ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第320回)

2021-10-29 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(4)革命と救国評議会の樹立
 1974年のポルトガル民主化革命は中堅・若手将校を主体とする国軍運動(MFA)によって計画されたクーデターとして開始された。戦略を指揮したのは国軍運動の中心的指導者であるオテロ・デ・カルヴァーリョ大尉であり、クーデター部隊の構成も綿密に企画されていた。
 同年4月25日のクーデター決起に対して不意を突かれたカエターノ政権は反撃のいとまもなく、降伏し、カエターノ首相は前ギニア総督アントニオ・デ・スピノラ将軍への権力移譲に同意した。スピノラ将軍はMFAのメンバーではなかったが、事実上MFA将校のメンターのような存在となっていた。
 降伏したカエタ―ノ首相と当時のアメリコ・トマシュ大統領はいったん離島のマデイラ島に移送された後、それぞれポルトガル語圏のブラジルへの亡命が許され、前政権首脳への報復的処刑なども行われることはなかった。
 かくして、クーデターは無血のうちに成功した。それだけのことであれば、これは単なる軍事クーデター政変にすぎず、革命事象に数えることはできないが、このクーデターに際しては、多くの市民が自宅待機要請に反して街頭に繰り出す民衆蜂起に進展し、市民がクーデター軍の兵士らにカーネーションを渡して祝した事実から、「カーネーション革命」の美称も冠せられる民衆革命の性格も帯びた。
 しかし、革命成就後、スピノラ将軍を大統領兼議長とする臨時政府として樹立された救国評議会は全員が軍幹部で構成された軍事政権であった。また、必ずしも全軍規模での革命ではなかったため、旧体制支持派部隊からの反革命を警戒し、革命防衛を担う特殊部隊として大陸作戦司令部(COPCON)が編成され、少佐から一挙に准将に特進したオテロ・デ・カルヴァーリョが司令官に任命された。
 とはいえ、トップのスピノラ将軍と革命を実質的に主導したMFA系将校らとの間には、植民地戦争の終結という一点を除けば、深い溝があった。その点で、スピノラ将軍は1952年のエジプト共和革命で革命を主導した自由将校団のメンターとして最初の大統領に担ぎ出されたナギーブ将軍の立場にも似ていた。
 とはいえ、当面の急務であった植民地戦争の終結という課題に関しては、革命の原点とも言えるギニア‐ビサウの1974年9月の独立を皮切りに、他のアフリカ植民地との間でも順次独立へ向けての交渉が開始され、革命の最初の重要な成果となった。
 しかし、植民地問題に関してもスピノラ将軍は完全独立には消極的であり、ましてその他の内政課題に関しては、共産党と結ぶMFA系将校らの急進的な姿勢と本質的に保守派であるスピノラ将軍の間での対立が激化していき、74年9月末、軍内右派によるクーデター未遂事件を機にスピノラ将軍は大統領辞任に追い込まれた。
 後任には、救国評議会ナンバー2で国軍統合参謀総長フランシスコ・ダ・コスタ・ゴメシュが就いた。ゴメシュは革命の直前、カエタ―ノ首相への忠誠を拒否したために参謀総長を罷免された人物で、以後、1976年の民政移管まで大統領として、激化する権力闘争を調整するかじ取り役を担う。

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近代革命の社会力学(連載第319回)

2021-10-28 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(3)植民地戦争と国軍運動の形成
 1974年のポルトガル民主化革命を主導したのは国軍の中堅・若手将校たちであったが、元来、ポルトガル国軍は総体としてサラザール独裁体制の支持基盤に組み込まれていた。といっても、いささか微妙な位置においてである。
 そもそもサラザールは1910年共和革命後の混乱期に政治的な実力をつけていた軍部によって首相に擁立された軍部傀儡のような立場からスタートしており、軍部に恩があったが、文民(学者)出身であるため、軍部は直接的な権力基盤とはなり得なかった。
 そこで、サラザールは軍部をつなぎとめるため、儀礼的な存在の共和国大統領に職業軍人出身者を充てる慣例を確立し、軍部には実権を与えず、敬して遠ざけるという手法で、自身の支持基盤に取り込んでいたのである。この点で、自身が軍人で、軍部を直接の権力基盤としたスペインのフランコ総統とは大きく異なっていた。
 歴史的にポルトガル軍は君主制時代の保守的な上流貴族階級が幹部士官を務める組織構造であったが、共和革命後の大衆化の進展により、またサラザールのエシュタド・ノヴォ体制がある種の大衆的ファシズム体制であったことから、とりわけ第二次大戦後は一般階層出自の士官も増加していた。
 そうした中、1960年代、アフリカ植民地で同時多発的に独立戦争が勃発すると、徴兵の増員によって軍部はいっそう大衆化されていった。とはいえ、軍部は植民地戦争初期にはサラザール体制を支持しており、政治的な動きはほとんど見られなかった。
 もっとも、植民地戦争勃発前夜の1961年、小規模な反政府グループを率いてポルトガル豪華客船サンタ・マリア号シージャック事件を起こした退役軍人エンリケ・ガルヴァオンのような人物も存在したが、これは個人的なレベルでの反抗であった。
 また、1958年の大統領選挙に反サラザールの独立系候補者として立候補し敗北したウンベルト・デルガド将軍は61年末から62年初頭にクーデターを実行するも失敗、さらに亡命先のローマで64年に反政府組織ポルトガル国民解放戦線を組織したが、デルガドは翌年、秘密警察要員の手で暗殺された。
 こうした個人的ないし部分的な反抗を越えた組織としての軍部にどこで反体制的な変化が生じたかを正確に見極めることは難しいが、サラザール没後の1970年代、中でもギニア‐ビサウにおける敗北が分水嶺となったように見える。最初の兆しは、1973年にオテロ・デ・カルヴァーリョ大尉を中心として結成された「大尉運動」である。
 この運動は名称どおり大尉級の若手士官を中心とする国軍内の反体制グループであり、指導者のカルヴァーリョ大尉はアンゴラやギニア‐ビサウで植民地戦争に従事した士官であった。彼は共産党員ではなかったが、キューバ革命に触発され、影響を受けていた。
 カルヴァーリョはギニア‐ビサウ配属時に、当地の総督兼軍司令官だったスピノラ将軍の部下でもあったが、そのスピノラ将軍は大尉運動とは距離を置きつつ、リスボン帰任後に著書『ポルトガルとその将来』を公刊し、植民地戦争の停止を主唱していた。
 カルヴァーリョは組織力に優れており、大尉運動はやがて74年3月、より階級横断的な軍内運動・国軍運動(MFA)に拡大された。MFAは党派的な組織であり、独立戦争の即時停戦とポルトガルからの撤退、自由選挙の実施、秘密警察の廃止を要求政策として掲げていた。
 MFAメンバーの多くは共産党と結びついていたが、発足時点では社会主義的な政策綱領を掲げていたわけではなかった。しかし、手法としては、暗殺されたデルガド将軍が独裁を終わらせる唯一の手段として提唱していたクーデターの決行に乗り出す。

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近代革命の社会力学(連載第318回)

2021-10-26 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(2)ファシズム体制の遷延と限界
 ポルトガルでは1910年共和革命の後、民主主義の確立に失敗し、戦間期に経済学者出身のアントニオ・サラザール首相がカトリック保守主義のイデオロギーに基づくファシズム体制―エシュタド・ノヴォ(新国家)―を樹立し、第二次大戦を越えて1960年代末まで抑圧的な独裁統治を続けた。
 この体制下では、「神、祖国、そして家族」というわかりやすいスローガンに象徴されるように、キリスト教会、国家、地主/財閥一族が支配の軸となり、早い段階から、労働組合やそれを支持基盤とする左派政党は厳しく禁圧された。反体制運動は左派右派を問わず、海外にも展開された秘密警察・国際国防警察によって弾圧され、国内はもちろん、国際的にも監視・抑圧された。
 他方、経済的には、フランコ独裁下のスペインと異なり、反共の砦として西側陣営から認知されつつ、戦後の1950年代から60年代を通じて、財閥企業体を通じた重工業化に成功した。
 それが暗転するのは、サラザールが執着した植民地政策である。前章でも見たとおり、アフリカ植民地で1960年代以降、独立戦争が同時的に勃発し、軍事費の増大が財政を圧迫した。
 それまで好意的だった国際社会もポルトガル植民地政策への批判に転じ、経済制裁も科せられる中、1960年代を通じて、ポルトガルが経済的に西欧最貧状態に落ち込むと、抑圧されてきた労働者や学生による反体制運動も活発化してきた。
 すでに首相在任が35年を越え、80歳に近い高齢に達していたサラザールは、1968年、静養中に椅子から転落して頭部を強打、一時意識不明となった。一命はとりとめたものの、意識不明の間に首相を解任され、憲法学者出身で植民地相ほかサラザール政権の要職を歴任してきたマルセロ・カエターノが後任に就いた。
 カエターノはサラザール政権時代の抑圧を緩和し、野党の活動を容認し、限定的な民主化の姿勢を打ち出した。しかし、植民地政策は護持し、むしろ鎮圧作戦を強化した。サラザールは関係者の予想に反して、その後、回復したが、本人は首相解任の事実を知らされないまま、1970年に死去した。
 こうして、「エシュタド・ノヴォ」は1960年代末以降、ポスト・サラザールの限定改革の時代に入ったわけだが、このような中途半端な体制改革の常として、保守派・革新派双方からの挟撃的な批判を受けることになる。
 片やサラザール時代の路線護持を求めるカトリック教会をはじめとする支持基盤の保守派に対し、解禁された社会党などの革新勢力が対峙し、カエターノ政権を揺さぶった。
 ちなみに、1921年創設のポルトガル共産党はサラザール政権下で徹底した弾圧を受けていたが、カリスマ性を備えたアルヴァロ・クニャル書記長のもとで地下活動を続け、60年代には学生運動のみならず、一部国軍将校の間にも支持者やシンパを獲得していた。
 とはいえ、これらの左派政党は長年の抑圧のゆえに十分な大衆的基盤を持っておらず、直ちに革命行動に入れる素地はなかった。そのおかげで、カエターノ政権は不安定化しながらも維持され、植民地戦争に注力することができた。しかし、二代の政権を通じての植民地政策への固執は体制の限界を助長することになる。
 対照的に、スペインでは高齢のフランコ総統がなお健在で、しかも、スペインは元来アフリカにわずかな植民地しか持たず、しかも1968年にはその一つ、西アフリカのギニア領(赤道ギニア)の独立を容認するなど、植民地戦争の圧迫がなかったことは、両体制の終焉を異なるものにした。

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近代革命の社会力学(連載第317回)

2021-10-25 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(1)概観
 1974年のポルトガル革命は、西欧諸国で最後までアフリカ植民地政策に固執した当時のファシズム体制に対するポルトガル本国での内爆的な事象として発生した革命である。その担い手となったのは、まさにアフリカで同時発生していた植民地独立戦争の前線にあった将兵たちであった。
 当初は植民地護持の大義を信じてアフリカで戦っていた彼らは次第に戦争の意味について疑念を抱くようになり、政治的にも覚醒していった。そして、単に反戦思想にとどまらず、彼らの雇い主でもある旧態化した体制そのものの在り方に反感を強めていったのであった。
 他方、ポルトガルが最も苦戦した西アフリカのギニア植民地(ギニア‐ビサウ)で総督を務めたアントニオ・デ・スピノラ将軍のように、軍幹部の中からも、ポルトガルの将来を案じ、植民地戦争の停止を訴える者も現れた。
 そうした覚醒した将兵たちによって革命集団が形成され、クーデターの形で革命が隆起した点では、同時代のアフリカ諸国における革命と類似した傾向が見られる。ギニア‐ビサウ独立革命の成功をも契機としていたことを含めて、アフリカ諸国革命の影響あるいは余波として西欧における革命が刺激されたという点において、稀有の革命であった。
 しかも、革命集団の中核を形成した若手・中堅将校の多くは社会主義に傾斜しており、革命成功後、初期には社会主義的な政策が施行されたという点においても、同時代アフリカ諸国の革命との共通項があることは注目すべきことである。
 しかし、さらなる社会主義の深化を求める急進派将校グループのクーデターが未遂に終わったことを契機に、革命は中道派によって中和化され、より穏健な路線で収束し、現在のポルトガルにつながる西欧標準モデルのブルジョワ議会政に収斂されたため、社会主義革命としては未完成に終わり、全体としてブルジョワ民主化革命の線で収束したことから、本章表題は「社会主義革命」ではなく、「民主化革命」とした。
 そうした点では、革命成功後、民主主義の樹立に失敗し、暗黒の独裁体制へ転化した多くのアフリカ諸国の革命とは対照的な経過を辿っており、革命の中心地ともなった首都にちなんで「リスボンの春」と美称されることもある革命事象である。
 また、もう一点、アフリカ諸国の革命と異なる点は、有志将校によって開始された革命を民衆が支持し、中途からはファシズム体制下で禁圧されていた社会党や共産党といった左派政党も参加し、軍民連合体制が現出した点である。
 その点で、「リスボンの春」は軍人主体の軍事革命として始まったが、最終的には民衆や政党も合流した社会総体での民主化革命に進展していったと言える。そうした意味でも、本章表題は「民主化革命」とした。
 ちなみに、隣国スペインでも戦前から40年近くにわたるフランコ総統の独裁によるファシズム体制が並行していたが、「リスボンの春」はスペインに直接波及することはなかった。スペインでは、1975年のフランコの死を契機に、フランコの遺言により国王として即位したフアン・カルロス1世が主導する形で、平和裏に民主化プロセスが開始された。
 このように隣接する同類体制で民主化経緯が対照的に分かれた理由も興味深いところであるが、その問題に関しては、続く第2節で見ることにする。いずれにせよ、「リスボンの春」は、ほとんどの諸国でブルジョワ民主化が一段落していた西欧にあって、現時点では最後の革命事象となった。

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貨幣経済史黒書(連載第41回)

2021-10-24 | 〆貨幣経済史黒書

File40:暗号通貨事件簿

 貨幣経済の技術的な進歩は、物体としての貨幣を直接に交換する現金取引を廃してクレジットのような信用取引、さらには電子化された貨幣価値をやりとりする仮想通貨取引へと、物体としての貨幣が姿を消すという逆説的な現象を引き起こしている。
 ただし、このことはシステムとしての貨幣経済そのものが廃されたことを意味しておらず、貨幣交換が物体としての貨幣ではなく、電子化された貨幣価値のやりとりという抽象化された形態に変化したことを意味しているにすぎない。
 そのため、硬貨や紙幣のような「現金」と対比する意味で「仮想通貨」という用語が使われてきたが、そうした仮想通貨の普及により、資産の存在形態も電子的に暗号化されるようになったため、近年は「暗号通貨」、さらには暗号通貨で形成された資産という含みで「暗号資産」という総称も登場している。
 暗号資産は晩期資本主義における新たな資産形成の方法として注目されているが、国家による信用と管理の下で発行・流通される現金通貨とは異なり、責任ある発行主体も公的な取引所も存在しない私的通貨に近い暗号通貨には多くのリスクが伴う。
 すなわち、暗号資産が文字通り一瞬にして「消失」したり、現金通貨に比べて追跡が困難で、隠匿しやすい暗号資産を利用した恐喝被害に遭うといった新たな事件が近年、頻発している。
 こうした暗号資産の暗部を浮き彫りにする事件の数々は、現時点では現在進行中の同時代史の範疇に入るため、様々な解説が書籍やウェブ上でもなされているので、詳細はそれらに譲るとして、ここでは暗号資産を象徴する三つの事件に触れておきたい。
 一つは、暗号資産の草創期2014年に日本で起きたマウントゴックス事件である(発生当時の拙稿)。これは当時暗号通貨ビットコインの世界最大級の取引所に成長していたマウントゴックスに預託されていた470億円相当ビットコインが「消失」した事件である。
 運営会社は当初サーバーがハッキング被害に遭ったとしていたが、捜査の結果、事件当時のマルク・カルプレスCEO(フランス国籍)自身による業務上横領であった疑いが浮上、同氏が起訴され、有罪判決を受けることとなった。しかし、判決は横領罪に関しては無罪とし、検察側も控訴せず確定したため(私電磁的記録不正作出・同供用罪に関しては有罪確定)、「消失」の真相は未解明である。
 この事件は、言わば暗号通貨の「銀行」に近い機能も持つ取引所がガバナンスに限界のある私企業によって運営されることの危険性を浮き彫りにしたが、会社の説明にあった外部からのハッキングも技術的にはあり得ることで、まさにそれが明らかになったのが、2018年に発生したコインチェック事件である。
 この事件は暗号通貨NEMを扱う取引所コインチェックからNEM約580億円相当がハッキングにより「消失」した事件である。消失するまで約20分という熟練した窃盗犯並みの早業であった。本件も日本に本拠を置く取引所での事件である。
 こうしたことが起きるのは予見されており、行政からもセキュリティー対策が勧告されてきたものの、私設取引所の限界ゆえ、どの程度のセキュリティー対策が採られるかは運営会社の経営姿勢次第という心もとなさである。
 *ちなみに、ハッキングによる暗号資産「消失」の被害額においては、2021年8月、中国に拠点を置く分散型金融プラットフォームのPoly Network(ポリ・ネットワーク)で発生した約6億ドル(660億円相当)の被害が現時点での史上最高額とされる。こうした“新記録”は今後も更新されていくだろう。
 さて、三つ目は暗号資産を利用した恐喝事件として、2017年に世界を揺るがせたWannaCry(ワナクライ)事件である。これはコンピュータをWannaCryと称するマルウェアに感染させ機能停止させたうえ、解除の代償として暗号資産ビットコインでの支払いを要求するという人質(コンピュータ質?)事件にも似た恐喝事件であった。
 これは全世界200近い国のうち150か国20万台を超えるコンピュータを感染させるというまさにグローバルな被害を発生させた事案であり、中でも英国の国営無料医療制度である国民健康サービス(NHS)では、数多くのNHS系医療機関でシステム障害により救急を含む医療行為が提供できなくなるという人道的被害さえも生じた。
 こうしたハッキング事件の常として、捜査技術が犯人もしくは犯行グループの“技能”に追いつかず、ほとんど全容解明に結びつくことはない。
 WannaCry事件では、アメリカ政府が北朝鮮との結びつきが疑われるLazarus Group(ラザルス・グループ)なるハッカー集団の関与を示唆、これまでに数人の北朝鮮国籍ハッカーを所在未特定のまま起訴しているが、北朝鮮は関与を否定しており、現実に刑事裁判がなされる可能性は低いだろう。
 かくして、貨幣なき貨幣経済の時代には伝統的な現金経済時代には想像もされなかったSFばりの怪事件が起きる。暗号資産事件簿はまだ現在進行中であり、今後さらに新事件が追加されていくであろうが、基本的に貨幣経済「史」を扱う当連載では、新事件は論外の話題となる。

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近代革命の社会力学(連載第316回)

2021-10-22 | 〆近代革命の社会力学

四十五 ギニア‐ビサウ独立革命

(4)独立の達成とその後
 1963年に独立戦争が開始されたギニア‐ビサウでは、1960年代末までにPAIGCが大半を制圧し、解放区として統治するようになったが、これに対し、ポルトガル軍も奪回に向け、1968年以降、反転攻勢に乗り出す。
 その切り札として、ベテラン軍人のアントニオ・デ・スピノラ将軍―後年のポルトガル民主化革命後、革命政権の初代大統領に擁立される―がギニア総督兼ギニア駐留軍最高司令官として赴任し、本格的にギニア領の奪回作戦に乗り出す。
 その一環として、現地人で構成された部隊を編制し、言わば同士討ちの形でゲリラ部隊と交戦させる「紛争のアフリカ(人)化」政策を導入した。これはポルトガル人兵士の戦死者を減少させるとともに、現地人を分断し、相互に対立させる心理戦でもあった。
 さらには、ゲリラ戦に対抗可能な海兵隊特殊部隊を投入して、対ゲリラ戦を展開するとともに、1970年代に入ると、空軍も投入し、アメリカのベトナム戦争での戦略にならい、枯葉剤を散布し、ゲリラが潜伏する密林の破壊を試みた。
 こうした軍事作戦と同時に、総督としての地位を兼ねたスピノラ将軍は、ポルトガル支配地域でのインフラストラクチャー整備や現地人への精神的な教化策など、民政面での植民地政策の立て直しも行った。
 こうした宗主国ポルトガルによる反転攻勢に対して、PAIGC側は1972年から独立を見据えて、解放区での人民議会の設立に向けて動き出したが、このように国家権力の樹立が視野に入ってくると、権力闘争という定番の力学が作動し始める。
 PAIGC内部でも、最高指導者アミルカル・カブラルに不満を持つ党内分子が蠕動を初め、1973年1月、ギニア共和国の首都コナクリに滞在中のカブラルを暗殺したのである。この事件の真相、特に背後関係については論争があり、ポルトガル秘密警察の関与を疑う向きもある。
 この説によれば、ポルトガル当局はかねてカブラルの拘束もしくは殺害を狙っており、PAIGC内部の反カブラル分子を買収して暗殺させたとされる。しかし、独立前夜の動乱期の出来事ゆえ、真相は解明されないまま、PAIGC内部の陰謀関与者100人余りが拘束され、PAIGCの内部査問手続きより略式処刑された。
 これはカブラル暗殺を契機とする大量粛清であり、内外で敬重されてきた最高指導者を失ったPAIGCにとっては存亡にかかわる出来事であったが、ポルトガルの思惑にかかわらず、国際社会の後押しも受けた独立の流れが阻害されることはなく、カブラル暗殺から8か月後の1973年9月には、独立宣言が発せられた。
 ギニア‐ビサウは既に独立国家としての実態を備えており、独立革命としては1973年をもって成功したと言える。ポルトガル側はこの宣言を承認しなかったが、翌年4月、本国での民主化革命によりファシズム体制が崩壊したことを機に、独立承認に動いた。
 他方、独立ギニア‐ビサウではアミルカルの弟ルイスが新指導者となり、PAIGC一党支配体制下で初代大統領に就くが、カーボヴェルデとの統合問題と社会主義経済の失敗が新たな政争の種となり、1980年、ゲリラ指揮官出身で、カーボヴェルデ統合に反対のジョアン・ヴィエイラ首相によるクーデターにより、ルイス・カブラルは失権、以後はヴィエイラの長期政権の時代となる。
 この後の過程はもはや独立革命の範疇を離れるが、社会主義を放棄し、構造調整に転換したヴィエイラ政権は1990年代の複数政党制移行後も継続され、同年代末の内戦を機に一時退陣する。
 新たなクーデターの後、ヴィエイラはPAIGCに対抗し無所属で立候補した2005年の大統領選挙で返り咲くも、09年、反対派によるクーデターの渦中、殺害された。
 こうして、成功した独立革命により誕生したギニア‐ビサウであるが、独立後の歩みは順調とは言えず、クーデターや内戦に見舞われ、農業中心経済を脱することもできないまま、今なお世界最貧状況にあるという残念な経過を辿っている。

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近代革命の社会力学(連載第315回)

2021-10-21 | 〆近代革命の社会力学

四十五 ギニア‐ビサウ独立革命

(3)ゲリラ戦と解放区の統治
 1963年から本格化したギニア‐ビサウ独立戦争は、カーボヴェルデを包括したPAIGCによって一元的に展開されていき、アンゴラ、モザンビークを含めたポルトガル植民地における三つの主要な独立戦争中で、最も成功を収めることになった。
 その軍事的な秘訣として、狭小な地域で密林を利用した小規模戦闘部隊によるゲリラ戦として展開されたことがある。対するポルトガル軍はアンゴラ、モザンビークというより広大な植民地で同時発生した独立戦争への対策上、ギニア‐ビサウに戦力を集中できない事情もあった。
 また、PAIGCが近隣諸国及び東側陣営の大国から効果的な支援を得られたことも大きい。ことに隣接する先行独立国家のギニアやセネガルが支援し、港湾の使用など物理的な便宜を図ったことは大きく寄与し、中国とソ連が当時の対立緊張関係を越えて支援したことも大きかった。
 さらに、特筆すべきは、西側陣営に属していたスウェーデンがポルトガル植民地独立運動を支持し、1968年に、ポルトガル植民地の自治を要求する国連決議2395の採択を推進したことである。
 そうした有利な事情から、PAIGCは比較的短期間で、狭小なギニア‐ビサウの主要地を陥落させ、1968年までに全体の三分の二の地域を面的な支配下に置くことに成功する。
 支配下に置いた地域は、解放区としてPAIGCが直接に統治した。その点、PAIGCは単なる武装ゲリラ組織ではなく、政党として組織化されていたことが役立った。
 PAIGCはゲリラ部隊の戦闘員が現地住民の信頼を得られるよう、コミュニケーションスキルの訓練を施す準備をして臨んでおり、ゲリラ闘争でしばしば発生しがちな戦闘員と非戦闘員住民の衝突や戦闘員による人権侵害を回避した。
 抗戦中の解放区の統治で最も困難なのは経済運営であるが、その点、PAIGCは解放区内ではポルトガル通貨の使用を禁止しつつ、農産物と必要な物資を交換する人民倉庫という独自の物々交換システムを構築し、民生を保障した。
 また、PAIGCの実質的な最高指導者であったアミルカル・カブラルは農業技術者としての知識を生かして、戦闘員に農業技術を伝授し、地元農民にも技術指導できるように訓練したことで、解放区における農業生産性の向上とゲリラ部隊自身の自給自足態勢を一挙両得的に確保した。
 さらに、スウェーデンがPAIGCを全面的に支援し、60年代末から非軍事的な分野に限定しつつ、多額の援助を行い、中でも医療や教育、その他社会サービス関連の最大支援国となったことも、解放区における民生に寄与した。

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牙を抜いた共産党

2021-10-20 | 時評

初めに本稿タイトルの留意点であるが、「牙を剝いた」でないことはもちろん、「牙を抜かれた」でもない。より補足的に言えば、「自ら牙を抜いた共産党」である。

今般総選挙で、主要野党が史上初めて共産党を含めた選挙協力及び「連合」政権構想を携えて選挙に臨む方針を示したことで、最大労組まで含めた反共勢力からの定番反共攻撃が強まっている。冷戦時代の黄ばんだイデオロギー教本が再び参照されている模様である。

しかし、ソ連解体以後の西側諸国における残存共産党のほとんどは、議会政党としてブルジョワ議会に参加することで生き残りを図ってきており、反共攻撃陣営の常套文言である「暴力革命」は妄想的強迫観念に近いものである。

そのことを最もわかりやすく、かつ素朴に語っているのが、日本共産党・志位和夫委員長の次の言葉である。


私たちのめざす社会主義・共産主義は、資本主義のもとで獲得した価値あるものを全て引き継いで発展させる。後退させるものは何一つないということです。例えば労働時間短縮など暮らしを守るルールは、全部引き継いで発展させる。日本国憲法のもとでの自由と民主主義の諸制度も、全て豊かに発展的に引き継いでいく。せっかく社会主義になっても資本主義より窮屈でさみしい社会になったら意味がないわけです。日本は発達した資本主義のもとですでに多くの達成を手にしています。(中央公論.JP


共産党が「資本主義のもとで獲得した価値あるもの(引用者注:ここで言われる「価値」はマルクス理論にいう「価値」とは全く別もの)」「発達した資本主義のもとですでに(手にした)多くの達成」を継承すると明言しているのである。もはや純正な共産主義をあえて追求しないという脱共産主義宣言と読んでもよい。

「暴力革命」を云々する面々は、共産党が「連合」すれば牙を剥くぞと脅しているのであるが、共産党は牙を剥くどころか、ブルジョワ議会に適応するために、革命政党としての牙を抜いているのである。政府の強制によって「牙を抜かれた」わけでもなく、自らの選択としてそうしているのである。

結果として、現在の日本共産党(以下、この意味で「現状共産党」という)は、かつての日本社会党に近い立ち位置にあると言えるだろう。共産主義社会を目指すのではなく、資本主義に相乗りつつ、護憲平和と労働者の権利擁護の限度で満足する名目的な“社会主義”路線である。社会党が事実上消滅した後に共産党が入ったと言ってもよい。

であればこそ、現状共産党は中道/保守リベラルその他諸派の離合集散態である新・立憲民主党と「連合」することも可能となっているのである。

このような牙を抜いた現状共産党をいかに評価するかは、評者自身の立ち位置次第である。真の共産主義を構想する立場からは、現状共産党はもはや真の共産主義の党ではなく、「リベラル」な修正資本主義の一党にすぎず、格別の魅力はない。

しかし、「リベラル」の立場からすれば、現状共産党は共産主義に拘泥せず、現実主義に目覚め、「リベラル」に接近してきたと見え、協力可能な歓迎すべき路線ということになるのであろう。

他方、冷戦時代のイデオロギー教本を現在も後生大切に抱懐する立場からは、共産党は牙を抜いたふりをしているだけで、いざ政権交代すれば牙を剥いてくるに違いない、排撃すべき危険政党ということにされている。

筆者は現状共産党に格別魅力を感じないが、一つ好感できるのは、選挙協力のために多数の自党候補者を取り下げながら、「連立」せず、閣外協力にとどめるとしている点である。

党派政治で選挙協力と言えば、通常は政権に加わることを想定しているが、共産党はそれを辞退している。つまり「大臣の椅子」を求めないという謙抑的姿勢である。現状共産党の路線はどうあれ、権力欲に取りつかれた党ではなさそうである。

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近代革命の社会力学(連載第314回)

2021-10-19 | 〆近代革命の社会力学

四十五 ギニア‐ビサウ独立革命

(2)独立運動組織の結成から蜂起まで
 ギニア‐ビサウにおける独立革命を含めて、ポルトガル植民地独立戦争を総体としてとらえた場合、最初に狼煙を上げたのはアンゴラであった。当地では、1961年、アンゴラ解放人民同盟(MPLA)が最大都市ルアンダの刑務所を襲撃したのが第一撃であった。
 しかし、アンゴラではマルクス‐レーニン主義を標榜するMPLAのほかに、中道保守的な解放運動体であるアンゴラ解放人民同盟(FNLA)や、FNLAから分離した毛沢東主義のアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)という三系統の独立運動組織が台頭し、特にUNITAはポルトガルと内通すらしていたことで、ポルトガル軍による反乱鎮圧作戦を利していた。
 アンゴラに続いて蜂起したのがギニア‐ビサウであるが、ここでは、島嶼植民地カーボヴェルデと包括する形で、マルクス‐レーニン主義のギニア及びカーボヴェルデ独立アフリカ党(PAIGC)が統一的な組織として立ち上げられ、一貫して独立運動を担った点で凝集性を保っていた。
 PAIGCは1956年、アミルカルとルイスのカブラル兄弟ほか6人の活動家によって結成された政党であり、カブラル兄弟がギニア‐ビサウ生まれながらカーボヴェルデで育ったことが、ギニアとカーボヴェルデをつなぐ組織の結成となった所以と見られる。
 カブラル兄弟のうち、兄のアミルカルは農学を専攻した農業技術者出身の活動家で、一時アンゴラに追放されていた縁から、PAIGCの結成と同年にアンゴラのMPLAの結成にも参与していた。彼は汎アフリカ主義の思想家としても、アフリカ諸国で注目される存在となる。
 ちなみに、弟のルイスは会計士としてポルトガル系企業に勤務した経験を持つ実務家であり、後述するように、兄が暗殺された後、独立したギニア‐ビサウの初代大統領ともなる人物である。
 PAIGCの当初の路線は交渉による平和的な方法で独立を目指すというものであったが、転機となったのは1959年、ギニア‐ビサウ最大の都市ビサウで、ストライキを敢行した港湾労働者にポルトガル警察が発砲し多数の死傷者を出した事件である。これを契機に、PAIGCは次第に武装闘争路線に舵を切った。
 その準備として、1961年にはアンゴラの前出MPLAやモザンビーク植民地における同種団体のモザンビーク解放戦線(FRELIMO)とともに、各植民地の枠を超えた共同戦線組織となるポルトガル植民地ナショナリスト組織協議会を結成した。
 そのうえで武力を整備した後、1963年にPAIGCはポルトガルに対して宣戦布告した。ただし、島嶼部のカーボヴェルデは兵站の確立が困難なため、地下活動にとどめ、ギニア‐ビサウの大陸部を主要な戦線としたため、組織としては統合されながら、ギニア‐ビサウとカーボヴェルデでは別の戦略が採られることになった。
 こうした合理的な分離戦略は後にPAIGC内部でギニア派とカーボヴェルデ派の派閥化を生じ、ひいては当初の構想にあった統一国家の樹立という目標を困難にし、別国家としての分離独立と別国家としての確定という現状の固定化につながった。

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近代革命の社会力学(連載第313回)

2021-10-18 | 〆近代革命の社会力学

四十五 ギニア‐ビサウ独立革命

(1)概観
 ポルトガルは、大航海時代以来、アフリカ大陸にいち早く侵出し、植民地化を推進してきた歴史を持つが、同時に西欧で最も遅くまで植民地政策に固執していた。その背景として、1930年代から第二次大戦をはさんで40年以上も持続していたファシズム体制(拙稿)の時代遅れとなった帝国主義があった。
 そのため、英仏をはじめとする他の西欧諸国が植民地政策を転換し、独立容認へと動いていった1960年代になっても、ポルトガルは依然として動かず、植民地の独立運動に対する苛烈な弾圧を続けていた。
 そうしたアフリカのポルトガル植民地は大陸部の東西をまたぎ、モザンビーク、アンゴラ、ポルトガル領ギニア(現ギニア‐ビサウ:一部島嶼)、さらに西アフリカ島嶼部のカーボヴェルデ、サントメ‐プリンシペにまで及んでいたが、その中でも、独立戦争にまで進んだのは大陸部のアンゴラ、モザンビーク、ギニア‐ビサウである。
 これらの独立戦争地域のうち、面積の上ではモザンビークとアンゴラは広大であったが、それゆえにか、軍事的優位にあり、かつ親ポルトガルの現地勢力に支えられたポルトガルが要地を終始押さえていたのに対し、小国でしかも密林地帯の多いギニア‐ビサウでは解放勢力が効果的なゲリラ戦を展開し、次第に独自の革命解放区を拡大、1973年までに事実上の独立を確保していた。
 そのため、ポルトガルのアフリカ植民地における各独立戦争のうち、ギニア‐ビサウにおけるそれだけが独立革命と呼び得る性格を持つに至った。1973年をひとまず事実上の革命成就年と解すると、これも同時期のアフリカ諸国における第二次革命潮流の一環に含め得ることになるが、独立後の革命事象ではなく、独立を目指す革命となった点で他の革命と大きな相違が見られるため、別立てで扱うものである。
 それと同時に、ギニア‐ビサウでの独立戦争はポルトガルにとっては「ポルトガルのベトナム」と称されるほどの犠牲を伴う総力戦となり、厭戦気分から植民地政策、ひいてはそれに固執するファシズム体制への批判を強めたポルトガル軍の若手・中堅将校の革命的意識が覚醒し、本国における1974年の民主化革命へと向かわせる契機ともなった。
 このように、アフリカにおける革命が西欧における革命へと波及していくのは歴史上極めて稀な事象であり、その点でも、この小さなポルトガル植民地における革命には独特の歴史的な意義があったと言える。
 他方、ギニア‐ビサウ独立革命を担ったのはマルクス‐レーニン主義を掲げる解放運動勢力であり(アンゴラやモザンビークの解放勢力も同様)、独立後は社会主義国家の建設を目指した点では、第二次アフリカ諸国革命潮流における共通的な特徴を示してもいるところである。


[注記]
独立前はポルトガル領ギニアが正式名称であるが、隣接する旧フランス領のギニア共和国と紛らわしいので、本章では独立前後を問わず、ギニア‐ビサウと表記する。なお、日本語表記では通常「ギニアビサウ」と連記されるが、正式にはGuiné-Bissau(英語表記ではGuinea-Bissau)のようにハイフンが挿入されるので、本章のカタカナ表記でもハイフンを挿入する。

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比較:影の警察国家(連載第49回)

2021-10-17 | 〆比較:影の警察国家

Ⅳ ドイツ―分権型二元警察国家

1‐0:州警察機構の共通要素

 前回概観したとおり、ドイツ警察の構造は連邦‐州‐自治体の三層から成るが、連邦レベルの警察組織は同じく連邦国家であるアメリカに比べても簡素に構制されており、現在でもアメリカのように連邦警察相当機関が複雑に林立するような状況にない。
 そのため、基本的警察業務の大半は各州(及び州級都市[都市州]:以下、都市州を含めて「州」という)の警察機構に委ねられる。こうした広い意味での州警察機構はすべて各州内務大臣の監督下に活動する点で、規格統一されている。
 すなわち、ドイツにおける広義の州警察機構は、州内務省を拠点に、州警察(Landespolizei:LaPo)・州刑事庁(Landeskriminalamt:LKA)・州憲法擁護庁/局(Landesbehörde für Verfassungsschutz)を基本的な共通コンポーネントとして成り立っている。その中核を成すのは、言うまでもなく州警察である。
 州警察の組織構造は各州で異なるが、制服部門として地域警邏を担う保安警察(Schutzpolizei:SchuPo)及び警備活動を担う機動警察(Bereitschaftspolizei:BePo)、私服部門として犯罪捜査を担う刑事警察(Kriminalpolizei:KriPo)を三大基軸としつつ、警察としての全機能を備えた自己完結的な警察組織である点でも、全州共通である。
 これに対し、州刑事庁は、組織犯罪やテロリズム、経済犯罪等の重大犯罪の捜査を担う犯罪捜査特化型機関として、州警察の刑事部(KriPo)を補完する役割を持つ。
 また、州憲法擁護庁/局は基本的に諜報機関であるが、機能的に公安警察の役割を果たす。これは連邦レベルにおける連邦憲法擁護庁に相応する州機関であるが、連邦の出先機関ではなく、独自の憲法を擁する各州の憲法秩序の擁護を担う。

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近代革命の社会力学(連載第312回)

2021-10-15 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(8)一党支配体制の後発的樹立と大飢饉
 国内のマルクス‐レーニン主義政党との内戦及び隣接のマルクス‐レーニン主義国家との戦争という二つの危機を乗り越えたメンギストゥ体制は強化されたが、問題は政体が不確定であることであった。1974年の革命からデルグによる軍政は変わらず、後ろ盾のソ連から民政移管の圧力がかかり始めていた。
 しかし、軍を基盤とするメンギストゥにとって、文民政党の設立はリスクであり、自身の権力が削がれる不安があったため、ソ連からの圧力に対して抵抗を示していたが、1979年に至り、ついにエチオピア労働者党設立準備委員会(COPWE)を設置した。
 COPWEはその名称どおり、政党そのものではなく、政党の前段階の組織であり、デルグとは併存する関係にあった。すぐに政党を立ち上げなかったのは、メンギストゥとしても、ソ連の圧力に答える姿勢を見せつつ、将来の政党を自身の権力基盤とするための準備段階を設ける時間稼ぎの狙いがあったと見られる。
 結局のところ、メンギストゥは5年もの期間をかけ、COPWEを通じて入念に結党を準備し、その間に反対派へのさらなる粛清を進めたうえで、ようやく1984年に正式に労働者党を結党した。
 この党は共産党こそ名乗らなかったものの、ソ連共産党をモデルとした独裁政党であり、イデオロギーや組織構造はソ連共産党の相似形であったが、幹部の半数以上はトップの書記長に就任したメンギストゥを含め、デルグからの横滑りであり、デルグの後継組織に等しいものであった
 社会主義に基づく新憲法の制定はさらに1987年までずれ込み、デルグもようやくこの年に正式廃止、メンギストゥを初代大統領として、国名もエチオピア人民民主共和国に定められた。革命から13年の年月を経ての一党支配国家の正式な立ち上げであった。
 このように、メンギストゥが自身の権力基盤となる政党の形成に注力している間、国内では1983年から、干ばつによる新たな飢饉が進行していた。飢饉の発生地域は北部(特にティグライ州)が中心であり、85年まで続いた飢饉の犠牲者数は最大推計で120万人という20世紀史に残る大飢饉となった。
 このような事態を招いた原因として、干ばつという自然現象に加え、メンギストゥ政権の政策的な誤りによる失政飢饉、さらには意図的に惹起された計画飢饉というジェノサイドの性格を持つかどうかが議論されてきた。
 政策としては、メンギストゥ政権が革命後に推進してきたソ連式農業集団化政策の欠陥である。これは、まさにモデルのソ連でもロシア革命後に発生したのと同じ構造欠陥である。デルグ政権は、集団化の関連政策として、人口が増加した北部から南部への農民の大量的な強制移住を推進していたが、飢饉対策としては逆効果となった。
 意図的な計画飢饉という点では、大飢饉の中心地ティグライ州は革命前から少数民族ティグライ族が人口割合では二番手民族であるアムハラ族を主体とする中央政府に対して抵抗してきたところであり、この関係は革命後も不変であった。そのため、デルグ政権は反乱対策として、意図的にティグライ州における飢饉に積極対応しなかった疑いも持たれる。
 その点で比較対照例となるのは、1930年代当時、ソ連領だったウクライナを中心に発生した大飢饉(ホロドモール)である。これは当時のスターリン政権による強制移住を伴う農業集団化の結果、最大推計で1000万人超の犠牲が生じた大飢饉であり、これをジェノサイドと認定している諸国もある。
 メンギストゥはその統治手法の点でスターリンとの類似点が多く、1980年代の大飢饉もそうしたスターリン主義的な一面を象徴するものと言えるかもしれない。いずれにせよ、大飢饉はメンギストゥ政権への世界の批判的な関心を高めるとともに、国内ではティグライ族を中心とした反政府活動を刺激することとなった。
 その点、従来、エリトリアを除けば、民族紛争が比較的抑制されてきたエチオピアであるが、実際のところ、帝政時代の征服活動の結果、エチオピアは単独で人口過半を超える民族のない複雑な多民族国家となっていた。
 皮肉にも統一的な一党支配国家が遅れて樹立されたことで、かえって多民族の自立を刺激し、多民族合同での反政府勢力の形成を促進して、最終的にメンギストゥ体制の崩壊を早める結果となった。その体制崩壊を導いた1990年代初頭の「救国革命」については、後の章で改めて見る。

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近代革命の社会力学(連載第311回)

2021-10-14 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(7)オガデン戦争:ねじれた干渉戦
 一国で大規模な革命が成功すると、その波及を恐れる周辺諸国が反革命武力干渉を試みることは歴史的な法則であるが、1974年エチオピア革命の場合は、隣国ソマリアでも先行して同種の軍主導による革命によりマルクス‐レーニン主義国家が成立していたことは、以前の回で見た。
 こうした場合は、むしろ互恵的な友好善隣関係が成立するほうが自然であるが、両国の場合はそうはならなかった。というのも、独立後のソマリアではかねて汎ソマリ主義のイデオロギーに基づき、エチオピアをはじめ、周辺諸国にまたがるソマリ族居住地域のソマリア編入を目論む動きが隆起していたためである。
 その点、以前の回でも見たとおり、ソマリアのマルクス‐レーニン主義体制は社会主義以上に汎ソマリ主義を前面に押し出す方向に進んだため、むしろエチオピア革命後の「赤色内戦」の混乱に乗じて、エチオピア領内のソマリ族居住地域であるオガデン地方の併合を企てた。
 オガデン地方でも、ソマリ族自身による分離独立運動が立ち上がっており、ソマリア側にはこれを支援するという大義名分が立った。そうした両者の利害の一致により、1977年7月、ソマリア軍はほぼ全軍規模でオガデン地方へ侵攻したのである。
 こうして、隣接する相似的関係にある二つのマルクス‐レーニン主義標榜体制が直接に交戦するという異例の事態に発展した。これにはソマリア・エチオピア双方の後ろ盾となろうとしていたソ連も当惑し、当初は仲介を試みたが、ソマリア側が強硬な態度を崩さず、仲介は失敗した。
 戦争の発端は明らかにソマリア側の侵略にあったため、ソ連としてもソマリアを公然支援することは憚られ、ソマリアへの支援を停止、エチオピア支援に切り替えた。これに伴い、キューバや東ドイツその他の親ソ諸国もエチオピアへの支援に向かった。
 他方、当時は国際社会においても、ともに共産党支配国家であるソ連と中国の対立が深まっていた時期でもあり、対抗上、中国はソマリア側を支援し、また東欧にあってソ連と距離を置くルーマニアの共産党政権もソマリア側支援に回った。
 また、こうした東側陣営の足並みの乱れを見たアメリカをはじめとする西側は親米アラブ諸国も参加する形で、マルクス‐レーニン主義を標榜するソマリアを支援したため(とはいえ、その支援は限定的であった)、オガデン戦争はイデオロギー的にもねじれた代理戦争の性格を帯びた。
 緒戦においては不意を突いて奇襲侵攻したソマリア側が優勢であり、1977年9月以降、ソマリア軍が進撃を続け、オガデンは陥落するかに思われた。しかし、78年に入ると、ソ連の軍事顧問団に加え、1万6千人と最大規模の援軍を派遣していたキューバの助力を得て、エチオピア側が反転攻勢に出る。
 その結果、同年2月以降、ソマリア軍は劣勢に追い込まれ、全軍三分の一近い兵士を失い、空軍は半分が壊滅するという大打撃を受け、3月には撤退した。こうして、ソマリアの大敗により戦闘は終結する(紛争自体は1980年代まで継続)。
 オガデン戦争はエチオピアにとっては隣国からの干渉戦であったが、それは同類国家からの干渉であり、かつ支援国も東西冷戦構造の変化に伴い、東側は股裂きとなり、西側も「敵の敵は味方」の論理によりソマリアのマルクス‐レーニン主義体制を支援するというねじれた干渉戦となった。
 戦争の結果は明暗を分け、大敗し軍の主力を失ったソマリアのバーレ政権は体制維持のため親西側に舵を切り、旧来の氏族政治に戻るが、戦勝したエチオピアでは並行した国内の「赤色内戦」にも勝利したメンギストゥが、キューバ軍の駐留を担保としながら、独裁体制を固めていく。

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近代革命の社会力学(連載第310回)

2021-10-12 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(6)「赤色内戦」から独裁権力の確立まで
 エチオピア革命の大きな特徴は、共和革命と社会主義革命が同時的に惹起し、かつマルクス‐レーニン主義国家の宣言まで、すべて軍の急進派将校グループが―中東における自由将校団のように―十分に組織化されないままに主導し、―ロシア革命当時のボリシェヴィキのような―民間の政党組織は関与しなかったことである。
 しかし、以前の項で見たとおり、当時、エチオピアには全エチオピア社会主義者運動(MEISON)とエチオピア人民革命党(EPRP)という二系統のマルクス主義政党が創設されていた。このうち、MEISONはデルグを基本的に支持していたが、EPRPはデルグの軍政に否定的で、より純粋な人民民主主義を求めていた。
 そうしたデルグとの関係性をめぐる対立から、MEISONとEPRPは相互に武力衝突するようになり、EPRPはメンギストゥ支持者の暗殺に及び、ついにはEPRPが1976年9月にメンギストゥ暗殺未遂事件を引き起こしたことで、一種の内戦に発展する。
 この内戦は、ロシア革命後におけるような共産党勢力(赤軍)と王党派勢力(白軍)との間での典型的な紅白革命戦争ではなく、共にマルクス主義を奉じる軍政勢力と事実上の共産党であるEPRPとの間での「赤色内戦」と呼ぶべき奇妙な内戦であった。
 ただ、これは戦争というよりは、メンギストゥらデルグによるテロ手法によるEPRP殲滅作戦であり、エチオピア現代史上は「赤色テロ」と呼ばれているが、王党派または反革命保守派に対するテロ作戦ではなく、同じマルクス主義勢力の同士討ちに近い事象であり、かつEPRP側も武装行動に出ていたことから、ここでは「赤色内戦」と呼ぶことにする。
 このような「赤色内戦」が本格化するのは、前回見た1977年2月におけるデルグ内部での反メンギストゥ派に対する粛清の後、同年3月からである。おそらく、メンギストゥとしては、デルグ内部の反対派を葬った勢いで、今度は外部の反対勢力であるEPRPを殲滅しようとする計画であった。
 赤色内戦の初期段階では親デルグのMEISONがデルグに全面協力し、政府にポストを得てもいたが、最大の末端協力組織は、デルグが各地に設置したケベレと呼ばれる一種の自治的な隣保組織である。ケベレには武器が配布され、EPRP関係者に対する戸別捜索と摘発の権限が与えられた。
 このように一種の民兵組織を臨時動員したことで、内戦は無法と残酷さに満ちたものとなり、恣意的な摘発や殺戮が絶えなかった。もっとも、ケベレは必ずしも常にデルグに忠実ではなかったとされるが、この制度は後々まで独裁体制の末端組織として機能することになる。
 内戦はデルグ優位に進み、1977年8月までにEPRP主力は都市部から退避して山岳地帯へ逃走することになり、最終的に78年には終結する。その間の推定犠牲者数は最少3万人から最大75万人までと不確定であるが、万単位での犠牲者を出したことに変わりない。EPRPの限定的な規模から見て、犠牲者の多くはEPRPと無関係であり、その中には子供も含まれていた。
 赤色内戦に実質的に勝利したメンギストゥであったが、猜疑心の強い彼は今度は協力政党であったMEISONの裏切りを疑うようになり、MEISON系の政府高官を罷免するとともに、幹部の逮捕・処刑、さらにはMEISONメンバーへの弾圧作戦を展開し、MEISONも切り捨てた。
 こうして流血の「赤色内戦」は完了し、デルグ内外の潜在的な脅威を除去したメンギストゥは独裁体制を固めていくことになるが、体制崩壊した後、新政権はジェノサイドを認定、亡命中のメンギストゥを訴追し、欠席裁判で死刑判決を下すとともに、「赤色テロ犠牲者記銘博物館」を首都アディスアベバに建立した。

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近代革命の社会力学(連載第309回)

2021-10-11 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(5)廃皇帝「処刑」から権力闘争へ
 1974年10月の「血の土曜日」の後、臨時軍政評議会デルグは旧体制側の当面の政敵を排除して権力を確立するが、政体は不明確なままであったところ、デルグは明けて75年3月、正式な帝政廃止と共和制移行を宣言する。
 同時にマルクス‐レーニン主義国家となることも宣言されたが、これはデルグの実質的な指導者であるメンギストゥ副議長のイデオロギー路線に沿ったものであることは明らかであった。
 しかし、この時点で、拘束されたハイレ・セラシエ廃皇帝は廃位に同意しないまま存命中であったところ、1975年8月になって突如、皇帝の死去がデルグ当局から発表された。死因は前立腺手術の合併症による呼吸不全とされた。
 しかし、遠く1990年代にメンギストゥ独裁政権が崩壊した後の捜査により、廃皇帝はデルグが送り込んだ要員の手で絞殺されていたことが判明する。それがデルグ上層部の指令に基づくものであったことも明らかにされており、一種の超法規的処刑、実態としては限りなく暗殺に近いものであった。
 こうして、エチオピア革命は、廃位された君主が「処刑」されるという古典的な共和革命のプロセスを久方ぶりに辿ることとなると同時に、そのようなプロセスを辿った革命としては20世紀最後にして、現時点においても最後のものとなっている。
 もっとも、デルグが正式に廃皇帝を裁判にかけることなく、ロシア10月革命時のボリシェヴィキのように、暗殺に近い措置を取った理由は不明であるが、裁判にかけることでかえって強力な王党派が形成される反作用を恐れたということも考えられる。
 一方、廃皇帝側にとっては、あらゆる政党活動を禁止していた自身の政策があだとなり、王党派の保守的な政党も存在しなかったため、皇帝を強力に擁護する勢力も現れることなく、孤立無援状態であったことが、その最期を悲惨なものとした。
 実際、80歳を越えながらかなり壮健だった廃皇帝の「病死」発表は当初から強く疑われていたが、ロシア革命後のように王党派が結集して反革命蜂起するという動きも出なかったことが、エチオピア革命の特徴となっている。
 その代わりに、デルグ内部の不協和音と権力闘争が表面化する。デルグのテフェリ議長は当初、名目的なトップ職に過ぎないと思われていたが、皇帝「処刑」後、メンギストゥの非公式な権力を抑制することを企て、1976年末には、彼の支持者を地方に左遷するなど、デルグの構造再編に乗り出したのである。
 他方で、ここまでの革命過程では完全に蚊帳の外にあった在野のエチオピア人民革命党(EPRP)が軍政を続けるデルグに対して公然と批判的な活動を開始するようになり、76年9月にはEPRPメンバーによるメンギストゥ暗殺未遂事件が発生した。
 この一件は、メンギストゥにとって逆手利用する価値の高いものであった。彼はテフェリらデルグの反メンギストゥ派がEPRPと結託しているという構図を作り出し、彼らの排除に乗り出したのである。その結果、77年2月のデルグ会議にメンギストゥ派部隊が乱入、銃撃戦の末、テフェリ議長ら反メンギストゥ派メンバーを殺害した。
 計58人の死者を出したこの粛清事件は、「血の土曜日」に続く大規模な流血事態であったが、これを機にメンギストゥはデルグ議長兼国家元首としての権力を名実ともに手にし、同年10月には同輩のアトナフ・アバテ副議長をも処刑し、独裁への道を歩み始める。

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