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近代革命の社会力学(連載補遺36)

2022-10-21 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(1)概観
 ヒマラヤ山麓まで含めたインド亜大陸地域は20世半ばまで、ほぼ大英帝国の植民地支配下に置かれたが、ヒマラヤ山麓のネパールは18世紀に成立した統一王朝(シャハ朝)が19世紀初頭の対英戦争に敗れ、領土を縮小されつつも、辛うじて独立状態を保持した。
 この統一ネパール王国は形の上では2006年‐08年の共和革命で廃止されるまで存続していくが、1846年に発生した王宮虐殺事件を契機として、王朝の軍閥的実力者で宰相でもあったジャンガ・バハドゥル・ラナが実権を掌握して以降、シャハ家の王権は形骸化され、宰相を世襲するラナ家が実権を保持し、専制していた。
 このようなラナ家専制体制をおよそ一世紀ぶりに終わらせたのが、1951年の革命であった。この革命によってシャハ王家が再び実権を回復したが、革命は単なる王権奪回にとどまらず、近代的な立憲君主制の樹立に向かったため、1951年革命はネパールにおける立憲革命の性格を帯びた。
 この革命の主体となったのはその後のネパール政治において民主的な王党派政党として台頭していくネパール会議派であったが、これはラナ家専制体制下でインドに亡命していた活動家を中心に結党された反体制政党であった。その主要な党員の多くが先行のインド独立運動にも参加しており、インド独立運動の主体勢力となったインド国民会議派の影響を強く受けていた。
 1947年のインドの独立は革命によることなく、英国自身の自発的なインド領有放棄と交渉を通じて成立したが、その四年後に起きたネパール立憲革命はインド独立に触発された革命事象であったと言える。
 実際、独立インドは1951年立憲革命に際しても直接に介入こそしなかったものの、当時ラナ体制の策動によっていったん廃位に追い込まれたトリブバン国王の復権に尽力し、革命後のネパール会議派政権を支援している。
 もっとも、トリブバン国王を継いだマヘンドラ国王は民主主義の進展を恐れ、1960年に国王による自己クーデターの形で大権を掌握し、専制王制を復活させたため、立憲革命は無効に帰し、民主的な変革は1990年の民主化革命まで30年を待たねばならなかった。
 その点、1990年革命や2006年‐08年革命も革命的成果の後退を契機に勃発しており、ネパールでは王権と民主化運動のせめぎ合いの力動が長期間をかけて先鋭に続いていく点において、革命と無縁なインドとは社会力学に大きな相違が認められることが注目される。


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