ザ・コミュニスト

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9条安全保障論(連載第6回)

2016-07-29 | 〆9条安全保障論

Ⅲ 非軍国主義体制

 9条は、過去の軍国主義体制に対する無慈悲な原爆攻撃という日本国民の体験に基づき、未来的非武装世界の実現へ向けた義務を課しているのであった。そこで、9条は過去時間軸として、そうした過去の軍国主義体制の清算という義務をも日本国民に課している。このことは、9条でもとりわけ第1項が明示している。

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 この法文前半の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求(する)」とは、まさに国際平和を踏みにじって、自国の利益を暴走的に追求した富国強兵の軍国主義体制との決別宣言とも読めるものである。

 ここで、日中戦争から太平洋戦争までの戦時体制を特に「天皇制ファシズム」と規定しつつ、9条で清算が要求されているのは、この一時期のファシズムにとどまるのではないかという疑問もあり得る。すなわち、民主主義の下での再軍備、文民統制された軍の再構築は許されるのではないかというささやきが、近年ますます強くなっている。
 言い換えれば、9条は戦前の一時期の体制の誤りに対する反省条文であって、民主主義が定着して久しい現在、そろそろ反省から抜け出し、軍備を持つ「普通の国」になってもよいのではないか、ということである。
 しかし、すでに別論稿でも考察したように、いわゆる「天皇制ファシズム」の本質は総力戦のための臨戦体制を構築する中で、神格化された天皇の権威を利用する形で軍部が主導したファシズム様の体制、すなわち擬似ファシズムであって、ナチスドイツやファシストイタリアのような真正ファシズムではなかった。
 ナチスドイツやファシストイタリアでは、ファシスト政党の解体を中心とした脱ファッショ化が戦後処理の中心を成し、再軍備は認められたのに対し、日本の軍部主導の擬似ファシズムの清算に当たっては、天皇を脱神格化・象徴化させて存続させつつ、軍国主義の大元である軍の解体に焦点が置かれた。
 そのため、軍の廃止・武装解除がまず目指され、しかも恒久化された。それで、再軍備の恒久的禁止という厳しい制約が課せられたのである。従って、9条を改正して再軍備することも「違憲」となるという形で将来の憲法改正の方向性にも制約がかかることになる。

 このようないささか厳しすぎると言えなくもない制約はまた、前回見た未来時間軸からも根拠付けられる。たとえ民主主義の下で文民統制を受ける軍であっても、再軍備化は非武装世界の実現に向けた義務に反するからである。だからこそ、解釈の出発点を未来時間軸に取ったのである。

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9条安全保障論(連載第5回)

2016-07-28 | 〆9条安全保障論

Ⅱ 未来的非武装世界

 前回の末尾で予告したように、9条の時間的に重層的な解釈の冒頭に来るのは、未来時間軸である。なぜ時制を未来からたどるかと言うと、9条の規範内容としては、この未来時間軸が究極の到達点であって、すべてはここを起点に解釈される必要があるからである。
 もしも、これを通常の時間的流れに沿って、過去→現在→未来とたどってしまうと、最終の未来時間軸はまさに遠い未来の話として、事実上棚上げされてしまう。実際、軍国主義者ですら、理念としての未来の非武装世界を正面からは否認しないだろう。

 ここでもう一度9条の文言に立ち返ってみよう。9条は二つの項に分かれるが、その中でも未来時間軸に直接に関わるのは、第2項である。同項はこうであった。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 これほど端的に軍隊の不保持と交戦権の否認を規定している憲法を持つ国は珍しい。それゆえに、改憲論者はこれを「異形の憲法」とみなして目の敵にするのだろう。しかし、非武装化は未来において人類が実現すべき究極目標である。
 国家が武装して相互に牽制・威嚇し合うという世界の構造が戦争の根源であることは明らかであり、まして核兵器のような殲滅兵器の保有が公認された少数の大国が世界をリードするなど、いかに考えても正気ではない。
 9条はあくまでも日本国の憲法の一条文であるから、さしあたりそれは日本国の戦力不保持を規定しているだけだが、日本一国が非武装政策をとっても、世界の恒久平和は達成されない。それどころか、改憲論者がしばしば脅し文句に使うように、一国非武装政策ではそれに付け込んで侵略を企てる国が出現するかもしれない。
 日本一国を超え、全世界で戦力不保持・交戦権否認が実現されて初めて恒久平和が実現するというのは、たしかなことである。従って、9条はその法文の表面的な意味を越えて、世界全体の非武装化まで想定した規定であると読むべきである。その意味で、「未来的非武装世界」なのである。

 ここで言っておかなければならないのは、未来的非武装世界は決して単なる理念・理想ではなく、憲法が具体的に指示する規範内容だということである。つまり、現在時から未来の非武装化へ向けたプロセスを推進する義務を課しているということである。
 この義務は、所定の行為をしなくても直ちに違憲とはならない努力義務ではなく、所定の行為をしないことは少なくとも違憲状態となる法的義務である。だからこそ、第2項は、「・・・これを保持しない」「・・・これを認めない」と定め、「・・・保持しないよう努める」「・・・認めないよう努める」とは定めていないのである。

 まとめれば、9条は日本国民に対し、未来的非武装世界の実現へ向けた法的な義務を課している。
 それにしても、憲法が何ゆえにそのような重い義務を日本国民に課しているかと言えば、やはり唯一の被爆国という特異な歴史的経験を背負う国民だからであろう。そして、そのような無慈悲な攻撃が向けられたのは、かつての軍国主義体制に対してであったのだから、9条は過去時間軸としてそのような軍国主義体制の清算という規範内容をも帯びているのであるが、これについては稿を改める。

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「女」の世界歴史(連載第39回)

2016-07-26 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(2)産業革命と女性

 産業資本家のようなブルジョワ階級が社会の主導権を握る時代をもたらした市民革命と相即不離の関係で同時並行的に進行していったのが、周知の産業革命であった。
 「機械が筋力をなくてもよいものとする限り、機械は筋力のない労働者・・・・・・・を充用する手段となる。だからこそ、女性・児童労働が機械の資本主義的充用の最初の言葉だったのだ!」
 『資本論』のマルクスがこう書き付けたように、産業革命は働く女性を増大させた。それまでの熟練した力仕事を要する手工業から、機械化された工業が主流化するにつれ、肉体的条件に恵まれない非熟練の女性労働力が望まれるようになったからである。女性にとって最初の主要な職場は、紡績・織物工場であった。
 こうして自ら労働し賃金を得て、家計を支えるようになった女性たちの家庭内での地位は向上した。この変革は、市民革命における女権思想の影響以上に、女性全体の地位向上にも貢献したと言える。
 とはいえ、女性労働者たちは低賃金・長時間労働を強制される劣悪な労働環境に置かれていたが、産業革命発祥地英国では、19世紀に入り、工場法の整備を通じて労働時間の短縮をはじめとする労働基準の強化が徐々に進んでいった。
 こうした労働基準の改善は労働運動の成果でもあったが、労働運動もまた男性中心主義傾向を免れなかった。産業革命期の女性自身による労働運動の嚆矢は、英国ではなく、米国に現れた。
 米国では、1824年に女性労働者による最初のストライキが記録されており、女性の労働運動が早くから活発であったが、この流れは1844年、10時間労働を要求するマサチューセッツ州の織物女工たちが結成したローウェル女性労働改革協会につながる。これを指導したのは、自身も女工の一人で、後に米国の女性労働運動家の草分けとなるサラ・バグリーであった。
 米国では、ローウェル協会が結成された4年後の1848年には、ニューヨーク州で最初の女権会議(セネカフォールズ会議)が開催された。ここでは、主催者の一人で、後に米国における女性参政権運動の先覚者となるエリザベス・スタントンがアメリカ独立宣言に対抗して起草した「すべての男女は平等に造られた」と宣言する「所感宣言」と、男女平等を達成するための諸決議案が採択された。
 米国における女性運動の出発点とも言われるセネカフォールズ会議を契機に、1850年から南北戦争直前の1860年までの毎年、全米女権会議が開催されるようになり、米国における女権運動の支柱となった。19世紀後半になると、女子教育の発達により、中産階級女性を中心に有識女性が増大したことも、女権運動を深化させていく。こうして、米国では労働者階級女性の労働運動が中産階級女性主体の女権運動を触発するような形で、女性運動が展開されていった。
 産業革命が西欧から海を超えて新大陸にも広がる中、労働を通じて社会参加し始めた女性たちが次に目指すのは、参政権の獲得であったが、これにはなお高い壁が立ちふさがっていた。

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「女」の世界歴史(連載第38回)

2016-07-25 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅱ部 黎明の時代

第四章 近代化と女権

[総説]:女権思想の展開
 女権の黎明期に現れた女帝たちは、それぞれの仕方で画期的ではあったが、所詮は男性権力の代替的な立場に過ぎず、彼女らの存在によって女性全体の地位が向上する効果は持たなかった。
 女帝に象徴されるような女性の権力ではなく、より普遍的な女性の権利という意味での女権思想が芽生えてくるのは、市民革命期以降のことである。それは、おおむね近代の本格的な始まりと一致している。
 とはいえ、当初は進歩的な啓蒙思想においても、女性の権利はまともに想定されていなかったが、18世紀の啓蒙思想は女性の自己啓発をも促進し、啓蒙専制女帝のような権力者のみならず、女性知識人という新たな階層を生み出した。
 その中から、女性の権利向上を意識的に追求する近代的なフェミニズムの思想が誕生し、近代以降の女性運動の理論的な軸として定着していく。このような流れは人権思想発祥地である西欧でまず発したが、その後、東西アジアにも広がりを見せていく。
 そうした流れと合わさる形で、近代国家における新たな女性権力として、西欧を中心に立憲君主型の新しいタイプの女王も出現してくるのが19世紀の状況である。
 他方では、産業革命以降、女性の労働参加が飛躍的に拡大し、女性は勃興する資本主義経済において不可欠の労働力となっていった。この流れは、思想の力以上に、女性の政治参加を求める運動を促進していったであろう。

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(1)市民革命と女性

 市民革命といっても、その嚆矢とみなされる17世紀英国における二つの革命、すなわち清教徒革命と名誉革命は、主として宗教問題を争点とする革命であったため、女性の地位にはほとんど何の影響も及ぼさなかった。
 ただ、女性権力という観点では名誉革命後、テューダー朝エリザベス1世以来となる女王メアリー2世がオランダ総督から招聘されたオランダ人の夫ウィレム(ウィリアム3世)とともにステュアート朝の共同統治者となったが、彼女は補佐的な役割が強く、かつ夫に先立って没した。
 女性の権利としての女権が本格的にクローズアップされるには、18世紀末のフランス革命期を待つ必要があった。そのフランス革命においても、主役は圧倒的に男性陣であったが、女性たちも影ながら参画していた。
 特に革命の導火線となったベルサイユ行進では、折からの食糧品の高騰に直面したパリの主婦たちが「パンをよこせ」のシュプレヒコールを叫び、宮殿と議会へ直訴に赴いたように、革命の口火は平民階級の女性たちが切ったのであった。
 当時の国王ルイ16世とその妃マリー・アントワネットは国民の生活を省みない特権的贅沢三昧の象徴とみなされており、特にマリー・アントワネットは「パンがなければブリオッシュを食べればよい」と言い放ったとされるが、この発言は事実無根であり、実際の彼女は慈善家的な顔を持っていたことが判明している。
 とはいえ、ベルサイユ行進に始まる革命は、まずルイ16世が人権宣言を承認させられることで、第一幕を終える。正式には「人間と市民の権利の宣言」と題されたこの憲法文書は、文言上はジェンダー平等に読めるが、実際のところ、人権享有主体として専ら男性を想定したものだった。
 このことを鋭敏に指摘し、対抗上「女性および女性市民の権利宣言」を作成・公表したのが、近代フェミニズムの先覚者オランプ・ド・グージュ(本名マリー・グーズ)であった。「女性は生まれながらにして自由であり、権利において男性と同等である」に始まるこの対抗的宣言において、ド・グージュは史上初めて女性の権利を簡潔な表現で定式化してみせたのであった。
 しかし、今日的には穏当な内容にすぎないド・グージュ流フェミニズムは当時、過激な危険思想とみなされ、革命政権の主導権を握ったジャコバン派からは敵視された。政治的にジロンド派寄りだったド・グージュ自身、ジャコバン派の恐怖政治に批判的で、ルイ16世夫妻の処刑にも反対したことから、王党派の烙印を押され、断頭台へ送られる運命となった。
 ジャコバン派が失墜し、革命が終息に向かうと、女性の議会傍聴禁止、集会禁止などの反動政策が現れ、仕上げのナポレオン法典では女性の従属的地位と法的無能力が明記されることとなり、女性の権利は抑圧された。
 結局、女性の権利に関する限り、市民革命は成果を生まなかった。しかし全く無意味であったわけではなく、近代的なフェミニズム思想の礎石が置かれたのも、市民革命を通じてであったこともまたもたしかである。

補説:アメリカ独立革命と女性
 新大陸側での市民革命という性格を持っていたアメリカ独立革命は、宗主国との戦争という形態を取ったため、フランス革命以上に男性、とりわけ軍人の主導性が強かった。しかし、ここでも独立戦争の引き金となる茶法への抗議行動ボストン茶会事件に触発され、51人の女性たちが起こした1774年のイーデントン茶会事件のように、革命の導火線を女性たちが引いていたことは注目される。
 また、マーシー・オーティス・ウォレンのように、当時はまだ珍しかった女性政論家として、革命を鼓舞する政治的著作や助言を通じ、後に初代大統領となるジョージ・ワシントンをはじめとする男性革命人士たちに影響を与える女性もいた。
 開戦後、女性たちは戦費調達や前線慰問など「銃後」の役割に回ることが多かったが、少数ながら戦闘に参加した女性たちも存在する。その中には男装で通した者もいた。その他、諜報員を務めた女性もおり、女性は独立戦争そのものにも少なからず関与していた。
 しかし結局、アメリカ独立革命で唱えられた自由や平等も、(白人)男性のものであることが暗黙に合意されており、独立達成後の合衆国政府において女性の解放は課題となり得なかった。よって、慎ましやかな内助の功に徹していた初代大統領夫人マーサ・ワシントンはアメリカ人女性の鑑として、まさにファーストレディであった。
 マーサとは対照的に、第2代大統領ジョン・アダムズの夫人アビゲイル・アダムズは女性の権利を主張し、夫の在任中、政治にもしばしば介入を試みたため、「ミセス大統領」と揶揄された。アビゲイル夫人が望んだアメリカにおける女性解放は、新興国として資本主義的発展を遂げていく19世紀の産業革命下で、労働運動を一つの動因として進んでいったであろう。

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9条安全保障論(連載第4回)

2016-07-23 | 〆9条安全保障論

Ⅰ 9条の重層的解釈

三 9条の時間的重層性

 法律の条文解釈において、一つの法文の時間軸が過去・現在・未来のすべてにまたがるということは通常なく、そのような時間的に重層化された解釈など、正規の法律解釈論からは非常識とみなされるだろう。しかし、こと9条に関しては、このような解釈が認められるべきものと思う。9条はそれだけ独特で、内容豊かな規定なのである。以下、その一端を示すが、詳細は次章以下で論じるとして、ここでは総説的に全体のアウトラインのみを記す。

 まずは、9条の過去時間軸として、9条の第1項が指示しているのは、軍国主義体制の清算である。過去の軍国主義体制とはすなわち、一世代前の明治憲法で規定されていたような富国強兵に基づく軍部優位の先軍的な体制の全体である。
 従って、単に戦争や武力行使をしなければよいというような政策的レベルにとどまらない体制変革が要求された。このことは、9条が第二章:戦争放棄に含まれる唯一の条文として、第四章以下の統治機構に関する章はもとより、基本的人権を定める第三章よりも前倒しで規定されているという独異な憲法構成からも裏付けられよう。
 こうしたことから、軍の不保持を定める第2項においても、旧日本軍の武装解除・全面解体がまずは要求されたと読める。このような軍国主義体制の清算は、すでに敗戦後の占領過程で実行済みである。

 次に、9条の現在時間軸としては、まず(1)清算された軍国主義体制の復活阻止である。軍国主義体制の清算は将来の復活を予定した一時的なものではなく、恒久的な要求である。この点は第1項で、国際紛争を解決する手段としての戦争と戦争に準じた軍事行動とを永久に放棄すると宣言されていることからも、明らかである。
 その一方で、現存国際社会が恒久平和を達成できる条件になく、依然として諸国が軍事力を保持し、軍事的な侵略の危険から解放されていない間においては、武力による自衛権を留保することを否定していないと理解される。こうした第二の現在時間軸としての(2)自衛力の留保に関しては9条の法文自体に明定されていないため、厳格解釈の立場からは逸脱した解釈だという批判もあり得るところである。
 しかし、国際慣習法及び国家の個別的自衛権を認める国際連合憲章の規定を援用することで、9条もこうした現在軸を一切否定するものではないという解釈は導けるだろう。ただし、第2項で軍の不保持は譲れないから、9条の下で保持できる自衛のための国家武力は軍隊組織や軍隊に転用可能な組織であってはならないという制約は付く。また交戦権も放棄されているから、自衛権の行使として発動できる武力は、侵略排除的・防御的な行動に限られる。
 9条の現在時間軸は、さらに(3)絶え間ない軍縮の継続を要求する。すなわち、世界における恒久平和の達成に向けて、軍縮の指導性を発揮すべきことを日本国民に課しており、それとの関連において、(2)で留保される自衛力についても、絶えず縮小が要求される。

 最後に、9条の未来時間軸として、恒久平和の達成である。つまり、地上からおよそ兵器も国家武力も一掃された理想状態である。9条が目指しているのはそのような到達点であって、現在時間軸止まりでは決してない。従って、現在時間軸で認められる自衛力の保持は恒久的であるという解釈は正しくない。
 具体的には、自衛のための国家武力も未来に向かって廃止されるべきものであって、現在時間軸の(3)で要求される軍縮・防衛力縮小の義務もまた単なるスローガン的な平和政策ではなく、そうした9条の未来時間軸から導かれる要求なのである。

 以上の9条の重層的解釈から導かれる国家目標を順に並べると、過去時間軸→非軍国主義体制現在時間軸→過渡的安保体制未来時間軸→未来的非武装世界とまとめることができる。次回以降では、この順序をあえて崩して未来→過去→現在の順にたどってそれぞれの内容をさらに展開していくことにしたい。

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戦後ファシズム史(連載第48回)

2016-07-21 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

3‐2:ターリバーンとイスラーム国
 イランのホメイニ指導体制が漸進的に脱ファッショしていく中、隣国アフガニスタンで、ホメイニ体制とも類似するスンナ派ファッショ体制が成立した。いわゆるターリバーン政権である。
 ターリバーンはアフガニスタン内戦で、社会主義政権が崩壊した後、イスラーム穏健派主体の軍閥連合政権が足並みの乱れから不安定化し、新たな内戦に突入していた94年頃活動を開始したイスラーム急進派グループであった。
 その創始者ムハンマド・オマルはアフガニスタンの多数派民族パシュトゥン人で、パキスタン領内のイスラーム学院で学び、社会主義政権及びその後ろ盾として内戦に介入したソ連と戦った元イスラーム戦士である。*オマルは2013年に病死していたことが公表されている。
 従って、オマルはイランのホメイニ師のような正規のイスラーム聖職者ではないが、この碧眼の元戦士はカリスマ性に富み、創設したターリバーンは急速に支持を広げ、パキスタン諜報機関を後ろ盾とする有力な武装勢力に成長した。そして、96年、首都カーブルに進撃、制圧し、政権を掌握した。
 政権に就いたターリバーンはオマルを元首とする「アフガニスタン・イスラーム首長国」を公称したが、この体制は湾岸首長諸国のような君主制イスラーム国家とは本質的に異なり、最高指導者オマルを絶対化する全体主義的かつ民族主義的なイスラーム体制であり、実態は共和制的である。
 ターリバーン体制は、イスラームの独自解釈に基づき、反西洋近代的な価値観から娯楽の禁止や女性への厳格な統制を含む全体主義的な社会管理を行なったが、そのイデオロギーは単なる「イスラーム原理主義」ならず、パシュトゥン・ワーリーと呼ばれる部族規範を重視するパシュトゥン優越主義であった。
 そのため、その5年間の支配下では、政治的な反対派のみならず、少数民族を対象とした民族浄化に相当する数々の組織的な殺戮も断行されたのである。
 一方、ターリバーンはスーダンを追われたビン・ラーディンを庇護し、アフガニスタンが新たなアル‐カーイダの拠点となったことから、2001年9月の米国同時多発テロ事件に関連し、米国主体の有志連合軍の攻撃を受け、体制そのものも崩壊した。崩壊後のターリバーンはパキスタン領内に拠点を置く武装勢力に戻り、2013年のオマルの死亡後もテロ活動を続け、アフガニスタンの不安定要因となっている。
 一方、米国がアフガニスタン戦争に続いて発動したイラク戦争によって当時のフセイン独裁体制が崩壊してシーア派主体の新政権が成立すると、イラクではスンナ派武装勢力が蜂起し、内戦状態に陥った。
 その混乱の中から現れたのが、イスラーム国を名乗る新たなスンナ派武装勢力である。この勢力はアル‐カーイダが米軍による2011年の最高指導者ビン・ラーディン殺害で弱体化する中、分派的に発生した新勢力とされる。
 その指導者アブー・バクル・アル‐バグダディの詳細な経歴は不明だが、元はアル‐カーイダ要員で、2013年頃分派を独立結成し、早くも14年6月にはイスラーム国家指導者カリフへの就任を宣言するなど、アル‐カーイダを含む従来のイスラーム聖戦勢力とは異なり、明確に国家統治を意識している。*バグダディは2019年、米軍による掃討作戦の渦中、自爆死した。
 実際、イスラーム国はシリア内戦とイラク政権の脆弱さに乗じて、シリア領内のラッカを事実上の首都に、イラク領内にまたがる領域を支配する事実上の統治勢力にまで成長した。しかし国際的な国家承認は受けておらず、その統治形態は現状、軍事的な占領支配に近い。カリフを称するアル‐バグダディにしても、中世以来の伝統的なカリフとは異なり、自称の要素が強い最高指導者であり、統治集団としてのイスラーム国の実態は多分にして共和制的である。
 イスラーム国の統治もターリバーンと類似したイスラームの独自解釈による全体主義的な社会管理であるが、民族主義的な性格の強いターリバーンとは異なり、イスラーム世界の統一という壮大な国際性を持つことが特徴であり、ある種の帝国主義を志向する。
 そのため、戦闘員も欧州を含む全世界から募集された多国籍集団となっており、単なるシンパの個人によるテロを含めた世界各地でのテロ攻撃のスポンサーともなっている。その手段として、インターネットを駆使した独自の宣伝・洗脳工作に長けていることも、単なるイスラーム原理主義とは異なる大きな特徴である。
 支配領域内の統治では、少数宗派の殺戮、性奴隷化や反対者の大量処刑などの強権支配を敷くほか、人身売買を公然と行い、外国人人質殺害などの見せしめも多用するなど、特異的な行動原理を持つ。 
 こうしたイスラーム国は、より穏当な見方によって「イスラーム原理主義」の特異例とみなすこともできるが、必ずしもそれだけでは説明がつかず、イスラームを唯一至上価値とする現代型ファシズムの一形態とみなすべき特徴を備えていると考えるものであるが、この点については仮説の域にある。
 イスラーム国に対しては、目下、米欧の有志国連合やロシアによる攻撃が継続的に加えられており、その支配領域は次第に狭まってきているとされるが、元来、強固な国家体制を築いていないだけにかえって壊滅させることが難しいというジレンマを抱えている。

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戦後ファシズム史(連載第47回)

2016-07-20 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

3‐1:スーダンのスンナ・ファシズム
 イスラーム教スンナ派はシーア派のような最高指導者の概念を持たないため、イラン革命後のホメイニ指導体制のようなファッショ体制は成立しにくいのであるが、ちょうどホメイニが没した1989年、アフリカのスーダンで、スンナ派系のファッショ体制が成立を見た。
 この体制は、同年に起きた軍事クーデターを契機とするもので、クーデターそのものの指導者はオマル・アル‐バシール将軍であったが、理論的・精神的指導者はイスラム主義政治組織の国民イスラーム戦線を率いるハサン・トラービーという二頭体制であった。
 国民イスラーム戦線自体は1960年代に結成されたムスリム同胞団系の学生組織を前身とするが、その性質は大衆組織というより、政府・軍などの国家機構に浸透して上からのイスラーム化を図る秘密結社的なものであった。89年軍事クーデターもそうした浸透戦略の結果である。
 当初は形式上軍事政権であり、先行事例で言えば77年から88年まで続いたパキスタンのジア軍事政権と類似していたが、ジア政権の重点が冷戦期の反共にあり(反共ファシズム)、イスラーム化は社会統制の手段的色彩が強かったのに対し、バシール‐トラービー政権にあっては、全体主義的なイスラーム化が目的的に志向されていた。
 当時、スーダンは北部のアラブ系主体のイスラーム勢力と南部の非イスラーム系諸部族の間で内戦状態にあり、軍事クーデターは南部も包括したイスラーム化の徹底を図る北部内の強硬派が仕掛けたものであった。結果として、内戦は激化し、北部でも世俗主義者らの大量パージが行なわれた。
 この体制は、アル‐カーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンを庇護するなど、90年代半ば頃までは、スンナ派における反米イスラーム主義の拠点とみなされたため、アル‐カーイダの犯行とされる98年のケニア・タンザニアの両アメリカ大使館爆破事件に関連し、米軍による首都ハルツーム空爆を招いた。
 そうした中、アル‐バシールは一つの方策転換を決断する。国民イスラーム戦線を乗っ取る形でこれを政党組織としての国民会議に衣替えし、99年には強権を発動してトラービーを追放したのである。これは欧米との関係改善を狙い、形式上の民政移管を実行する過程での軌道修正であった。
 これによって、アル‐バシール政権は形の上では議会政治の体裁を整えたのであるが、実態としてアル‐バシールの独裁体制に変更はなく、軍政擬似ファシズムを管理ファシズムに移行させたにすぎなかった。
 この修正体制の下で発生した人道危機が、2003年頃からのダルフール紛争である。これは従来の南北間内戦と交錯する形で、西部ダルフール地方のイスラーム教徒諸部族間で発生した民族紛争にアル‐バシール政権が介入して起きた人道危機である。
 政権はアラブ系民兵組織に加担する形で民族浄化を実行し、30万人以上が殺害されたとも言われるが、その全容はなお不明である。この件に関連して、アル‐バシール大統領は2009年、国際刑事裁判所から人道に対する罪等の容疑で逮捕状を発付される事態となったが、現時点でも執行されていない。
 他方、懸案の南北内戦は2005年の内戦終結を経て、2011年には南部が南スーダン共和国として独立する運びとなったが、その後も南北間での国境紛争が断続的に発生するなど不安定である。
 アル‐バシール政権は、現職大統領の国際訴追という異例の事態を経ても、現在に至るまで強力な支配力を保っており、近代スーダン史上最長期政権の記録を更新中である。近年は、中国との結びつきを強め、石油開発で財政経済を支えており、開発ファシズムの色彩も帯びている。

[追記]
アル‐バシール政権に対しては、2018年から大規模な民主化デモが勃発し、これを受けた軍部が2019年4月にクーデター決起し、アル‐バシールを辞職に追い込み、拘束した。最大権力基盤であった軍部に裏切られた形である。結局のところ、アル‐バシールは、30年がかりでも軍部に依存しない本格的なファシズム体制を確立できなかった結果であろう。ちなみに、クーデター後の軍民合同の暫定政権は、2020年2月、アル‐バシールの国際刑事裁判所への身柄引き渡しに同意した。

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戦後ファシズム史(連載第46回)

2016-07-19 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

3:イスラーム・ファシズム
 
イスラームとファシズムは、水と油ほどではないが、直接に結びつくことはないというのがおそらく現在でも通説と考えられる。しかし、現代型ファシズム論においては、必ずしもそうではなく、イスラーム・ファシズムと呼ぶべきいくつかの事例を抽出することができる。
 元来、団体を意味するfascioに由来するファシズムとは国家主義と完全なイコールではなく、全体主義的共同体主義の謂いであるところ、イスラーム主義にあっても、そこでは西欧的な国家よりも、イスラーム信仰で結ばれた共同体=ウンマ(umma)の樹立が志向される。
 ummaとfascioは互換性があり、もしummaの運営を機能的な国家組織を通じて行なうならば、そこにイスラーム・ファシズムの成立する余地があることになる。そうした意味でのイスラーム・ファシズムの先駆的な事例は、1979年のイスラーム革命で誕生したイランの新体制であっただろう。
 イラン革命は、それ以前、イランの西洋近代化を絶対王政的な手法で上から主導してきたパフラヴィー王朝体制を打倒し、イスラーム神政体制を樹立したことで、20世紀後半の世界に衝撃を与えた出来事であった。
 この新体制の指導者アヤトラ・ホメイニは、シーア派(十二イマーム派)の高位聖職者―正確には「法学者」であるが、世俗法学者と区別するため、「聖職者」と表記する―であり、従って、革命体制もシーア派教義に基づいて構築されていったが、彼には現実主義者としての一面があった。そのため、この体制はしばしば「イスラーム復興主義」とも称されながら、単なる宗教反動ではなく、近代国家の現実にも適応しつつ、共和制の下でカリスマ的なイスラーム聖職者を頂点とする全体主義的な国家運営が目指された点で、ファシズムの特徴を備えていた。
 このような体制がイスラーム少数派のシーア派にまず現れたのは、同派では第四代正統カリフであったアリーとその子孫のみが資格を有するとされるウンマの最高指導者イマームという概念を擁するためと考えられる。イマームは現在、「隠れた」状態にあるが、ホメイニの理論によれば、彼自身のような権威ある高位聖職者が終末に再臨するとされるイマームを代行して国家統治に当たるべきものとされる。
 このイスラーム・ファシズム体制は、イラン革命時に結成されたイスラーム共和党(87年に解党)を政党的な基盤とし、同党は革命後の体制防衛装置として設立された革命防衛隊を軍事部門としてホメイニ指導体制を支えたため、これはほぼ真正ファシズムの類型に該当するものだったと言える。
 ホメイニによる指導体制は革命後から同師が死去した89年まで約十年にわたって続いたが、その実態は高度の権威主義的統治であり、この間、宗教的規律に基づく厳格な社会統制と、旧体制要職者や世俗主義者、社会主義者らに対する弾圧・大量処刑が断行された。
 もっとも、イランのイスラーム・ファシズムはホメイニの個人的な権威に支えられている面が強かったことから、彼の没後、後継者となった弟子のハメネイの指導下では、神政体制枠内での漸進的な民主化が進行することによって、徐々に脱ファッショ化されていき、今日のイラン体制は保守派と穏健派、改革派の間で擬似的な政権交代現象も見られる半民主主義と言うべき独自の体制に移行していると評し得る。
 他方、シーア派のような最高指導者概念を持たない多数派スンナ派の側では、イラン革命体制に匹敵するような体制は見られなかったところ、89年軍事クーデター後のスーダンを皮切りに、イスラーム・ファシズムとみなし得る体制がいくつか出現してきているので、次回以降に検討することとする。

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9条安全保障論(連載第3回)

2016-07-16 | 〆9条安全保障論

Ⅰ 9条の重層的解釈

二 絶対的解釈と相対的解釈

 9条の解釈に際しては、絶対的解釈と相対的解釈の対立があるが、私見はそのいずれに対しても批判的である。そこで、それぞれの解釈の内容とその問題点について、検証してみたい。

 まず絶対的解釈とは、9条の規範内容を絶対的に受け止め、完全非武装を要求する趣旨と解釈する立場。これによれば、現行自衛隊のような国家武力の保有は端的に9条に違反することになる。このような解釈によった場合、仮に日本が海外から侵略されたときにいかなる対応をするかについては、見解が分かれ得る。
 一つは、全面的な無抵抗主義である。これは倫理的に非暴力を徹底するもので、侵略者に対しても抵抗せず、服従することをよしとする。倫理的な首尾一貫性という点では崇高な思想に基づくが、現実政治において実践することが極めて難しい立場でもある。
 もう一つは、侵略に対しては国家武力ではなく市民的抵抗で臨むとする立場である。その場合、抵抗の内容として、占領軍に対する非協力・サボタージュといった非暴力手段に限るならば、第一の無抵抗主義に近づくことになる。
 そうではなく、民間義勇軍を組織して、占領軍に武装抵抗することをよしとするなら、民間義勇軍のような市民的武装組織の保持は9条に違反しないということになる。ただ、そのような組織をいかに制度化し、訓練・維持していくのか、また占領軍に対する戦略的実効性に関しても議論の余地があろう。
 さらにもう一つは、外国軍に防衛を委託するという立場である。これは現に一部の小国が採用している政策であり、自衛隊の前身たる警察予備隊が創設されるまで占領下の日本でも採用されていた立場だが、外国軍に全面的に依存するなら、それは事実上軍を外国と共有し合っているに等しくなり、9条との矛盾性も生じかねない。
 こうした絶対的解釈は、戦争の傷跡と記憶が生々しかった憲法制定初期には決して少数意見ではなかったはずだが、間もなく自衛隊が創設され、既成事実として国内的・国際的にも定着してくると、こうしたある種の理想主義的な解釈は退潮し、現在では少数意見にとどまっていよう。実際、平和運動関係者なども、「自衛隊違憲論」はほとんど口にしなくなっているのではないか。

 これに対して、相対的解釈は、9条の規範内容を相対化し、その要求水準を緩める解釈である。これは、前回指摘したように、本来は一続きにしてもよかった9条が条文を二項に書き分けたことに付け入って、技巧的な解釈を施そうとする企てである。
 その際、国際平和の希求を目的とする第1項は精神規定として読まれ、この条項は未来に向かって恒久平和を希求しているかもしれぬが、戦争の可能性が消え去ってはいない現実世界にあって、国家が保有する自衛権まで否定する趣旨ではないと解釈する。
 そうしたうえで、軍の不保持と交戦権放棄を定めた第2項にあっても、第1項が容認している自衛権行使に必要な国家武力の保持及びそれによる自衛権の発動は禁止されないと解釈するのである。これによれば、自衛隊の存在と自衛隊による自衛権の行使は9条に違反しないことになる。
 ただ、行使可能な自衛権の範囲に関しては議論が分かれ、かつては日本国単独での個別的自衛権に限られると理解するのが多数であった。しかし、同盟国にも応分の防衛負担を求める同盟主米国の意向や冷戦終結後の世界情勢の変化といった外部環境の変化に対応して、集団的自衛権を認めるべきとの意見も浮上してきた。そこから、「限定的な集団的自衛権」である限り、9条に違反しないとの解釈が現われ、昨年これに基づく立法化がなされたことは記憶に新しい。
 かねてより、こうした相対的解釈には解釈に名を借りた「解釈改憲」であるとの批判が向けられてきたが、蟻の一穴のたとえどおり、個別的自衛権を認めたところから9条の空洞化が進み、ついには集団的自衛権の解禁に至って、9条の規範内容はほぼ流失したと言える段階まで来たわけである。
 元来、相対的解釈は9条、中でも軍の不保持と交戦権の放棄を定める第2項を連合国占領軍によって強制された武装解除条項としてこれを排除したい衝動に根ざしているので、最終的には改憲による第2項の廃止が目指されている。

 以上の全く正反対方向の二様の解釈それぞれをひとことで批評するなら、絶対的解釈は思弁的、相対的解釈は作為的と言えるだろう。ただし、相対的解釈者の胸中に再軍備によって国家的尊厳を取り戻すといった思弁が働いているなら、相対的解釈にも思弁性が隠されていると言えるだろう。

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9条安全保障論(連載第2回)

2016-07-15 | 〆9条安全保障論

Ⅰ 9条の重層的解釈

一 9条の構成

 9条の時間的に重層的な解釈を示すに当たり、まず9条がどのような構成でできているか、はじめに再確認しておく。9条の法的な注釈・解説は憲法の教科書類でなされているので、あえて繰り返すまでもないように思えるが、以下では、本連載との関連で見落とせない点だけ簡潔に言及する。
  

第1項
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

  
 9条はこのように、二つの項から成るが、別々の内容を立てているのではなく、第1項と第2項は連続している。本来は一つの条文に一本化してもよかったのだが、長文化を避けるためか、二項に分けて規定された。
 第1項は目的条項であり、国際平和の希求及び戦争と武力による威嚇・武力行使の永久的放棄が宣言されている。ここで注意すべきは、「永久」という無限概念が使われていることである。もしこの文言が含まれておらず、単に「放棄する」であれば、将来の改憲によって放棄を撤回することもあり得るが、「永久に」とあることから、これは将来の改憲によっても撤回しないと宣言したことになる。
 このように、第1項で示された目的は、将来の憲法改正の方向性をも指示する強い拘束力を持っているのである。つまり、日本国民は永遠に戦争や戦争に準じる軍事力の行使をしないとの憲法的な誓いである。
 これを受けた第2項は、第1項の目的を達成するための手段として、戦力の不保持及び交戦権の否認が規定された手段条項となっている。本項で注意すべきは、前段で放棄する対象として「陸海空軍その他の戦力」と包括的に定めていることである。従って、名称は陸海空軍でなくとも、能力的に戦力として投入され得る国家武装組織の保有は禁じられることになるのである。
 もう一点、第2項後段ではあえて交戦権の否認を明記していることの意味である。前段で戦力の包括的放棄を規定しておけば、事実上交戦はできないから、あえて交戦権の否認を明記することもないはずだが、後段はダメ押し的に、法的にも国家としての交戦権を否認することで、事実上のみならず、法的にも交戦できないようにしているのである。

 かくして、9条は世界に稀なる徹底した非武装平和主義の法的な表現となっている次第である。それゆえ、これを文言どおり絶対化して解釈すれば、日本国は永遠に完全非武装でなければならないことになる。
 しかし、その一方で、先に少し触れたように、9条は本来一続きの文章を二項に分割規定したことから、1項と2項を分断したうえ、規定全体の趣意を相対化し、最終的には骨抜きにしてしまえるような相対的解釈の余地をも生んできたのである。次回は稿を改め、こうした絶対的解釈と相対的解釈とについて、批判的に対比検証する。

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改憲―早期の国民投票を

2016-07-14 | 時評

先般の参議院選挙によって、戦後初めて与野党改憲勢力が衆参両院で三分の二に達した。これにより、数字上は憲法上の改憲発議の要件をクリアすることとなった。これは当面は数字問題だが、長い目で見れば日本の戦後史における画期点である。

選挙では改憲問題の争点化を極力避けた政権与党であるが、三分の二クリアという結果に内心色めき立っているのは間違いない。今後、政権与党がどのような政略に出るかは予断を許さないが、改憲本丸の9条をさしあたり避けて、緊急事態条項とか、プライバシー権・環境権条項の創設などを先行させる迂回戦術を採る可能性が高い。

改憲勢力が9条改憲に不自然なほど慎重なのは、世論調査を見る限り、国民の間に依然9条護持論が少なくないことを懸念しているせいだろう。また昨年新たな「解釈改憲」によって「限定的な」集団的自衛権を解禁したことで、それ以上の拡大につながる9条改憲を言い出しにくくなっているという皮肉な自縛もあるかもしれない。

そこで、迂回戦術によって時間稼ぎし、9条を除外した「お試し改憲」をする。その間に世論工作を展開して9条改憲論を高めたところで、最終的な本丸の国民投票に持ち込もうとの算段が透けて見える。

しかし、世論工作によって一定の結論が作られている問題を国民投票にかけるのは、民主的な国民投票ではなく、ある種の喝采政治、独裁の手段である。国民投票は国論が二分されるような争点について、あえて国民が直接に決断するときに初めて民主的な意義を発揮する。

他方、護憲勢力も、9条問題を国民投票で決着させることを臆するべきではないと思う。議論が煮詰まっていないという反論もあるが、煮詰まっていないのは、9条以外の条項に関する改憲議論のほうであって、9条に関しては論争の歴史は長く、まさに現行憲法制定時から半世紀以上論争が続いてきた。

通常、改憲問題と言えば9条問題を指すほど、9条改憲論/護憲論それぞれの議論のアウトラインはすでに出揃っており、あとは最終的な総括論議のみという段階に来ている。拙連載「9条安全保障論」も、そうした総括論議の材料の一つと認識している。

世論調査上は「安倍政権下での改憲に反対」という微妙な条件付き護憲論も根強いようだが、先送りすればするほど、先の迂回戦術に乗せられて、かえって国民投票結果が操作される危険もあることが懸念されるのである。そうならないためにも、あえて安倍政権下で9条問題に決着をつけたほうがよいと思われる。

決めるのは、有権者国民である。護憲派なら反対票を投ずればよいだけである。結果として、賛成多数でいよいよ改憲となったら、多数決に従って新憲法下で生きるか、あるいは信念を貫き、軍隊のない外国に移住・帰化するか自己決定しよう。

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「女」の世界歴史(連載第37回)

2016-07-13 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(4)二人の啓蒙専制女帝

 ロシア・ロマノフ朝のエカチェリーナ1世、アンナ、エリザヴェータまでの三女帝は、それぞれピョートル大帝の皇后、姪、娘であり、いずれもピョートル大帝の身内という立場からの登位であったが、ロシア四人目かつ最後の女帝となるエカチェリーナ2世は全く別筋からの登位である。
 エカチェリーナ2世は、ドイツの小さな領邦君主の家系に生まれたドイツ人であり、ロシア人ですらなかったが、政略婚により父方がやはりドイツ人のロシア皇太子ピョートルに嫁ぎ、ロシアに渡った。
 エカチェリーナは夫がピョートル3世として即位したことで皇后となったが、幼少期から高い教育を受け、教養人だったエカチェリーナは幼児性が抜けなかったとされる夫とは全く性格が合わず、早くに家庭内別居状態に陥っていたため、公式には夫妻の子とされるパーヴェル皇太子も男性遍歴の多かったエカチェリーナの不倫の子とする風評があった。
 その真偽はともかく、エカチェリーナ以上にドイツ的な夫ピョートル3世は親プロイセンの立場を公然と示したことで、ロシア国内では不評であった。そうした状況下で、反ピョートル派が動き、クーデターでピョートルを廃位し(後に不審死)、エカチェリーナ皇后を帝位に就けたのである。
 宮廷クーデターによる女帝の登位は、これで最初の女帝エカチェリーナ1世、エリザヴェータに次いで三度目であり、ロシアにおける女帝が宮廷内の派閥抗争・権力闘争の反映であることを示している。
 こうして史上四人目の女帝となったエカチェリーナは思想上は啓蒙思想の信奉者であり、ヴォルテール、ディドロなど当代一流のフランス啓蒙思想家と文通していたことから、しばしば啓蒙専制君主の代表格とされるが、統治者としてはロシア社会の保守性・後進性に制約され、必ずしも啓蒙的な統治を展開できなかった。
 実際、大規模な農民反乱プガチョフの乱を徹底的に粉砕し、悪名高い搾取的なロシア農奴制は彼女の治世で頂点に達した。また晩年に勃発したフランス革命に際しては、反革命国際同盟にこそ参加しなかったものの、国内的には革命の波及を防ぐべく、思想統制を強化した。
 他方で、37年に及んだ長い治世は安定し、対外的には二度の露土戦争に勝利し、帝国領土を東方に拡張したほか、三度のポーランド分割に参加し、自由主義的なポーランド‐リトアニア共和国を解体した。
 こうして、エカチェリーナ2世はロシア帝国を近世ヨーロッパ列強の一つに押し上げる基礎を築いた名君となるが、彼女の意に反して後継者となったパーヴェル1世は幼少期からエリザヴェータ女帝の下で養育され、生母エカチェリーナとは疎遠、不和であった。
 そのため、即位後はエカチェリーナの政策を否定し、しかも帝位継承法を定め、男系が断絶しない限り女子の帝位継承を禁止したため、以後、ロシアでは女帝は輩出されなくなったが、パーヴェル以降、1917年の革命で王朝が崩壊するまで、ロシア皇帝はすべてエカチェリーナの子孫から出ている。

 ここで、エカチェリーナより一回り年長だが、統治期間が重なるもう一人の啓蒙専制女帝としてオーストリアのマリア・テレジアを対照させておきたい。実のところ、マリア・テレジアは正式には女帝(女性皇帝)ではなく、神聖ローマ皇后という立場にとどまっていたが、夫である皇帝フランツ1世を凌ぐ実権を保持したため、歴史叙述上「女帝」と同視されてきた。ここでもそれに従う。
 さて、オーストリアも包含されるゲルマン諸王朝ではサリカ法の解釈上、女子の王位継承は否定されてきたが、マリア・テレジアの父カール6世には世継ぎの存命男子がなかったことから、やむなくロートリンゲン家の娘婿フランツを形式上後継者としつつ、娘マリア・テレジアにハプスブルク家領土の相続を認めるという苦肉の策に出た。
 これに付け込んで周辺諸国が介入してきたのが、オーストリア継承戦争であり、マリア・テレジアは治世初期の8年間をこれに費やさざるを得なかった。この戦争では一部領土割譲を余儀なくされるも、自身の領土相続は確定させることに成功した。
 その後は、従来の外交政策を転換して、フランスやロシアと同盟し、ライバルのプロイセンに対抗した。その結果がプロイセンとの七年戦争であるが、ロシアの親プロイセン派ピョートル3世の裏切りもあり、この戦争はほぼ引き分けに終わる。
 しかし二つの戦争を通じて、オーストリアは徴兵制軍隊などの軍制の近代化を推進し、西欧列強として飛躍していった。このように軍事強国化を導いた点では、マリア・テレジアもロシアのエカチェリーナ2世と共通する。
 啓蒙政策に関しても、ロシアのエカチェリーナ同様、マリア・テレジアも改革志向ながらやや保守的な面があり、このことは、ほとんど実権のなかった夫フランツが1765年に他界し、急進改革派の息子ヨーゼフ2世が即位して母との共同統治に入ると、ヨーゼフとの確執として現れた。
 マリア・テレジアはフランス革命前の1780年に没したため、親フランス政策の一環としてフランスのルイ16世に嫁がせた余りに名高い娘マリー・アントニア(アントワネット)がフランス革命の渦中で処刑される運命を知ることはなかった。
 オーストリアでは最期まで女子の皇位継承は認めず、正式の女帝が輩出されることはなかったが、ヨーゼフ2世以降、1918年の革命で王朝が崩壊するまで、オーストリア君主はすべてマリア・テレジアの子孫から出ている。

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「女」の世界歴史(連載第36回)

2016-07-12 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(3)ロシアの女帝時代

 東ヨーロッパの大国ロシアでは、17世紀初頭、300年にわたり、近世ロシアを演出することになるロマノフ朝が登場する。この王朝下では、18世紀に入り、断続的ながら四人の女帝が出現した。
 従来、ロマノフ朝以前のロシアでは女王(女性君主)は事実上のタブーであり、正式な女王は一人も輩出されていなかったところ、ロマノフ朝になって女帝が出現した理由は、ロシアにおいても、ピョートル1世の手により遅れて西欧的な近世帝国の建設が始まったことと関連しているかもしれない。
 ただ、ロシアの女帝時代を直接に切り拓いたのは、年少で即位したイヴァン5世及びピョートル共同皇帝時代の摂政となったピョートル異母姉ソフィア・アレクセーエヴナ(イヴァン同母姉)であったと思われる。野心的なソフィアは、それまで皇族女性が宮殿の奥に事実上隔離されて暮らしていた慣例を破り、自ら政治の表舞台に登場する先例を作った。これは、限定的ながらロシアにおける女性解放の最初の一歩であった。
 元来は異母弟ピョートルの登位を阻止するため実権を握ったソフィアは7年間の摂政期に内政外交でいくつかの成果を上げ、結果的にピョートル時代を準備する中継ぎの役割を果たしたが、ピョートルが成長するとその地位は揺らぎ、1689年、ピョートル派の圧力により摂政の座を退き、修道院に隠棲したのだった。
 正式にロシア最初の女性君主となるのは、1725年から27年まで短期間だけ女帝の座に就いたエカチェリーナ1世であった。彼女は、農民の娘から時の皇帝ピョートル1世側近アレクサンドル・メンシコフ将軍家の女中となり、さらにピョートルに「献上」されたのをきっかけに皇帝の愛人となり、ついには皇后に昇格するという異例の階級上昇を遂げた女性である。
 ピョートルには前妻として貴族出身の皇后エヴドキヤ・ロプーヒナがいたが、彼女は保守的で、ピョートルが推進する西欧化改革に反対する勢力の代表者となっていたため、不仲のまま離婚に至り、二人の間の長男アレクセイも粛清されていた。ピョートルが後継指名しないまま1725年に没した時、保守派はアレクセイの遺子ピョートル・アレクセーエヴィチを推したが、改革派及び近衛隊はクーデターを起こし、皇后エカチェリーナを帝位に就けた。
 このような政情不安の中で、ロシア初の女帝は誕生したのだった。即位の経緯からしても、エカチェリーナ1世は夫ピョートル大帝の路線を継承する中継ぎ的な役割に限定され、実権もかつての雇い主メンシコフに握られていたが、唯一、軍事大国を目指した大帝時代に膨張し過ぎた軍事費の削減だけは女帝主導で断行するなど、気骨あるところも示した。
 エカチェリーナが治世2年で病没すると、メンシコフの策により12歳になったピョートル・アレクセーエヴィチがピョートル2世として即位するが、彼は14歳で夭折、後継には、ピョートル大帝の姪に当たるアンナ・イヴァノヴナが就いた。ここで再び女帝の登場である。
 彼女に白羽の矢が立ったのは、保守派がピョートル直系を嫌い、女帝を傀儡化しようとしたことにあるとされるが、即位後のアンナは傀儡を拒否し、ピョートル時代の専制体制を復活させた。ただ、アンナの治世は凶作や疫病が相次ぐ中、重税策もあり、しばしば「暗黒時代」とみなされるが、アンナ女帝はドイツ人顧問らに実務を委ねつつ、基本的にはピョートル大帝の西欧化・近代化政策を継承する手堅さも見せた。
 10年の治世の後、アンナが没すると、次帝はアンナの遺言に従い、アンナの姉の孫に当たるわずか生後2か月の幼帝イヴァン6世となったが、ここでピョートル大帝の娘にして野心家のエリザヴェータ・ペトロヴナが近衛隊を動かしてクーデターを断行、イヴァンを廃して、自らロシア三人目の女帝に就く。
 彼女の母はエカチェリーナ1世で、母はエリザヴェータを後継者に望んでいたが、エリザヴェータの出生時、母はまだ愛人であったため、婚外子とみなされ、実現しなかった。しかし、大帝の娘として、エリザヴェータは常に有力な帝位継承権者であり続け、特にアンナ女帝からは警戒されていた。
 即位後のエリザヴェータは実務を有力な側近らに委ね、自らは関心の高かった文化事業に没頭した。また啓蒙君主の先駆け的な存在でもあり、特に即位時の公約として治世中死刑の宣告を停止する進歩的な政策を採った。
 他方では、クーデターで得た自身の正当性を欠く帝位を守るため、エリザベータは廃位に追い込んだ幼い前皇帝イヴァン6世を匿名で要塞監獄に生涯拘禁し、その両親・きょうだいもイヴァンから引き離して別途監禁するという徹底した非情さも持ち合わせていた。
 20年以上にわたったエリザヴェータ女帝の治世は、農奴制の強化という悪制や多数の愛人の存在といったライフスタイルを含め、様々な点でロシア女帝の集大成とも言うべき後のエカチェリーナ2世の時代を準備する役割を果たしたと言えるであろう。
 エリザヴェータ後継者の甥ピョートル3世の皇后からロシア四人目の女帝となるエカチェリーナ2世は啓蒙専制君主の代表格としても名高く、その事績も多岐にわたるため、改めて次回にまわすことにする。

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「女」の世界歴史(連載第35回)

2016-07-11 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(2)マレーの女性君主たち

 欧州の近世帝国で女帝が現れ始めた時代に前後して、パタニとアチェという東南アジアの二つのマレー系有力港市国家で、連続的に女王が出現したことがあった。両国は当時イスラーム化されていたため、これら女王はイスラーム圏では稀有の女性君主ということになる。
 この時代、イスラーム圏の東の辺境に当たる場所で連続的に女性君主が輩出された理由は明らかでないが、大航海時代以降、西洋列強の進出に直面する中、これらマレー系港市国家にも権力再編の必要性が生じていたということが想定できる。
 このうち今日のタイ深南部に位置したパタニ王国は周辺諸国の中でも早くからイスラーム化した先駆国であったが、港市国家としては先行のマラッカが16世紀初めにポルトガルにより滅ぼされて以降、イスラーム商人の交易中心がパタニに遷移したことで、繁栄するようになった。
 そうした中、王室の内紛を経て1584年に即位した最初の女性君主であるラトゥ・ヒジャウは、その30年余りの治世で、ポルトガル、オランダなど西洋列強から購入した西洋式兵器によりパタニを宗主的地位にあったタイのアユタヤ朝から防衛しつつ、西洋列強との貿易、さらに豊臣→徳川時代初期の日本との朱印船貿易も推進し、パタニをマレー半島最有力の貿易国に押し上げた。
 こうした強い指導力を発揮した点で、彼女は近世女帝的な性格を最も帯びていたと言えるかもしれない。ラトゥ・ヒジャウが1616年に没した後も、ラトゥ・ビルとラトゥ・ウングという二人の妹が連続して王位を継ぎ、さらに後者の娘ラトゥ・クニンが継承した。 しかし、ラトゥ・クニンの時代になると、オランダはすでに貿易拠点を台湾に移転し、日本も鎖国政策に入っており、パタニの貿易中心としての地位は著しく低下していた。
 加えて、勢力を回復したアユタヤ朝の脅威も増すなか、ラトゥ・クニンは隣国クランタン王国の介入的クーデターにより追放され、敗走中に死亡したとされる。彼女の死をもって、パタニ王室は断絶し、以後はクランタン系の王朝となる。
 このパタニと商業上のライバル関係にあったのが、現インドネシアのスマトラ島北端に位置したアチェ王国である。パタニの女性君主たちは、ラトゥ(首長)とのみ称し、スルターンを名乗らなかったが、アチェの女性君主たちはスルターンを名乗り、明確に女性スルターンとして君臨した。
 アチェ最初の女性スルターンは1641年に即位したタジュ・ウル‐アラムである。彼女は先々代スルターンの娘にして、行政改革によって王権を強化した先代イスカンダル・サニの王妃から即位した。その経緯は不明だが、イスカンダル・サニの改革に反発した貴族層の反改革として、実権を持たない女王が望まれたとも言われる。
 実際、タジュ・ウル‐アラムはほぼ象徴的な存在にとどまり、政治の実権は世襲制の地方首長に握られていた。しかし、彼女は当時の年代記やオランダ人の証言によっても、精神的に気高く、尊敬に値する人物とされ、30年以上に及んだその治世は平和と繁栄を享受したとされる。
 当時のアチェは貿易でも栄えたが、それ以上にイスラーム教学・文学における東の中心地としての声望を高め、タジュ・ウル‐アラムは統治者としてよりは文化的な後援者として事績を残したようである。
 タジュ・ウル‐アラムの没後、奇しくもパタニと同様、さらに三代続けて女性スルターンが継ぐが、最後のザイナトゥッディーン・カマラット・シアの時代には、女性スルターンへの不満が高まっていた。
 最終的に、1699年、女性スルターンはイスラムの原理に反するとする聖地メッカの裁判官からのファトワに基づき、カマラット・シアは廃位され、アラブ系末裔の男性スルターンに取って代えられた。こうして、アチェでも四代60年近くにわたって続いた女性スルターンの時代は終わりを告げたのである。
 同時に、パタニとアチェの女性君主時代の終わりは、両国が次第に衰退し、やがて前者はタイの、後者はオランダの支配に下る時代の始まりでもあった。なお、アチェはオランダから独立したインドネシアの一部として、最終的にインドネシアに組み込まれることとなった。

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9条安全保障論(連載第1回)

2016-07-07 | 〆9条安全保障論

序論

 昨年における集団的自衛権の「限定的な」解禁により、憲法9条の規範性はいよいよ損なわれ、憲法規定と政治的現実との乖離が現行憲法史上最大化した。その結果、9条は世界の憲法の中でも最も欺瞞的な条項と化することとなった。言わば「憲法詐欺」である。
 このような状況にまで立ち至ったのは、9条の意義を日本国民が深く究明することなく、片や連合国占領軍に強要された屈辱の完全武装解除条項にすぎないとして敵視し、片や9条をいかなる武装も武力行使も許容しない絶対平和主義条項として改憲策動に対抗するというともに教条主義的な護憲vs改憲の綱引きに終始してきたことによる。
 この綱引きは近年、右から引いていた改憲チームが優勢となって、勝利を収めつつある。集団的自衛権の解禁はその最初の勝利であり、次なる最終勝利は9条そのものの廃止ないし廃止に等しい全面改訂である。
 このような流れはもはや既定的と言える情勢にあるが、土俵際で護憲チームが逆転勝利する可能性が残されていないわけではない。そのためにも、護憲論は自己改革を遂げなくてはならない。この小連載は、そのような護憲論の自己改革の手がかりを探ることを目的とする。

 その基本的な視座をはじめに述べておくと、それは9条の重層的な解釈ということに尽きる。とりわけ時間的に重層的な解釈である。すなわち、9条は現時点で国が為すべきことを固定的に指示しているのではなく、過去の軍国主義体制を否定する一方で、未来における常備軍の廃止=完全非武装を展望しつつ、それへ向けての漸進的な軍縮を指示しているという解釈である。
 しかも、軍縮の過程では、その時々の国際情勢を考慮した合憲的な安全保障政策の経過的な定立を排除するものではなく、外国との安全保障同盟や非常的な場合における外国軍との共同武力行使の可能性も排除しないという柔軟な解釈である。
 この軍縮の中間的な過渡的段階における安全保障政策を、9条に基づく安全保障論という趣旨で、「9条安全保障論」(略して「9条安保論」)と名づける。これが本連載のタイトルであるが、それは9条の規範内容の一部を取り出したものにすぎない。あえてそのように一部を表題的に取り出したのは、この「9条安保論」こそが、9条を安保政策の桎梏とみなしてこれを除去しようとする9条廃止論への唯一の有効な対抗軸となると考えるからである。

 このように9条を現在・過去・未来の時間軸に応じて重層的に解釈していくという方法は、所与の法文の意味を現時点における固定的な規範内容に集約しなければならないとする法解釈の学術的な常道には反するであろう。さらに、人集め・オルグをしやすい平和のキャッチフレーズ化にもなじみにくい。そのため、憲法学者からも平和運動家からも白眼視されるかもしれない。
 しかし、実際のところ、教条的な9条護持論をいくら掲げても改憲の流れを押しとどめることはもはやできないであろう。とりわけ、議会政治の枠内で9条廃止へ向けた改憲を有効に阻止したい勢力は、「9条安保論」を一度は考慮する価値があると考えるものである。本連載はそのような意図を込めて送り出される。
 折りしも、本年7月の参議院選挙の結果、史上初めて、与野党に及ぶ改憲勢力が憲法上衆参両院で改憲発議が可能な三分の二に達することとなった。これにより、いよいよ「改憲ロケット」が発射台に置かれる準備が整うことになる。そういう微妙な情勢下で開始される当連載には、一定の意義があるかと思われる。

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