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近代革命の社会力学(連載第228回)

2021-04-28 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(2)植民地アルジェリアの支配構造
 アルジェリア植民地は、七月革命、二月革命、コミューン革命と三度の革命が継起し、フランス史上における革命の世紀となった19世紀のフランス国内の力学と密接に連動しながら形成されていった点で、フランス革命史の影法師のような存在である。
 アルジェリアの植民地化は、ブルボン復古王朝最末期の1830年6月に、体制が国内の不満をそらすため敢行した当時のオスマン帝国版図アルジェリアの占領に端を発するが、体制は翌月には七月革命により崩壊、新たにオルレアン朝七月王政が成立した。
 オルレアン朝政府は旧体制の置き土産であるアルジェリア問題の処理に苦慮するも、結局手放すことなく、フランス領化した。南仏から近く、未開拓だったこともあり、アルジェリアにはフランスを中心に、欧州他国からも移民が急増し、やがてコロン(入植者)と呼ばれる欧州系アルジェリア人層が形成された。
 他方、アルジェリアの先住民はカビル族を中心とする少数派アマジク人(他称ベルベル人)とイスラーム勢力の拡大に伴って中世に移住してきた多数派アラブ人が主体であったが、コロンはかれらから土地とイスラーム社会におけるある種の社会資本であるワフク(モスク寄進財産)を奪取し、先住民を従属下に置いた。
 そうした剥奪地と剥奪財産を元手とするブドウを主体とした農業経営が、アルジェリア植民地における原始蓄積の手段となった。やがて、本国の資本主義がアルジェリアにも浸透してくると、コロン階級は伝統的な手工業を解体し、アルジェリアを本国工業生産の原料供給基地とし、先住アルジェリア人を労働者として低賃金で搾取するようになる。
 これに対して、先住アルジェリア人層も忍従ばかりしていたわけではなく、占領初期の1832年から47年まで、宗教指導者アブド・アルカーディルの武装蜂起があり、一時はアルジェリアの三分の二を実効支配したが、最終的に降伏し、ナポレオン3世により懐柔された。
 ナポレオン3世はアルジェリアに対し融和政策を採り、先住民の土地所有権や地方参政権などを認めたが、そのナポレオン3世の第二帝政が崩壊した後の1871年から72年にかけて、先住民の三分の一が参加したとも言われる大規模な民衆蜂起が発生した。
 指導者となったカビル族のシェイク・モクランの名をとってモクランの乱とも呼ばれるこの事件は、フランスに対する先住民層の反発が一挙に噴出したものであったが、本国でコミューン革命を武力鎮圧した当時のフランス第三共和政政府はアルジェリアでも容赦のない弾圧で臨み、アルジェリアにおけるブルジョワ階級であるコロン層の権益を擁護した。
 実際、如上のアルジェリア植民地経済の構造が確立されるのは、このモクラン蜂起の後、20世紀初頭にかけてのことであった。搾取と抑圧により生活が立たなくなった先住アルジェリア人らは出稼ぎ労働者としてフランス本国に流出したが、出稼ぎの常として、少なからぬ労働者が本国に定住し、今日のアルジェリア系フランス人の最初の世代となった。
 フランスは民族自決の思想と運動が隆起した二つの世界大戦を経ても、アルジェリア植民地を放棄する意思は毛頭なかった。実際のところ、アルジェリアは厳密には「植民地」ではなく、1848年二月革命後に準海外県とされ、国内の延長的な扱いがなされていたのであった。
 そのため、アルジェリア問題は「国内問題」であり、民族運動は国内の騒乱に準じて力で抑圧された。そうした抑圧は、第二次大戦を経てかえって強まった。
 契機となったのは、1945年5月、北東部の町セティフでの戦勝記念デモから偶発的に発生したフランス治安部隊との武力衝突が先住民とコロンの衝突に発展した(セティフ虐殺)である。
 これ以降、先住アルジェリア人の抵抗運動が活発化するが、対抗上、フランス当局は拷問や略式処刑を含む弾圧政策の強化で臨んだ。フランス革命の所産としてフランスが誇る人権宣言は、植民地アルジェリアでは無視されていたかのようであった。
 植民地アルジェリアが第二帝政崩壊後、コミューン革命の挫折を経て恒久的に確立された自由と人権の国フランス共和国の旗の下で進展していく帝国主義の象徴となったことは皮肉であり、近代フランスのダブルスタンダードを示すものと言えるであろう。


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