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近代革命の社会力学(連載第304回)

2021-10-01 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(7)セーシェル革命
 今日、近隣のモーリシャスと並び、インド洋東アフリカ包摂圏のリゾート地として知られるセーシェルであるが、1970年代には、この楽園的島国も社会主義革命を経験している。
 セーシェルは18世紀にフランス領となったが、同世紀末にイギリスが占領して以来、モーリシャスと合併してイギリス領に転属されていたが、20世紀初頭にモーリシャスから分離され、単独植民地となった。
 第二次大戦後、自治が拡大されていく中、1960年代にフランス‐アルベール・ルネが率いる独立派の人民統一党とジェイムス・マンチャムが率いるイギリス残留派のセーシェル民主党の二大政党政が築かれた。この二大政党は、イギリス労働党をモデルとした社会主義志向の人民進歩党と保守主義のセーシェル民主党という形で、イデオロギー面でも明確な対立軸で分けられていた。
 そうした中、セーシェルが1976年6月に独立を果たすと、その直後は人民進歩党とセーシェル民主党の大連立政権の形を取り、マンチャム大統領‐ルネ首相という保革共存政権となった。これは、独立直後の暫定体制であり、両党の対立関係が止揚されないままの妥協の産物であった。
 その無理はすぐに明らかとなり、翌1977年6月、人民統一党員による革命が勃発した。これは当時、大陸アフリカにおいて革命の支援国となっていたタンザニアで訓練された最大200人程度の武装集団による武装革命であり、独立前後から準備されていたものと見られる。
 独立直後の小さな島国とあって、政府軍も未整備な中、革命は短時間で成功を収め、集団はセーシェルの主島マヘの要所を制圧した。この際、人民統一党党首のルネ首相は革命を事前に知らされていなかったと主張したが、革命成功後、直ちに大統領に就任した。
 党首が党員による革命計画を知らなかったという主張はにわかに信じ難いが、ルネは革命集団から大統領就任の要請を受けるに当たり、政治的人物の安全確保、国際合意の維持(特に米空軍衛星制御施設の維持)、翌年の選挙の実施の三条件を確約させたとしている。
 ルネとしては、武装革命のイメージを除去し、平和的な政権移行を演出しようとしたのであろうが、結局のところ、長年の政敵・マンチャムは政治亡命し、人民統一党はセーシェル人民進歩戦線(SPPF)と改称し、一党支配体制に移行した迅速な革命過程からすると、ルネ自身も革命プロセスに深く関与していたように見える。
 ちなみに、時を経てSPPF一党支配体制が終焉した後、革命当時の真相を究明するため、2018年に設置された真実和解と国民統一委員会(以下、真実委員会)では、ルネが事前に革命を把握し、関与していたことを当時の革命参加者が証言している。
 ともあれ、独立直後の空隙を利用した革命という点ではコモロ革命に類似していたが、その後の展開は大きく相違し、SPPFは1977年から91年まで一党支配による社会主義体制を維持した。この間はルネ大統領の実質的な独裁体制でもあった。
 ルネは、白人優越主義の人種差別体制を敷いていた当時の南アフリカを除けば、アフリカ圏諸国の指導者としては珍しく白人(フランス系)であったが、白人至上主義者ではなく、インド洋社会主義者・汎アフリカ社会主義者を公称した。
 むしろルネは南アフリカと敵対関係にあり、1981年には亡命中のマンチャムがアイルランド出身の著名な白人傭兵マイク・ホアーに依頼し、南アフリカの支援の下に大規模な侵略的反革命クーデターを敢行したが、ルネ政権はこれを阻止した。
 ルネはまた、ソ連流の共産主義者ではないとも公言したが、SPPFの一党支配体制はソ連の一党支配体制に類似した構制であり、この時期のセーシェルは東側陣営に属した。ただし、前出米空軍施設は維持され、西側とも断絶は回避した。
 経済的にも産業の国有化などソ連にならった定番の社会主義政策がいちおうは採用されたが、元来産業基盤の乏しい小島国であり、ソ連式計画経済の大展開は無理であった。
 一方で、ルネは同時代のコモロ革命指導者ソイリのような極端な教条性と急進性は示さなかったものの、全体主義的な傾向は持っていた。その象徴が、中等教育の年齢に達した若者に全寮制で自給自足的な生活をさせ、ある種のイデオロギー教化を実施するという文化大革命当時の中国の青少年農村下放制度にも似た国家青少年制度である。
 それ以外の点では比較的穏健と見られていたSPPF体制であるが、近年の真実委員会では政治犯に対する拷問や強制失踪、暗殺など、ルネの長期支配の元で長年隠されてきた人権侵害事例が明らかにされ、その評価が修正されつつある。
 そうした裏面の一方、革命後のルネの功績としては、1991年に自ら一党支配体制を放棄、複数政党制を復活させた後も、民選大統領として2004年の引退まで務め、一党支配体制終焉後にありがちな混乱を防いで民主化過程を見届けたことがある。
 なお、SPPFはルネの引退後も二度の党名変更を経て政権与党の座にあったが(2018年に統一セーシェルに改称)、2020年に新興の中道政党・セーシェル民主連盟/連合に政権交代した。


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