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近代革命の社会力学(連載第119回)

2020-06-24 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(6)反革命とボリシェヴィキの台頭
 成功した革命に対しては、復古勢力による反作用としての反革命が惹起されるのが通例であるが、1917年ロシア革命の過程では反革命の発動はやや出遅れた。
 一般に、反革命は旧体制に忠実な軍を基盤に実行されるが、旧帝政ロシア軍は兵士の多くが革命主体のソヴィエトに参画しており、反革命に動員される態勢にはなかった。しかし、七月蜂起の失敗により、情勢に変化が生じた。臨時政府から軍の最高総司令官に任じられていたラーヴル・コルニーロフが反旗を翻し、反革命クーデターの動きを示したのである。
 コルニーロフは元来、帝政ロシアに忠実なシベリア・コサックの生まれで、日露戦争で軍功を上げるなど、優れた職業軍人であったが、二月革命後はおそらく保身のため、消極的に臨時政府を支持し、七月蜂起の事態収拾のため、軍トップに抜擢されていた。
 しかし、七月蜂起後の混乱状況と大戦での苦境を見て、コルニーロフは彼なりの「救国」のため、反革命決起を決断したようである。その際、革命機関として臨時政府の基盤となりつつあったソヴィエトの打倒に照準を定めた。こうしたコルニーロフの動きは保守派の支持を受け、反革命はにわかに現実のものとなった。
 コルニーロフは8月、ペトログラードに進軍してソヴィエトの解体を目指したが、ソヴィエト側も民兵団を組織して、クーデターに対抗した。一方、反革命クーデター軍の兵士は元来低く、ソヴィエト側の説得で寝返る者が相次ぎ、最終的に反革命クーデターは完全な失敗に終わった。
 こうして、急進派の七月蜂起も保守派の反革命もともに失敗に終わったことで、臨時政府はその基盤を強めるかに見えたが、そうはならなかった。反革命の失敗後、「多数派」を意味する名称にもかかわらず、ソヴィエトでは少数派の立場にあったボリシェヴィキが台風の目となって台頭してきたからである。
 ボリシェヴィキは去る四月、亡命先のスイスから急遽帰国したレーニンの「四月テーゼ」に基づき、臨時政府への不支持とソヴィエトへの全権力移譲を求める方針を採択していた。このテーゼの主要部分は七月蜂起の要求事項にも反映されていた。
 もっとも、ボリシェヴィキは七月蜂起の企画者ではなかったものの、蜂起失敗後は臨時政府からも弾圧にあい、逼塞していたが、コルニーロフ反革命に際しては、ソヴィエト側で反革命阻止のために尽力して、名を上げていた。こうした流れで、反革命失敗後、ペトログラードとモスクワの二大都市のソヴィエトではボリシェヴィキを主力とする執行部の選出に成功したのである。
 この時点で、レーニンとボリシェヴィキは臨時政府の打倒と革命の次なる段階、すなわちレーニンの主唱する武装した労働者・農民階級によるプロレタリア民主革命へ進むことを決意し、武装蜂起決行日時まで定めていたのである。
 他方、ソヴィエト側が立憲民主党(カデット)の排除を要求する中、ケレンスキーは9月に内閣改造に踏み切ったが、政権安定の鍵であるカデットを排除することはできず、この第三次連立政府は第二次と代わり映えのしないものであった。
 かくして、一時は止揚されていた臨時政府とソヴィエトの亀裂が再び深まり、ボリシェヴィキ‐ソヴィエト主導の次なる革命の動きが現実のものとなろうとしていた。


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