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近代革命の社会力学(連載第59回)

2020-01-13 | 〆近代革命の社会力学

八 フランス・コミューン革命

(4)コミューン革命への展開
 コミューンと呼ばれる革命的自治体はパリ・コミューンが史上初というわけではなく、すでに18世紀フランス革命の初動段階で登場しているが、この時はすぐに国民議会、さらに国民公会と、全国レベルの革命的代議機関の設立に結びついたことで、全土レベルの革命に進展した。
 しかし、19世紀のコミューン革命では、そうした全土レベルへの革命的展開は見られず、都市レベルでの同時的コミューン革命に限局されたことが特徴である。パリ・コミューンはその中の一つ、かつクライマックスというにすぎず、コミューン革命の最初のものでもなかった。南仏のリヨン、マルセイユでは、パリに先立ち、1870年9月には革命的コミューンの宣言がなされていたからである。
 パリでの革命的コミューンの公式な宣言日は1871年3月28日であったが、その前段階として、同年2月には、パリ二十区共和主義中央委員会からパリ二十区共和主義代表団(パリ代表団)に改称していた革命派が、第一インターナショナルの支援の下、革命宣言を発していた。
 そこには「すべての監視委員会メンバーは、革命的社会主義党に属する」と宣言されているが、「革命的社会主義党」なる革命政党が実際に設立されたわけではない。しかし、宣言に盛られたブルジョワジーの特権廃止と労働者の政治支配、人民主権の確立といった項目はいわゆる「プロレタリアート独裁」理念の初出とみなされている。
 これは文書上での宣言であり、革命派はまだ物理的にパリを制圧できてはいなかったが、この宣言以降、パリ代表団は公式政府の監視という消極的な性格を脱し、公式政府と対峙する民衆の対抗権力へと向かう展開を見せた。
 他方、18世紀フランス革命以来、徴兵による民兵組織として各革命で帰趨を決するほどの存在となっていた国民衛兵団でも、プロイセンに融和的なティエール政権に対抗して、中央政府の統制を離脱し、隊長を選挙任命制とする独自の革命軍に変貌しようとしていた。
 この動きに危機感を強めたティエール政権は国民衛兵団の武装解除を企てるも失敗、逆に政府軍の将官が捕虜にされる結果となった。これを機に3月21日、国民衛兵団は民衆とともにパリを制圧した。ここにパリ代表団と国民衛兵団が合流し、パリ・コミューン革命が実現したと言える。
 とはいえ、この時点ではコミューンの具体的な機構も定まっておらず、パリ代表団自体も完全な代表機関ではないため、3月26日、取り急ぎコミューンの選挙が挙行されることになる。84名の当選者を出したが、その構成はかなり複雑なものであった。
 まだ近代的な政党が組織されていなかったため、ある種の会派的な存在にとどまるが、最も行動主義的なブランキ派と労働者代表の第一インター派、いくぶん保守的なブルジョワ急進派が拮抗的に鼎立し、残りは国民衛兵代表や古典的なジャコバン革命派といった諸派であった。
 28日のコミューン設立宣言は、第一インター派にして1795年生まれの最年長シャルル・ベレーが主導した。こうして、とりあえずはコミューンが成立するのであった。パリに続いて、南部のトゥールーズ、ナルボンヌや中部のリモージュほか七都市でもコミューン設立宣言が相次ぐ。


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