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近代革命の社会力学(連載第327回)

2021-11-11 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(4)ラオス社会主義革命

〈4‐1〉内乱とベトナム戦争の連動
 ラオスでは、フランスからの独立後も、君主制の下で安定した政権が樹立されず、中立派をはさんで、親米右派と、北ベトナムが背後で支援する左派が三つ巴の権力闘争を繰り広げる内乱状態に陥っていた。
 そればかりか、調整機能が期待された王権自体も、ルアンパバーンとチャンパーサックという二系統の王朝の合併(後者を吸収)によっていたため、両系統の王族が各三派に分かれて、対立し合う状態であった。
 とはいえ、1950年代後半期から、連合政権を樹立する試みも繰り返された。当初は中立派指導者でルアンパバーン系王族のスワンナ・プーマが主導して連合政府が形成されたが、間もなく旧チャンパーサック系王族ブン・ウムが指導する右派が台頭し、政権を主導する。
 これに対抗して、1960年8月に中立派の少壮軍人コン・レー大尉がクーデターを起こし、再び中立派が実権を取り戻すも、右派の反撃により、中立派政権はたちまち瓦解した。その後、三派の和平協議が進み、1962年に再びプーマを首班とする連合政権が樹立された。
 しかし、新たな連合政権も長続きせず、翌年63年には中立派要人の暗殺事件が相次ぐなど、早くも連合体制は瓦解の兆しを見せ、中立派自体もその中途半端さから、右派寄りと左派寄りの派閥に分裂していった。
 そうした中、隣国ベトナムで戦争が本格化すると、ラオスは図らずもこれに巻き込まれることとなった。南ベトナム解放勢力を支援する北ベトナムが南北ベトナム境界線となる北緯17度の非武装地帯を迂回する南ベトナムへの兵站補給ルートとして、ラオス(及びカンボジア)領内を一部通過するいわゆるホー・チ・ミン・トレイルを設定した結果である。
 この軍事行動はラオス政府の同意なしに行われており、国境侵犯に該当したが、ラオスは独力でこれに対抗する手段を持たなかった。その結果として、ラオスはアメリカ軍がホー・チ・ミン・トレイルを破壊するための作戦にもさらされ、ラオスが秘密の裏戦場となった。
 一方、北ベトナムもかねてよりラオスの左派ネーオ・ラーオ・ハク・サットを強力に支援しており、ベトナム戦争の進展に伴い、ラオス国内でも、親米右派の王国軍と左派の軍事部門であるパテート・ラオ(及び左派寄り中立派)の間での内戦局面に転化していく。
 このように、ラオスでは、1960年代半ば以降、内乱と隣国でのベトナム戦争とが密接に連動していくため、この国における革命の帰趨はベトナム戦争の経過と結末いかんにかかっていた。


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