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近代革命の社会力学(連載補遺28)

2022-10-08 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(2)清朝藩部の半自治的支配構造
 辛亥革命以前、モンゴルやチベットを含む清朝の異民族辺境版図は本土の直轄域とは区別されて藩部と呼ばれ、藩部を管理する理藩院によって統括されていた。理藩院管轄下の藩部には、内外蒙古、チベット及びチベットの連続域とも言える青海、さらにかつての西域に当たる新疆の各領域があった。
 理藩院は元来、清朝がモンゴルを征服した後、なお強大であったモンゴル諸部族を統治するために設置した蒙古衙門を前身組織とし、1638年に蒙古衙門を拡大改組して理藩院に改称したものである。なお、清末の1906年に理藩部と再改称されたが、以下では理藩院で総称する。
 理藩院は中央省庁の一つではあったが、集権的統治機関ではなく、管轄下の各藩部では原則的に民族自治が許されており、ある意味では現代中国における名目的な少数民族自治区の制度よりも広い自治権が保障されていた。
 そもそも清朝は中国大陸における少数民族である旧女真族=満州人が建てた王朝であり、満州人皇帝が各民族の共通君主として立ち、漢民族やその他の少数民族を包摂してある種の同君連合を形成していたため、民族自治は辺境統治のありようとしても自然なことであった。
 特に、モンゴルを含むチベット仏教圏では、清朝皇帝は智慧を司る文殊菩薩の化身にして、天から授かった輪宝なる武器を所持し、地上を仏法に基づき治める理想の王としての転輪聖王を一身に体現した「文殊皇帝」として君臨するという皇帝観の下に、清朝の支配が受容・正当化されていた。
 とはいえ、各藩部は清朝が軍事的に征服した結果として清朝の版図に併合されたものであるから、完全な自治が認められたわけではなく、中央から文武官を派遣して、自治事務の監督や封爵、朝貢をはじめとする主要な朝廷事務に従事させた。
 こうした半自治的支配はしかし、清朝末期の体制動揺期には直接統治方針に転換され、1884年に新疆が地方行政区分の省に転換されたことを皮切りに、モンゴルやチベットを含むその他の藩部も省・州・県のような地方行政区分に再編する計画が企図された。
 特に中国大陸中心部(中原)に北方で接続する蒙古では、新式軍隊の配備を含む上からの強制的近代化政策を導入するとともに、漢民族の入植を奨励し、伝統的な遊牧地の削減を政策的に実施するなどしたほか、チベットでも1903‐04年の英国による侵略・占領後、清朝の直接統治に転換された。


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