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近代革命の社会力学(連載第82回)

2020-03-17 | 〆近代革命の社会力学

十二 フィリピン独立未遂革命

(4)1898年第二次独立革命から対米戦争へ
 1896年独立革命に失敗したアギナルドは、スペイン当局と交渉し、香港への亡命を認められた。その点、より穏健なリサールを処刑したスペインが、アギナルドを赦免した理由は定かでないが、キューバも含めて、対米戦争の足音が近づく中、フィリピンでの独立運動鎮圧に注力することを避けたということも考えられる。
 こうしてアギナルドは香港に雌伏したが、1898年2月に米西戦争が勃発すると、彼はアメリカに接近し、アメリカから独立援助の承認を取り付けることに成功した。実は後にこれはアメリカの罠であったことが判明するが、さしあたり、アメリカはフィリピン征服の意図を隠し、独立勢力を利用する戦術であった。
 こうして、アメリカから武器の援助も得たアギナルドはフィリピン革命軍を組織して、フィリピンに帰還、対スペインの独立革命に進んだ。米西戦争対応で十分な対処ができなかったスペイン軍はアメリカ軍に支援された革命軍に対し 劣勢に置かれた。その結果、98年6月にはアギナルドの本拠地カヴィデで革命政府の樹立を宣言した。
 ただ、これはまだ宣言的な色彩の強い未然革命の段階であった。この後、革命政府はアメリカ軍の支援を受けながら地方に進軍し、支配を全土レベルに拡大していった。その過程で、革命政府は次第に統治機構を整備したが、この段階はアギナルドを中心とする革命的独裁であった。
 ところが、首都マニラの陥落を前に、アメリカは本来の意図を覗かせ、革命軍のマニラ進軍を許さず、単独占領下に置いたのである。革命政府はやむを得ず、マニラ近郊のマロロスを臨時首都に定め、明けて1899年1月に正式なフィリピン共和国の樹立を宣言した。初代大統領はアギナルドである。
 この共和国はアギナルド大統領に代表されるような地方名望家階級を主体とするブルジョワ共和国であり、ボニファシオらの構想とは隔たりがあったが、とりあえず、アジアでは初の近代的共和国としての意義を持つ。今日までフィリピンが比較的民主的な共和政体をおおむね維持してきた歴史的な原点でもある。
 このフィリピン史上初の共和国はしかし、アメリカが本来の狙いを露にしたことで、早くも崩壊の危機に瀕した。アメリカは講和条約によりスペインから2千万ドルでフィリピンを買収し、主権を獲得したからである。これを受けて、時のマッキンリー米大統領は植民地化をオブラートに包んだ「友愛的同化宣言」を発し、フィリピン独立を否定したのである。
 こうして完全に裏切られる形となったフィリピン共和国は、対米独立戦争に出ることになった。しかし、革命軍から衣替えしただけの共和国軍が圧倒的な戦力を擁するアメリカ軍に太刀打ちできるはずもなく、臨時首都マロロスも陥落、共和国は中部から北部山岳地帯に追い込まれていった。
 この後、再び革命軍に立ち戻った独立派は、旧ボニファシオ派も再結集し、総力的なゲリラ戦によってアメリカ軍に抵抗を続けるが、1901年4月にアギナルドが捕らわれ、投降し、独立派に降伏を呼びかけたのを機に、対米戦争は下火に向かう。
 それでも、一部勢力は投降を拒否して戦闘を継続したため、アメリカが1902年7月に公式に鎮圧を宣言してもなお、地方では農村部でのゲリラ抵抗は続き、最終的にアメリカがフィリピン全土の支配を確立したのは、1910年代になってからであった。


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