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近代革命の社会力学(連載第450回)

2022-06-28 | 〆近代革命の社会力学

六十四 ネパール共和革命

(4)マデシ地方自治闘争の並行
 ネパール共和革命の過程では、民主化闘争と並行する形で、ネパール南部の平原マデシ地方の自治権獲闘争も激化していた。多民族・多言語国家であるネパールのマデシ地方は隣接する北インドとの文化的連続性が強く、独自の地域であることから、民主化闘争に刺激される形で自治権獲得闘争が誘発されたのであった。
 その結果、2007年1月から3月にかけ、前年に結成されたマデシ人権フォーラム(以下、フォーラム)が主導して、連邦制と比例代表制基調とする選挙制度の導入を要求するゼネストが実行された。その過程で毛派との衝突が起き、3月には毛派党員を虐殺する事件を引き起こした。
 これを受け、4月以降、政府との交渉に入るが、9月にはフォーラムが内部対立から分裂する事態となり、交渉の行方が不透明になった。転機となるのは、08年2月に、フォーラムを含むマデシ系三党派が合同して統一民主マデシ戦線(以下、戦線)が結成されたことである。
 戦線はマデシ自治国の創設など六項目の要求事項を掲げ、2月13日以降、無期限のゼネストを実行した。このストは16日間継続されたため、その間、インド方面との物流が遮断され、ネパール全土への影響が深刻化した。
 これを受け、政府は戦線との合意を急ぎ、戦線各党の政党登録と来る制憲議会選挙への参加を認めた。こうして08年4月の制憲議会選挙では、フォーラムは52議席を獲得して第四党につけ、他のマデシ系二政党と併せて、81議席を獲得、マデシ系は制憲議会内で一定の勢力を得ることとなった。
 その結果、制憲議会ではフォーラムの幹部で最高裁判所判事も歴任したパラマーナンダ・ジャーが共和制初の副大統領に選出されるとともに、毛派主導政権には事実上のフォーラム指導者ウペンドラ・ヤーダブが外相で入閣した。
 ただし、毛派主導の制憲議会が制定した新憲法では、戦線が要求していたマデシ地方全体を包摂する「自治国」の創設は認められない代わりに、インドの制度に類似した連邦共和制が採用され、連邦の枠組み内で複数の州に分割されて自治が保障されることになり、不完全ながら戦線の要求も実現された。


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