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近代革命の社会力学(連載第306回)

2021-10-05 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(2)帝政晩期のエチオピア社会
 帝政エチオピア(ソロモン朝)はトルコのオスマン帝国と同時期の13世紀後半に成立して以来、単一の皇室が直系で継承していったわけではないものの、20世紀後半まで、絶対帝政としてはオスマン帝国を越えて世界最長を維持した古国であるが、それだけにその体制は古色蒼然としていた。
 とはいえ、最後の皇帝となるハイレ・セラシエ1世は皇室の縁戚貴族から抜擢され、皇太子・摂政を経て皇帝に即位した人物で、ある程度の改革志向性を持っていた。その表れとして、即位翌年の1931年には初の近代憲法を制定、立憲帝政の形式を整備した。
 ただし、この憲法は大日本帝国憲法(明治憲法)を範とした欽定憲法であり、古代イスラエル王ソロモンの子孫を標榜する伝承に基づき、皇帝を神聖不可侵な存在と規定しつつ、明治憲法以上に皇帝に大権を認める絶対主義的な志向性を持った憲法であった。従って、権力分立は存在せず、政党の結成も認められなかった。
 1936年にはイタリアのファシスト政権による侵略に屈し、占領されるも、41年にイギリス軍の手で解放、復旧された。戦後のハイレ・セラシエは、東西冷戦下にあって、東西両陣営と結ぶ巧みな非同盟中立外交を展開したため、その体制はかえって対外的に盤石なものとなった。
 摂政時代からの長い治世の間、ハイレ・セラシエは帝政の根幹を揺るがさない限度で社会の近代化を推進はしたが、戦後も半封建的な隷属的小作制度に基づく下部構造は基本的に維持されたままであり、国民の多くが貧農である社会編制は不変であった。そのため、帝政末期の1960年代に達しても、世界最貧状態にあった。
 そうした中で、最初の反体制的な動きは軍内から生じた。他のアフリカ諸国でも見られたように、軍は近代化が最も進んだ部門であったこともあり、将校の政治意識も先鋭化していた。
 その最初の表れとして、1960年、まさに皇帝膝元の近衛軍がクーデターを起こし、アスファ皇太子を新帝に擁立して改革派政権の樹立を試みたが、全軍を掌握できず、わずか数日で鎮圧された。
 一方、1955年の修正憲法で民選議会の制度は導入されたが、政党の結成は依然禁じられていたところ、1968年には主として欧州亡命中の学生を中心に、マルクス‐レーニン主義の政治団体・全エチオピア社会主義者運動(MEISON)が結成された。しかし、当然国内では活動できず、国内政党としての活動は革命後のこととなる。
 一方、これとは別に、1972年には当時の西ドイツで、やはり亡命中の学生を中心に、マルクス‐レーニン主義のエチオピア人民革命党(EPRP)が結党される。これは、MEISONよりも明確に政党として組織化されたエチオピア初の近代政党とも目されるものであった。
 EPRPは明確に帝政の廃止と封建諸制度の解体、そして社会主義国家の樹立を求める革命政党であったが、これも当然ながら、革命前の国内では地下活動に徹する以外にない状況であった。
 このように、帝政末期のエチオピアでは、亡命学生を中心にマルクス‐レーニン主義の政治運動が蠕動を始めていたが、厳しい政治的統制下で、国内的な活動はできず、到底革命など望める状況ではなかった。
 一方で、オスマン帝国やロシア帝国の晩期に見られたように、帝政の枠内での立憲革命を志向する保守的進歩政党が台頭することも許さず、帝政は対内的にも盤石に見えた。
 そうした革命不能状態とも言えるような重度の閉塞状況が1970年代半ばになって突如として大規模な革命へと急転するに当たっては、帝政最末期に当たる1970年代前半期の深刻な社会経済情勢が大きく寄与しているが、これについては次節に回すことにする。


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