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近代科学の政治経済史(連載第22回)

2022-10-31 | 〆近代科学の政治経済史

五 電気工学の誕生と社会変革

近代科学の歴史において、19世紀以降における電気現象の科学的な解明とそれを前提とする電気工学の創始は科学自身の発展においても画期的であったが、さらに政治経済を超えた社会のありよう全般を変革した。ある意味では、電気工学の創始以前と以後(現在を含む)とでは、人類は全く異なる社会に住んでいると言って過言でない。その意味で、電気工学は社会変革の促進媒体となり、レーニンに「共産主義とは、ソヴィエト権力プラス全土の電化である」と言わしめたほどである。もちろん電化社会は共産主義の専売特許ではなく、「資本主義とは、資本企業プラス全土の電化である」と定義することもできるであろう。


電気現象の科学的解明

 電荷の移動や相互作用によって生起する種々の物理現象と定義される電気現象については、電気を意味する英単語electricityがギリシャ語で琥珀を意味する単語をもとに、英国のウィリアム・ギルバートが造語したラテン語electricusに由来するように、古代ギリシャ時代から経験的に知られていた。
 ただし、それは主に静電気現象であり、本職は医師であったギルバートも、琥珀を帯電させて静電気を発生させる研究を行った。彼は実用面でも、世界初の検電器を発明したことから、電気工学の祖と目されている。
 ギルバートはまだ思弁的な自然哲学が主流の16世紀後半期に実験を重視したため、実験科学の先駆者ともみなされているが、電気現象のより科学的な解明は17世紀以降の近代科学の創始を待たねばならない。特に18世紀から19世紀にかけて、今日まで有効性を保つ数々の電気的な物理法則の発見が相次ぎ、飛躍的な進歩が見られた。
 特に19世紀はその全期間を通じて電気研究の時代と言え、前半期には主として電気現象の基礎物理学的な研究が進むが、貧困家庭出自の製本職人出身でほぼ独学の物理学者マイケル・ファラデーが発見した電磁誘導現象は後に電動機の基礎原理となる画期的な成果であった。
 ちなみに、電磁誘導現象の発見はアメリカの物理学者ジョセフ・ヘンリーがわずかに先行していたが、発表順が遅れたため、ファラデーに先人の座を譲ることになった。奇しくも、ヘンリーもまた貧困家庭出自の独学者であったが、彼は電信技術の基礎となる継電器をはじめとする数々の電気的発明を行いながら、特許を申請せず、他者の自由な利用を許す先進的な知的所有権の解放も行った。

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近代革命の社会力学(連載補遺40)

2022-10-28 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(5)立憲革命への展開と反革命

〈5‐1〉立憲革命の力学
 1947年を起点とする新たなラナ家専制支配体制への抵抗運動に対して、宰相モハン・ラナは1941年の前例に従って弾圧策で臨んだのであったが、今回は、新たな独立変数として国王その人が加わった点で、体制側に誤算があった。
 ラナ家の専制支配の間、シャハ王家の側でも王権奪回を狙った企てが何度かなされたが、いずれも失敗に終わっていた。結果的に最後のラナ家宰相となったモハンの時代の国王トリブバンは幼少で即位した後、ラナ宰相の傀儡として、ある時点までは政治的に無関心な生活を送っていた。
 しかし、成長した1940年代になると、トリブバンは反専制運動の支持者となり、ネパール国民会議と手を結んだ。これに激怒したモハンは1950年11月、トリブバンを廃位してインド亡命に追い込むとともに、王太子を飛び越えてわずか3歳の王孫ギャネンドラ―後に再即位するも、2006年‐08年共和革命により廃位され、シャハ王朝最後の王となる―を新国王に据えた。幼王を傀儡化する狙いからである。
 このような恣意的な廃位と国王の立て替えは、同年7月に平和友好条約を結んだばかりのインドを含む周辺諸国にも承認されず、外交的な窮地を招いた。他方、それまで非暴力抵抗主義を理念とした国民会議は1950年4月に他組織を合併し、ネパール会議に改称した後、武装革命方針に転換しており、トリブバン国王廃位を機に武装蜂起した。
 こうして、内戦危機に陥る中、インドの圧力もあり、ラナ体制はトリブバンの復位に応じた。1951年2月にはラナ体制とネパール会議、トリブバンの三者間でデリー協定が締結され、制憲議会の設置や政治組織の自由化、トリブバン国王の復位、暫定政府の樹立で合意した。
 これにより、ラナ家と国民会議双方の閣僚で構成される臨時政府が樹立されたが、首相は引き続きモハン・ラナが務めるラナ家‐ネパール会議の権力共有政権となったため、革命成果としては不十分な妥協の産物であった。
 そこで、トリブバン国王は1951年11月、ラナ家を排除し、ネパール会議前身の国民会議創設者でもあったマートリカ・プラサード・コイララを首班とするネパール会議派政権を組織した。これは史上初めて平民階級出自の首相が率いる政権となった。

〈5‐2〉反革命と専制王制の復活
 こうして、ラナ専制支配体制は終焉を迎えたが、ネパール最強の豪族であったラナ家は権力奪回への野望を捨てない一方、共産党による武装反乱の発生など、政情不安が続き、国王親政を含めて、めまぐるしく政権が代わり、革命移行期が遷延した。
 大幅に遅れて1959年にようやく実施された新憲法下で初の総選挙では、ネパール会議が圧勝し、ビシュエシュワル・プラサード・コイララが初の民選首相に就任した。
 彼は先に移行政権の首相を務めた兄のマートリカ・プラサードよりもカリスマ性を持つ急進的な政治家であり、就任するや、封建的な大土地制度の改革、ラナ一族や西部で半自立的な地盤を持つ貴族層、さらに王家も例外としない平等課税などの改革に着手した。
 一方、王家の側では1955年3月にトリブバン国王が死去し、王太子マヘンドラが新国王に即位していたが、マヘンドラはコイララ政権の急進的改革に対して、再び王権が失墜する事態を懸念し、政権との対立を深めた。
 そこで、1960年、マヘンドラは自ら電撃的なクーデター行動を起こし、憲法を停止、議会も解散して全権を掌握した。62年には新憲法を公布し、政党活動を禁止したうえ、選挙議会制度に代わり、任命制を基本とするパンチャート制度を導入した。
 これは国王による反革命クーデターであり、コイララ兄弟をはじめ、ネパール会議派有力者は軒並み投獄され、以後、1990年の新たな民主化革命までの間、ネパールは再び専制王制下に置かれた。
 その間、ラナ家はもはや政治的な権力は持たなかったが、軍や警察で要職を占めるなど、本業の武官系で有力一族としての力を維持し、マヘンドラを継いだビレンドラ国王のアイシュワリア王妃もラナ家一族であるなど、外戚としても権勢を保った。

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近代革命の社会力学(連載補遺39)

2022-10-27 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(4)反専制運動の始動
 ラナ家専制体制に対する最初の反作用は、ラナ家内部から現れた。1901年に兄から宰相職を世襲したデーブ・ラナは、歴代のラナ家宰相とは異なり、開明的な改革派であり、立憲君主制と日本の明治維新をモデルとする近代化政策を志向した。
 しかし、こうしたデーブの改革志向は一族の間で警戒され、デーブは就任からわずか3か月で、五弟チャンドラ・ラナが主導するクーデターにより拘束された後、亡命に追い込まれた。
 こうして、ラナ家内部からの改革の芽は迅速に摘み取られた。代わって宰相となったチャンドラは27年に及ぶ施政の中で一定の近代化改革を進め、1923年には英国との条約によってネパールの法的な独立性を明確するなどの外交的成果も上げたが、ラナ家専制の枠組みを変更することはなかった。
 そうした中、1930年代に入ると、反専制運動が開始される。その外的な要因として、1934年のビハール・ネパール大震災の影響も想定される。推定1万人以上の犠牲者を出したこの大震災はネパールに社会的変動をももたらした。
 震災復興中の1936年にはネパール最初の反専制運動として、ネパール・プラジャ・パリシャドが組織された。これは当時、遅ればせながらも進められていた教育近代化の成果として台頭してきた知識人を中心とする秘密結社型組織であった。
 しかし、1941年に組織によるラナ家要人暗殺計画が発覚したのを機に、政府による大弾圧が加えられた。その結果、主要メンバーの多くが処刑され、組織も解体された。こうして、第二次大戦前の反専制運動はいったん閉塞に追いやられるが、弾圧を免れた運動家は英領インドに亡命し、インド独立運動に参加することで感化された。
 転機は、戦後の1947年におけるネパール国民会議(以下、国民会議)の結成であった。これはマートリカ・プラサードとビシュエシュワル・プラサードのコイララ兄弟を中心に、主にインド独立運動に参加した青年運動家らによって立ち上げられた組織で、その理念もインド国民会議の非暴力抵抗主義から影響を受けていた。
 折から、覚醒した織物工場労働者のストライキが発生すると、国民会議はこれを支援し、ここに知識人と労働者の連帯が成り、市民的不服従の全国的な運動へと展開していった。さらに、同年には学生も民主主義と近代的な教育カリキュラムを要求する組織的な抗議行動を起こした。
 このように、1947年は国民会議の結成に始まり、労働者のストライキ、学生運動と反専制運動の要素が同時に出揃う稀有の年度となった。しかし、翌年、1948年に宰相に就任したモハン・ラナはこうした運動を弾圧、国民会議を非合法化する対抗措置で応じた。

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近代革命の社会力学(連載補遺38)

2022-10-25 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(3)インド独立運動の脱革命的性格
 1947年のインド独立は、南アジアからアジア全般、さらには国際秩序にも波動的な影響を及ぼした事象であり、前回も触れたとおり、1951年のネパール立憲革命に対しても触発的な影響を与える中間項的な要因であった。
 インドの独立運動の歴史は長く、ラナ家専制下のネパールも英国東インド会社側で参戦した1857年の反英大蜂起を嚆矢として、およそ一世紀近く継続され、その間には革命によって独立を獲得しようとする動きも見られた。
 中でも、かねてより民族運動の中心にあったベンガルの革命的独立運動は、英国がベンガル地方をヒンドゥーとイスラームの宗教別に東西分割することを図った1905年のベンガル分割令の後、活性化された。
 しかし、こうした革命的運動は全般的な運動に展開することなく、ベンガルのほか、ウッタ―ル・プラデシュ、マハーラーシュトラ、ビハール、パンジャブなどの地域に限局された運動にとどまりつつも、20世紀以降に活発化し、二つの大戦の戦間期には爆弾テロなどの手法にしばしば出たが、幅広い支持を受けることはなかった。
 これに対して、南アフリカのインド人擁護活動を経験したマハトマ・ガンジーが提唱した「サティヤーグラハ(真理の把持)」思想に基づく非暴力抵抗運動は一世を風靡し、インド独立運動の主要な精神的・実践的な支柱となった。
 このようなインド独立運動における脱革命的な性格は歴史的にも特異であるが、おそらくガンジーの思想がアヒンサー(非暴力)のようなヒンドゥー教思想に着想されていたことが、ヒンドゥー教を優位宗教とするインド社会に適合したためであろう。
 もちろん、インド独立はこうした思想の力のみで達成されたわけではなく、1885年設立のインド国民会議という政治的な結集体の寄与が大きい。この政治団体は英領インドにおける英国の人種差別的な統治に反発するインド知識人を中心に立ち上げられた穏健派組織で、当初はある種の人権団体であった。
 しかし、19世紀末に自主独立を掲げる急進勢力が内部から台頭し、大衆にも浸透する民族主義団体に発展した。そして、ベンガル分割令を一つの契機とした1906年の大会で、四大綱領(英貨排斥・国産品愛用・自主独立・民族教育)を採択して以来、事実上の独立運動団体となった。
 その後、国民会議内部の穏健派と急進派の路線対立が激化したが、ガンジーの参加を得て、1920年以降、ガンジーの非暴力主義が事実上の路線となると、内部対立が緩和・止揚され、国民会議はインド独立運動の中心勢力として定着していった。
 このように、非暴力を理念とする会議体組織が運動の中心に立つことにより、インド独立運動は脱革命的な性格を強め、塩専売制に反対した1930年の「塩の行進」に象徴される不服従運動を手段としつつ、宗主国との対話と交渉を通じた独立獲得が目指されるようになる。
 第二次大戦後、戦勝しながらも戦災で疲弊した宗主国・英国労働党政権の植民地政策の方針転換により、インドはイスラーム優位のパキスタンとの分割独立という変則ながらも、独立を果たした。

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近代革命の社会力学(連載補遺37)

2022-10-24 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(2)ラナ家専制支配体制と近代ネパール
 1951年立憲革命前、およそ一世紀にわたりネパールを統治したラナ家は元来、インドのラージャスターン地方からの移住者であり、シャハ王朝で代々軍人として奉仕して実力者となり、1846年の政争に端を発した王宮虐殺事件後、実権を掌握した。
 この事件の詳細は省くが、当時弱体な国王に代わって事実上の最高執権者となっていた第二王妃の専制下で起きた熾烈な権力闘争の果てであり、事件を収拾した将軍ジャンガ・バハドゥル・ラナは第二王妃により宰相に任命されるも、返す刀で国王と第二王妃をインド亡命に追い込んで全権を掌握した。
 その後、自ら据えた新国王を傀儡化しつつ、要職を親族で固めて一族独裁体制を確立したジャンガ・バハドゥルは、西欧視察旅行の経験からネパール近代化の必要性を悟り、「国法」(ムルキー・アイン)と称されるネパール初の近代法典を制定するなど、ネパール近代化の先鞭をつけた。
 ジャンガ・バハドゥルは宰相職をラナ家の世襲とすることを国王に認めさせるとともに、19世紀初頭の対英戦争の敗北以来、ネパールの外交を制約していた英国(東インド会社)を体制保証人とすべく同盟関係を強め、1857年の東インド会社支配下インドにおける反英大蜂起でも兵力(通称グルカ兵)を提供し、武力鎮圧に助力した。
 以後、ラナ家支配体制はインドが東インド会社支配から英国統治に移った後も、第一次世界大戦やアフガニスタン戦争で一貫して英国に協力したため、この間のネパールは事実上英国の衛星国家あるいは属国であったとみなすこともできる。
 ラナ家専制支配体制は世襲とはいえ、自動的な親子世襲ではなく兄弟世襲を基本としたため、兄弟家系間の権力闘争が流血の政変につながることもしばしばであり、特に20世紀初頭には立憲君主制を志向した時のラナ家宰相が弟のクーデターで失権するというように、一族間でのイデオロギー対立も見られた。
 その後、英国との関係性に関しては、1923年の条約によってネパールの独立性が明確に承認されたが、その後もラナ家支配体制の親英路線は不変であり、第二次大戦に際しても、ネパールは連合国側に立ってドイツに宣戦布告し、日本ともビルマ戦線で交戦した。
 第二次大戦後にインドが独立すると、1950年にはインドとの間に平和友好条約を締結、両国間でのビザなし渡航や相互に自由な居住・労働・財産取得・通商などを認め、事実上インドとの一体性を強化する親印政策へ赴いた。
 しかし、この条約は一見した対等性の中にインドに有利な要素が含まれており、ネパールでは不評であった。そのことが主因ではなかったにせよ、条約締結の翌年の立憲革命でラナ家支配体制は終焉した。
 こうして、ラナ家支配体制の新たな保証人となるかに思われたインドはネパール立憲革命にも間接的に寄与しており、インド独立という第二次大戦後の南アジアにおける地政学的大変動は、ネパール立憲革命の背景としても、重要な意味を持っていた。

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続・持続可能的計画経済論(連載第36回)

2022-10-23 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第7章 経済移行計画Ⅰ:経過期間

(3)経済計画会議準備組織の設立
 計画経済の対象範囲に含まれる基幹産業を統合した包括企業体を創設した後は、将来の計画経済の策定・実施機関となる経済計画会議の前身を成す経済計画会議準備組織(以下、単に準備組織)の設立に入る。
 持続可能的計画経済における経済計画機関は行政的な中央指令機関ではなく、計画経済の対象となる生産事業機構自身が共同して運営する合議機関であるので、その前身組織となる準備組織もまた同様の構成を有し、生産事業機構の前身となる包括企業体の合議組織(協議会)として構成される。
 そのため、発足当初の準備組織はある種の財界団体のような様相を帯びるであろうが、この準備組織はまさしく将来の経済計画活動の準備を目的とするから、経済計画の策定と実施に必要な物的・人的基盤の整備に努めることがその主任務となる。
 経済計画の策定と実施に必要な物的基盤としては、計画に投入される大型コンピュータ・システムが代表的なものである。後に補論として改めて触れるように、経済計画は精緻な計算科学の基盤の上に成り立つからである。
 一方、人的基盤としては、経済計画の実務において環境学的な観点から経済分析・予測をする必須の専門職である「環境経済調査士(エコロノミスト)」や環境経済学的なデータの収集・分析を行う「環境経済分析員」の養成と配置が中心である。
 将来的に完成される経済計画会議は、政治問題を審議・議決する民衆会議と並ぶある種の経済議決機関として民衆会議とは二院制のような両輪を成すことになるので(政経二院制)、準備組織も単なる社団法人のような組織ではなく、特殊な公共団体としての法的地位を持たせる。
 そのため、準備組織は各包括企業体の担当役員を代議員とする協議会として組織され、経済移行の経過期間内は、将来の正式な第一次経済計画の策定に向けた経済計画の机上演習を実施することも重要な任務である。

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近代革命の社会力学(連載補遺36)

2022-10-21 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(1)概観
 ヒマラヤ山麓まで含めたインド亜大陸地域は20世半ばまで、ほぼ大英帝国の植民地支配下に置かれたが、ヒマラヤ山麓のネパールは18世紀に成立した統一王朝(シャハ朝)が19世紀初頭の対英戦争に敗れ、領土を縮小されつつも、辛うじて独立状態を保持した。
 この統一ネパール王国は形の上では2006年‐08年の共和革命で廃止されるまで存続していくが、1846年に発生した王宮虐殺事件を契機として、王朝の軍閥的実力者で宰相でもあったジャンガ・バハドゥル・ラナが実権を掌握して以降、シャハ家の王権は形骸化され、宰相を世襲するラナ家が実権を保持し、専制していた。
 このようなラナ家専制体制をおよそ一世紀ぶりに終わらせたのが、1951年の革命であった。この革命によってシャハ王家が再び実権を回復したが、革命は単なる王権奪回にとどまらず、近代的な立憲君主制の樹立に向かったため、1951年革命はネパールにおける立憲革命の性格を帯びた。
 この革命の主体となったのはその後のネパール政治において民主的な王党派政党として台頭していくネパール会議派であったが、これはラナ家専制体制下でインドに亡命していた活動家を中心に結党された反体制政党であった。その主要な党員の多くが先行のインド独立運動にも参加しており、インド独立運動の主体勢力となったインド国民会議派の影響を強く受けていた。
 1947年のインドの独立は革命によることなく、英国自身の自発的なインド領有放棄と交渉を通じて成立したが、その四年後に起きたネパール立憲革命はインド独立に触発された革命事象であったと言える。
 実際、独立インドは1951年立憲革命に際しても直接に介入こそしなかったものの、当時ラナ体制の策動によっていったん廃位に追い込まれたトリブバン国王の復権に尽力し、革命後のネパール会議派政権を支援している。
 もっとも、トリブバン国王を継いだマヘンドラ国王は民主主義の進展を恐れ、1960年に国王による自己クーデターの形で大権を掌握し、専制王制を復活させたため、立憲革命は無効に帰し、民主的な変革は1990年の民主化革命まで30年を待たねばならなかった。
 その点、1990年革命や2006年‐08年革命も革命的成果の後退を契機に勃発しており、ネパールでは王権と民主化運動のせめぎ合いの力動が長期間をかけて先鋭に続いていく点において、革命と無縁なインドとは社会力学に大きな相違が認められることが注目される。

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日和見主義の悲喜劇

2022-10-20 | 時評

某国では史上最長期政権記録の持主への国葬が執行されたが、英国では史上最短期政権の記録が達成される見通しである。先月就任したばかりのリズ・トラス首相が在任2か月足らずで辞任することになったためである。

その要因は、当初公約に掲げていた大型減税・ミニ予算について、市場や世論からの反発を受けてほぼ全面撤回したことで与党・保守党内に大混乱を引き起こし、党内から辞任要求を突き付けられたことであった。要するに、公約を短期間で180度転換したことで身内からも不信任を招いたのであった。

変わり身の早さは職業政治家に共通の特性だが、近年の政治家は定見を欠くがゆえに、その時々の状況によって態度を転々と変える日和見主義者が世界的に増大しているように見える。

このような日和見主義は冷戦終結後、「イデオロギーの終焉」教義に伴い、イデオロギー闘争より日々の市場や世論調査の数字に踊らされたあからさまな権力闘争が政界の日常となって以降、諸国の政界の潮流となっている。

英国史上三人目の女性首相となったトラス氏も、中道リベラルの自由民主党から保守党に転向した上、保守党内でも欧州連合(EU)残留派から脱退派に転向、脱退派のジョンソン前政権で重要閣僚に抜擢され、二人の先人女性より若い40代にして首相の座を射止めたのであるから、日和見主義の大勝者と言える。

ところが、今回は勝因のはずだった日和見主義が命取りとなった。日和を見るにしても、あまりに度を越せば、味方の信すら失うということであろう。

トラス氏は初の英国女性首相マーガレット・サッチャーを崇敬し、強く意識しているとされるが、冷戦期のサッチャー氏の時代の保守党は「反共保守」を掲げていればブレずに済んだ。しかし、冷戦終結後の保守党はその軸が揺らいだうえ、EU脱退をめぐり党内が分裂し、党自体が日和見主義的に揺れている。

ロックダウン違反の不祥事をめぐって党内から突き上げを受け、先月辞任に追い込まれたばかりのジョンソン前首相の返り咲きさえ取り沙汰されているのも、そうした日和見保守党の実態を示している。―追記:ジョンソン氏は党首選挙への立候補見送りを発表した。

昨今、選挙された政治代表者に一任するという選挙政治自体が劣化し、消費期限切れを迎えている中、選挙政治の最古老舗である英国の政治が今後どう壊れていくのか、注目に値する。

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近代革命の社会力学(連載補遺35)

2022-10-19 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(4)社会主義体制の樹立とソ連衛星国家体制の確立
 1921年モンゴル再独立革命で成立した言わば第二次ボグド・ハーン体制は、先述したとおり、立憲君主制の形態を取ってはいたが、実態として、これは将来の社会主義体制樹立へ向けた過渡期の体制にすぎなかった。
 一方、再独立革命は当初ほぼマイナーな存在にすぎなかった平民青年層が主体となった人民党がソ連の地政学的戦略に基づく軍事的支援によって短期間で実行したものであったため、新たな人民党主導政権ではソ連の影響力が必然的に増大した。実際、政権はソ連の顧問団によって半ば統制されていた。
 この後、1924年のボグド・ハーンの死までの間は、人民党内部での権力闘争が続く。特に党の前身組織である領事の丘グループと東フレーグループの対立が、前者の指導者で臨時政府首相となったドグソミーン・ボドーの推進した衣装や髪型などの習俗近代化キャンペーンをめぐり激化し、最終的に1922年には、東フレーグループによってボドーとその支持者らが粛清・処刑された。
 こうした党内権力闘争は内戦危機に転じることもあり得たところ、体制固めの転機が1924年のボグド・ハーンの死によってもたらされた。チベット仏教の慣習では活仏の死後は新たな活仏を民間から「発見」して推戴するが、人民党政権は新たな活仏の捜索をせず、君主制の廃止を宣言した。
 そのうえで、ソ連に範を取った社会主義憲法を制定し、人民党から改称された人民革命党が他名称共産党として独裁するモンゴル人民共和国の樹立を宣言した。これによって、再独立革命は短期間で社会主義革命に進展したことになる。
 とはいえ、1911年の最初の独立革命からも十数年、モンゴル社会はいまだ近代化の途上にあり、牧畜以外にめぼしい産業も存在しない中での社会主義革命は時期尚早であったが、その分、新体制はソ連に対して徹底的に追随する衛星国家となることで維持されていく。
 とりわけ、ソ連の独裁者として台頭したスターリンの政策に歩調を合わせ、1928年からは農業集団化に相当する牧畜集団化を強行したため、1932年には反発した遊牧民層による大規模な蜂起が発生した。
 半年に及んだこの蜂起は反仏教政策によって抑圧されていたラマ僧が先導したもので、経済的のみならず、宗教的な要素も伴う複合的な反社会主義民衆蜂起であったが、当局はここでもソ連の支援を得て蜂起を武力鎮圧した。
 この大騒乱の後、政策修正が行われる中で1930年代後半以降に最高実力者として台頭してくるのが、軍人出身のホルローギーン・チョイバルサンであった。彼は1952年の死まで、ソ連と緊密に連携して衛星国家体制を確立するとともに、独裁首相としてスターリン主義の恐怖政治を敷いたことから、「モンゴルのスターリン」の異名を取った。
 こうしたモンゴルの衛星国家体制は、第二次大戦後の中・東欧諸国で相次いで樹立された同様の体制の先駆け的なモデルともなった。それゆえに、この人民革命党支配体制もまた、20世紀末の連続脱社会主義革命の潮流の中で体制崩壊を迎えることになる。

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近代革命の社会力学(連載補遺34)

2022-10-18 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(3)人民党の結成から再独立革命へ
 モンゴルにおける1911年の独立革命と1921年の再独立革命は、いずれも独立革命でありながら、その担い手を大きく異にしていることが注目される。すなわち、最初の独立革命は主として伝統的な外モンゴル貴族層が担ったの対して、二度目の独立革命では社会主義革命家が担い手として登場してきた。
 このように、せいぜい10年という時間差で、これほど担い手を大きく替えた革命が継起することは稀である。このような変化が生じたのは、二つの革命を隔てる10年間にモンゴル社会が大きく変貌したことを示している。
 外モンゴルでは長く封建的な遊牧貴族社会が続き、清末の内モンゴルでの強制的近代化政策の影響も限られていたが、1911年の外モンゴル独立革命後は、後ろ盾のロシアを介して近代的な思想や運動の急速な流入が起きた。
 中でも、ロシア革命を担ったボリシェヴィキの影響は明瞭であった。そうした中、1919年から20年にかけて、領事の丘と東フレーという二つの革命的秘密結社が結成された。いずれも結集したのは公務員や兵士、教師など様々な近代職を経験した平民出身の青年たちであった。
 二つのグループのうち、領事の丘グループの方が急進的でボリシェヴィキに近く、東フレーグループは民族主義に傾斜しているという差異があり、当初両者には接点がなかったが、両者をつないだのはソ連であった。
 折しも当時、日本のシベリア出兵に対抗するべくソ連が極東に立てた緩衝国家・極東共和国がモンゴルの革命グループをまとめる仲介役を果たすことになった。その結果、1921年3月、上掲の両グループがキャフタにて合同し、モンゴル人民党が結党された。
 このようにソ連が辺境地モンゴルの革命支援に積極的であったのは、ロシア内戦において白軍最後の砦となっていたウンゲルン軍が外モンゴルを占領しており、これを壊滅させることが内戦終結の最後の課題となっていたこともあったであろう。
 一方、モンゴル人民党にとっても、圧政を敷くウンゲルン軍を排除することが完全な独立獲得の条件であったため、ソ連赤軍の支援を必要としており、両者の利害が一致した。こうして、人民党の軍事部門である人民義勇軍とソ連赤軍の共闘関係により、1921年7月にはウンゲルン軍を破り―ウンゲルンは赤軍に拘束後、即決処刑―、首都を制圧した。
 これによって外モンゴルの再独立が成り、さしあたりボグド・ハーンを戴く君主制が維持されたが、1911年革命とは異なり、新政権の中心は人民党にあり、ボグド・ハーンは名目的な君主とされたので、1921年再独立革命は将来の共和制移行を見込んだある種の立憲革命と見ることができる。

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近代革命の社会力学(連載補遺33)

2022-10-17 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(2)自治の撤廃とロシア白軍の占領
 1915年のキャフタ条約により外モンゴル限定での自治という形で収斂したモンゴル独立革命は、1917年ロシア革命で帝政ロシアが打倒されると、中華民国がモンゴル自治の撤廃と直接統治回復に乗り出したことで、完全に無効化された。
 といっても、時の中華民国は軍閥割拠の分裂状態に陥っていたところ、外モンゴルの支配回復に乗り出したのは、有力軍閥・段祺瑞の配下にあった徐樹錚将軍である。彼は1919年、当時の外モンゴル首都イフ・フレー(現ウランバートル)に進撃し、軍事的圧力によってボグド・ハーンに自治を返上させた。
 これにより、外モンゴルは中華民国にいったん復帰することになるが、この短い中華民国支配の間、当局は仏教徒を抑圧し、独立運動を厳しく弾圧した。しかし、翌年、ロシア十月革命後に勃発した内戦が外モンゴルに接するシベリアにも拡大する中、反革命軍(白軍)の軍閥としてシベリア戦線を指揮していたロマン・フォン・ウンゲルン‐シュテルンベルクが外モンゴルに侵入してきた。
 ロシア内戦の白軍は中央指揮系統を持たず、様々な反ボリシェヴィキ勢力がそれぞれの首領を立てて個別蜂起しており、ウンゲルンもそうした一人であった。彼は帝政ロシア時代の職業軍人としてシベリアに駐留した経験から、モンゴルを含む極東情勢に通じ、関心を持っていたため、極東からボリシェヴィキに反撃する戦略を抱いており、外モンゴル攻略もその一環であった。
 これに対し、軍閥割拠の中、充分な防衛態勢を取れない中華民国軍は効果的に反撃できず、1921年にはウンゲルン軍が外モンゴルを占領した。ウンゲルンは改めてボグド・ハーンを復位させたため、表面上はモンゴルの独立が回復されたかに見えた。
 こうした行動から、ウンゲルンはモンゴルの解放者としていっとき歓迎されたが、ドイツ系ロシア人貴族(男爵)ながら、チンギス・ハーンの孫バトゥ・ハーンの血を一部引くと主張するウンゲルンは帝政ロシアの復活にとどまらず、モンゴル帝国の復活、または「仏教徒十字軍」による西欧支配といった誇大妄想的な夢を抱いていた。
 ウンゲルンは外モンゴルの内政にはさほど干渉しなかったものの、ロシア内戦の帰趨が赤軍の勝利に傾く中、事実上の独立軍閥勢力と化していたウンゲルンの軍事占領下に置かれた外モンゴルでは、その冷酷さから「狂人男爵」の異名も取ったウンゲルンの秘密警察による弾圧や殺戮が横行し、モンゴル人の信を失うのに時間はかからなかった。
 このように、自治を喪失した後の外モンゴルは辛亥革命後の中国内戦と十月革命後のロシア内戦という二つの隣接大国の内戦によって挟撃される状況に置かれたが、そうした地政学的に困難な状況が改めて再独立革命へ向けた力動を作り出すことになる。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第35回)

2022-10-16 | 南アフリカ憲法照覧

114. 州議会の権限

1. 立法権を行使するに当たり、州議会は‐

 a. 議会に上程されたいかなる法律をも審議し、可決し、修正し、または否決することができる。

 b. 立法を開始し、または準備することができる。ただし、財政法案についてはこの限りでない。

2. 州議会は以下のような目的を持つ仕組みを定めなければならない。

 a. 州内の国の全地方行政機関が議会に責任を負うよう保証すること。

 b. 以下の事項への監督を維持すること。

  i. 法律の適用を含む州における州行政権の行使

  ii. 国のあらゆる地方行政機関

 州議会の権限と題する本条は、その表題どおり州議会の権限を定めている。その中心は言うまでもなく州法案の発議・審議と可決・修正にあるが、第2項で州法が国の地方行政機関の活動への監督の仕組みを定めるべきことを特に規定している。連邦制を徹底する趣旨と思われる。

115. 州議会に提出される証拠または情報

州議会またはそのいかなる委員会も‐

 a. 宣誓もしくは誓約に基づき証言し、または文書を提出するため、あらゆる人を召喚することができる。

 b. あらゆる個人または州の組織に対して議会への報告を求めることができる。

 c.  国の法律もしくは規則及び命令の定めるところにより、あらゆる個人もしくは組織に対して、a号もしくはb号に定める召喚または要求に応じるよう強制することができる。

 d.  利害関係を持つあらゆる個人もしくは組織から請願、説明または上申を受けることができる。

 州議会に提出される証拠及び情報と題する本条a号乃至c号は、州議会の調査権について定めている。d号は、州議会に対する個人や組織からの請願権に匹敵する内容である。
 以下、第118条までの内容は、国民議会に関する同種規定の準用に近く、州議会が国会の相似形的な地位を持つことを示している。

116. 州議会の内部的協議、議事及び手続き

1. 州議会は‐

 a. 内部的な協議、議事及び手続きを決定し、統制することができる。

 b. 代議的かつ参加的民主主義、説明責任、透明性及び公衆関与に適正な配慮をしつつ、その任務に関する規則及び命令を作成することできる。

2.州議会の規則及び命令は以下のことを定めなければならない。

 a. 委員会の設立、構成、権限、機能、手続き及び存続期間

 b. 議会の少数政党が議会及び委員会の議事に民主主義にかなった方法でする参加

 c. 議会に議席を持つ各党及びその党首が議会でその役割を有効に果たせるようにするための議席割合に応じた財政的及び事務的支援

 d. 議会における最大野党党首の野党首班としての認知

 議会の内部的な調整、進行及び手続き題する本条は、州議会の自律的な運営に関する規則制定権を定めている。その際、第一項b号にあるように、代議的かつ参加的民主主義、説明責任、透明性そして公衆関与が立法基準となる。また第二項c号にあるように、議会参加政党に対する財政支援に関しても、州議会規則で定められる。

117. 特権

1. 州議会議員及び全州評議会の州常任議員は‐

 a. 議会及び委員会において、その規則及び命令に従い、言論の自由を有する。

 b. 次のことを理由に、民事もしくは刑事の起訴、逮捕、投獄または損害賠償の責任を負わない。

  i. 議会もしくはそのあらゆる委員会において発言し、提示し、または上申した事柄

  ii. 議会もしくはそのあらゆる委員会において発言し、提示し、または上申した事柄の結果として明らかにされた事柄

2. その他の州議会及び議員の特権及び免責事項については、国の法律によって定めることができる。

3. 州議会議員に支払われる報酬、手当及び給付は、州庫基金の直接負担である。

 特権と題する本条は、州議会議員及び全州代表会議常任議員の討論の自由、不逮捕特権、免責特権に代表される諸特権に関する規定である。第三項は、州議会議員の報酬等が州庫からの直接払いであることを規定する。

118. 州議会への公衆のアクセス及び関与

1. 州議会は‐

 a. 議会と委員会の立法及びその他の手続きへの公衆の関与を促進しなければならない。

 b. その任務を開かれた方法で行い、かつ議会及び委員会の議事を公開しなければならない。ただし、次の目的のために合理的な措置を取ることができる。

  i. メディアの取材を含む公衆の議会及び委員会へのアクセスを規制すること。

  ii. 特定の人を捜索し、及び適切な場合は特定の人の入場を禁止し、または強制退場させること。

2.  州議会は、開かれた民主社会において合理性及び正当性が認められない限り、メディアを含む公衆を委員会の議事から排除しない。

 州議会への公衆のアクセス及び関与と題する本条は、州議会の立法過程への公衆の参加に関する一般的な規定である。ただし、第一項b号ⅱでメディア取材等のアクセス制限の要件が不明確な点は、国会に関する対応規定と同様である。

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近代革命の社会力学(連載補遺32)

2022-10-14 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(1)概観
 モンゴルでは、辛亥革命を契機とする最初の独立革命が中華民国に配慮したロシアの介入もあり、領域的に外モンゴルに限局され、かつ中華民国宗主下での自治という中途半端な結果に終わったが、この外モンゴル自治国はロシアを後ろ盾としたため、ロシアの影響を直接に受けることとなった。
 その過程で、帝政ロシア末期に急速に台頭したマルクス‐レーニン主義のボリシェヴィキ革命運動の影響も受け、モンゴルにも同主義を奉じる秘密結社が結成され、これがソ連の支援も受けて、モンゴル再独立運動の中核に成長していく。
 一方、ロシア革命によって帝政ロシアが打倒されると、中華民国はモンゴル支配の回復を目指して攻勢をかけ、いったんは自治の撤廃とボグド・ハーン政権の廃止を実現した。これに対して、1921年、モンゴル社会主義者が前年に結成していた人民党を中心に決起、ソ連赤軍の支援も受けて、ボグド・ハーン政権を復旧させた。
 この再独立革命は活仏を戴くボグド・ハーン政権の復旧という限りでは王政復古に近い事象であったけれども、その担い手は親ソ連派の社会主義者たちであり、究極的にはソ連に範を取った社会主義体制の樹立を目指していた。
 そのため、1924年にボグド・ハーンが死去すると、後継のハーンを立てることなく、無血のうちに社会主義のモンゴル人民共和国の樹立が宣言された。この再独立から人民共和国樹立に至るプロセスはほぼ一連のものであり、包括して再独立‐社会主義革命ととらえることができる。
 この革命はしばしばアジア地域初の社会主義革命とも規定されるが、基本的にロシア革命の余波であるとともに、その背後には、ソ連を中心とする国際共産主義団体コミンテルンを通じたソ連による革命輸出策の結実という側面があった。
 そのため、新生モンゴル人民共和国は、外モンゴルを領土とした限りではボグド‐ハーン政権を継承しつつ、法的には中華民国宗主下を脱し、独立を確保したとはいえ、以後、一貫してソ連に忠実な衛星国の地位を維持した。
 ちなみに、ユーラシア大陸をソ連をはさんで東西に眺めると、西でソ連に隣接するフィンランドの社会主義革命は内戦の末に未遂で終わったのに対し、東で隣接するモンゴルでは再独立‐社会主義革命が円滑に成功した点で好対照を示したことも、ソ連赤軍の支援の有無が決定因となっている。

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健康保険証廃止の不条理

2022-10-13 | 時評

13日に発表された2024年秋をめどとする健康保険証廃止と個人識別票(俗称マイナンバーカード)への統合という政府の新方針にはすでに多くの批判や反発、困惑が噴出しているようであるが、それも当然、まったく道理に合わない不条理な策だからである。

マス・メディア各社は、この新方針について、「(カード所持の)実質義務化」という誤導的なフレーズを躍らせて、これまで不所持だった人を取得に走らせようとしているが、「実質義務化」というのは、成り立たない話である。

個人識別票そのものの取得は任意とされながら、健康保険証を国民全員から取り上げたうえ、個人識別票を所持していない限り、健康保険に加入し、保険料も全納しているのに、法的には義務でない個人識別票を所持していないというだけで保険診療を拒否し、全額実費請求することは不可能だからである。

仮にそのような処理を許すならば、そうした診療拒否は違憲・違法となることは明白であるので、結局のところ、あくまでも個人識別票を所持しようとしない人には、特例として何らかの資格証明手段を認める補足対策が必要になるだろう。

タイトルでは「不条理」と抑制的に記したが、運転免許証のような経済的権利に関わるものを一体化するならまだしも、一律的に保険証を廃止し、生命・健康に関わる健康保険を盾に取って、個人識別票取得率100パーセントを達成しようとすることは、「非道」と言って過言でない。

政府が全体主義的な信条に基づき、個人識別票の全員所持を義務付けたいのであれば、大本である法律(行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律)を改正して、法的にも個人識別票の所持及び携帯を義務付け、不所持には懲役刑を含む刑事罰を科せばよい。なぜそうはせず、健康保険を盾に取るような姑息な奸策に走るのだろうか。

これは想像の域を出ないが、政府も罰則付きで個人識別票の所持を義務付けることの憲法違反性を認識しているためではないか。そこで、個人識別票を事実上の健康保険証にすりかえれば所持率を100パーセント近くまで持っていけると打算した。そして、「実質義務化」のフレーズの後押しで、これまで不所持だった半数近い人々が取得に走り出すことも狙う。政府に従順な順応性の高い国民性のことも計算に入っているのだろう。

では、そうまでして政府が個人識別票所持率100パーセントを達成したい理由は何か。旧民主党政権時の導入理由である行政効率だけではなかろう。やはり顔まで含めた国民一人一人の個人情報の一元的な取得・管理への野望があり、さらには「実質義務化」にあえて背き、不所持の抵抗を続ける反抗分子のあぶり出しも容易になる。

要するに、社会保険、徴税から交通、治安に至る広汎な行政目的で総合活用できるのが個人識別票制度であり、所持率100パーセントを達成することで得られる統治利益は計り知れない。

ちなみに、個人識別票を所管する総務省は治安を司る警察庁とは旧内務省の〝同窓〟関係にあり、個人識別票情報を治安目的で密かに共有し合うことは技術的に可能であり、法的にも上掲法律の施行令では少年法や破壊活動防止法、暴力団対策法、組織犯罪対策法等々の治安目的による特定個人情報(番号を含む個人情報)の提供はすでに認められているところである。

筆者は先行連載『近未来日本2050』の中で、2050年の日本の状況について、ファシズム体制が樹立され、そこでは警察支配社会の中、「外出時における顔写真付きマイナンバーカードの常時携帯・呈示義務も課せられ、違反に対しては反則金が課せられるだろう。」と予言したが(拙稿)、どうやら、こうしたディストピアは2050年より前倒しで実現しそうな雲行きである。

 

[補足1]
筆者は、社会保障番号制度や電子保険証の制度化には反対しない。年金を含めた社会保障サービスの統一的かつ総合的な提供は国民の利便性を増すからである。新方針に追随する一部の御用識者の中には、「諸外国ではすでに導入済み」などと〝解説〟する向きもあるが、そもそも国家が顔写真を含めた個人情報を一元的に取得・管理することは自由を抑圧する全体主義的施策であるから、マトモな諸外国では個人識別票のような制度自体を導入していない。個人識別票と社会保障限定での電子的な利便向上策を混同する議論は反啓蒙的とさえ言える。

[補足2]
本文で述べたとおり、カード不所持者を保険診療から排除するような「実質義務化」は無理筋であるから、何らかの補足対策は打たざるを得ないと想定されるが、仮にそうはならなかった場合、信条からあくまでも個人識別票を所持しない人々は保険診療も受けられず、あえて言えば非国民的な無権利状態に置かれる。それでも信条を貫くには、何らかの結集が必要であろう。例えば、集団訴訟行動を展開するとか(日本の行政追随司法には期待できないが)、商業医療保険を活用するなど個人的な対抗策を集団的に研究するなどである。

 

[追記]
各界からの批判を受け、首相はカード不所持者に対しては「資格証明書ではない制度」による保険診療の提供を認める方針を示したが、これが現行保険証に相当するような簡易な証明制度を創設する趣旨ならば、カードの100パーセント取得の目論見は達成できなくなるであろう。となると、最終的には、カード不所持者が何らかの形で所持者より不利に扱われるような策―例えば、医療機関窓口での本人確認に時間を要し、診察順を後回しにされるなど―が持ち出されてくるはずであるが、個人識別票の取得自体を任意とする限り、そうした不平等な取り扱いは不当な差別になるだろう。

[追記2]
政府は、本年4月から、個人識別票と一体化されていない保険証による保険診療の受診料を引き上げる方針を発表した。このような正当理由を欠く制裁的な加重料金制度は不当な差別であり、憲法14条に反することは明らかであるが、将来の保険証制度廃止後の措置として個人識別票を所持しない人に対する不平等な扱いの一端が見えてきたと言える。

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近代革命の社会力学(連載補遺31)

2022-10-12 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(5)チベット独立革命と近代チベット国
 チベット地方は清朝第5代雍正帝の時に分割されて以来、その西南部のみがダライ・ラマ政府(ガンデンポタン)の支配領域とされた。これも基本的には清朝の藩部であるが、ダライ・ラマというある種の君主を擁するチベットと清朝の関係は特殊なものであり、他の藩部よりも自治の程度は高かった。
 そうした微妙な辺境支配の空隙は、19世紀末以降、西アジアへの進出を狙う英国の射程内に入った。それを象徴する事変が、清末の1903年から翌年にかけて、英国によるチベット侵攻・占領である。
 これは英国がライバルであった帝政ロシアを牽制するべく、当時の英領インドの軍隊を動員して断行したもので、インドに隣接するチベットへ侵出することで、英領インドを防衛する狙いがあった。
 この作戦は武力で圧倒的な英国側の勝利に終わり、時のダライ・ラマ13世は北京亡命に追い込まれ、首都ラサには英軍が駐留した。その際、ダライ・ラマ政府は清朝に諮ることなく、英国との間で保護条約を締結した。
 こうしてチベットは英国の保護国に置かれ、1908年には13世がいったん帰国するが、これに対抗するべく、1905年以降、清朝が四川省の地方軍を動員してチベットに進軍し、1910年にはラサに進駐したため、13世はインド亡命を余儀なくされた。
 これ以後、清朝は13世を一方的に廃位し、チベットを藩部から中央集権的な省に格下げする改革に着手するが、間もなく辛亥革命で清朝が打倒されたことで、白紙に戻された。そこで、チベットは残留する清朝軍を武力で駆逐して、ダライ・ラマ政権の支配を回復した。
 1913年には13世も帰国して、ここにチベット独立革命が成立した。チベットと英国、中華民国三者で協議した1915年のシムラ条約では、チベット独立に否定的な中華民国の立場にも配慮し、チベットを中国の宗主下での独立国家として承認したが、内容に不満の中華民国が署名を拒否したため、結果的にチベットは事実上の独立を確保した。
 といっても、後ろ盾となった英国の影響力が増し、実質的には英国の保護国に近かったが、13世は保守的ながらも、英国の支援でチベットの近代化に取り組み、文化面でも一定の欧化を進めた。
 その間、軍閥割拠の内戦状態に陥った中華民国側も辺境のチベットに本格介入するゆとりがなかったことにも助けられ、この近代チベット国は支配領域を中華民国から奪取・拡張しつつ、1933年の13世死没を超えて1951年まで存続した。
 そうした点で、チベット独立革命は英国という外力も加わった近代化革命を兼ねたものとなると同時に、独立革命後のモンゴルがロシアとの関係を深めたことで、ロシア革命の影響を直接に受けて社会主義勢力が台頭、再独立‐社会主義革命を経て社会主義国に収斂していくのとは対照的な経過を辿った。

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