ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第331回)

2021-11-18 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(5)カンボジア社会主義革命

〈5‐3〉革命と狂信化
 1970年の右派クーデターで政権を追われたシハヌークが共産党を引き入れた亡命政府を結成して、復権闘争に乗り出したことは、それまでカンボジアではマイナーな存在だった共産党を一躍、亡命政府を実質的に主導する主流勢力に押し上げることになった。
 カンボジアの共産党は前回も触れたとおり、1950年代から活動していた政党であるが(当初は他名称)、1960年代の中ソ対立状況の中、親ソ派と新中派とに分裂していた。しかし、ポル・ポト(本名サロット・サル)を指導者とする親中派が主導権を握り、66年以降、カンプチア共産党を正式名称とした。
 このポル・ポト指導下の共産党は「正統派」のマルクス‐レーニン主義ではなく、カンボジアにおける主要民族であるクメール人主体の農業共同体を軸とした民族主義的かつ農本主義的な社会主義をイデオロギーとする政党として自己確立していく。
 こうした路線は、当時のソ連共産党はもちろん、想定程度に影響を受けていた中国共産党の毛沢東主義とも異質な独特のローカルな急進主義であり、ポル・ポト派共産党に対しては、旧サンクム翼賛体制下の急進左派を指す用語であった「クメール・ルージュ(赤色クメール)」の通称が定着した。
 クメール・ルージュは、1970年代に入り、親米派ロン・ノル独裁政権の同意の下、北ベトナムのカンボジア領内拠点を標的としたアメリカ軍による越境攻撃や南ベトナム軍の侵攻に対し、密林を拠点に高度な組織力と戦闘力を備えたゲリラ活動で政府軍に挑み、支持者を急速に殖やしていく。
 こうしたカンボジア内戦の重大転機はベトナム和平の成立であり、アメリカ軍が撤退を開始するにつれ、カンボジア政府軍も援軍を失い、戦況は悪化、1975年4月17日に首都プノンペンをクメール・ルージュが制圧したことで、内戦は終了した。これは同月30日の南ベトナムのサイゴン陥落より10日以上先行しており、三国同時革命の中では最初の成功例となった。
 実際のところ、プノンペンを制圧したのはクメール・ルージュを含めた亡命政府を構成したカンプチア国民統一戦線であったが、その軍事組織の主力はゲリラ活動を展開してきたクメール・ルージュであり、新たに発足した新体制・民主カンプチアはクメール・ルージュの独裁国家となった。
 亡命政府を率いたシハヌークも帰国し、国家元首の地位を与えられたが、実権はポル・ポトが掌握し、形ばかりのシハヌーク元首は事実上の軟禁状態にさえ置かれた。その後、76年4月にシハヌークは元首を辞任、同年10月にポル・ポトが首相に就任すると、名実ともにポル・ポト独裁体制となる。
 こうした体制下で、クメール・ルージュは急進化を超えた狂信化を示し、原始共産主義を恣意的に理想化した強制的な集団農場労働や、そうした狂信的施策の手段となる衆愚化を推進するための知識人総抹殺などの反文明的な「政策」を次々と強行していく。
 その結果、ベトナム軍の介入による政権崩壊までのわずか4年程度で最大推計170万人と見積もられる大量の犠牲者を出し、「カンボジア大虐殺」と呼ばれる戦後世界歴史に残る惨事を引き起こすこととなった。
 20世紀全体に視野を広げれば、この惨事は、全く異なるイデオロギーと対象選択の下に強行されたナチスによる大虐殺と対比すべき事象と言える。これは、もはや革命の名にも値しない反人道犯罪に属する事柄であるので、ここでは詳述しない。
 カンボジアの革命が同時革命の中でもベトナムやラオスでは見られなかったような狂信化を示した要因として、上述のように、カンボジアの共産党が独自の農本主義に偏向していたことに加え、戦乱による農村の荒廃により、現実問題として食糧危機が生じていたという客観的事情もあったであろう。
 さらには、フランス留学経験を持つ教員出身のポル・ポトを含めた知識人主体の指導部がこのような集団犯罪に暴走した要因として、指導者個人の人格・資質もさりながら、多くの知識人が感化されたナチスの事例とともに、国家的な危機に直面した人間の集団的狂信化を想起すべき事象である。


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