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近代革命の社会力学(連載第338回)

2021-11-30 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(2)近代化改革とその限界
 前回も触れたように、1970年代における連続革命前のバーラクザイ朝アフガニスタンでは、父王の暗殺を受け、第二次大戦前の1933年に19歳で即位したザーヒル・シャー国王の下で、戦後、近代的な立憲君主制の形成に向けた改革が着手された。
 それ以前のアフガニスタン社会は、王家も属する主要民族であるイスラーム教徒パシュトゥン人の部族社会を基調とし、各部族の長や有力者が地主として割拠する封建的な社会状態にあり、英国に対する従属を絶った20世紀初頭から進められてきた近代化は常に障壁に直面した。
 その点、ザーヒル・シャーの父ムハンマド・ナーディル・シャーは保守的なイスラーム主義者であり、近代化を停止して、イスラーム法体系シャリーアを根本とする憲法を制定したほどであったが、息子のザーヒル・シャーは対照的に、欧州留学経験も持つ近代主義者であった。
 その表れとして、1953年から63年まで、急進的な近代主義者であった従兄の王族ムハンマド・ダーウードを継続的に首相に起用して、全般的な近代化改革に当たらせた。ダーウードは従前、政治的な発言力を誇示したイスラーム聖職者を弾圧し、急激な近代化に危機感を持った保守派の反発を買ったため、63年に退陣に追い込まれた。
 とはいえ、翌年1964年には、さしあたり近代化の総決算とも言えるアフガニスタン初の近代的な憲法が発布された。ただし、この憲法は基本的に立憲君主制を採用しつつも、国王と政府の権限は相当に強く、民主主義的な要素には限界があった。
 しかし、議会が可決した世俗の法律がシャリーア法より優越するとされた点はイスラーム保守派の反発を招いた一方、、国王以外の王族の政治活動を禁ずる条項はダーウードの復権を阻止する意図があり、後に彼が共和革命へ赴く契機となった。
 また、新憲法は地方の部族社会そのものにメスを入れるものではなかったから、地方における封建的社会構造は温存され、部族有力者が地元選出議員に選出され、立法や政府の政策を彼らの利害のためにコントロールすることができた。
 結局のところ、新憲法制定から1973年共和革命までの約10年間は部族社会の封建的な現実と近代的な憲法との齟齬が埋まらないままに過ぎていったが、この間、イスラーム保守派以上に、ダーウードや彼を支持する近代主義者の間で君主制そのものへの反発がマグマのように鬱積していった。
 一方、同時代のイスラーム系隣国イランでより強力に国王主導の世俗的近代化政策を進めていたのが、パフラヴィ朝の国王モハンマド・レザーであった。ザーヒル・シャーともほぼ同世代の彼は、石油の輸出を軸にアメリカと強く結び、西側反共陣営に属することで、皇帝に等しい絶対的な権力をもって、土地改革にまで及ぶ全般的な社会改革を断行していた。
 この隣接する両君主制はともに70年代の革命で終焉したという限りで両者の命運は重なるが、革命の方向性や結果は全く対照的なものとなった。その要因として、アフガニスタンでは近代主義者、イランではイスラーム主義者の革命的急進化を促進したという相違がある。


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