ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第372回)

2022-01-28 | 〆近代革命の社会力学

五十四 ハイチ民衆革命

(2)デュヴァリエ世襲体制の弱体化
 前回も触れたように、ハイチでは1957年以降、フランソワとジャン‐クロードのデュヴァリエ父子による世襲の終身大統領制というほぼ王朝に近い特異な独裁体制が確立されていった。
 初代のフランソワは、西アフリカから捕縛・移入された旧黒人奴隷たちが持ち込んだ伝統宗教ブードゥー教を研究したうえ再活性化し、自らその祭司をもって任じることで、公式にはカトリック国でありながら、ブードゥー教信仰者が多いハイチにあって、ブードゥーを通じた全体主義的な一種の宗教ファシズム体制を構築した点において、カリブ海域にあっても極めて特異な統治手法を見せた。
 一方で、彼は大統領就任直後にクーデター未遂を起こした正規軍を信用せず、新たに自身に絶対的忠誠を誓う親衛隊的な民兵組織・国家保安義勇隊(通称トントン・マク―ト)を創設し、小作農から没収した農地を無給の要員に割り当てるなど封建的とも言える特権を与えつつ、法を超越した暴力団的な秘密政治警察としても活用し、恐怖政治の道具とした。
 しかし、このようなブードゥー・ファシズム体制は、子息のジャン‐クロードの時代になると、変化する。ジャン‐クロードは19歳という―おそらく世界史上も―最年少で大統領に就任したこともあり、当初は前ファースト・レディの母親とテクノクラートの補佐に依存し、自身は放蕩している状態であった。
 そのため、ムラートの知識階級を多数登用したことで体制がより合理化され、宗教ファシズムから一種の管理主義体制に変化した。また、政治犯の釈放や検閲の緩和など、ある程度の自由化を進めたものの、父親の遺産であるトントン・マク―トを活用した恐怖政治は不変であった。
 ジャン‐クロードが「親政」を開始した70年代後半以降は、アメリカ資本と結び、立ち遅れていた経済開発を急ぐが、如上の小作農地没収策とも相まって、農業の衰退とそれに起因する都市スラムの拡大を招くなど、農政の欠陥が経済不振の原因となった。78年に発生したアフリカ豚熱ウイルスの蔓延も、重要産業である養豚への打撃となる。
 一方で、外交上は父の時代から強固な反共親米の立場を維持し、アメリカの庇護を受けていたことも体制護持の鍵であったが、前出アフリカ豚熱ウイルス対策として、アメリカ政府と共同で豚の大量殺処分に乗り出したことは、養豚農家に打撃となり、反政府感情を強めた。
 加えて、人間のエイズ・ウイルス問題がハイチで深刻化しているとの報告から、重要産業でもあった観光も打撃を受け、80年代前半期のハイチ経済は不況に見舞われ、貧困がいっそう深刻化していった。
 そうした中、83年にハイチを公式訪問した当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世がハイチの現状に懸念を示し、富の公平な分配や社会構造の平等化、国民の政治参加を求めるという異例の政治介入を行ったことは、先鋭なカトリック聖職者や民衆を刺激し、その後の民衆運動に少なからぬ影響を及ぼした。
 こうした状況にもかかわらず、デュヴァリエ一族はタバコ産業の私物化による蓄財に励み、ムラート財閥出自のファースト・レディともども豪奢な私生活を享受していたことも民衆の反感を強め、抗議活動の誘因となった。
 このように、初代のようなカリスマ性を欠く二代目デュヴァリエ終身大統領の時代は、合理化された反面、代償として政治経済の両面で弱体化が緩慢に進行していく過程にあったと言える。


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