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近代革命の社会力学(連載補遺40)

2022-10-28 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(5)立憲革命への展開と反革命

〈5‐1〉立憲革命の力学
 1947年を起点とする新たなラナ家専制支配体制への抵抗運動に対して、宰相モハン・ラナは1941年の前例に従って弾圧策で臨んだのであったが、今回は、新たな独立変数として国王その人が加わった点で、体制側に誤算があった。
 ラナ家の専制支配の間、シャハ王家の側でも王権奪回を狙った企てが何度かなされたが、いずれも失敗に終わっていた。結果的に最後のラナ家宰相となったモハンの時代の国王トリブバンは幼少で即位した後、ラナ宰相の傀儡として、ある時点までは政治的に無関心な生活を送っていた。
 しかし、成長した1940年代になると、トリブバンは反専制運動の支持者となり、ネパール国民会議と手を結んだ。これに激怒したモハンは1950年11月、トリブバンを廃位してインド亡命に追い込むとともに、王太子を飛び越えてわずか3歳の王孫ギャネンドラ―後に再即位するも、2006年‐08年共和革命により廃位され、シャハ王朝最後の王となる―を新国王に据えた。幼王を傀儡化する狙いからである。
 このような恣意的な廃位と国王の立て替えは、同年7月に平和友好条約を結んだばかりのインドを含む周辺諸国にも承認されず、外交的な窮地を招いた。他方、それまで非暴力抵抗主義を理念とした国民会議は1950年4月に他組織を合併し、ネパール会議に改称した後、武装革命方針に転換しており、トリブバン国王廃位を機に武装蜂起した。
 こうして、内戦危機に陥る中、インドの圧力もあり、ラナ体制はトリブバンの復位に応じた。1951年2月にはラナ体制とネパール会議、トリブバンの三者間でデリー協定が締結され、制憲議会の設置や政治組織の自由化、トリブバン国王の復位、暫定政府の樹立で合意した。
 これにより、ラナ家と国民会議双方の閣僚で構成される臨時政府が樹立されたが、首相は引き続きモハン・ラナが務めるラナ家‐ネパール会議の権力共有政権となったため、革命成果としては不十分な妥協の産物であった。
 そこで、トリブバン国王は1951年11月、ラナ家を排除し、ネパール会議前身の国民会議創設者でもあったマートリカ・プラサード・コイララを首班とするネパール会議派政権を組織した。これは史上初めて平民階級出自の首相が率いる政権となった。

〈5‐2〉反革命と専制王制の復活
 こうして、ラナ専制支配体制は終焉を迎えたが、ネパール最強の豪族であったラナ家は権力奪回への野望を捨てない一方、共産党による武装反乱の発生など、政情不安が続き、国王親政を含めて、めまぐるしく政権が代わり、革命移行期が遷延した。
 大幅に遅れて1959年にようやく実施された新憲法下で初の総選挙では、ネパール会議が圧勝し、ビシュエシュワル・プラサード・コイララが初の民選首相に就任した。
 彼は先に移行政権の首相を務めた兄のマートリカ・プラサードよりもカリスマ性を持つ急進的な政治家であり、就任するや、封建的な大土地制度の改革、ラナ一族や西部で半自立的な地盤を持つ貴族層、さらに王家も例外としない平等課税などの改革に着手した。
 一方、王家の側では1955年3月にトリブバン国王が死去し、王太子マヘンドラが新国王に即位していたが、マヘンドラはコイララ政権の急進的改革に対して、再び王権が失墜する事態を懸念し、政権との対立を深めた。
 そこで、1960年、マヘンドラは自ら電撃的なクーデター行動を起こし、憲法を停止、議会も解散して全権を掌握した。62年には新憲法を公布し、政党活動を禁止したうえ、選挙議会制度に代わり、任命制を基本とするパンチャート制度を導入した。
 これは国王による反革命クーデターであり、コイララ兄弟をはじめ、ネパール会議派有力者は軒並み投獄され、以後、1990年の新たな民主化革命までの間、ネパールは再び専制王制下に置かれた。
 その間、ラナ家はもはや政治的な権力は持たなかったが、軍や警察で要職を占めるなど、本業の武官系で有力一族としての力を維持し、マヘンドラを継いだビレンドラ国王のアイシュワリア王妃もラナ家一族であるなど、外戚としても権勢を保った。


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