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近代革命の社会力学(連載第104回)

2020-05-12 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(5)革命の横領過程
 一般に、革命ではその成就後に革命政権内の権力闘争が激化し、最終的に内部崩壊の形で挫折するケースはしばしばあるが、中国共和革命は、それとは異なり、革命が革命勢力外の第三者によって横領されていくという特異な経過をたどった。
 前回見た通り、中国共和革命は革命勢力と本来は清朝側の執権者である袁世凱が密約することによってひとまず成就したのであったが、それ以前に1911年の段階で、中国同盟会は南京を本拠に孫文を臨時大総統とする革命政権を発足させていた。しかし、この段階では首都北京をまだ落とせておらず、清朝政府と並立する未然革命の段階にとどまっていた。
 この二重権力状態を解消するために、マキャベリスト袁世凱の力に頼ったわけであるが、このような術策が革命にとっては命取りとなった。袁世凱は革命を利用して自身の独裁権力掌握を目論んでいたからである。結果として、この後、袁が病死する1916年までは彼が革命の成果を言わば横領していく過程となってしまった。
 その過程を見ると、袁がかなり計画的に革命の横領を図ったことが窺える。密約に基づき孫文に代わって臨時大総統の地位を得た彼は孫文らがいわゆる三民主義をベースとする暫定的憲法典としてまとめた臨時約法を無視する形で北京に居座り、臨時革命政府の本拠であった南京に赴かず、二重権力状態をあえて生じさせた。
 この状況に対して、革命勢力は選挙を急ぎ、1912年末から翌年初頭にかけて初の国会選挙を実施した。その結果、同盟会から政党に改組された国民党が衆参両院を制して第一党となった。これにより、袁に対する牽制力を期待したのであるが、老獪な袁も策を用意していた。
 それは、当時の国民党内で党首の孫文を抑えて実権を持っていた宋教仁を暗殺したことである。この過激策により、国民党を弱体化させることを狙ったのである。策は当たり、1913年5月には国民党に対抗し、袁を支持する進歩党が結成された。
 こうした袁世凱のなりふり構わぬ権力志向に対して、1913年7月、国民党は武装蜂起するが、準備不足ゆえに袁政府により即時に鎮圧された。通常、これを「第二革命」と呼ぶが、その実態は革命というほど熟しておらず、早まったクーデター的決起であった。
 袁はこの反乱を奇貨として、10月には正式に大総統に就任したうえ、国民党を反乱関与のかどで強制解散に追い込んだ。これにより、国民党幹部の多くが亡命し、あるいは投獄処刑され、革命派は打撃を受けた。
 袁はこの後、共和制を廃して自ら皇帝に即位する策動を隠さなくなり、1915年12月には翌年からの帝政復活を予告宣言するに至った。袁による反革命宣言と言うべき新局面である。
 このような経過を見ると、袁世凱という人物は18世紀フランス革命当時のナポレオンに擬すべき人物のようにも見えるが、ナポレオンが革命軍の将校として革命派内部から現前し、革命を止揚する形で帝政樹立に至ったのに対し、袁は旧体制の内部から現前して、革命を外から横領して帝政復活を目論んだ点で立ち位置が異なっている。
 ただ、袁は自己の権力ばかりを追求していたわけではなく、彼なりの仕方で中国の近代化を構想していた。それは列強からの借款によって近代的なインフラストラクチャーの整備を進めるというもので、そのような方向は清朝末期に自ら主導して実施しようとした改革策と一致していた。しかし、それはまさに清朝に時代を揺り戻すものであった。
 成功するかに見えた袁による革命の横領であるが、早まった帝政復活宣言は失策であった。このような明白な反動に対して各地で反袁派による蜂起が発生したばかりか、権力基盤の北洋軍閥内部からも離反者が出るに及び、帝政復活の取り消しという異例の事態に追い込まれた。
 しかも、袁は失意からか発病し、1916年6月に急死してしまう。これにより、袁の革命横領過程はあっけなく終焉したのであった。反帝政復活運動は結果的に袁の命まで奪ったことで「第三革命」と呼ばれることもあるが、その実態は革命というよりは抗議デモであった。
 とはいえ、袁世凱独裁体制が意外に早く取り除かれたことで、1911年辛亥の時点まで巻き戻して革命過程を再び始動させるチャンスの到来であったが、事態はそうならず、むしろ革命の挫折が進行してしまうのであった。


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