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近代革命の社会力学(連載第221回)

2021-04-12 | 〆近代革命の社会力学

三十二 エジプト共和革命

(1)概観
 エジプトでは、第一次世界大戦後の独立‐立憲革命後も、「独立」はまさに括弧付きのものにとどまり、第二次大戦を越えて引き続き、ムハンマド・アリー朝の下、イギリスによる宗主的支配が継続していた。
 もっとも、第二次大戦中、エジプトを含む北アフリカがナチスドイツ軍の侵攻にさらされた際、これに乗じてイギリスからの完全独立を果たすという戦略も提唱され、時の国王ファルーク1世も一度はこれに乗ったが、イギリス側からクーデターの脅迫を受けて断念、やむなくイギリスに協力した。
 ナチスドイツとの結託という戦略は妥当ではなかったとはいえ、ファルーク国王がイギリスに対して見せた軟弱さは民族主義者ならず、一般のエジプト人にも失望と不信を与え、後の共和革命の遠因ともなったであろう。
 しかし、共和革命へのより大きなステップとなるのは、1948年5月のパレスティナにおけるイスラエル建国とそれに続く第一次中東戦争とであった。
 イスラエルの建国は中東の地政学地図を大きく改変する第二次大戦後、最大規模の出来事の一つである。それ自体はパレスティナの委任統治を放棄したイギリスとユダヤ人国家の分立を承認した国際連合の同意に基づいており、革命ではなかったものの、革命的な衝撃波をもたらした。
 結果として、イスラエルの割り込み的な建国に反発したアラブ諸国が合同して有志連合軍を結成し、建国されたばかりのイスラエルに対して宣戦布告、中東戦争(第一次)が勃発した。
 しかし、アラブ側は民兵組織から衣替えしたばかりのイスラエル軍の戦力を見誤り、性急な勝算を立てており、結果は実質的にイスラエルの勝利であった。イスラエルにとっては建国を固めるある種の独立戦争となった。
 エジプトはアラブ連合軍の中心勢力であったが、当初政府部内には参戦に反対の意見もあったところ、ファルーク国王が押し切り、強引に参戦した経緯があったため、国王が最大の敗戦責任者とみなされた。
 そうした中で、軍部内の若手民族主義者グループが秘密結社・自由将校団を結成し、革命を構想するようになった。その中心人物が後に大統領となるガマール・アブドゥル‐ナーセルであり、1952年、彼を中心とする自由将校団の決起により、ムハンマド・アリー朝が打倒され、共和制に移行、イギリスの支配からも解放された。
 このエジプト共和革命はアラブ民族主義の象徴となり、中東地域ばかりか、まだ植民地支配下にあったアフリカ諸地域にも間接的な影響を及ぼすこととなった。また、ナーセル政権は政治経済的には社会主義を志向したため、アラブ社会主義の代名詞ともなり、周辺諸国の連続的な社会主義革命の動因ともなった。
 初期ナーセル政権は民族主義的な社会主義政策の一環として英仏が管理していたスエズ運河の国有化に踏み切ったことで、英仏の軍事介入を招き、第二次中東戦争とも呼ばれるスエズ危機を招くが、ナーセルは実質的に勝利し、スエズ運河国有化を達成したことで、国際的にも反帝国主義の象徴として、第三世界の英雄となった。
 かくして、1952年エジプト共和革命は、エジプト一国の国内的な革命にとどまらず、第二次大戦後、第三世界全体に革命の波を引き起こす契機ともなった大きな余波を持つ革命事象である。


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