ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第23回)

2019-09-30 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(4)革命諸派の形成  
 18世紀フランス革命の最初期において、第三身分を中心とした革命派はジャコバン修道院を拠点とする緩やかな革命派集団を形成していた。この集団・通称ジャコバン・クラブは、正式名称を「憲法友の会」といい、当初は民主憲法制定という一点である程度結束していた。  
 しかし、革命プロセスが深化していくにつれ、ここから様々な党派が分岐し、熾烈な権力闘争を展開していく。ただ、近代的な政党政治の時代は未だしであったから、これらの諸派が政党化されることはなく、有力革命家を囲む派閥集団のようなものであった。  
 そのうち、最も早く党派的に分離したのは、革新派貴族のラファイエットや上層ブルジョワ階級を中心にフイヤン修道院に拠ったフイヤン派であった。この派の基本的な信条は穏健な立憲君主制であった。従って、王制打倒は目標とせず、王制廃止を訴える共和派とは対立した。  
 権力に固執する王朝にとっても、立憲君主制への移行は妥協可能なぎりぎりの限界線であったから、1791年に正式に立法議会が発足すると、フランス最初の近代的責任内閣はフイヤン派が担うこととなった。  
 一方、王制廃止を主唱する共和派には、当初から穏健なジロンド派と急進的な山岳派の対立軸が存在していた。この両派が最初に衝突したのは、マリ‐アントワネット妃の故国オーストリアが主導した革命干渉戦争への対処をめぐってであった。ジロンド派は主戦論、山岳派は反戦論と分かれた。  
 ジロンド派は主戦論という点ではフイヤン派とも連携しており、立法議会ではしばらく両派が交互に内閣を担う与党勢力となった。しかし、伝統的な貴族指揮官が亡命により不足していたうえ、新設の国民衛兵は前線に投入するには訓練不足ということもあって、戦争では連戦連敗を重ねることとなった。敗戦は主戦派のジロンド、フイヤンの両派の評判を落とす要因となった。  
 しかも、フイヤン派にとって、1791年7月17日、ルイ16世の廃位を求めてシャン・ド・マルス練兵場に集結した5万人のデモ隊に対して国民衛兵が発砲し、死者を出した「シャン・ド・マルス事件」が決定的な没落要因となった。この武力弾圧は、国民衛兵司令官ラファイエットとパリ市長バイイのフイヤン派主導で行なわれたからである。  
 そうした中、1792年8月10日、、民衆が再び決起し、「ベルサイユ行進」以来、国王一家が軟禁されていたテュイルリー宮殿を襲撃して一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した事件を機に、立法議会が王権の停止を決定すると、立法議会は新たに行政権をも掌握する共和制の国民公会に移行した。  
 国民公会の初期にはまだジロンド派が多数を占めていたが、これに対して山岳派が対抗する。進歩的な商工ブルジョワジーを支持基盤とするジロンド派に対し、山岳派は中産階級とパリを中心とする都市労働者階級を支持基盤としていたが、その実、明確なイデオロギーには乏しく、その内部がさらに個人を囲む小派閥に分かれていた。  
 山岳派内部で比較的穏健だったのはジョルジュ・ダントン率いるダントン派で、最強硬派はジャック・ルネ・エベール率いるエベール派、意外にも後に恐怖政治を断行することになるマクシミリアン・ロベスピエール率いるロベスピエール派は両者の中間派であった。  
 国民公会初期のジロンド派と山岳派の対立は、ルイ16世の処遇をめぐって生じた。王党派ではないが、国王を免責して革命に一応の区切りをつけたいジロンド派に対し、山岳派は国王夫妻が干渉戦争中に外国と通謀していた疑惑が浮上したことを理由に、国王夫妻の訴追と裁判を要求した。  
 元来ジロンド派は、 ジャック・ピエール・ブリッソーや貴族出身のニコラ・ド・カリタ(コンドルセ)といった有力者の集団指導制の緩やかな党派で、まとまりを欠く傾向にあったところ、国王裁判をめぐってはいっそう内部分裂し、党派としての凝集性を喪失してしまった。  
 やがて、国王夫妻の処刑が現実のものとなると、これを主導した山岳派が国民公会の最大党派として台頭、恐怖政治の中でジロンド派は弾圧、解体された。こうしてひとまず山岳派の天下となるが、この派も先述したように小派閥に分裂し、権力闘争に明け暮れていく。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第8回)

2019-09-29 | 〆世界共同体憲章試案

第6章 汎域圏全権代表者会議

〈構成〉

【第17条】

汎域圏全権代表者会議(以下、全権代表者会議という)は、世界共同体を構成する五つの汎域圏における民衆会議が選出した常任全権代表によって構成する。

[注釈]  
 汎域圏は世界共同体の構成主体の一つではあるが、総会には直接参加することなく、全権代表者会議を通じて世共の執行部を構成する。

〈任務及び権限〉

【第18条】

1.全権代表者会議は、総会の付託を受け、その決議事項を迅速に遂行する権限及び義務を有する。

2.全権代表者会議は、その権限に属するすべての事項について、総会に対して発議することができる。

3.前二項のほか、全権代表者会議の権限及び義務は、この憲章でこれを定める。

[注釈]  
 全権代表者会議は、総会決議事項をそれぞれが代表する汎域圏内の全領域圏に指令することを通じて執行機関としての任務を果たす。そうした消極的な任務に加え、総会に対する発議権を通じて積極的な政策提案をする任務も有する。

〈会合及び決定〉

【第19条】

1.全権代表者会議は、総会の会期中は、毎週一回定期的に会合する。

2.全権代表者会議は、総会の会期中か会期外かを問わず、必要に応じて臨時に会合することができる。臨時の会合は、全権代表者会議の構成員のいずれか一人または総会構成領域圏の過半数の要請によって招集される。

3.全権代表者会議の決定は、五人全員が出席し、かつ少なくとも四人以上の多数決をもってこれを行なう。ただし、三人の賛成があった案件は、改めて三か月の期間をおいて採決にかけるものとする。

[注釈]  
 全権代表者会議は合議体であるから、すべての案件を合議して決定する。しかし、決定法は総会と異なり、単純多数決ではなく、四人以上の賛成という厳格な特別多数決によることを原則とする。ただし、三対二の僅差の場合は、同一の案件を半年後に再度採決に付して最終決定とする。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第7回)

2019-09-28 | 〆世界共同体憲章試案

〈表決〉

【第13条】

1.各構成領域圏は、総会において、各々一個の投票権を有する。

2.総会における投票は各構成領域圏が独立した判断に基づいて行ない、汎域圏その他の地域的なブロックごとに行なってはならない。そのために、総会議場における各構成領域圏代議員の着席順は、会期ごとに抽選により決するものとする。

3.総会の決定は、出席し、かつ投票した領域圏の過半数によって行なわれる。ただし、構成領域圏の権利及び特権の停止並びにこの憲章の改正の決定については、三分の二の多数によって行なわれる。

4.可否同数の場合は、全権代表者会議の決定に付託するものとする。

[注釈]
 総会の表決は、構成領域圏の平等な一票によって決せられる。その際、投票は各領域圏が独自に行ない、地域ブロックごとに意志統一して行なうことは禁じられ、それを保証するために、代議員の着席も会期ごとの抽選制とする。平等な一票制を堅持する趣旨からである。
 総会決議の成立要件は原則として単純多数決によるが、例外として構成領域圏の資格停止と憲章の改正については、三分の二の特別多数決による。

〈手続〉

【第14条】

総会は、年に二回の通常会期として、また、必要がある場合に、特別会期として会合する。特別会期は、各理事会の要請または世界共同体構成領域圏の三分の一以上の要請があったとき、全権代表者会議がこれを招集する。

[注釈]
 世界共同体総会は、原則として毎年二回通常会期を開催する。この点は、年末に一回だけの国際連合総会との相違である。

【第15条】

1.総会は、その手続規則を採択する。総会議長及び副議長は、各構成領域圏の代議員の中から、会期ごとに抽選によって選出する。総会議長を擁する構成領域圏は、副議長の抽選に参加することはできない。

2.総会議長及び副議長は、総会における投票権を有しない。この場合、総会議長または副議長を擁する構成領域圏は、代理の代議員を通じて投票する。

[注釈]
 総会の正副議長は、抽選で選出する。世界共同体総会は、それ自身も民衆会議として抽選制度を取り入れる。

【第16条】

総会は、その任務の遂行に必要と認める補助機関を設けることができる。

[注釈]
 最も重要な補助機関は常設の事務局であるが、それ以外にも、総会は必要に応じて常設または臨時の補助機関を設けることができる。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第6回)

2019-09-27 | 〆世界共同体憲章試案

第5章 総会

〈構成〉

【第9条】

1.世界共同体の総会は、世界民衆会議がこれを兼ねる。

2.総会は、世界共同体を構成するすべての領域圏及び直轄自治圏でこれを構成する。

[注釈]
 世界共同体総会は、単なる外交機関ではなく、それ自体が民衆会議ネットワークに組み込まれた民衆代表機関である。

【第10条】

1.各領域圏は、総会において、領域圏民衆会議によって選出された一人の代議員を有するものとする。

2.合同領域圏は、合同全体で会期ごとの輪番制による一人の代議員を有するものとする。ただし、加盟領域圏の数が8以上の合同領域圏は、各々異なる領域圏から選出された二人の代議員を有するものとする。

3.合同領域圏の加盟領域圏のうち、代議員を有しない合同構成領域圏は、各一人の副代議員を有するものとする。副代議員は、総会において議決権を有しないが、討議に参加し、意見を述べることができる。

4.直轄自治圏は、総会がすべての直轄自治圏民衆会議の同意を得て選任する一人の直轄自治圏特別代表を通じて総会に参加するものとする。この場合、各直轄自治圏は総会に各一人のオブザーバーを派遣することができる。

[注釈]
 世界共同体において、各領域圏は各一人の代議員によって代表されることが原則である。ただし、合同領域圏では合同全体で一人の代議員が代表するが、8以上の領域圏から成る大合同の場合はこの限りでない。また、直轄自治圏はすべての直轄自治圏を束ねる直轄自治圏特別代表を通じて参加するが、オブザーバーを通じて特別代表を牽制することができる。

〈任務及び権限〉

【第11条】

1.総会は、この憲章の範囲内にある問題若しくは事項またはこの憲章に規定する機関の権限及び任務に関する問題若しくは事項を討議し、構成領域圏及び直轄圏に対して拘束力のある議決を行なう最高機関である。

2.総会は、世界共同体のすべての機関から年次報告及び特別報告を受け、必要に応じて、これを審議する。

[注釈]
 総会は、世界共同体における最高議決機関であり、その議決は全構成主体を拘束する。この点は、主権国家の連合にすぎず、加盟国の主権に対し常に譲歩を迫られる国際連合とは大きな相違点となる。

【第12条】

総会は、汎域圏全権代表者会議から発議された案件については、優先的にこれを審議しなければならない。

[注釈]
 汎域圏全権代表者会議は世界共同体の執行機関として総会の決議を遂行する義務を有するとともに、総会に対して政策的な発議をすることができるが、この発議案件は、その重要性に鑑み、他の案件に先立って優先審議する義務を生じる。

コメント

近代革命の社会力学(連載第22回)

2019-09-25 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(3)民衆蜂起と革命の開始  
 18世紀フランス革命は、民衆が武器を取って決起する民衆蜂起型革命の代表例と言えるが、そのような民衆革命に進展するに当たっては、各々「バスティーユ監獄占拠」「ベルサイユ行進」として銘記されている二弾にわたる民衆蜂起のプロセスがあった。
 第一弾の「バスティーユ監獄占拠」は、1789年7月14日、当時国王軍の弾薬庫として使用されていたバスティーユ監獄に民衆が押しかけ、弾薬の引渡しを要求した末に、監獄を占拠した事件である。  
 この事件に至った契機は、ルイ16世が財務長官ジャック・ネッケルを罷免したことにあった。銀行家のネッケルは革命前から財政再建に取り組んでいたが、貴族の免税特権を廃止することに力を注いだため、貴族層の反発を買っており、かれらの意向を汲んだ王妃マリ‐アントワネットらの圧力で罷免に追い込まれたのであった。  
 この反改革人事が第三身分と民衆の怒りを呼び起こし、パリ市内では散発的な騒乱が発生した。警戒を強める国王軍に対抗するため、パリでは臨時市政委員会が設置され、独自の民兵が組織された。しかし、国王軍との武力の非対称は歴然としていため、市政委員会は国王軍から弾薬を回収することを狙ったのである。
 当初は平和裏の交渉が行なわれたが、当局側が弾薬の引渡しを拒否したことに苛立った群衆がついにバスティーユ監獄の占拠に踏み切る。これに成功し、勢いづいた群衆は、監獄の司令官ベルナール‐ルネ・ド・ローネーら数人の要人を超法規的に処刑している。このような粗暴なやり方は、後の恐怖政治への予兆と言えたかもしれない。  
 このバスティーユ監獄占拠は、革命の本格的な開始の合図となった。翌月、制憲国民議会は封建的貴族特権の廃止と人権宣言を発した。国王もパリの革命市政と民兵を正式に承認せざるを得なくなった。こうして、民兵は正式に国民衛兵に昇格し、初代司令官にはラファイエットが任命された。士官が選挙で選出された点を除けば、徴兵による国民衛兵は近代的な国軍の原型となった。  
 この時点で革命をリードしていたのは、まさにラファイエットら革新的貴族グループであり、かれらは英国で確立されつつあった立憲君主制の支持者であった。しかし、ルイ16世とその支持派は立憲君主制にすら拒否的で、人権宣言も承認しようとせず、緊張関係が続いた。  
 そうした中、10月5日、折からの食料品価格の高騰に抗議する女性グループが決起し、国王の居城であるベルサイユ宮殿に向けて行進を開始する。これをバスティーユ占拠の功労者の一人でもあるマイヤールに先導された男性たちが追い、さらには創設されたばかりの国民衛兵も加わって、大規模なデモ隊となった。  
 趣味の狩猟から戻ったルイ16世は圧力に押されてパンの配給を表明するが、デモ隊の勢いは止められず、翌日には宮殿を占領、国王を拘束するに至った。群衆は国王一家を連行して別邸のテュイルリー宮殿に軟禁した。  
 ここに至り、ルイ16世はようやく人権宣言を承認したのである。このような重大な帰結を導いた民衆蜂起第二弾の主役となったのは、生活感覚を持った平民の女性たちであった。革命に女性が主体的に関わったのも、18世紀フランス革命が初と言えるであろう。

コメント

近代革命の社会力学(連載第21回)

2019-09-24 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(2)旧体制の動揺  
 フランスでは、最初の統一王朝であったカペー朝時代の14世紀初頭、第一身分:聖職者、第二身分:貴族、第三身分:平民から成る一種の議会制度である全国三部会が創設され、主として課税問題に関する議決権を保持していた。  
 ただ、全国三部会は近代的な意味での国民代表議会とは異なり、封建制を土台とする身分制議会にすぎず、その権限は限られていた。そのうえ、カペー朝を継いだヴァロワ朝、さらにその後継ブルボン朝の時代になると、いわゆる絶対王政が確立され、三部会自体が有名無実化してしまう。  
 そうした中、フランス絶対王政の代名詞的存在であった「太陽王」ルイ14世の頃から、宮廷の濫費に加え、覇権競争のための対外戦争の多発により、財政赤字が累積し、絶対王政が行き詰まり始めた。しかし、14世を継いだ曾孫ルイ15世時代の財政改革はことごとく失敗に終わった。  
 15世を継いだルイ16世もまた、最大の懸案として財政再建に取り組もうとしたが、その目玉となる貴族に対する免税特権の廃止は、当然にも貴族層の激しい抵抗により頓挫した。  
 こうした財政問題が革命の下地となった点では、17世紀英国革命とも類似するが、異なるのは議会を封鎖して専制を強めた英国のチャールズ1世と異なり、ルイ16世は、―貴族階級の法的牙城であった司法部に強いられてのこととはいえ―全国三部会の召集に応じたことである。三部会の召集は、実に175年ぶりであった。  
 このように有名無実化し、事実上廃止されていたに等しい三部会を召集したこと自体が、すでにある種革命的な出来事であったが、実際、王朝にとっては裏目に出たのである。その点、英国では常設され、活動中の議会を無視したことが議会勢力主導の革命を誘発したが、フランスでは長く放置されていた議会を召集したことが革命を誘発したのであった。  
 三部会は、上述のとおり、身分制議会であったから、当然一枚岩ではなく、まともに開催すれば三身分間の階級闘争の場となりかねない危険を孕んでいた。大雑把に言えば、第一身分と第二身分は地主階級、第三身分は農民と都市労働者階級であった。  
 実際、1789年の三部会は最初から波乱含みであった。国王と第一・第二身分にとっては税制問題が主要議題であったが、第三身分はそうした限定討議に満足しなかった。この時代の第三身分は、中世時代よりも実力をつけていたうえ、一人の扇動者により思想的にも鼓舞されていた。  
 その扇動者エマニュエル‐ジョゼフ・シエイエスは自身聖職者であったが、下級職のため、第三身分代表として三部会に参加していた。彼は「第三身分とは何か-すべてだ」という言葉に始まる革命的パンフレット『第三身分とは何か』を公刊し、第三身分=平民こそが真の国民代表であると唱導した。  
 これに触発された第三身分は三部会を離脱して、新たに国民議会を形成した。ここに至って、危機感を強めたルイ16世は弾圧を試みようとするが、シエイエスの呼びかけにより第一・第二身分からも賛同者を得ていた国民議会は抵抗し、自ら制憲国民議会へと格上げした。  
 制憲国民議会は、この時点ではまだ非公式の超法規的な機関にすぎず、王権側はいつでも軍を使って力で解散させることができる状態に置かれていたが、頼みの第一・第二身分も動揺しており、武力弾圧に踏み切れなかったことが、王朝にとっては禍根となる。

コメント

近代革命の社会力学(連載第20回)

2019-09-23 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(1)概観  
 アメリカ独立革命に若干遅れて、18世紀末の欧州にフランス革命が勃発する。この先、19世紀後半にかけてのフランスは、欧州はもちろんのこと、世界全体においても、未遂を含めた革命が最も頻繁に継起する場所となる。そうしたおよそ一世紀に及んで継起するフランス諸革命の出発点となったのが、1789年に始まるフランス革命である。  
 通常、単に「フランス革命」という場合は、この1789年発のフランス革命を指すことが多いが、当連載では、これを19世紀中のフランス諸革命と区別して、「18世紀フランス革命」と呼ぶことにする。  
 18世紀フランス革命は世界歴史上においてもあまりにも著名な革命であるため、教科書類をはじめとして、内外で様々な角度から膨大な論考がなされているが、当連載ではタイトルに従い、革命の社会力学という観点からとらえ直すことになる。  
 その点、18世紀フランス革命では、民衆蜂起に始まり、革命移行期の動乱、君主処刑、反革命干渉戦争、革命勢力内部の権力闘争とその結果としての革命的独裁、恐怖政治、軌道修正、そして最終的に革命の終息と帝政の樹立という劇的なプロセスが展開された。  
 総体としてみれば、18世紀フランス革命はいったん成功した革命が長期的に失敗した革命の事例であるが、それだけに革命という営為に関わる多くの教訓を含んだ「革命の教科書」と言うべき先例である。
 長期的にも成功した近代革命という点ではアメリカ独立革命が世界初であるが、一国内部での純粋な近代革命という限りでは、18世紀フランス革命が世界初の先例としての意義を持っている。  
 もっとも、アメリカ独立革命は18世紀フランス革命の触媒となり、その独立宣言はフランス人権宣言に影響を及ぼす一方、人権宣言はアメリカ合衆国憲法が当初欠いていた人権条項を修正条項として事後的に追加させる契機となるというように、両者は新旧大陸をまたいで相互に影響し合っている。  
 そうした相互影響を象徴する人物が、ラファイエットである。旧体制貴族ながら自由主義者の彼は義勇兵としてアメリカ独立戦争に大陸軍側で参戦し、帰国後はフランス革命初期に革新的貴族層のリーダーとして活躍し、人権宣言の起草者ともなった。  
 ラファイエットは18世紀フランス革命が急進化していく過程でいったん失権するが、世紀をまたぎ1830年の七月革命で復権し、継起するフランス諸革命においても、二つの革命をつなぐ役割を果たした稀有の貴族革命家であった。  
 19世紀フランス最初の革命となった七月革命は、長いスパンで見れば、18世紀フランス革命が挫折し、旧体制が復活した後、再度の軌道修正としてより民主的な立憲君主制まで巻き戻されたという意味で、18世紀フランス革命の延長と言えなくもないが、社会力学という観点からは、七月革命には独自に考察すべき特徴があるため、後に別途扱うことにする。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第23回)

2019-09-22 | 〆貨幣経済史黒書

File22:世界大恐慌

 1929年に始まる世界大恐慌は、90周年を経た現時点でも、貨幣経済の暗黒史の中で最大級の事象である。この出来事は19世紀以降膨張を続けてきた資本主義のある意味「集大成」とも言え、その影響範囲もまさに世界的規模に及んだ。  
 大恐慌の原因や経緯に関しては現在に至るまで経済学におけるメインテーマとして膨大な論考がなされているので、ここでは立ち入らないことにする。それに代えて、大恐慌が主要国に引き起こした状況を概観してみる。  
 まず「震源地」アメリカが地獄絵図となったことは言うまでもない。大恐慌のピークとみなされている1933年の時点で、GDPは繁栄の1920年代に比べほぼ半減、工業生産高は三分の一減、株価は80パーセントの大暴落、全銀行の業務停止という状況の中、失業者1千2百万人超(当時の総人口約1億2千万人)、失業率25パーセントという惨状であった。  
 しかも、時のフーバー共和党政権は、根拠のない楽観視により、自由放任経済の伝統政策に固執し、積極的な経済介入を控えたことで、恐慌からの早期脱出に失敗した。このことは、ローズヴェルト民主党政権への交代と、より介入主義的な「ニューディール政策」への歴史的な政策転換を促すこととなった。  
 アメリカと並んで大打撃を受けたのは、ドイツである。ドイツは第一次世界大戦の敗北で巨額の賠償金債務の負担にあえぐ中、アメリカ資本の進出によって戦後不況を克服しつつあったところ、大恐慌を機にアメリカ資本の引き上げが相次いだことで不況脱出は頓挫、銀行や企業の倒産が相次ぎ、失業率は40パーセントにも達した。  
 これに対し、時のワイマール体制ブリューニング政権がデフレ政策で臨んだことは逆効果的に経済危機を深め、立憲的なワイマール体制の崩壊につながった。代わって登場するのが、ヒトラー率いるナチス党である。  
 ナチスは、債務問題の大元であるベルサイユ条約への反抗を軸に、自立経済による雇用拡大や再軍備、さらに侵略による領土拡張といった膨張政策で大恐慌からの脱出を図り、一定の成功を収めたが、その代償は非人道的な暴政であった。  
 ドイツと対照的な道を行ったのが、イギリスである。イギリスは、恐慌を機に七つの海に広がる超大な植民地経営が行き詰まり、植民地の自治領化と新たなイギリス連邦の結成を軸に、ブロック経済化と金本位制離脱で対応しようとした。  
 金本位制からのイギリスの離脱はフランスにも遅効的に大恐慌の影響を波及させ、物価上昇や失業の増大、株式市場の崩落をもたらし、ドイツの再軍備への警戒から、ソ連に接近して仏ソ相互援助条約の締結という奇策に走らせた。  
 一方、日本では大恐慌に先行した昭和金融恐慌の処理に目途がついたところへの大恐慌の直撃となった。加えて、大恐慌渦中の1930年に実施した金輸出解禁策はデフレーションを招来するとともに、生糸の対米輸出の急減に伴う生糸価格の暴落を機に、農産物市場の崩落が起きた。そこへ東北地方の冷害という自然現象が追い打ちをかけ、農業恐慌に陥った。  
 これに対して、昭和金融恐慌以来、引き続き高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大策に加え、中国大陸への侵出と植民地の拡大という膨張に活路を見出して恐慌脱出に成功するも、ために抑圧的な軍部主導体制の成立という代償を伴った点は、ドイツの場合と類似している。  
 特筆すべきは―スターリンの恐怖政治という代償を伴いつつではあるが―、社会主義体制を採り、世界市場から退出して独自の計画経済による経済開発を進めていたソ連は当時の主要国で唯一大恐慌の余波を免れ、着実に工業生産高を伸ばしたことである。
 ソ連は貨幣経済そのものを廃止したわけではなかったが、計画経済によって投資管理を行ない、貨幣経済をコントロールすることが、恐慌に対する一定の防波堤となることは、ソ連史において恐慌という事象を経験しなかったことが実証している。

コメント

続・持続可能的計画経済論(連載第1回)

2019-09-20 | 〆続・持続可能的計画経済論

序言

 筆者は地球環境の保全を主要な目的とする持続可能的計画経済という構想に関して、すでにその概要を論じた連載を公表しているが、そこでは実際に持続可能的経済計画をどのような原理に基づいて、どのように策定するかということについては、詳細に論及しなかった。  
 しかし、持続可能的計画経済を理念的な構想に終わらせないためには、実際の経済計画をどのように策定するかということに関する具体的な原理や技法を必要とする。そのため、改めて、如上の問題に特化した前連載の続編を展開する次第である。  
 持続可能的計画経済の原理とは、簡単に言えば、環境経済学と計画経済学とを組み合わせたものであるが、現時点での環境経済学はほぼ例外なく市場経済モデルを当然の前提としたものであって、計画経済モデルと結合させる試みはまともに行なわれていない。  
 しかし、地球環境の保全が喫緊のグローバルな課題となっており、とりわけ地球の平均気温を数値的にコントロールすべきことが科学者から提言されている時代には、生産活動の物量と方法の双方にわたってこれを計画的に管理することが不可欠であり、生産計画を個別企業の利潤計算に丸投げする市場経済モデルでは課題に解を与えることはできない。  
 一方、計画経済の原理を提供する計画経済学については、かつて計画経済のモデル国家とみなされていたソヴィエト連邦(ソ連)における70年近い経験と蓄積があったが、ソ連の解体後はその盟主ロシアを含めた旧ソ連構成共和国の大半が程度差やモデルの違いはあれ、資本主義市場経済へ転換したことにより、忘却されてしまった。  
 とはいえ、ソ連の計画経済モデルは遅れた農業経済国を短期間で工業国へ発展させるための開発計画の一種であり、そこでは環境保全の視点はほとんど無視されていた。しかも、それは国家に経済運営の権限を集中させるという国家全体主義的な政治理論と結びついてもいた。  
 そうした点で、ソ連の計画経済学はすでに時代遅れのものであり、これを単純に復活させることでは解決しない。とはいえ、計画経済の技法という点では、精緻な数理モデルの開発も進められていたソ連の計画経済学の遺産は改めて参照・再利用される価値を秘めている。  
 当連載では、現代の経済理論における最前線の花形でもある環境経済学と、すっかり忘却され、ほこりをかぶっているかに見える計画経済学という新旧の経済理論を結合して、持続可能的計画経済のより具体的なモデルを構築することを目指してみたい。

コメント

近代革命の社会力学(連載第19回)

2019-09-18 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(6)革命的立憲体制の持続  
 革命のプロセスでは、革命成就後、旧体制為政者・支持者に対する処刑に象徴される報復的処断がなされることがしばしばであるが、アメリカ独立=革命においては、反独立・親英王党派に対するそうした処断がほとんどなされなかった。
 旧体制為政者とは、この場合、「独立宣言」でも糾弾された英国王ジョージ3世であったが、海を越えた英国本国にいるジョージ3世を捕らえて処刑するということは無理であった。そこで、報復処断の対象は、さしあたりアメリカ各植民地の王党派人士ということになる。 
 実際のところ、独立戦争中、王党派に対しては各植民地独立派が財産没収などの報復措置を採っていたが、王党派の多くが英領カナダへ亡命移住していたため、報復的処断の余地があまりなかったことが要因であった。そのため、アメリカ独立=革命では多くの革命で見られたような恐怖政治は出現しなかった。  
 もう一つ、革命成就後にしばしば見られる内紛に関しても、アメリカ独立=革命はこれを免れている。その点、アメリカ独立=革命は一つの党派ではなく、13の植民地の合同という不安定な形で遂行されたにもかかわらず、分裂を生じなかったことは奇跡的と言える。これは、共和主義の思想が各植民地の間で共有されていたことによるものであろう。
 とはいえ、当初の連合規約(1781年発効)では中央政府の権限が大幅に制約され、いまだ統一的な連邦としての体を成しておらず、最終的に連邦としての実態を伴う合衆国憲法が制定されるまでには6年ほどを要した。
 さらに、建国後間もなく、合衆国=連邦の権限を優先する集権主義的な連邦党と、今や植民地から連邦構成主体となった各州の権限を重視する分権主義の民主共和党という対立軸が生じた。言わば、遅効的に内紛が発現してきたとも言えるであろう。
 この連邦主義と分権主義の対立関係は政治思想上の対立軸として今日まで形を代えて続いているが、それによって合衆国が完全に分裂崩壊するには至らなかった。その秘訣として、合衆国憲法が極めて簡素な条約憲法として制定されたことがある。  
 近代の革命政権は多くの場合、革命後の体制を固めるため、新たな憲法または憲法に匹敵する基本法を策定するが、その内容が細目的であると、内紛の原因となりやすい。しかし、合衆国憲法はごく簡素な規定のみを置き、必要に応じて後から修正・追加条項で補充していくという実際的な方式を採ったので、深刻な内紛を抑止できたのであった。  
 このような簡素な条約憲法は、多くの修正条項を伴いつつ、現在まで原形をとどめた形で維持されている。その意味では、アメリカでは合衆国憲法を通じて今なお革命体制が持続していると評することもできる。しかし、そのような200年以上も持続する革命的立憲体制は、反アメリカ的=反革命的とみなされる社会経済政策の実現を阻む保守的な装置と化している面もある。  
 一方で、憲法に先立つ「独立宣言」には、人民の権利を踏みにじる専制的な政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ること、すなわち革命行動が人民の権利であり義務であると明記されており、アメリカ国民が常に革命権を保持していることを宣言している。  
 加えて、憲法修正第2条は民兵と人民の武装の権利を定めており、実はアメリカ合衆国民はいつでも民兵として再び革命によって新体制を構築できる構えとなっている。しばしば論議の的となる武装の権利は、無防備な市民に銃口を向ける権利ではなく、専制政府を打倒する革命権の物理的手段となるはずのものである。  
 こうして、アメリカ独立=革命は、200年を超える持続性と同時に、恒常的な革命の可能性が保障される形で、保守性と革新性が並存した独特の力学をもって現在もなお進行中であるとみなすことができるのである。

コメント

近代革命の社会力学(連載第18回)

2019-09-17 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(5)女性たちの動静  
 アメリカ独立革命=戦争の時代、「男女同権」はいまだ社会常識ではなかった。革命や戦争のような政治軍事問題は男性の領域であり、女性が自立的・主体的に参加することはできなかった。従って、「建国の父」は銘記されても、「建国の母」は銘記されなかったのである。  
 後に第二代合衆国大統領夫人となるアビゲイル・アダムズは大陸会議代議員だった夫ジョンへの書簡という個人的な形ではあったが、女性の平等な権利について先駆的な主張を展開し、大陸会議に女性の視点を反映させようと努力したが、報われることはなかった。
 とはいえ、革命=戦争の渦中に女性は確実に参加していた。例えば、初期の頃には英国製品、とりわけ衣類や絹織物のボイコット運動で重要な役割を果たしている。またボストン茶会事件の後には、これに触発され、51人の女性たちが起こした1774年のイーデントン茶会事件のような女性版茶会事件もあった。
 英国製品のボイコットは、必然的に代替製品の自給を必要としたから、女性たちは製品を自作するようになった。この動きはアメリカの自主的消費経済の発達を促進するとともに、さしあたりはにわか仕立ての大陸軍の兵站の一翼をも担うこととなった。  
 開戦後は、フィラデルフィア婦人協会を皮切りに、女性による戦争協力組織が結成され、有力な女性たちは主に戦争資金集めに奔走した。こうした活動には、後に初代ファースト・レディとなるマーサ・ワシントンやベンジャミン・フランクリンの娘サラなどが参加していた。マーサ夫人はしばしば前線を慰問し、自身も裁縫や看護などの支援を行なった。  
 大陸軍の前線に常時同伴する女性たちもいた。その多くは洗濯や清掃、給仕など後方支援任務に従事した。これら従軍者(camp follower)と呼ばれる女性たちは推計で2万人と言われ、兵站が確立されていなかった民兵型の大陸軍において欠かせない存在であり、彼女たちなくして独立戦争の遂行は無理であったと言える。  
 少数ながら、中には男装して兵士として戦闘参加する女性もいたが、むしろ女性は頭脳的なスパイとして活躍した。実は、大陸軍の重要な技術的勝因として優れた諜報戦略ということもあったが、その影には女性諜報員の活躍も見られたのである。ちなみに、英軍側にもワシントン陣営へのスパイ活動で知られるアン・ベイツのような女性諜報員の存在が見られた。  
 他方、イデオロギー宣伝の面で活躍した例外的な女性として、マーシー・オーティス・ウォレンのような例もあった。彼女は「代表なき課税は暴政なり」という独立=革命全体のスローガンを打ち出したジェームズ・オーティスの妹であったが、自身も詩や戯曲を通じて英国当局の横暴を批判する活動を展開した。  
 彼女は「建国の父」の多くと個人的な面識があり、思想的な影響も与えており、独立戦争を終結させたパリ条約の直前に死去した兄とともに、思想的な面では「建国の父」に対する重要なインフルエンサーとして銘記されるべき人物である。

コメント

近代革命の社会力学(連載第17回)

2019-09-16 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(4)独立戦争の力学  
 アメリカ独立派による1776年の独立宣言は一方的なものであったから、当然ながら英国側はこれを承認せず、武力鎮圧で臨んだことで、戦争が本格的に開始された。当初は、植民地における独立派の大陸軍と英国軍の衝突にすぎないと思われたが、間もなくこの戦争は外国を巻き込む国際戦争に発展する。
 大陸軍は数こそ多いものの、寄せ集めの民兵隊にすぎず、歴戦の訓練された英国軍相手の戦争には不安があった。そこで、フランスにコネクションのあったベンジャミン・フランクリンの外交工作により、北アメリカで植民地を分け合う関係にあったフランスを同盟に引き入れることに成功した。  
 フランスはカトリック系であり、プロテスタント系の北アメリカ植民地とは本来相容れないが、「敵の敵は味方」の論理で、アメリカ独立に肩入れしたのである。フランスに続き、同じくカトリック系スペイン、さらにプロテスタント系ながら英国とは帝国主義ライバル関係にあったオランダも独立派に付いた。
  一方、英国側は、北アメリカ植民地における反独立・親英派(王党派)が社会の少数派であり、凝集性に欠けたため、ほぼ自軍だけで戦う必要があった。そのうえ、1780年にはロシアを中心とした武装中立同盟が結成され、国際的孤立状態に陥ったため、王室故地のドイツからハノーファー選帝侯やその他のドイツ人傭兵を引き込むしかなかった。  
 こうして、アメリカ独立戦争はおおむね米・仏・西・蘭対英・独という構図の国際戦争に発展したわけであるが、この戦争には、第三勢力として、図らずも巻き込まれた黒人奴隷と先住民族という二つの準当事者があった。  
 独立派は白人植民地人の英国からの解放は叫んでも、奴隷制廃止は論外のこととしていたため、英国側は黒人奴隷に個別の解放を約束して、自軍へ引き込む工作を展開した。その結果、2万人ほどの黒人奴隷が英国軍側に付いて戦争協力したと推計されている。  
 一方、黒人の徴用が奴隷反乱を招くことを恐れていた独立派も、英国への対抗策として黒人の参加を認めたため、推計で9000人ほどの黒人が独立派に付いたと見られるが、心情的にも独立派黒人は限定されていた。とはいえ、独立戦争における独立派黒人の貢献は、近年まで過小評価されてきた。 
 一方、先住民族の立場より複雑だった。元来、独立派・王党派いずれにせよ植民地人は先住民にとって侵略者に変わりなかったが、独立が達成されれば先住民族排除はより徹底する恐れもあったから、かれらが独立に協力するメリットは少なかった。  
 ただ、先住民族は言語や文化を異にする多数の部族に分岐しており、一つに凝集することはできず、部族によっては植民地と交易の経済関係で結ばれているものもあり、独立派に付いた部族もあった。  
 とはいえ、先住民族の多くは英軍側に付くことを選択した。その結果、独立戦争における主要な東西二つの戦線のうち、アパラチア山脈以西の西部戦線は先住民戦争(インディアン戦争)という性格を持つことになった。このことは、独立後、先住民族が反革命派として合衆国から敵視される要因となっただろう。  
 このようにして、国際同盟を形成したうえ人的にも物的にも優位に戦争を遂行する大陸軍に対して、英国軍はドイツの一部と、戦う意味づけが揺らぎがちな動揺分子の黒人奴隷と先住民という頼りない味方だけを頼りに戦争を遂行するしかなかったのである。これは英国の敗北を予想させる不利な構図であった。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第22回)

2019-09-15 | 〆貨幣経済史黒書

File21:昭和金融恐慌

 1929年に始まる世界恐慌に先駆けて、日本では1927年から昭和金融恐慌が勃発した。通常は、世界恐慌の日本への余波たる恐慌―農村への打撃が深刻であった点から「昭和農業恐慌」とも―を併せて「昭和恐慌」と呼ばれることが多いが、ここでは、先行の金融恐慌を分離してとらえる。  
 というのも、金融恐慌は世界恐慌突入直前に日本経済特有の要因から発生したもので、明治維新以後の近代日本において、おそらくは初めて身をもって貨幣経済の恐怖を体験した本格的な資本主義的恐慌だったからである。  
 この時期の日本は、第一次世界大戦を機に生じた商品輸出の伸張に伴う好景気が5年ほど続いた間に工業生産が増大し、新興資本主義工業国家として台頭していた。それを支えたのは、極めて緩い規制のもとに続々と設立されていた商業銀行であった。  
 第一次大戦後には、法則どおり、大戦景気の反動としての戦後恐慌を経験したが、この時はさほどのパニックにはならなかったものの、不況遷延期に入っていた。そこへ、1923年の関東大震災という予期せぬ激甚災害が長期的な問題を惹起する。震災の影響で企業の振出手形が支払い不能となることを見越して、政府・日本銀行がモラトリアムや手形再割引といった予防策を採ったことが裏目に出たのである。  
 こうした資金の裏づけを欠く空手形に近い震災手形に加え、震災とは無関係の決済不能手形も混在して、大量の不良債権が発生した。政府はその処理のための緊急法案を策定して対処しようとしたが、これが折から定着しつつあった政党政治で政党間抗争の道具にされ、審議は円滑に進まなかった。  
 そうした中、当時の憲政会政権の片岡直温蔵相が国会答弁で公に発した「東京渡辺銀行破綻」という事実無根の失言が決定的な打撃を与える。東京渡辺銀行は明治初期の国立銀行条例に基づき、明治10年(1877年)に設立されたいわゆる国立銀行の一つであった第二十七銀行を前身とする民間銀行であり、大戦景気渦中の1920年に東京渡辺銀行に改称して以来、預金・融資額を飛躍的に拡大させていた。  
 実際、同行は1927年の時点では放漫経営により破綻寸前となっていたところ、他行からの緊急融資で持ちこたえていたため、蔵相の「破綻した」という完了形の発言は誤りであったのだが、これは大蔵省内での連絡の行き違いによるものであった。
 しかし、この蔵相答弁により東京渡辺銀行で取り付け騒ぎが発生し、休業に追い込まれた。一行での取り付け騒ぎは金融不安を呼び、他行にも連鎖するのが法則であるから、渡辺銀行に続き、関東から関西へと銀行の休業が相次いだため、日銀は非常貸出を余儀なくされた。  
 実際のところ、この時最大の危険要因は台湾銀行の経営危機にあった。台銀は植民地時代の台湾で設立された外地の特殊銀行であり、その業務は本来台湾での金融事業にあったところ、大戦景気で急激に業績を拡大した商社・鈴木商店への融資が膨張し、不良債権化していたのであった。  
 台銀の破綻は何としても避けたい政府であったが、日銀特融に日銀が難色を示したことから、台銀は破綻・休業に追い込まれた。これを機に、多行の連鎖破綻が続き、東京の有力銀行だった十五銀行の破綻に至って、昭和金融恐慌は頂点に達した。日銀自体、非常貸出の多発により紙幣在庫が枯渇するという非常事態に陥った。  
 こうした危機的状況を打開するために起用されたのが、高橋是清蔵相であった。高橋はモラトリアムと紙幣増発を柱とする緊急対策を打ち出し、恐慌を沈静化させた。結局のところ、昭和金融恐慌はその名のとおり、金融面の恐慌にとどまり、産業全体に及ぶ全面恐慌には進展せずに終わった。  
 とはいえ、この恐慌は、小資産保有者が増加し、銀行預金という経済習慣が育ち始めていた当時の日本において、中小市中銀行の連鎖破綻の恐怖を全国的に体感させる画期的な出来事であった。以後、預金は経営体力の強い財閥系大銀行に集中するようになり、銀行を中核とする財閥の形成を促進したことであった。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第5回)

2019-09-14 | 〆世界共同体憲章試案

第4章 機関

【第7条】

1.世界共同体の主要機関として、総会(世界民衆会議)、汎域圏全権代表者会議、持続可能性理事会、平和理事会、司法理事会、社会文化理事会、人権査察院、憲章理事会を設ける。

2.事務局その他必要と認められる常設または臨時の補助機関は、この憲章に従い、総会の決議に基づいて設けることができる。

[注釈]  
 世界共同体は第1項掲記の八つの主要機関を軸に構成される。現行国際連合と類似した構成だが、大きく異なる点は―
 五つの汎域圏の常任全権代表で構成される汎域圏全権代表者会議が世界共同体の執行部たる主要機関として位置づけられること、事務局が主要機関から補助機関に格下げされること(第2項)、基本的人権の擁護に当たる司法機関としての人権査察院が独立した主要機関として格上げされること、憲章の有権解釈権を持つ憲章理事会が設置されることである。  
 また、第二次世界大戦の事後処理から生まれた旧連合国主導の国連において主要機関中でも格別の中心的位置を占めている安全保障理事会は、恒久平和を理念とする世共では平和理事会に置き換わる。

【第8条】

世界共同体は、その主要機関及び補助機関並びにその他の機関に、人々が性別または性的指向もしくは障碍の有無を問わず、いかなる地位にも平等の条件で参加する資格があることについて、いかなる制限も設けてはならず、かつ、そのような制限を結果する慣習については、これを除去しなければならない。

[注釈]
 世界共同体の諸機関への参加条件として、性別や性的指向、障碍による制度上慣習上の障壁を撤廃する規定である。これにより、世界共同体諸機関を異性愛男性健常者が独占するメンバー構成とならないことを抑止することが目的である。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第4回)

2019-09-14 | 〆世界共同体憲章試案

第3章 原則及び構成領域圏等の地位

【第3条】

1.この機構及びその構成領域圏は、第1条の目的を達成するに当たっては、次の原則に従って行動しなければならない。

① この機構は、その構成領域圏間の地位の平等原則に基礎をおいている。
② すべての構成領域圏は、領域圏の地位から生ずる権利及び利益を構成領域圏のすべてに保障するために、この憲章に従って負っている義務を誠実に履行しなければならない。
③ すべての構成領域圏は、世界共同体がこの憲章に従ってとるいかなる行動についても世界共同体にあらゆる援助を与え、かつ、世界共同体の防止行動または強制行動の対象となっているいかなる領域圏に対しても援助の供与を慎まなければならない。
④ 各構成領域圏は、この憲章に反しない限り、その内政管轄事項に関しては、自主決定権を有する。

2.第1項各号の規定は、第4号を除き、汎域圏についても、これを準用する。

3.汎域圏は、地域ブロックとして、相互に競争的な関係に立ってはならない。

4.第1項各号の規定は、直轄自治圏についても、これを準用する。

[注釈]  
 本条は世界共同体とその構成領域圏及び汎域圏、直轄自治圏に適用される行動原則を列記したものである。これらの原則を遵守することにより、各圏域が対等な地位に立ちつつ、総体として世界共同体を運営していくことができる。

【第4条】

1.世界共同体における構成領域圏の地位は、この憲章に掲げる義務を受託し、かつ、この機構により所定の義務を履行する能力及び意思があると認められるすべての領域統治体に開放されている。

2.前項の領域統治体が世界共同体構成領域圏となることの承認は、汎域圏全権代表者会議(以下、「全権代表者会議」という)の勧告に基づいて、世界民衆会議‐世界共同体総会(以下、「総会」という)の決議によって行なわれる。

3.前二項の規定は、直轄自治圏についても、これを準用する。

[注釈]  
 世界共同体の構成領域圏または直轄自治圏の設定は、一定の領域を実効統治する領域統治体の申請に基づいて、世共による事前審査、全権代表者会議の勧告、総会の承認決議というプロセスを通じて行なわれる。

【第5条】

1.世界共同体各機関による防止行動または強制行動の対象となった構成領域圏または直轄自治圏に対しては、総会が、全権代表者会議の勧告に基づいて、構成領域圏または直轄自治圏としての権利及び特権の行使を停止することができる。これらの停止された権利及び特権は、総会がこれを回復することができる。

2.世界共同体各機関による防止行動または強制行動の対象となった汎域圏に対しては、全権代表者会議の決定により、当該汎域圏の全権代表者の資格を停止することができる。この停止された資格は、全権代表者会議がこれを回復することができる。

[注釈]  
 何らかの問題行動により、世共による防止行動または強制行動の対象となった圏域への制裁規定である。汎域圏の場合は、それ自体が世共の構成主体ではないため、全権代表者の資格停止が制裁となる。  なお、国連憲章では「憲章に掲げる原則に執拗に違反した国際連合加盟国」に対する除名するという最も厳しい制裁規定を設けているが、世共には除名という制裁はない。世共は、世界民衆の統合を重視するため、完全に排除する制裁は科さないのである。

【第6条】

世界共同体の構成領域圏は、この憲章に掲げる義務を履行する能力または意思を失ったときは、総会の承認決議に基づいて、世界共同体を脱退することができる。

[注釈]  
 世界共同体は、一度参加したら脱退することができないという拘束的な機構ではないが、正当な理由のない一方的な脱退を認めることは、機構の崩壊につながるため、総会による承認審査と決議とを必要とする。

コメント