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近代革命の社会力学(連載第342回)

2021-12-07 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(6)権力闘争とソ連の軍事介入
 アフガニスタン「四月革命」は、前年に事実上の分党状態から再統合を果たした人民民主党(PDPA)を中心に実行されたため、本来なら、よりスムーズに革命政権が立ち上がり、始動するはずであったが、そうはならず、熾烈な権力闘争に陥る。
 元来、PDPA内部の対立軸は人民派と旗派の間にあったわけだが、「四月革命」直後の権力闘争は革命の主役であった人民派内部から発生した。というのも、旗派は革命後、完全に粛清されることはなかったものの、その幹部のほとんどは政権中枢から遠ざけられたため、闘争も起こり得なかったからである。
 そのため、権力中枢を掌握した人民派内部での権力闘争が展開されることになるが、中でも、党の共同創設者で党書記長兼初代の革命評議会議長タラキーと、タラキーより一世代下の党幹部で副首相兼外相に就任していたハフィズッラー・アミンの対立である。
 アミンはアメリカ留学経験も持つ教員出身であり、学生を感化させて党員を殖やし、なおかつ軍内にもネットワークを形成するなど、党の組織化に対する貢献が大きく、どちらかと言えばイデオロギーに偏りがちなタラキー対し、実務的な実力者として急速に台頭していた。
 当初は緊密な協力関係にあった両者であったが、飲酒癖や持病を抱えながらタラキーが次第に個人崇拝型の独裁政治に陥っていく中で、アミンとの関係も悪化していった。他方、78年12月に善隣友好条約を締結して革命政権の後ろ盾となっていたソ連は、アミンの手腕を疑問視し、イデオロギー的にソ連に忠実なタラキーを後押ししていた。
 明けて1979年に入ると、地方農村部を拠点に、部族有力者らイスラーム保守勢力の武装反乱が相次ぐようになり、革命政権はソ連軍事顧問団の助言を得て反乱対処に忙殺されるようになるが、成果は上がらない中、同年9月、タラキーが3月に首相に昇格させていたアミンの解任と左遷を告知しようとした会合の後、アミンが党内クーデターを起こし、タラキーを拘束、殺害した(公式発表は病死)。
 これにより、アミンが革命評議会議長兼PDPA書記長として政府と党の頂点に立つこととなった。アミンは当初こそイスラーム保守派を慰撫するため、イスラーム的価値観を尊重する姿勢を見せたが、地方反乱を鎮圧することはできないと見るや、イスラーム保守派の大量処刑を断行するなど、タラキー前政権の統治手法を一層拡張するばかりで、体制を安定化させることはできなかった。
 一方、ソ連は忠臣的なタラキーの殺害に対して憤慨しており、アミン政権との関係が悪化する中、アミンはソ連から離反して隣国イランやパキスタンとの関係構築に動き、アメリカとの関係改善さえ模索しようとし始めた。
 このようなアミンの親西側への外交路線の修正は、それまで直接の軍事介入に消極的だったとされるソ連指導部に最終的な決断を促した。ソ連は79年12月、特殊部隊を動員した軍事作戦(嵐333号作戦)に基づき、アフガニスタンに侵攻し、アミン政権を転覆、アミンを殺害した(公式発表は反逆罪による「処刑」)。
 このように一国の指導者の殺害にまで及ぶ露骨な軍事介入作戦を展開してまで、ソ連がアフガニスタンに深入りしたのは、すでに中央アジア一帯を領土に取り込んでいたソ連としては、中央アジアに接続するアフガニスタンを戦略的要衝として確保し、東のモンゴルのような安定的な衛星国として傀儡化しようという戦略的な意図によるものである。
 歴史的に見ても、ロシアは革命前の帝政時代から、イランを含めた西アジアへの勢力拡大を狙い、当時の大英帝国と覇権を争う「グレートゲーム」を展開していたところであり、ソ連時代におけるアフガニスタンへの並々ならぬ利害関心も、こうした覇権追求の社会主義版と言えるものであった。
 軍事介入後のソ連はタラキーとアミンという指導者の相次ぐ死で凋落した人民派に見切りをつけ、やむを得ず旗派擁立策に切り替えていた。そのため、人民派政権によりチェコスロヴァキア大使に左遷されていた旗派指導者のバブラク・カルマルを呼び戻す形で、新政権のトップに据えた。
 そのため、この軍事介入以降のPDPA政権は旗派政権となる。この経過は、言ってみれば、ロシア革命を主導したボリシェヴィキが没落し、代わって穏健派のメンシェヴィキが政権に就いたようなものであり、革命の性格にも変化が生じる。


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