や中西部の小麦農民らが北部主導的な民主/共和の二大政党政のエリート政治への反発から、1891年、農民団体を基盤に人民党を立ち上げたのである。
 人民党は資本主義批判と農本主義を基本理念とし、累進課税導入、当時は間接選挙制だった上院議員選挙の直接選挙改革、基幹産業への政府規制など、当時としては急進民主主義的なマニフェストを掲げた。人民党は二大政党政の狭間で、民主・共和両党と部分協力する作戦で支持拡大を図った。
 その結果、1892年大統領選挙では、落選したものの初めて独自の候補者の擁立に成功し、19世紀末から20世紀初頭にかけて、多くの州知事や上院議員を輩出する勢いを見せた。
 これに対し、南部に浸透していた民主党は人民党の政策の多くを自らに取り込む懐柔作戦で応じ、人民党が独自候補の擁立を検討していた1896年大統領選挙では人民党との協力関係を構築し、自党のブライアン候補支持を取り付けることに成功したが、同候補は落選した。
 この選挙協力が人民党にとってはあだとなり、選挙後、人民党はすみやかに衰退に向かうことになる。最終的に1908年に解党された人民党は20年にも満たない命脈であったが、硬直した二大政党政を揺さぶる第三極として、米国政治の中にポピュリズムの潮流を起こす契機となったことはたしかである。とはいえ、米国における農民の政治的組織化は歴史的な失敗に終わったのである。

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農民の世界歴史(連載第45回)

2017-05-23 | 〆農民の世界歴史

 第10章 アジア諸国の農地改革

(6)ケシ黄金地帯と内戦

 以前取り上げた南米コロンビアが世界最大級のコカイン原料コカ栽培地となっているのに照応して、アフガニスタンは世界最大級のアヘン原料ケシ栽培地となっている。とりわけ同国東部ジャララバードを中心に、国境を越えてパキスタン、イランにもまたがる地帯は、「黄金の三日月地帯」の異名を持つケシ栽培地帯として知られる。
 この地域でのケシ栽培は1950年代から本格化し、アフガニスタン内戦時代を通じて、貧農にとって最有力の換金作物として生産高も増加していった。しかし、96年に政権を握ったイスラーム原理主義勢力ターリバーンの禁止令も影響して生産高は一時減少したものの、9.11事件に起因する米軍の攻撃による2001年の政権崩壊後は、再び急速に生産高が回復している。
 特に反政府武装勢力に戻ったターリバーンの拠点がある地域に栽培地が集約される傾向にあり、ケシ栽培と麻薬取引がターリバーンの資金源となっている可能性が指摘されている。コロンビアと同様、代替作物への転換が課題であるが、元来農業適地も少ない土地柄のうえ、旱魃に悩まされ、戦乱による農地の荒廃も加わり、課題達成は容易でない。まずは内戦の完全な終結が鍵を握るだろう。
 アジアにはもう一箇所、ケシの大栽培地帯がある。それはミャンマー東部シャン州を中心にメコン河をはさみ、タイ、ラオスにもまたがる「黄金の三角地帯」の異名を持つ地帯である。
 この地域でのケシ栽培の歴史は19世紀に遡ると言われるが、本格化するきっかけは戦後、国共内戦に敗れた中国国民党残党軍がシャン州やタイ北部に流入し、現地少数民族を配下に事実上の独立国を形成、その財源に麻薬取引を据えたことにあると言われる。
 ちなみに、ミャンマー(旧ビルマ)では、ネ・ウィン将軍の「ビルマ式社会主義」体制時代に土地国有化を基調とした農地改革が断行されたが、政府の支配が及ばない国境の少数民族地帯に改革の効果は及ばなかった。
 その後、国民党残党が弱体化すると、中国が支援したビルマ共産党とそのライバルで米国が支援したシャン族軍閥クン・サーらがそれぞれビルマ政府との内戦下でケシ栽培と麻薬取引を資金源とし合ったため、80年代以降の「三角地帯」のケシ栽培は最盛期を迎え、「三日月地帯」を凌ぐまでになった。 
 しかし、ビルマ共産党は89年に解散し、クン・サーも96年にはミャンマー政府に投降した後、2002年には軍事政権によるケシ栽培禁止令により、サトウキビ等への転作も一定進んだことで生産量は減少するも、少数民族軍閥が麻薬利権を継承し、なお資金源としているとされる。この地帯でのケシ栽培からの転換も、多民族国家ミャンマーにおける少数民族紛争の根本的な解決にかかっているだろう。

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農民の世界歴史(連載第44回)

2017-05-22 | 〆農民の世界歴史

第10章 アジア諸国の農地改革

(5)西アジアの農地改革

 西アジアには多数のイスラーム諸国がひしめくが、その中でも最大人口を擁するイランは比較的農地改革が進展した国である。イランで本格的な農地改革が断行されたのは、パフラヴィ朝第二代モハンマド・レザー・シャー国王が1960年代以降に推進した上からの近代化改革「白色革命」の過程においてであった。
 従来、イランでも半封建的な大土地所有制と農奴化した貧農という構造が形成されていたところ、政府は地主から土地を買収し、それを市場価格の30パーセント程度の安値で、かつ低利長期融資で農民に売り渡すというオーソドクスな方法で改革を進めた。
 この改革の恩恵を受け、土地持ち農民となったのは当時の人口の半分に近い900万人とも言われ、相当に大きな効果を持つ改革であった。こうした日本の戦後農地改革に匹敵する大改革が断行できたのも、前近代的な絶対王政の強権支配のおかげであったのは皮肉である。
 ただ、そうした非民主的体制下での農地改革の結果は、農村における富農と小土地農民、農業労働者の新たな階級分裂であった。最下層の農業労働者は、都市部へ流出することが多かった。マルクスの潜在的過剰人口の事例である。
 パフラヴィ朝を打倒した1979年イスラーム革命は白色革命に対する反動でありながら、農地改革の成果を覆すことはしなかったが、イスラーム共和体制下では補助金農業から営利農業への転換が主流的となった。
 これに対し、東隣のアフガニスタンの事情は大きく異なる。山岳国家アフガニスタンでは大土地所有制は発達せず、イランで農地改革が始まる同時期の1960年当時でも、全作付耕地のうち自作経営地はイランの28%に対してアフガニスタンは60%であった。
 そうした中にあって、1978年の革命で成立した社会主義政権は地主階級の部族長に所有された大土地の無償接収と農民への再分配という社会主義的な農地改革を性急に断行したことで、部族長勢力の虎の尾を踏むことになった。
 これが長期に及んだ内戦へのステップとなり、アフガニスタンの耕地面積の三分の一が破壊され、荒廃したとされる。大土地所有制が希薄な好条件を持ちながら、戦乱によってアフガニスタン農業は破壊され、農民は戦士として動員、大量の戦死者を出すこととなったのであった。
 イランの西隣トルコでは、イランの白色革命に遡ること40年、オスマン帝国を解体したケマル・アタチュルクの共和革命によって近代化改革が断行されたが、オスマン時代以来の地方首長アーガによる大土地所有制にメスを入れる農地改革は西部地域に偏り、彼の早世により後手に回った。
 アタチュルクの没後、農業改革本部を通じた農地改革の試みは続くが、徹底することはなかった。かくしてトルコの大土地所有制は現代まで生き残ることになるが、これは次第に大規模投資を通じた企業的営農の形態を取って資本主義に適応化している一方、補助金に依存する小土地農民の困窮をもたらしている。

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農民の世界歴史(連載第43回)

2017-05-09 | 〆農民の世界歴史

第10章 アジア諸国の農地改革

(4)インド農地改革と共産党

 英国植民地からの独立以前のインド農地は、ムガル帝国時代に確立された徴税請負人(ザミーンダール)が実質的な地主となるザミーンダーリー制を基本としていたが、ムガル帝国支配が元来手薄な南部では耕作者を土地所有者と規定し、納税契約を結ぶライーヤトワーリー制が導入された。
 ザミーンダーリー制は元来準封建的な制度だったが、英国はザミーンダールの封建的特権を廃止したうえで、かれらを地主とみなし、ある程度近代的な土地所有制度に仕立てようとした。ライーヤトワーリー制は近代的な土地所有制度への過渡的制度であったが、明治日本の地租改定と同様、重い地税負担に耐えかねた農民が耕作地を手放し、結局は土地の集中化が生じた。
 こうした状況下で、連邦制のインドにおける農地改革は、英国からの独立後、基本的に州レベルで実施された。もっとも、全体の司令塔役として、独立後インドの最大政党となった国民会議に農業改革委員会が設置され、その勧告がベースとされた。
 そこでの中心課題は、旧来のザミーンダーリー・ラーイヤトワーリー両制の廃止と農民搾取の廃絶にあったが、国民会議派政権は社会主義を標榜しつつも、土地の国有化といったソ連式の農地改革には踏み込まなかった。そのため、基本的に州政府に委ねられたことと相まって、インド農地改革もまた総体として不徹底に終わる運命にあった。
 ただ、その中でも州レベルで共産党が政権党に就いた所では、農地改革の前進が見られた。先駆けはケーララ州である。1957年に政権党となった共産党は60年代にかけて中央政府との対立状況を乗り越え、議会制を通じた数次に及ぶ農地改革を漸進的に実行した。
 これに遅れて、西ベンガル州でも、1977年に政権に就いた共産党の下で、バルガ作戦と命名された農地改革が実行された。これにより、小作人(バルガダール)の解放と土地の分配が実現したのである。この政策の成功もあり、共産党は2011年まで州政権を維持した。
 しかし、こうした農地改革の成功州はむしろ例外的である。共産党も分裂状態にあり、強硬的な共産党毛沢東主義派は農地改革の遅れた諸州の農村を基盤に農民革命を謳った武装テロ活動を展開し、政府と対峙している。ここには、フィリピンと同様の状況がある。
 一方、農業技術面では、インドは緑の革命の最大の成功国とみなされている。インドは1960年代初頭の大飢饉を機に中央政府レベルで稲の研究開発を進め、70年代以降、安定した米産国として定着してきた。今後は、こうした農業技術面での成功と依然として不徹底な農地改革の前進及び農村の貧困克服をいかに結びつけるかが大きな課題である。

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農民の世界歴史(連載第42回)

2017-05-08 | 〆農民の世界歴史

第10章 アジア諸国の農地改革

(3)フィリピン農地改革と共産ゲリラ

 東南アジア諸国の中で、フィリピン農地改革は困難を極めてきた。フィリピンはスペインの侵略以前、部族長の統率の下、農地は共有制を採っていた。こうした原初共産的共有制はスペイン侵略後、アシエンダ農園制に置換された。
 その点では、同じくスペイン支配を受けたラテンアメリカと類似している。しかし、フィリピンは米西戦争の結果、アメリカの手に渡り、20世紀以降、アメリカ植民地となる。新たな植民地支配下で、アシエンダは近代的プランテーションに移行するが、その基本構造は不変であった。
 そうした中、日本軍占領下でフィリピン共産党が指導する農民革命運動フクバラハップ(フク団)が結成され、抗日運動としても活動する。これは中国共産党ゲリラ軍を範とする運動であり、フィリピンにおける共産ゲリラ活動の先駆けでもあった。
 独立後のフィリピンでは先のフク団がいっそう強勢化し、議会にも進出するが、冷戦期の親米反共政策を展開したマグサイサイ大統領は国防相時代にフク団を壊滅、共産党も勢力を失った。その代替として、マグサイサイ政権及び後のマカパガル政権は農地改革に着手するも、スペイン系地主層の抵抗で骨抜きにされた。
 ある程度本格的な農地改革の実行は1970年代、戒厳令を発動して独裁体制を築いたマルコス時代を待つ必要があった。マルコスは遅ればせながら、小作農解放令を発布し、自作農創設を目指す農地改革に打って出るも、地主の抵抗力は強権的な戒厳統治すら乗り越え、またも改革の軟弱化に成功する。
 ただ、マルコス時代は「緑の革命」を通じた農業技術革新によって、米の自給体制を確立するという成果も上げた。しかし、マルコス一族及び取り巻きが特権的寡頭化していく中、農地改革のそれ以上の進展はなかった。
 他方、共産党が毛沢東主義を掲げて再建され、軍事部門の新人民軍を通じて再び農村拠点の共産ゲリラ活動を開始し、独裁政権の先兵として増強された国軍との間で内戦的状況に陥っていった。
 新人民軍は民衆革命によるマルコス政権崩壊後、90年代に穏健派の懐柔離脱により孤立させられ、弱体化したものの、なお活動中である。一方で、新興華僑も加わった地主層は半封建的な地方政治家や財閥の形態を取って支配力を維持している。
 政府による農地改革は歴代政権をまたいでなおも継続中であるが、めざましい成果は上げられないまま、旧来の地主‐小作関係は温存され、農村の構造的貧困が長期課題となっている。また一度は達成した米自給体制も限界を露呈、輸入国に回帰するなど生産体制にも課題がある。

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農民の世界歴史(連載第41回)

2017-04-25 | 〆農民の世界歴史

第10章 アジア諸国の農地改革

(2)朝鮮半島における農地改革

 朝鮮半島における農地改革は第二次大戦後、日本の植民地統治からの解放後に本格化するが、建国が南北で異なる体制に分裂した関係上、必然的に農地改革も全く別の理念と枠組みで進められた。従って、農地改革においても分断の影響は著しい。

 その点、北朝鮮では当初から社会主義体制が樹立されたため、農地改革も社会主義的革命理念に沿って実行された。従って、これは本来「第8章 社会主義革命と農民」で扱うことが適切であったが、便宜上ここで触れておく。
 北朝鮮建国以来一貫して世襲的に支配権を維持する金一族は初代金日成の祖父の代までは小作人だったと見られ、元来農民出自であり、金一族体制はある種の農民王朝的な性格を持つ。そのためか、農業政策には建国以来、関心が高いと言える。
 ただ、ソ連の強い影響下に成立した北朝鮮農業政策の基本路線はソ連式の集団化であり、その路線に沿って急速な集団化が進められた点ではソ連や中国とも類似している。しかし、本格的な集団化の開始は朝鮮戦争休戦後、1960年代以降のことである。
 そこでは中国の人民公社制度にならった青山里方式と呼ばれる協同農場化が推進された。加えて、建国者金日成が提唱する「主体思想」を反映した「主体農法」なる食糧完全自給策が追求されるも、科学的な農法を軽視した高密度作付けや化学肥料の過剰使用などにより、元来農業適地が稀少な北朝鮮の農地は消耗が進んだとされる。こうした集団化の失敗はソ連や中国よりも深刻で、後に農村飢餓の要因ともなる。
 1994年の金日成没後も集団化の枠組み自体は不変と見られるが、その枠組み内で一定の農業改革が積み重ねられていることについては、続く章で社会主義的農業の改革を概観するに際して、中国との対比で改めて取り上げてみたい。

 これに対して、南の韓国では資本主義的枠組みでの自作農創設を目指した農地改革が積み重ねられたが、それは戦後日本のように占領下ではなく、樹立されたばかりの不安定な新興独立国によって内発的に行なわれたため、地主の抵抗や政情不安もあり、必ずしも容易に進まなかった。
 韓国の農地改革も米国の軍政下で着手されたが、韓国の米軍政は日本占領よりも一足早い1948年には終了したため、以後は最初の独立政府である李承晩政権に引き継がれた。1950年の農地改革法が根拠法律である。その基本理念は「小作禁止」ということにあり、有償土地分配を通じた自作農創設が目標とされた。
 ところが、同年に重なった朝鮮戦争は改革に水を差し、かつ戦時財源確保のために導入された臨時農地取得税は農地を取得した農民にとっては負担であった。結果、現物償還が奨励されるありさまであった。
 とはいえ、韓国の農地改革は戦争の苦難の中で実現され、従来の地主制はひとまず解体された。こうして小規模自作農の創設が成った点では日本とも共通するが、韓国では専業農家が多いこともあり、小規模農家の経営は容易でなかった。
 そこで、軍事クーデターで政権に就いた朴正煕大統領は60年代の干害による農村の困窮や高度成長下で広がった都市との経済格差の改善などを目指し、70年代からセマウル(新村)運動と呼ばれる農村振興策を打ち出した。
 これを通じて農家の所得増大を目指すとされたが、運動自体は長期政権を狙う朴大統領の全体主義的な統治の基盤強化という政治的な側面が強く、その具体的な成果については議論の余地がある。
 70年代後半頃になると、小規模農家が困窮や担い手不足から離農して農作業を第三者に委託する形態が増加している。これはある面から見れば逆行的な再小作化現象とも言えるが、農家が農地を貸し出している面をとらえれば資本主義的な借地農業の初発現象であり、受託者が資本企業化されればまさしく資本主義的借地農業制に展開していく芽を持っている。

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農民の世界歴史(連載第40回)

2017-04-24 | 〆農民の世界歴史

第10章 アジア諸国の農地改革

(1)戦後日本の農地改革

 社会主義的な農地改革が断行された諸国を除くアジア諸国の中で、最も早くに革命的な農地改革が実行されたのは、戦後日本である。しかも、それは内発的ではなく、主として米国主導の占領下で断行された「横からの革命」であったことに最大の特色がある。
 その点では、やはり戦後、ソ連軍占領下で断行されたドイツのユンカー制解体と類似した経過であるが、日本の場合は資本主義的な枠内で自作農を創設するための農地の再分配として純化されていたことも特徴的である。
 それ以前の日本の近代的農地制度は、明治維新後の地租改正を契機に急速に築かれた。すなわち、金納地租の負担に耐えられない小農民が土地を富農に譲渡して小作人に落ちていくケースが続出することで、江戸時代にはむしろ制限されていた大土地所有制が短期間で構築されたのである。
 ただ、大土地といっても狭い国土の日本では、ドイツのユンカーやラテンアメリカのアシエンダ地主のように自ら農場経営に当たるのではなく、地主は都市部に住み、小作料のみ徴収する不在地主型が多かった。
 不在・在村いずれにせよ、地主らが小作料に依存して生計を営む寄生地主制は戦前日本における農村の貧困の要因であり、戦後の占領政策においては、農地改革が最初に着手された改革策となった。占領軍による農地改革は二次にわたって実施される。
 その方法は、不在地主の全所有農地、在村地主の所有土地の相当部分を強制的に政府が買収し、小作人に廉価で譲渡するというものであったが、新憲法29条3項に「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」と規定していながら、戦後のハイパー・インフレーションにより、地主からの買収は実質無償に等しくなり、結果としては社会主義的な農地改革に近い効果を持った。
 この改革は占領軍の超法規的な統治の下、1947年から50年までのわずか3年間で断行され、全土の小作地のほぼ80パーセントが小作人に分配された。これにより、従前の地主制度は解体され、戦後の日本農業は小土地家族農を軸とした自作農制に大転換されたのである。
 この過程は、あたかも明治維新後の地租改正後、急速に小農民層が没落していった過程をひっくり返し、今度は地主層が急速に没落していく結果となったので、実質においては「革命」と呼ぶに値するものであった。
 その経済的効果として、農村の生活水準は向上したが、実際のところ、農地の細分化により個々の農家の生産力には限界があり、兼業農家の増加、政府の保護政策による価格競争力の低下という構造問題を引き起こした。
 むしろ、日本の農地改革はその政治的な効果が大きく、土地を得た農民たちが持てる者の仲間入りを果たして保守化し、共産党のような革命政党の傘下を離れて互助的な協同組合にまとまり、戦後再編された新たなブルジョワ保守系政党の強固な支持基盤となったのであった。

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農民の世界歴史(連載第39回)

2017-04-11 | 〆農民の世界歴史

第9章 アメリカ大陸の大土地制度改革

(6)コカ農民と山岳ゲリラ活動

 南米では儀式用途や薬用のコカの栽培が古来行なわれてきたが、スペインの支配が確立されると、労働効率を上げるため、高山病対策の効能があるコカ噛み風習が奴隷化された先住民間に植え付けられた。需要が増えることでコカ栽培も広がり、特に山岳貧困地域では栽培が盛んになった。
 中でもコロンビアは世界最大のコカ栽培地へと「発展」していくことになる。軍事クーデターが頻発しがちな南米諸国の中で古くから二大政党政が定着し、最も立憲的と評されるコロンビアがコカ大国となった背景にはやはり大土地所有の問題があった。
 コロンビアは「立憲的」であるがゆえに、大土地所有制に革命的なメスが入れられることはなかった。そのため、土地無し農民たちは未開拓の森林へ植民し、政府の権力も充分に及ばない環境の中で自給自足生活を補う換金作物としてコカ栽培が広がった。
 これはコカを麻薬のコカイン原料として買い取る麻薬組織との取引関係あってのことであるが、政府による麻薬組織撲滅作戦により組織が弱体化すると、今度は政治的なゲリラ組織が乗り出してきた。これがコロンビア革命軍(FARC)である。
 FARCは元来、キューバ革命に触発される形で1960年代初頭に結成された農民運動に出自し、マルクス‐レーニン主義に基づく革命政権の樹立を綱領に掲げていた。当初は決して大組織ではなかったFARCが90年代以降、急成長した秘訣が麻薬取引であった。
 FARCはコカ栽培農民への「課税」名目での強制献金や要人誘拐も盛んに行なって組織の資金源とし、2000年代に入ると数万人規模に膨張、政府との事実上の内戦状態に入った。
 しかし08年、結成以来のマヌエル・マルランダ最高指導者の病死を契機に弱体化し、12年以降和平交渉が進展、16年には和平合意が成立した。この功績から、時のフアン・マヌエル・サントス大統領は16年度ノーベル平和賞を受賞した。
 とはいえ、コロンビアの大土地改革は二大政党政が流動化した21世紀においても根本的には進んでおらず、ゲリラ活動を支えたコカ栽培農家の転換も課題である。
 類似の現象を経験したのが、隣国ペルーであった。ペルーでは先述したように、1960年代から70年代前半に軍事政権の枠組みでの「革命」により農地改革は進んだが、元来政府の権力が及びにくいアンデス山地の僻地は改革の恩恵に与ってこなかった。そうした中、この地域の貧農の間でもコカ栽培が広がっていた。
 これに目を付けて台頭してきたのが、センデロ・ルミノソ(輝く道;以下、SLと略す)を名乗る武装ゲリラ組織であった。この組織は軍政が終了した1980年、毛沢東主義を標榜するペルー共産党分派により正式に結成された。
 その最高指導者アビマエル・グスマンは元哲学教授という異色の履歴を持つ。SLは農民運動ではなく、コカ農村を庇護しつつ、戦略的拠点として利用しただけであったから、グスマンの個人崇拝とテロの恐怖で支配し、かえって農村を荒廃させた。
 1980年代のペルーはSLとの事実上の内戦状態であったが、90年に当選したフジモリ大統領は非立憲的な「自己クーデター」により強権を握り、SL壊滅作戦に乗り出し、92年にはグスマン拘束に成功、彼をペルー最高刑の終身刑に追い込んだ。
 2000年のフジモリ失権後、SL残党は一時的に盛り返すも、12年に残党指導者が拘束され、弱体化した。こうして、SLはFARCとは対照的に非立憲的・非平和的な手法によってほぼ壊滅された。とはいえ、山岳僻地の貧困問題の解消は未解決課題である。

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