ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第338回)

2021-11-30 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(2)近代化改革とその限界
 前回も触れたように、1970年代における連続革命前のバーラクザイ朝アフガニスタンでは、父王の暗殺を受け、第二次大戦前の1933年に19歳で即位したザーヒル・シャー国王の下で、戦後、近代的な立憲君主制の形成に向けた改革が着手された。
 それ以前のアフガニスタン社会は、王家も属する主要民族であるイスラーム教徒パシュトゥン人の部族社会を基調とし、各部族の長や有力者が地主として割拠する封建的な社会状態にあり、英国に対する従属を絶った20世紀初頭から進められてきた近代化は常に障壁に直面した。
 その点、ザーヒル・シャーの父ムハンマド・ナーディル・シャーは保守的なイスラーム主義者であり、近代化を停止して、イスラーム法体系シャリーアを根本とする憲法を制定したほどであったが、息子のザーヒル・シャーは対照的に、欧州留学経験も持つ近代主義者であった。
 その表れとして、1953年から63年まで、急進的な近代主義者であった従兄の王族ムハンマド・ダーウードを継続的に首相に起用して、全般的な近代化改革に当たらせた。ダーウードは従前、政治的な発言力を誇示したイスラーム聖職者を弾圧し、急激な近代化に危機感を持った保守派の反発を買ったため、63年に退陣に追い込まれた。
 とはいえ、翌年1964年には、さしあたり近代化の総決算とも言えるアフガニスタン初の近代的な憲法が発布された。ただし、この憲法は基本的に立憲君主制を採用しつつも、国王と政府の権限は相当に強く、民主主義的な要素には限界があった。
 しかし、議会が可決した世俗の法律がシャリーア法より優越するとされた点はイスラーム保守派の反発を招いた一方、、国王以外の王族の政治活動を禁ずる条項はダーウードの復権を阻止する意図があり、後に彼が共和革命へ赴く契機となった。
 また、新憲法は地方の部族社会そのものにメスを入れるものではなかったから、地方における封建的社会構造は温存され、部族有力者が地元選出議員に選出され、立法や政府の政策を彼らの利害のためにコントロールすることができた。
 結局のところ、新憲法制定から1973年共和革命までの約10年間は部族社会の封建的な現実と近代的な憲法との齟齬が埋まらないままに過ぎていったが、この間、イスラーム保守派以上に、ダーウードや彼を支持する近代主義者の間で君主制そのものへの反発がマグマのように鬱積していった。
 一方、同時代のイスラーム系隣国イランでより強力に国王主導の世俗的近代化政策を進めていたのが、パフラヴィ朝の国王モハンマド・レザーであった。ザーヒル・シャーともほぼ同世代の彼は、石油の輸出を軸にアメリカと強く結び、西側反共陣営に属することで、皇帝に等しい絶対的な権力をもって、土地改革にまで及ぶ全般的な社会改革を断行していた。
 この隣接する両君主制はともに70年代の革命で終焉したという限りで両者の命運は重なるが、革命の方向性や結果は全く対照的なものとなった。その要因として、アフガニスタンでは近代主義者、イランではイスラーム主義者の革命的急進化を促進したという相違がある。

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近代革命の社会力学(連載第337回)

2021-11-29 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(1)概観
 1960年代に集中したアラブ世界での連続社会主義革命の潮流は、同じイスラーム圏である西アジアの非アラブ圏に直接波及することはなかった。そうした中、70年代末になって社会主義革命を経験したのが、アフガニスタンであった。
 しかも、アフガニスタン革命は、アラブ世界の社会主義革命の主流と異なり、マルクス‐レーニン主義を標榜する実質的な共産主義政党が主導する革命であった点で、イスラーム圏全体にあっても稀有―類例は、同時代の旧南イエメンくらいである―の事例である。
 アフガニスタンでは19世紀に確立されたバーラクザイ朝の最後の王となるザーヒル・シャーの下で、ある程度の立憲君主制が志向されていたが、中世封建制の遺風が除去できず、近代化にも限界が見える中、1970年代に至り、君主制を廃する共和革命と、少し期間をおいての社会主義革命が連続的に発生した。
 アフガニスタンでこのような短期間での二段階革命が発生したのは、20世紀前半の共和革命後、共和体制下で大規模な世俗的近代化が推進されていたトルコ、君主制を維持しながらも、国王主導で世俗的近代化を推進していたイランのような周辺諸国と比べ、世俗的近代化の遅滞が顕著であり、社会変革への地殻変動が隆起していたためであった。
 共和革命→社会主義革命という二段階を経たプロセスという点では、ロシア革命における二月(共和)革命→十月(社会主義)革命という二段階プロセスと類似しているが、同年度内に急速的な二段階革命が継起したロシアと異なり、アフガニスタンの場合は共和革命(1973年)から社会主義革命(1978年)までの間に約5年のタイムラグがある。
 ロシア革命における社会主義革命が「早すぎた革命」であったのに対し、アフガニスタンの場合はある程度共和体制が熟してから社会主義革命に進んだように見えるが、実際のところ、アフガニスタンの場合も1978年の社会主義革命が性急すぎた点では、同種例であった。
 というのも、1978年社会主義革命は、73年革命にも寄与した他名称共産党・人民民主党と軍部内の同党支持勢力によって敢行されたもので、73年革命後の権力闘争が主要な動因となって、勃発したからである。
 また、社会主義革命後に反革命派との間で内戦に陥った点でも、ロシア革命をなぞっているが、ロシア革命と異なるのは、ロシアで反革命派を形成したのが帝政派であったのに対し、アフガニスタン革命で同じ役割を果たしたのは、イスラ―ム保守派であった点である。
 さらに、ロシア革命後、共産党を結党し、分派を禁じて一枚岩となったボリシェヴィキとは異なり、アフガニスタンの社会主義勢力は革命の前後を通じて派閥抗争を展開し、それに乗じたソ連がアフガニスタンの衛星国化を狙って軍事介入したため、10年に及ぶ内戦となり、最終的に敗北した社会主義体制は間もなく崩壊したことである。
 こうして、その出発点ではロシア革命の踏襲的な成功を収めるかに見えたアフガニスタン社会主義革命は、革命後の長期内戦とそれに引き続くファッショ的なイスラーム過激主義の台頭を惹起し、今日のアフガニスタンにおける人道危機につながっていく。

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比較:影の警察国家(連載第50回)

2021-11-28 | 〆比較:影の警察国家

Ⅳ ドイツ―分権型二元警察国家

1‐1:州警察の集権性と統合化

 ドイツの州警察は連邦首都ベルリンに、歴史的な旧ハンザ同盟の一員として自治権を保持してきた二つの自由ハンザ都市ハンブルグ、ブレーメンを加えた三つの州級都市(都市州)を含む計16の州すべてに各一個ずつ設置された警察機関である。
 そのうち西部11州の警察は1990年の東西ドイツ統一前の旧西ドイツ時代の州警察の継続であるが、旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)に属していた東部5州の警察は統一後に改めて創設されたものである。
 旧東ドイツは高度な社会主義中央集権国家であり、そもそも自主権を持つ州制度自体が存在しなかったため、警察も一元的な国家警察であったところ、統一後に改めて創設された5州(正確には復活)それぞれに州警察が置かれた経緯がある。
 ちなみに、旧東ドイツの国家警察は正式には人民警察(Deutsche Volkspolizei:DVP)と称されたが、犯罪の少なさから刑事警察は未発達であった分、警備警察部門である準軍隊的な内務省兵舎部隊(人民警察機動隊)が肥大化し、かつ秘密政治警察・国家保安省(シュタージ)と緊密に連携するなど、DVPは「影」でなく、公然たる警察国家の象徴であった。
 統一後、旧東ドイツ人民警察も一部吸収合併しつつ、16個にまとめられた州警察は、自治体警察の補完的な存在であるアメリカの州警察とは異なり、地域警察、刑事警察、警備警察としての主要な警察機能すべてを併せ持つ自己完結型の警察であり、州単位では集権性の強い警察機関となっている。
 その点、旧西ドイツでもかつては主要な都市に独自の自治体警察が置かれていたところ、1970年代の警察制度改革により、州警察に吸収されていき、現在も一部残存している自治体警察の任務は行政法規違反等の軽微事案の取締まりにほぼ特化している。
 ただし、集権警察といっても、政治的な監視と取締りを担う公安部門は州警察内に存在せず、公安は、後に改めて見るように、連邦と州のそれぞれに二重的に設置された憲法擁護庁がこれを中心的に担う役割分担がある点で、公安警察機能にまで及ぶフランスの国家警察や日本の都道府県警察とは異なっている。
 一方、州警察はその警備警察部門である機動隊(Bereitschaftspolizei:BePo)を通じて、一定の統合運用もなされる。すなわち、大規模な騒乱等が発生した場合は、他州の機動隊が応援部隊を迅速に派遣できるよう、機動隊はその編制や装備が全州で規格化されている。
 同時に、機動隊は街頭での戦闘も想定されるその活動任務からして、軍隊に準じた編制を持ち、百から数百人単位の部隊に分かれて駐屯し、即応態勢が採られている。これは、各国で進む警察の軍事化のドイツ的現れでもある。
 また、連邦警察も各地に即応部隊を駐屯させており、大規模な騒乱等に際しては州警察の機動隊と合同で対処する態勢にあるため、その限りでは州警察の統合を超えた連邦警察との統合運用も進んできている。この傾向は、「テロとの戦い」テーゼの浸透により、強まっている。

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近代革命の社会力学(連載第336回)

2021-11-26 | 〆近代革命の社会力学

四十八 バヌアツ独立革命

(4)メラネシア社会主義の展開
 独立革命を経て誕生したバヌアツ共和国で最初の首相となったウォルター・リニは英国国教会系アングリカン教会の司祭という革命家としては異例の経歴を持つ人物であるが、彼が創設したバヌアアク党(VP)の中心的なイデオロギーが「メラネシア社会主義」に置かれていた限り、保守的な聖職者とは一線を画していた。
 メラネシア社会主義は1970年代当時、後発の第三世界における自立的な社会経済発展のモデルとして風靡していたマルクス‐レーニン主義とは異なり、メラネシア伝統の共同体的土地所有を基礎に、キリスト教の理念を加味した社会主義社会を構想するもので、バヌアツを含むメラネシア地域全体の統合(メラネシア連邦)まで視野に収めていた。
 しかし、この社会主義はメラネシアの伝統的共同体を基礎としていた限り、必ずしも革命的ではなく、独立後、急進的な社会主義政策が展開されることもなかったため、バヌアツにおける革命は独立革命の枠内で収斂し、社会主義革命の段階には進まなかったと言える。
 また、メラネシア統合という構想に関しても、メラネシアに属する民族・部族は極めて多岐に上り、独立当時の人口10万人余り(現在は30万人余り)にすぎなかったバヌアツだけでも100を超える部族言語が分布するありさまであり、統合は遠大な理念にとどまった。
 とはいえ、リニ政権はフランス領ニューカレドニアにおける先住民カナック族による独立運動や1975年からインドネシアが国際連合決議に反して占領していた旧ポルトガル領東ティモールの独立運動に支援を与え、一種の革命輸出政策を展開した。
 一方で、外交上は非同盟政策に与し、社会主義を掲げながらもソ連との同盟関係は避け、アメリカとも関係を構築したが、キューバやリビアなど第三世界の社会主義諸国と友好的な関係を築き、総体として西側陣営に組み込まれた南太平洋地域にあって、唯一、親東側の立ち位置にあった。
 こうした外交上の展開の反面で、内政面でのメラネシア社会主義の展開は10年余りに及んだリニ政権の期間を通じて控えめであり、ソ連型の一党支配体制は採用せず、多党制を維持しつつ、VPが選挙常勝政党として政権与党を維持する一党優位の議会政が定着した。
 そのため、仏語系で反社会主義の中道政党同盟(UPM)が最大野党として対抗し続け、言語別党派政治というバヌアツ特有の政治分断状況は止揚されないまま、続いていくこととなった。
 とはいえ、リニ政権はその出自から英語系中心の権威主義的な運営となり、政権後半期には党内からも反リニの動きが発現する中、1991年9月、東欧社会主義圏における連続民主化革命の渦中、リニは党内造反派も加わった議会の不信任決議により解任され、下野したのであった。
 この政変以降、リニは離党して新たな英語系政党・国民連合党を結党したため、英語系政党が分裂することで英語系の支配力は弱化し、90年代には仏語系UPMが政権を執った。その後、21世紀に入ると、土地と正義党のような言語中立的な保守政党も台頭し、バヌアツの言語別分断は中和されてきている。

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近代革命の社会力学(連載第335回)

2021-11-25 | 〆近代革命の社会力学

四十八 バヌアツ独立革命

(3)英語圏勢力による革命
 英語圏島と仏語圏等の対立が新設の植民地議会を空転させる中、1977年3月にロンドンで英仏の共同宗主国とバヌアツ先住民代表との三者協議が行われ、改めて1980年に議会選挙と独立是非を問う住民投票を行うことで合意に達した。
 ただし、ウォルター・リニが従前のニューヘブリディーズ国民党を改名して結成していた英語圏のバヌアアク党(我が土地党:略称VP)は三者協議を時間稼ぎとみなしボイコットし、同年11月に改めて行われた議会選挙もボイコットした。
 そのうえで、VPは同年に決起し、革命的な「人民臨時政府」の樹立を宣言した。これは英仏共同統治政府に並行する対抗権力であったが、英仏当局があえて軍事的な鎮圧行動を控えたため、臨時政府は短期間で仏語圏を除く大半の島で実効支配を確立した。
 臨時政府と仏語圏勢力や英仏当局との小競り合いが続く中、妥協が図られ、改めて挙国一致の自治政府が形成され、新憲法の制定と1980年7月の独立スケジュールが決定された。とはいえ、独立前後にかけて英語圏勢力主導の独立に不服を抱く仏語圏勢力との紛争はなお続いた。
 独立直前の1980年1月には、仏語圏拠点のエスピリトゥサント島が一方的な分離独立宣言を発した。このクーデター的な動きの背後には、南太平洋にタックス・ヘブンの樹立を目論むアメリカの民間財団の資金援助があり、かつ即時独立になお否定的なフランス及びフランス人入植者の支持があった。
 さらに、同年5月には同じく仏語圏のタンナ島でも反乱が発生する中、スケジュールどおり1980年7月30日、ニューヘブリディーズ諸島はバヌアツ共和国として独立を果たし、儀礼的な大統領制の下、実権を持つ初代の首相には、前年度の選挙で勝利していたVPのウォルター・リニが就いた。
 これをもって英仏の軍は撤退していったため、抵抗を続けるエスピリトゥサント島の分離独立勢力を排除するべく、リニ政権は、先行して1975年にオーストラリアから独立を果たしていたパプアニューギニアの軍に介入を要請した。
 この方策は功を奏し、島の住民は進駐してきた同じメラネシア系のパプア軍兵士を歓迎するありさまで、ほとんど近代的な兵器を持たない分離独立勢力は短期間で降伏し、紛争は終結したのである。
 これにより、新生バヌアツはようやく安定に向かうが、その後も、バヌアツでは政党が使用言語別に形成され、長く与党を維持していく英語系のVPに対し、仏語系は中道政党同盟(UPM)を結党して対抗するという関係が続くことになった。

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近代革命の社会力学(連載第334回)

2021-11-23 | 〆近代革命の社会力学

四十八 バヌアツ独立革命

(2)言語分割と独立運動の混迷
 英仏共同統治下のニューヘブリディーズ諸島では、1950年代から英仏主導で経済開発が進められたが中でも、農牧業分野では、主として仏語圏島でフランス人入植者による牧場経営が発展した。
 しかし、これはバヌアツにおける伝統的な部族共同体の土地(ある種の入会地)を侵害する一種の囲い込みを結果したため、先住部族共同体の土地を守る運動が隆起した。特に仏語圏で最大のエスピリトゥ‎‎サント島でこの運動が最初に興ったが、フランス側は関係者を拘束し、弾圧した。
 他方、1970年代になると、英語圏島でも、先住民の運動が隆起したが、この運動を率いたのが、後に初代首相となるキリスト教司祭のウォルター・リニであった。この運動は土地回復よりも独立に重点を置いたより政治的な運動であり、リニは運動を政党化した。
 最初に独立運動が直接行動として発現したのは、1974年3月、もう一つの仏語圏島タンナ島が独立宣言を発した時である。このプチ革命はすぐさまフランス側によって鎮圧されたが、これを機に同年11月、英仏当局は植民地議会の設置を決定した。
 ただ、この頃になると、英語圏島と仏語圏島の対立が表面化してきていた。英語圏島は土地回復にとどまらず、即時の独立に傾いており、南太平洋からの撤退を検討していた英国もこれに好意的であったが、仏語圏島は段階的な独立を主張していた。
 仏語圏島は、土地回復を求めてはいても、即時の完全な独立には否定的であり、段階的な独立後も、連邦国家として、仏語圏の自治を求めていた。近隣に南太平洋における枢要な海外領土であるニューカレドニアを擁するフランスも即時独立に反対であり、フランス人入植者系の政党も当然これに同調していた。
 そうした中で行われた1975年11月の総選挙では、英語圏のリニが率いるニューヘブリディーズ国民党が勝利し、入植者を含めた仏語圏政党は敗北を喫した。この結果に不服の仏語圏エスピリトゥサント島は分離独立を宣言し、議会が招集できず、英仏共同当局は議会の開会延期を決定した。
 結局、翌年1976年に最初の議会が開会されるも、英語圏と仏語圏の対立は解消されることなく、議会は空転したため、改めて77年にロンドンにて英仏当局と先住バヌアツ人との協議が開催される運びとなる。
 こうして、言語分割は独立の方法をめぐる紛争を引き起こし、これに共同宗主である英仏の植民地政策の相違が絡み、ニューヘブリディーズ諸島の独立運動は混迷を深めていくのであった。

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近代革命の社会力学(連載第333回)

2021-11-22 | 〆近代革命の社会力学

四十八 バヌアツ独立革命

(1)概観
 1960年代にアフリカの西欧列強植民地の独立が一段落した後、70年代になると、独立運動の波は南太平洋にも及んできた。この地域も、英米仏、さらに一足先に英国から独立していたオーストラリアやニュージーランドを含めた域内強国の支配下で分割統治されてきた。
 この地域における独立はその大半が平和裏な交渉を通じて実現されていったが、例外として、メラネシア圏のニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ)では、独立運動が革命へと展開した。その要因として、同諸島が20世紀初頭以来、英仏の共同統治という異例の二国支配下に置かれていたことがある。
 このような二つの列強による共同統治体制は植民地史の中でも極めて異例のものであったが、最大の問題は言語にあった。植民地の慣例として、日常共通語(ニューヘブリディーズでは主に英語がピジン化したビスラマ語)とは別に、宗主国の言語が公用語とされることになるが、ニューヘブリディーズ諸島では諸島を構成する島ごとに英語圏と仏語圏とに分割される結果となった。
 このような極端な言語分割が起きたのは、80を超える島々から成る島嶼地域で完全な「共同統治」を実現することの困難さの結果であった。そのため、英語圏の島と仏語圏の島とに分割されてしまい、そのことが独立をめぐる考え方の違いにも反映され、70年代半ば以降、紛争を生じることとなった。
 そうした独立運動にまつわる混迷状況は次節で見ることとして、最終的な結果としては、英語圏島主導での急進的な独立勢力がほぼ全島規模での臨時政府を樹立した革命を契機に、1980年にバヌアツ共和国として独立が成った。
 英語圏と仏語圏の対立の影には、70年代当時、南太平洋にも及んできた社会主義をめぐるイデオロギー対立もあった。英語圏勢力は社会主義に傾斜したのに対し、仏語圏勢力はこれに反対していた。しかし、独立革命を主導し、最終的な独立を勝ち取ったのは英語圏勢力であったので、独立後のバヌアツは1990年代初頭にかけて社会主義に傾斜した。
 この間、「メラネシア社会主義」を標榜するウォルター・リニ首相が率いる英語圏政党・バヌアアク党(我が土地党)の長期政権が続き、外交上は非同盟を掲げつつ、キューバやリビアなどに接近し、周辺地域の独立運動を支援するなど、南太平洋におけるある種の「革命輸出国」のような存在となった。
 こうしたバヌアツ独立革命は、19世紀末のハワイ共和革命と並び、歴史的に革命とは縁の薄い南太平洋地域における例外的な革命事象に数えられるが、帝国主義の波の中で独立国からアメリカ合衆国への併合を結果した後者とは正反対の経過を辿った、対照的な事例である。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第28回)

2021-11-21 | 南アフリカ憲法照覧

大統領の選挙

第86条

1 国民議会は、その選挙後最初の会期において、及び欠員を満たす必要があるときはいつでも、その議員の中から1名の女性または男性を大統領に選出しなければならない。

2 首席裁判官は、大統領の選挙を主宰し、または他の裁判官にそれを指示しなければならない。附則第3条A部に掲げられた手続き[訳出者注:公選公務員の選挙に関する共通規定]は、大統領の選挙に適用される。

[第2項は2001年第6次憲法修正法第6条により改正]

3 大統領職の空席を満たす選挙は、首席裁判官によって決められた日時に実施されなければならない。ただし、それは空席が生じてから30日を超えない日時とする。

[第3項は2001年第6次憲法修正法第6条により改正]

 大統領は国民議会議員の中から選挙されることとされ、議会中心主義が徹底されている。このような議会内選挙を原則として首席裁判官が主宰するのは、国民議会議長選挙と同様である。

大統領への就任

第87条

大統領に選出されたときは、議員は国民議会の議席を離れ、5日以内に、附則第2条に従い、共和国への忠誠及び及び憲法への服従を宣誓し、または誓約したうえで大統領に就任しなければならない。

 大統領に選出された議員が議員の地位を失う点では議院内閣制下の首相とは異なり、立法と行政が分離された大統領制の枠組みである。

大統領の任期

第88条

1 大統領の任期は就任により開始し、空席または次期大統領の就任により終了する。

2 何人も、二期を超えて大統領職を保持することはできない。ただし、空席を満たすために選出された場合は、当該選挙と次期大統領選挙の間の期間は任期とはみなされない。

大統領の罷免

【第89条】

1 国民議会は、以下の各理由に基づいてのみ、その3分の2以上が賛成する議決によって、大統領を罷免することができる。

(a)憲法または法への重大な違反

(b)重大な非行

(c)職務遂行上の無能

2 第1項a号またはb号の定めるところにより大統領を罷免された者は、大統領職に伴ういかなる利益をも享受してはならず、かついかなる公職を務めることもできない。

 大統領は三選禁止制を採り、かつ国民議会は一定の場合に大統領を罷免することができる。罷免事由はややあいまいではあるが、重大な法令違反や非行を理由として罷免された場合は、大統領職に伴う利益もその他の公職に就く権利も失うという厳しい制裁を受ける。

大統領代行

第90条

1 大統領が共和国に不在であるとき、もしくは他の理由で大統領としての職務を果たせないとき、または大統領職が空席の間は、以下の職にある者が大統領を代行する。

(a)副大統領

(b)大統領によって指名された大臣

(c)他の閣僚によって指名された大臣

(d)国民議会が他の議員を指名するまでは、議長

2 大統領代行は、大統領としての責任、権限及び職務を有する。

3 大統領代行は、大統領としての責任、権限及び職務を果たす前に、附則第2条に従い、共和国への忠誠及び憲法への服従を宣誓し、または誓約しなければならない。

4 すでに大統領代行として共和国への忠誠を宣誓し、または誓約した人は、次期大統領に選出された人が就任する時に終了する大統領代行としての続任期のために宣誓または誓約の手続きを繰り返す必要はない。

[第4項は1997年第1次憲法修正法第1条により置換]

 大統領代行者の順位や権限等を指示した規定である。副大統領等の自動昇格ではなく、あくまでも代行職である。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第27回)

2021-11-21 | 南アフリカ憲法照覧

第五章 大統領及び国家行政府

 第五章は、国家行政権に関する規定である。行政府の長は大統領であるが、アパルトヘイト時代から議会が大統領を選出する複選制を採用しているため、大統領は議会の信任に依拠する首相に近い側面を持つ。このような独特の構制は、南アが1961年に共和制に移行する以前、英連邦内で英国王を君主とする議院内閣制を採っていた名残かもしれない。

大統領

第83条

大統領は‐

(a)国家元首にして、国家行政府の長である。

(b)憲法を共和国の最高法規として支持し、擁護し、及び尊重しなければならない。

(c)国家の統一及び共和国を前進させるそれを推進する。

 本条では大統領の地位及び義務、任務が簡潔に示されている。要するに、大統領は国の長として、憲法尊重擁護義務と国家の統一維持の任務を負っている。

大統領の権限及び職務

第84条

1 大統領は、国家元首及び国家行政府の長の職務を果たすのに必要なものを含め、憲法及び立法によって託された権限を有する。

2 大統領は、以下のことについて責任を負う。

(a)法案に同意し、署名すること。

(b)法案の憲法適合性を再審議するため、法案を国民議会に差し戻すこと。

(c)法案の憲法適合性に関する決定を得るため、法案を憲法裁判所に付託すること。

(d)特別の任務を遂行するため、国民議会、全州評議会または国会の特別会を召集すること。

(e)国家行政府の長として以外に、憲法または立法が大統領に要求するあらゆる任命をすること。

(f)各種調査委員会を任命すること。

(g)国会の法律の定めるところにより、国民投票を実施すること。

(h)外国の外交使節及び領事を接受すること。

(i)大使、全権大使、その他の外交使節及び領事を任命すること。

(j)犯罪者を赦免し、あらゆる罰金、刑罰、没収を軽減すること。

(K)栄典を授与すること。

 本条は大統領の権限を列挙している。おおむね諸国の君主を含む国家元首の権限と同様であるが、b号やc号のように、憲法適合性の確保に関して大統領の役割が大きいのが特徴である。大統領に憲法擁護者としての役割が期待されていることが窺える。

共和国の行政権

第85条

1 共和国の行政権は、大統領に与えられる。

2 大統領は、以下の方法により、他の閣僚とともに、行政権を行使する。

(a)憲法または国会の法律が別に定める場合を除いて、国の法律を施行すること。

(b)国の政策を発展させ、施行すること。

(c)国の省庁の機能を調整すること。

(d)立法を準備し、開始すること。

(e)憲法または立法が規定するその他のあらゆる行政的職務を遂行すること。

 共和国の行政権は大統領の専権ではなく、閣僚と共同行使することとして、大統領独裁を抑止している。この点からも、南ア大統領は首相に近い地位を有することがわ窺える。

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近代革命の社会力学(連載第332回)

2021-11-19 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(6)三国同時革命の「その後」
 1975年一年間で、まさにドミノ倒しのように継起したインドシナ三国同時革命であったが、その後の経過は、カンボジアとベトナム/ラオスとで決定的に分かれていく。そのうち同時革命の先頭を切ったカンボジアでは、前回触れたような狂信化と大虐殺という惨事が惹起された。
 このような狂信化は強い反作用を生み、共産党内の反ポル・ポト派を中心にベトナムへ亡命した勢力が結集し、ベトナムの支援の下、1978年に反体制組織としてカンプチア救国民族統一戦線を結成、革命の矯正が目指されることになる。
 この組織を率いたのはクメール・ルージュから離反してベトナムへ逃亡したヘン・サムリンを中心とする共産主義者たちであり、その中には現在まで長期執権を続ける若き日のフン・センも含まれていた。
 カンプチア救国民族統一戦線が1978年末に結成されると、翌年1月にはベトナム軍の支援を受けて電撃的にカンボジアへ進撃し、短期間でプノンペンを制圧、改めて親ベトナム派の他名称共産党である人民革命党を支配政党とするカンプチア人民共和国を樹立した。
 クメール・ルージュがこれほど容易に敗れたのは、ベトナム戦争を通じて高度に訓練強化されたベトナム正規軍を前にしては、中国の軍事援助を受けていたとはいえ、ゲリラ軍団の域を出ていなかったクメール・ルージュ軍では反撃できなかったことが要因である。
 かくして新たな人民革命党政権のもとで革命は矯正され、人道的惨事は食い止められたが、同政権は明らかにベトナムの傀儡であった。再び密林地帯へ逃亡してゲリラ勢力に戻ったクメール・ルージュは改めてシハヌークほか二派と組み、反ベトナムの統一戦線組織を結成して武力抵抗を続けたため、カンボジアは1991年の和平協定まで長期の内戦に突入した。
 ちなみに、この内戦はベトナム軍事介入後の中国とベトナムの対立という近親憎悪的な「共産党対決」に加え、反ベトナムのアメリカや日本など西側陣営や国際連合までがこぞって、クメール・ルージュを軸とする反ベトナム統一組織側を正当な「カンボジア政府」として承認し続けたことで長期化するとともに、大虐殺の責任追及も、最大の「主犯」ポル・ポトの死亡(1998年)後の2000年代までずれ込む結果を招いた。
 以上に対して、ベトナムとラオスの「その後」は、おおむね順調であった。とはいえ、人道上の問題がなかったわけではない。統一革命後のベトナムでは旧南ベトナム政権の支持者や華僑らが報復を恐れてボートで海上へ脱出、大量難民化した(いわゆるボートピープル)。
 またベトナム戦争中から革命後にかけて、南ベトナムで捕らえた南ベトナム政権関係者・支持者らを収容し、「学習改造」するための再教育キャンプが設置され、その劣悪な環境により、20万人近くの被収容者が死亡したと見られている。
 同様の再教育キャンプはラオスでも設置され、ここでは王制廃止後に拘束された最後の国王サワーンワッタナーと廃王妃及び廃王太子が収容中に死亡したとされているが、いずれも死亡の状況は不明である。
 政治的な面では、ベトナムとラオスは革命後、マルクス‐レーニン主義の支配政党が権力を確立し、今日まで安定的に体制を維持しているが、1980年代にソ連式の社会主義経済が行き詰まると、同年代半ば以降、中国共産党の改革開放政策に類似する市場経済原理を取り込んだ構造改革路線に転換していった。
 なお、和平後のカンボジアは、国際連合による暫定統治を経て、改めて国王に復帰したシハヌークを君主とする立憲君主制国家として再建されたが、80年代に台頭した人民革命党のフン・センが首相となり、マルクス‐レーニン主義を放棄し、党名変更した人民党を通じて、ファッショ的な性格の強い長期政権を維持している(拙稿参照)。

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近代革命の社会力学(連載第331回)

2021-11-18 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(5)カンボジア社会主義革命

〈5‐3〉革命と狂信化
 1970年の右派クーデターで政権を追われたシハヌークが共産党を引き入れた亡命政府を結成して、復権闘争に乗り出したことは、それまでカンボジアではマイナーな存在だった共産党を一躍、亡命政府を実質的に主導する主流勢力に押し上げることになった。
 カンボジアの共産党は前回も触れたとおり、1950年代から活動していた政党であるが(当初は他名称)、1960年代の中ソ対立状況の中、親ソ派と新中派とに分裂していた。しかし、ポル・ポト(本名サロット・サル)を指導者とする親中派が主導権を握り、66年以降、カンプチア共産党を正式名称とした。
 このポル・ポト指導下の共産党は「正統派」のマルクス‐レーニン主義ではなく、カンボジアにおける主要民族であるクメール人主体の農業共同体を軸とした民族主義的かつ農本主義的な社会主義をイデオロギーとする政党として自己確立していく。
 こうした路線は、当時のソ連共産党はもちろん、想定程度に影響を受けていた中国共産党の毛沢東主義とも異質な独特のローカルな急進主義であり、ポル・ポト派共産党に対しては、旧サンクム翼賛体制下の急進左派を指す用語であった「クメール・ルージュ(赤色クメール)」の通称が定着した。
 クメール・ルージュは、1970年代に入り、親米派ロン・ノル独裁政権の同意の下、北ベトナムのカンボジア領内拠点を標的としたアメリカ軍による越境攻撃や南ベトナム軍の侵攻に対し、密林を拠点に高度な組織力と戦闘力を備えたゲリラ活動で政府軍に挑み、支持者を急速に殖やしていく。
 こうしたカンボジア内戦の重大転機はベトナム和平の成立であり、アメリカ軍が撤退を開始するにつれ、カンボジア政府軍も援軍を失い、戦況は悪化、1975年4月17日に首都プノンペンをクメール・ルージュが制圧したことで、内戦は終了した。これは同月30日の南ベトナムのサイゴン陥落より10日以上先行しており、三国同時革命の中では最初の成功例となった。
 実際のところ、プノンペンを制圧したのはクメール・ルージュを含めた亡命政府を構成したカンプチア国民統一戦線であったが、その軍事組織の主力はゲリラ活動を展開してきたクメール・ルージュであり、新たに発足した新体制・民主カンプチアはクメール・ルージュの独裁国家となった。
 亡命政府を率いたシハヌークも帰国し、国家元首の地位を与えられたが、実権はポル・ポトが掌握し、形ばかりのシハヌーク元首は事実上の軟禁状態にさえ置かれた。その後、76年4月にシハヌークは元首を辞任、同年10月にポル・ポトが首相に就任すると、名実ともにポル・ポト独裁体制となる。
 こうした体制下で、クメール・ルージュは急進化を超えた狂信化を示し、原始共産主義を恣意的に理想化した強制的な集団農場労働や、そうした狂信的施策の手段となる衆愚化を推進するための知識人総抹殺などの反文明的な「政策」を次々と強行していく。
 その結果、ベトナム軍の介入による政権崩壊までのわずか4年程度で最大推計170万人と見積もられる大量の犠牲者を出し、「カンボジア大虐殺」と呼ばれる戦後世界歴史に残る惨事を引き起こすこととなった。
 20世紀全体に視野を広げれば、この惨事は、全く異なるイデオロギーと対象選択の下に強行されたナチスによる大虐殺と対比すべき事象と言える。これは、もはや革命の名にも値しない反人道犯罪に属する事柄であるので、ここでは詳述しない。
 カンボジアの革命が同時革命の中でもベトナムやラオスでは見られなかったような狂信化を示した要因として、上述のように、カンボジアの共産党が独自の農本主義に偏向していたことに加え、戦乱による農村の荒廃により、現実問題として食糧危機が生じていたという客観的事情もあったであろう。
 さらには、フランス留学経験を持つ教員出身のポル・ポトを含めた知識人主体の指導部がこのような集団犯罪に暴走した要因として、指導者個人の人格・資質もさりながら、多くの知識人が感化されたナチスの事例とともに、国家的な危機に直面した人間の集団的狂信化を想起すべき事象である。

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近代革命の社会力学(連載第330回)

2021-11-16 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(5)カンボジア社会主義革命

〈5‐2〉右派クーデターから内戦へ
 シハヌークの人民社会主義共同体(サンクム)は、右派から中立派、左派までを包括するある種の翼賛体制であり、その点で、ラオスが脆弱な君主制のもと、中立派を含めた三派間で内乱状態に陥ったのは異なり、政治的な安定性を一定担保し得る体制であった。
 とはいえ、そのイデオロギー的軸となっていた「仏教社会主義」は漠然とした思想であり、政治的諸派の対立を止揚するに足るものではなかった。そのことが露呈したのは、1960年代後半期である。特に67年の総選挙で全議席を獲得したサンクム内の右派が躍進したことにより、体制内パワーバランスに乱れが生じた。
 結果として、右派内閣が発足したことに対して、シハヌークはサンクム内左派から成る影の政府を形成して右派を牽制した。このように左派の力が増したことは、当然にも右派に不満をもたらした。
 特に外交上、シハヌークは元来、非同盟中立を志向しながらも、隣国ベトナムでの戦争/革命が進展すると、北ベトナムによるカンボジア領内の拠点使用を黙認し、南ベトナムの臨時革命政府を外交的に承認するという挙に出た。
 こうした戦略は、右派及びアメリカからは「容共的」と受け取られ、次第にシハヌーク排除の機運が高まった。その極点として、1970年3月、前年に首相に就任していた右派のロン・ノル将軍がシハヌークの中国訪問中にクーデターを起こし、全権を掌握、自らを大統領とする「クメール共和国」の樹立を宣言した。
 これは政体変更を伴ったものの、革命ではなく、まさしくクーデターであり、これ以降、クメール共和国は親米反共体制としてアメリカに協力姿勢を取ったため、アメリカはカンボジアにも公式に戦線を拡大し、カンボジア領内の北ベトナム拠点を攻撃できるようになった。
 一方、政権を追われたシハヌークは直ちに亡命政府「カンプチア王国民族連合政府」を北京にて結成し、中国の支援を得てクメール共和国に対抗した。注目すべきは、「連合政府」には共産党が参加したことである。カンボジアの共産党は旧インドシナ共産党の流れを汲む政党であり、1951年から活動を開始したが、60年代に政府の弾圧により、その主力は密林地帯に逃れ、ゲリラ化していた。
 その点、シハヌークと共産党の関係性は複雑で、元来、シハヌークが与した仏教社会主義は反共的色彩が強く、特にビルマのネ・ウィン独裁下では共産党は弾圧排除されたが、シハヌークはパワーバランスを重視し、サンクム翼賛体制にも一部の共産主義者を取り込んでいた。
 その一方で、国内での左派学生や農民の反体制運動が高揚すると、対抗上共産主義者弾圧に動き、サンクム内の共産主義者も密林地帯に逃亡していた。しかし、1970年のクーデターで政権を追われたシハヌークは、権力奪回のため、明確に共産党との連合に踏み切ったのであった。
 こうして、親米ロン・ノル共和体制と親中シハヌーク亡命連合政府という対立図式が明瞭になると、カンボジアでもベトナム戦争と連動した内戦が勃発する。特に1972年にロン・ノルが改憲により独裁体制を確立すると、共産党は武装活動を本格化させた。

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近代革命の社会力学(連載第329回)

2021-11-15 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(5)カンボジア社会主義革命

〈5‐1〉半王政‐半社会主義の60年代
 ベトナム、ラオスと並び、インドシナ三国同時革命のもう一つの舞台となったカンボジアにおける革命過程は、ベトナム・ラオスにおけるそれと交錯しながらも、大きく異なっている。
 独立後も君主制が維持された点ではラオスに近いが、王権が脆弱なラオスとは異なり、カンボジアでは、独立前の1941年に即位したノロドム・シハヌーク国王が強い指導力を見せ、49年の限定的な独立、さらに53年の完全独立に際しても、重要な役割を果たした。
 興味深いことに、シハヌークは1955年、父ノロドム・スラマリットに逆譲位して王座を去り、王族政治家に転身したうえ、人民社会主義共同体(サンクム)なる翼賛政治組織を結成し、選挙で圧勝した。
 このような子→親という王位継承は稀有であるが、元来、王位継承権者ながら宗主国フランスの意向で王座から排除された父を改めて王座に就けるという目的もさりながら、シハヌークは独自の社会主義思想の持主であり、そうした自身のイデオロギーを王座を離れて実現することも、異例の逆譲位の狙いであった。
 ただ、シハヌークの社会主義は、北ベトナムのようなマルクス‐レーニン主義を基調としたものではなく、タイの僧侶プッタタートが主唱していた仏教を精神的な支柱とする共同体思想であり、本質的には保守思想に近いものであった。
 このような仏教社会主義は同時代の東南アジア(及び南アジア)の仏教国に広く浸透し、カンボジアのほか、ビルマ(現ミャンマー)など、いくつかの国では政治的にも実践された。特に、大々的にイデオロギー化されたのは、ビルマである。
 ビルマでは、1962年の軍事クーデターで政権を掌握したネ・ウィン将軍が「ビルマの社会主義への道」という革命的な綱領の中で仏教社会主義を規定し、以後、長期の支配体制を維持したが、しばしば「ビルマ式社会主義」とも呼ばれた体制イデオロギーは、革命の装いを凝らした軍事独裁―その実相はネ・ウィンの個人独裁―の隠れ蓑にすぎなかった。
 それに対して、シハヌークは、1960年に父王が死去すると、国王を空位としたうえ、自らが国家元首として引き続き政治指導に当たる共和制的な要素を伴った特異な体制を構築した。そうした半王政の中で、政策的には仏教社会主義が追求されたが、実際のところ、社会主義体制としても標榜上の半社会主義であった。
 このような半王政‐半社会主義という中途半端な体制ではあったが、独立に尽力した「国父」としての存在性と「前国王」の権威を持つシハヌークが国家元首として実権を保持うえで、国内のバランスを取っていたことにより、君主制が維持されたまま、内乱状態に陥っていたラオスとは対照的な安定を享受していた。
 また、ラオスと異なり、カンボジアでは19世紀にその支配下に置かれたベトナムへの民族的対抗意識が強かったことも、ベトナム統一革命運動に巻き込まれていくラオスとの相違を成していた。

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近代科学の政治経済史(連載第1回)

2021-11-14 | 〆近代科学の政治経済史

 近代科学(以下、単に「科学」という)は、16世紀から17世紀に欧州で誕生して以来、今日までたゆまぬ発展を見せてきた知的な体系であり、営為でもある。それは外部の政治経済とは無縁に、数学や実験を通じて純粋に自然界の法則に迫ろうとする象牙の塔の産物のように見える。
 ところが、仔細に見れば、全くそうではなく、実際のところ、科学は、科学者が望むと望まざるとにかかわらず、政治経済に巻き込まれ、そうした外部環境と持ちつ持たれつの関係にもある。そのことは、まさに現在当面している感染症パンデミックでも露になっている。
 平素は、地味な、まさに象牙の塔の中で行われるウイルス学のような典型科学が、グローバルなパンデミックに際して政治経済の中に投げ出され、政治家や資本家によって都合よく利用され、もみくちゃにされている姿が目撃されてきた。このような経験は、近代科学始まって以来、初のことと言えるかもしれない。
 しかし、科学の歴史を通覧してみれば、科学が何らかの形で時の政治経済に巻き込まれていくことは、その草創期から今日まで変わらぬ宿命のようである。その意味で、科学は近代以降の社会構造全体の中で、経済の下部構造に対し、政治と並んで上部構造を成す主要素であるとも言える。
 本連載は、そうした科学と政治経済との絡み合いに関して、科学の草創期から今日に至るまでの軌跡を検証する試みである。その際、科学の創始期をガリレオ・ガリレイの地動説の提唱に置くことにする。
 実際のところ、科学の創始期をどこに取るかについては諸説あるようだが、地動説はそれまでの自然界に対する人間の見方を根底から変革する意義を持つ学説であり、まさに科学の出発点にふさわしいからである。
 ガリレイと言えば、その学説が問題視されて宗教裁判にかけられたことでも著名であるが、この「ガリレオ裁判」がまさに当時のイタリアにおける宗教=政治動向とも密接に連動していたのであり、まさに科学は草創期から政治経済に巻き込まれていたのであった。
 一方、本連載の終点は、現在進行中のパンデミック問題がふさわしかろうが、この件はまだ歴史の中に収められていないので、詳しく言及することは避け、むしろ科学が公衆衛生対策を通じて社会統制の道具として利用されるようになってきた近現代的潮流の一環として触れるにとどめる。
 なお、科学といった場合、自然法則の発見を目的とする「自然科学」とともに、広義には経済学に代表されるような「社会科学」も包括されるが、これはその対象分野や方法論とも自然科学とは異質であるので、錯綜を避けるためにも、社会科学は検討対象から除外する。


※以下に、予定されている章立てを示す(変更の可能性あり)。

一 近代科学と政教の相克Ⅰ

二 御用学術としての近代科学

三 商用学術としての近代科学

四 近代科学と政教の相克Ⅱ

五 軍用学術としての近代科学

六 電気工学の誕生と社会革命

七 医薬学の発展と製薬資本の誕生

八 科学の政治的悪用

九 科学と政治の一体化

十 核兵器と科学

十一 宇宙探求から宇宙開発へ

十二 情報科学と情報資本の誕生

十三 科学と社会統制 

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近代革命の社会力学(連載第328回)

2021-11-12 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(4)ラオス社会主義革命

〈4‐2〉第三次連合政権の瓦解と革命
 ベトナム戦争の裏戦場となっていたラオスでは、1971年初にホー・チ・ミン・トレイルの破壊を目的として、アメリカ軍に支援された南ベトナム軍主体の侵攻作戦(ラムソン719作戦)が展開されたことで、戦線が公式にもラオスに拡大された。
 しかし、この作戦はラオス領内に潜伏していた北ベトナム軍の激しい反撃により失敗し、同年3月には撤退を余儀なくされた。これにより、ラオスの内戦にも力学的変化が生じ、同年末までに左派武装組織パテト・ラーオが王国政府軍に対し、軍事的な優位に立った。
 そうした中、アメリカのニクソン政権のベトナム撤退計画も加速され、1973年1月にベトナム和平協定(パリ協定)が締結されると、それに伴い、同年2月、ラオスでも対立三派の間で和平協定が成立し、翌74年に再び連合政権が樹立された。
 これは50年代、60年代の連合政権に次ぐ第三次連合政権であり、首班は引き続き中立派王族のスワンナ・プーマであった。連合の試みとしては最後のものであったが、この時点で、連合政権の軸は軍事的優位を確立した左派に移っていた。
 そうした中で、1975年4月にカンボジア首都プノンペン、南ベトナム首都サイゴンが相次いで社会主義勢力の手に落ち、革命が成功すると、その余波はすぐにラオスにも及んできた。連合政権内の右派が標的となり、首都ヴィエンチャンで反右派抗議デモが起きたことを契機に右派が政権を離脱した。
 その結果、パテト・ラーオが首都を制圧する中、左派と中立派のみが残留した連合政権は75年11月に総辞職を決定、12月には、すでに形骸化していた君主制も廃止し、社会主義に基づく人民民主共和国の樹立が宣言された。
 これにより、ラオスでは共和革命かつ社会主義革命が同時的に成立することとなった。新たな体制は左派ネーオ・ラーオ・ハク・サットの指導政党で、他名称共産党でもある人民革命党による一党支配体制とされ、実権を掌握する首相には同党のカイソーン書記長、儀礼的な元首である国家主席には王族出身ながら左派に属してきた「赤い殿下」スパーヌウォンが就いた。
 左派と行動を共にした中立派はネーオ・ラーオ・ハク・サットの後継組織として革命後の1979年に結成された翼賛組織であるラオス国家建設戦線に吸収され、中立派指導者のプーマは政府顧問の名誉職で遇されたが、政治的には無力化された。

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