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近代革命の社会力学(連載第280回)

2021-08-16 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(2)シリア独立とバアス党の台頭
 シリアは、周辺諸国と同様、16世紀以降、オスマン帝国の版図に編入されたが、同帝国が第一次世界大戦に敗れたことでオスマン領を脱し、いったんはハーシム家のファイサル1世を迎えて王国として独立するも、ファイサルがイラク国王に「転出」した後、国際連盟により、フランス委任統治領とされた。
 こうして1920年以降は、実質上フランス植民地となったシリアであるが、独立交渉は1934年から開始され、36年には独立条約の締結に至る。しかし、フランスは批准せず、第二次大戦によりフランスがナチスドイツに占領されると独立問題は暗礁に乗り上げ、最終的に戦後の1946年になってようやく独立を果たした。
 バアス党が結党されたのは、独立の翌年1947年のことである。実際のところ、バアス党の前身となる運動体は独立以前から二系統あった。一つは哲学者のザキー・アル‐アルスーズィーが創始した流派、もう一つがミシェル・アフラクらの流派であるが、「バアス」という概念を創始したのはアル‐アルスーズィーのほうであった。
 それにもかかわらず、結党に際しては、アル‐アルスーズィーは排除され、彼の支持者も含めて、バアス主義者がアフラクらの流派に合流したという経緯がある。このような経緯を辿ったのは、アル‐アルスーズィーは思想家としての性格が強く、党の組織化のような政務は不得手であったためのようである。
 それでも、アル‐アルスーズィーはアフラクらを概念の盗用者として非難し、二つのバアス流派の対立は結党後もしこりとして残った。最終的にはアフラクらがシリアのバアス党から追放され、アル‐アルスーズィーが復権する逆転を見ることになるが、この件は後に改めて取り上げる。
 さて、シリアはイラクと異なり、当初から共和国としての出発であり、独立後間もなく経済成長も見せたが、政治的には混乱続きであった。まず独立直後、少数派でフランス統治時代には固有の領邦を与えられていたイスラーム教少数派アラウィー派が自治を求めて蜂起した(同派は52年にも再蜂起)。
 これが鎮圧されても、49年には独立後早くも最初の軍事クーデターが発生し、クワトリ初代大統領が政権を追われた。この49年クーデターは早期に収拾され、独立運動の古参指導者であるハーシム・アル‐アタッシーが大統領となるが、長続きせず、51年には再び軍事クーデターに見舞われ、今度はクルド系のアディブ・シシャクリ大佐が政権に就く。
 傀儡大統領を擁立した軍事政権を経て、1953年の形式的な選挙で大統領に就いたシシャクリは既成政党を禁止する一方で、社会主義に傾斜した比較的進歩的な官製政党を結成して独裁統治した。
 外交的には親英米の立場を採り、西側との良好な関係を保つとともに、汎アラブ主義・反イスラエルの立場を採った。一方、隣国のハーシム家イラク王国に対しては敵対的で、イラクとの連合を志向したアタッシーらとは鋭く対立した。
 だが、シシャクリ政権も長続きはせず、1954年にはもう一つの宗教少数派ドゥルーズ派の反乱に続き、シシャクリ政権下で抑圧されていた共産党やバアス党など左派系政党が関与するクーデターが起き、混乱が広がる中、シシャクリは辞任・亡命に追い込まれた。
 このシシャクリ独裁政権を倒した54年クーデターは民主化革命に近い性格を持ち、バアス党が最初に政治的に台頭する契機となった。この後実施された議会選挙で、バアス党は第二党の座を獲得したからである。こうして、「本家」シリアのバアス党は、まず議会政党として台頭したのであった。


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