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近代革命の社会力学(連載第249回)

2021-06-16 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(6)反米親ソ化からソ連型社会主義体制へ
 キューバ革命当初の戦略的曖昧さが明確に変化していく契機は、具体的な日付を伴う何らかの出来事ではなく、冷戦時代の複雑な国際社会の地政学的な力学作用によるところが大きい。とりわけ、アメリカの動向が直接に反映されていく。
 当時のアメリカは一度はカストロらの革命を支援しながら、いざ革命が成功すると梯子を外す形で、革命政権に猜疑を強め、承認を保留するという形でこちらもあいまい戦略を繰り出していた。
 これに業を煮やしたカストロ政権は後ろ盾をソ連に求め、弟のラウル・カストロ国防相の訪ソなどソ連への接近姿勢を示すとともに、当時キューバを重要拠点としていた米系国策資本ユナイテッド・フルーツ社所有農地の接収など米系資本への圧力を強めた。
 1960年に入ると、ソ連とのバーター取引や兵器調達などの協定を矢継ぎ早に締結、さらにアメリカ国民の在キューバ資産の接収まで進むと、アメリカ側の忍耐が限界に達し、時のアイゼンハワー大統領は対キューバ禁輸及び国交断絶へと動いた。
 さらに、アメリカとしては、キューバにおける権益回復のため、軍事的な手段で革命政権を転覆することを画策する。先例として、1954年に中米グアテマラのアルベンス政権の転覆に成功した事例があったが、アイゼンハワー共和党政権が任期満了退陣の時期であっため、作戦は次のケネディ民主党政権に引き継がれた。
 ケネディ政権によって仕切り直されたキューバ侵攻作戦は、政権交代とケネディ大統領の消極姿勢が作戦遂行にとって大きな障害となり、失敗に帰したのであった。革命政権にとっては最大の反革命策動であったこのピッグス湾侵攻事変を乗り切ると、政権は社会主義路線を鮮明にした。
 カストロ政権は、事変の翌61年5月、公式に社会主義宣言を発するとともに、7月にはカストロの「運動」や旧来の共産主義政党であった人民社会主義者党を糾合してキューバ社会主義革命統一党を結党した。
 他方、政権はアメリカによる再侵攻の脅威に対処するため、ソ連への傾斜を一層強めた。ソ連としても、従来勢力が及んでいなかったアメリカ地域で、しかもアメリカと目と鼻の先のキューバを衛星国化することはアメリカへの対抗上有利であるため、キューバへのアメリカの侵攻を抑止する名目で核ミサイル配備にまで進んだことが、1962年のキューバ危機へとつながった。
 この第二次大戦後では最大級の核戦争危機が、米ソ両国首脳の話し合いにより、ソ連側のミサイル撤去と米側のキューバ不侵攻の交換条件で回避されると、アメリカから不侵攻を確約された社会主義体制はようやく一定の安定期を迎えることになる。
 ただ、親ソ体制としての性格は濃厚となり、先に結党されていた社会主義革命統一党は1965年にキューバ共産党と改称され、以後、ソ連式の共産党一党支配体制の構築が進められていく。遅れて1976年に制定された新憲法は、その法的な裏付けとなった。
 こうした革命体制の教条的物化と言うべき流れに抗したのが、カストロ盟友のチェ・ゲバラであった。マルクス主義者ながら理想家でいささか唯心論的な傾向のあった彼は、ソ連の覇権主義的な外交姿勢にも批判的であり、親ソ化していくキューバ体制に幻滅していた。
 ゲバラは1965年にキューバを去り、再び遊軍革命家の生活に戻っていき、アフリカのコンゴや南米のボリビアで革命運動に身を投じたが、最終的にはボリビアで活動中、当時の反共軍事政権の掃討作戦により拘束され、略式処刑された。
 対照的に、カストロは共産党支配体制の確立に伴い、実質的な独裁者として、ソ連の解体を越えて2008年の引退まで半世紀近く君臨し続けることになる。その間、教条主義的な社会主義を固守したことが、かえって体制の長期持続性を保証したと言える。


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