ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

反W杯&五輪デモ

2013-06-21 | 時評

ブラジルのデモ隊が、国の予算を来年のW杯や16年五輪に向けたインフラの整備より、福祉や教育など国民生活の向上に充てるよう訴えている。 

国際スポーツ大会の単発的な「経済効果」を狙って、華美な大会を政府‐資本一体で挙行する線香花火的なやり方は、長期的展望を失った最近の資本主義の常套となっている。

だが、ナショナリズムの感情に絡めた国際スポーツ大会への批判はなかなか浸透しない。そうした困難をW杯常連のブラジルから打破しようという動きは興味深いことだ。

ブラジルと言えば2000年代反グローバリゼーション運動の発祥地であり、03年以来の労働党政権もそうした運動を背景に生まれたのであるが、実際には西欧的な社会‐新自由主義路線にあり、ブラジルが資本主義の新たな優等生BRICsの一角を占めるに至ったのもその成果であった。同時に、デモの引き金を引いた現在のブラジル経済の不調は、そうした路線の躓きを示している。

とはいえ、資本主義の特定の局面―新自由主義―を批判するだけの運動では全く力不足だ。それは結局のところ、西欧社民主義と同様の結末に終わる。西欧的な基盤を持つ南米に発した反グローバリゼーション運動の行き詰まりはその証しである。

「W杯&五輪より福祉&教育!」との主張は、それ自体としては至極もっともだ。もっとも過ぎて拍子抜けする。そこから資本主義そのものの批判へと突き抜けなければ、それこそ一過性の“大会”で終わるだろう。

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戦後日本史(連載第8回)

2013-06-18 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第1章 「逆走」の始動:1950‐60

〔三〕親米保守主義者の台頭

 1950年に始まる「逆走」、とりわけ集中的な「逆コース」施策を終始日本側でリードしていたのは吉田茂であった。彼は46年から47年にかけて短期間首相を務めた後、48年に首相に返り咲いてから占領終了をまたいで54年まで首相の座にあった。
 自由民権運動の闘士を父に持つ吉田は、戦前は日米開戦に反対した穏健な職業外交官であり、戦後は公職追放を免れたが、本質的には保守主義者であり、占領=革命に対しては復古的な勢力の代表者として実力を伸ばした。
 外交官出身で交渉術にも長けた吉田は、理念転回した後の占領当局にとっても好都合な人物であり、実際、彼はGHQの意を体して日本政府をとりまとめ、米国による反共の砦化戦略にも積極的に協力した。
 その吉田が退任した翌年の55年にはいわゆる保守合同が成り、自由民主党(自民党)が結党される。新たな時代を画するこの新局面は、その直前に社会党が分裂していた左右両派の再統一により最大政党化する兆しを見せたことに対するブルジョワ保守層の危機感を背景としており、その背後には社会主義政党の躍進が反共の砦化戦略の遂行上妨げとなることを恐れた米国の意図も働いていたことは確実である
 自民党はその一見リベラルな党名とは裏腹に、日本国憲法を占領下で「押し付けられた」ものとみなし、事実上の憲法廃棄を意味する「自主憲法制定」を大きな課題として掲げ、社会党・共産党等の「階級政党」の排撃を公然と唱導する保守反動政党としてスタートした。
 この党は内部に若干の路線差を蔵しながらも、反共保守層を広く糾合し、以後93年に比較第一党の座を維持したまま一時下野するまで、38年にわたって政権党の座にあり続け、この間の「逆走」の全プロセスをリードしていくことになるのである。
 政治制度上は社会党や共産党のような社会主義・共産主義政党の存在を容認する多党制の下で、ブルジョワ保守政党が徹底した組織動員選挙を通じて継続的に政権党の座を維持するこの体制―ブルジョワ・ヘゲモニー―こそが、「逆走」の政治マシンである。
 このいわゆる「55年体制」の支配層として台頭してきたのは戦前軍国期の反米保守主義者ではなく、米国の庇護を受けて米国の国益に奉仕しつつ、米国の黙認の下に戦前的体制を順次復活させる事大主義的な傾向を持った親米保守主義者たちであった。
 こうして戦後登場した新たなタイプの保守主義者を糾合するアンブレラ政党として、事実上の世襲を伴いつつ世代を継いで今日まで機能し続けているのが自民党であると言える。

〔四〕右派・岸内閣の登場

 55年の保守合同をまたいで最初の自民党首相となった鳩山一郎が56年に退任した後、二代目の自民党首相に就いたのは、意外にもリベラル派の石橋湛山であった。
 石橋は戦前はリベラル保守主義者として自由主義的な立場で論陣を張った経済ジャーナリスト出身であった。このような人物が逆コース渦中に首相に就いたのは、逆コースの行き過ぎに対する保守層内部からの警戒感の表れとも言えた。
 しかし石橋は就任後間もなく病気で倒れ、わずか1か月ほどで退任する。歴史に仮定は禁物と言われるが、あえて禁を破って石橋が健康体で政権を維持したと仮定しても、リベラル派の政治基盤は弱く、「逆走」の流れを止めることはできなかったであろう。すでに逆走する車は動き出していたのである。
 石橋の後任となったのは、旧商工省官僚出身の岸信介であった。岸は戦前、満州経営にも関わった経済官僚として戦後は戦犯容疑で逮捕されたが訴追は免れ、一時公職追放されていた、そうした出自からも、岸は自民党では右派の代表格であった。その岸を政権の主とする内閣が登場したことは、「逆走」がいよいよ佳境に入ることを意味していた。
 岸内閣の最大使命となったのが、日米安保条約の改定問題であった。52年発効の旧安保条約はいまだ表向きは「非武装」である日本を米国が保護的に防衛するという片務性の強い内容であったが、これでは反共の砦化戦略にとって不十分であったため、日本自身も自国防衛義務を負うという双務的な形を取りつつ、米軍の協力組織としての自衛隊の存在と活動を承認する新たな内容に改定する必要があった。
 58年から交渉に入った安保改定はしかし、最大野党・社会党をはじめ、民衆の強い反対を受け、安保改定反対闘争を激化させることになった。これに対して、岸内閣は大衆運動を徹底的に抑圧する方針で臨み、60年に新安保条約の調印に漕ぎ着けた。
 岸内閣は抑圧的な治安政策とともに、国民皆保険・皆年金のような社会保障制度の整備にも着手し、「アメとムチ」政策によるセキュリティー統治を本格的に試み、長期政権化するかに見えた。

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イラン式「民主主義」

2013-06-16 | 時評

欧米や日本では反民主的な「イスラーム原理主義体制」という見方をされるイランだが、主敵アメリカと同様、4年ごと三選禁止ルールのもとに行われる大統領選は意外に「民主的」である。

今年の大統領選では保守派現職の後継候補を破って穏健派が勝利したように、近年は保守派と穏健派がほぼ交互に当選しており、これもアメリカと同様に、ある種の二大党派政治の流れができつつある。

ブルジョワ政治学の教科書どおりの「野党」は存在しないが、時に非合法の大規模デモの形で表出される民衆パワーが対抗権力的に機能し、大統領選にも潜勢的な影響を及ぼしている。

神権政治の枠内で、ある種の民主主義―神権民主主義?―が機能し始めているとも言える。現在のイランは民衆革命の性質を持つ1979年革命によって形成された体制だけに、元来民主的な要素は認められるのである。

少なくとも、同じように「原理主義的」な体制である中東随一の親米国サウジアラビアよりは民主的である。「イスラーム主義は民主主義と両立しない」という欧米にありがちな政治的偏見は、イランには当てはまらない。

もちろん立候補者の思想・信条にまで及ぶ事前審査や、厳しい言論統制も付随する未分化な括弧付きの「民主主義」ではあるが、ステレオタイプの見方を排除してイラン式「民主主義」の今後を注視していく意義はあるだろう。

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シャラップ、国際人権!

2013-06-14 | 時評

今年5月、国連拷問禁止委員会の席上、日本の刑事司法制度を「中世的」と非難された日本の人権人道担当大使が「シャラップ[Shut up]!」(口を閉じろ!)と威嚇的な発言をしていたことが、今月になって報じられた。

大使は「中世的」との非難に対して「日本はこの分野では世界で最も先進的」云々と反論したところ、会場から失笑が沸いたことに反発してこの発言に及んだようである。

日本の自白中心の司法が「中世的」であることは、日本人でも事情を知る者にとっては常識である。それを日本は刑事司法分野で最も先進的などと臆面もなく宣言すれば失笑されて当然である。口を閉じるべきはどちらか。

戦前、日本が国連の前身である国際連盟の満州事変対応に反発して一方的に脱退したときの松岡洋右外相でさえ、これほど非礼な威嚇発言はしなかった。

大使は状況的に意図せず口走ったのかもしれないが、それにしてもとうとうここまで来たか、という感がある。国連の人権勧告は無視ないし開き直りというのが日本政府の原則的対応だが、非礼な表現で口封じまでしようというのは新たな段階である。

「シャラップ!」は単なる「暴言」ではなく、国際人権分野における日本政府の―日本国民のではない―立場を簡単な英語俗語表現で明瞭に示している。件の大使は日本政府部内では「日本の立場を世界に発信した」英雄として迎えられるかもしれない。5月の段階で即報がなかったのも国策に沿ったマス・メディアのいつもの自主規制だろうか。

もっとも、国連も人権分野では「本気度」が疑われる。強制力のない勧告を何度繰り返しても、日本のように開き直ってしまう国に対して効果はない。そもそも悪名高い人権侵害常習国がいくつも人権理事会の理事国に名を連ねているのだから、大甘である。

人権裁判所を欠く国連が人権問題で強制力を発動するのは難しいが、せめて日本を含めて国際人権基準を満たさない諸国の人権理事会理事国資格は剥奪すべきである。それに反発して日本政府がシャラップ!ならぬ再び国連脱退!となるかどうかは関知しない。

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天皇の誕生・目次

2013-06-07 | 〆天皇の誕生―日本古代史異論―

本連載は終了致しました。下記目次各ページ(リンク)より別ブログに掲載された全記事(補訂版)をご覧いただけます。

プロローグ p1

第一章 三人の「神冠天皇」 p2 p3
(1)二人の「初代天皇」
(2)崇神天皇と応神天皇
(3)応神天皇と八幡神
(4)応神天皇と神功皇后

第二章 「神武東征」の新解釈 p4 p5 p6 p7 p8
(1)「神武東征」の出発地
(2)天孫族の出自
(3)天孫族の渡来
(4)二系統の天孫族
(5)「神武天皇」の分割

第三章 4世紀の倭 p9 p10 p11 p12 p13
(1)邪馬台国の解体
(2)加耶人の世紀
(3)畿内加耶系王権
(4)伊都国の服属
(5)百済の接近

第四章 伊都勢力とイヅモ p14 p15 p16 p17 p18
(1)イヅモの由来
(2)伊都勢力の由来と大移動
(3)イソタケルと出雲西部勢力
(4)出雲東部勢力の興隆

第五章 「倭の五王」の新解釈 p19 p20 p21
(1)「讃」と「珍」の遣使
(2)「珍」と「済」の関係
(3)「済」と「興」の正体
(4)「武」の解明

第六章 「昆支朝」の成立 p22 p23 p24 p25 p26
(1)「昆支=応神」仮説
(2)「昆支朝」成立の経緯
(3)旧王家の運命
(4)昆支大王と倭の自立化
(5)昆支大王の宗教改革

第七章 「昆支朝」の継承と発展 p27 p28 p29 p30 p31  
(1)男弟大王への継承
(2)出雲平定と磐井戦争
(3)辛亥の変と獲加多支鹵大王

第七章ノ二 続・「昆支朝」の継承と発展 p32 p33 p34
(4)列島征服事業
(5)行政=経済改革
(6)二つの任那問題

第八章 「蘇我朝」の五十年 p35 p36 p37 p38 p39
(1)蘇我氏の出自
(2)昆支朝の斜陽化
(3)蘇我革命体制
(4)聖徳太子の実像
(5)王位継承抗争と蘇我入鹿

第九章 乙巳の変と「後昆支朝」 P40 p41 p42
(1)政変までの経緯
(2)真の政変首謀者
(3)政変の真相
(4)改新的復古

第十章 天智天皇と天武天皇 p43 p44 p45 p46
(1)孝徳時代の中大兄
(2)前期天智政権
(3)後期天智政権
(4)天武天皇の実像

第十一章 持統女帝の役割 p47 p48 p49 p50 p51
(1)生い立ち
(2)権力への道のり
(3)歴史‐神話の創造
(4)複雑な歴史観
(5)最初のフェミニスト
(6)「天皇」の制度的確立

エピローグ p52

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資本主義一巡

2013-06-04 | 時評

「成長の中心になるアフリカに投資すべきは今だ」という安倍首相の言葉に象徴されるように、アフリカが資本主義最後の秘境として垂涎の的となっている。

アフリカ大陸は域内人口10億を超える潜在的大市場であるから、資本主義にとって最後のフロンティアとして照準に入ってくるのは自然な流れである。資本主義は世界を一巡して人類発祥の地へ戻るわけだ。

アフリカ再分割競争の始まりである。しかし19世紀のようにアフリカは無力でない。独立運動が一巡し、大陸を束ねるアフリカ連合(AU)も発足している。今や、アフリカの支配層自身が積極的に資本主義を導入しようとしている。

そこでは豊富な天然資源を土台とする資源資本主義による発展モデルが目指されているようである。21世紀のアフリカ再分割競争で19世紀には分割される側にあった中国が一歩先行することの意味はそこにある。アフリカでは旧社会主義の強権支配国家がいまだに少なくない中、中国式の政治的に統制された資本主義という「社会主義市場経済」が魅力的に映るのであろう。

しかし、資本主義の本質はカネを稼ぐ才覚のある者が、才覚のない者を置き去りにしてどんどん先に進むという「置いてけ堀」経済である。従前からの構造的貧困を伴ったアフリカ的資本主義は貧富差の著しい、ある意味では最も資本主義らしい資本主義―ハイパー資本主義―となる可能性が高い。

それに対する民衆の反抗は、資本主義的市場原理にとって桎梏となるアフリカ的多様性と共同性とを武器として、世界の他の地域以上に強いものとなるだろう。

いずれにせよ、資本主義は一巡して地球を覆い尽くし、いよいよ爛熟期に入る。それはまた同時に、資本主義の終わりの始まりを画するであろう。

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戦後日本史(連載第7回)

2013-06-04 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第1章 「逆走」の始動:1950‐60

〔二〕「逆コース」施策の開始

 いわゆる「逆コース」施策が本格的に始まるのは、1951年のサンフランシスコ講和条約(以下、サ条約)で日本が法的に主権を回復し、占領が終了する翌52年のことである。従って、「逆走」の発端となった朝鮮戦争が勃発した1950年から52年までの占領末期は、「逆走」の序走期とみなすことができる。
 「逆コース」施策の中で中心を成すのは、やはり軍事政策であった。「逆走」の言わば号砲として50年にGHQの指令に基づき創設されていた警察予備隊が52年に保安隊と改組・改称され、54年には新たに自衛隊として再編・強化された。
 こうしてあたかも幼虫からさなぎを経て成虫となる昆虫のような形で誕生した自衛隊は、指揮系統、階級、司法手続き等の点でなお軍隊とは異なる要素を残していたものの、陸・海・空三部門を擁し、日本の国土防衛を主任務とする専門的な常設武装組織として立ち現れたから、自衛隊の発足は事実上の再軍備に等しいものと言ってよかった。
 自衛隊の存立根拠は新憲法には全く見えず、直接的にはサ条約と同時に締結された日米安全保障条約(旧安保条約)及びそれを補充する54年のMSA(相互防衛援助協定)に置かれていたから、これらの日米条約は理論上はともかく、政治的には日本国憲法よりも上位の規範文書とされていたのである。
 さらに、占領=革命下で地方自治と符丁を合わせて分権化された警察組織を再び中央集権的に再編する新警察法の制定も自衛隊発足と同じ54年に成った。これに先立ち、戦前の悪名高い秘密政治警察として廃止されていた特別高等警察(特高)を引き継ぐ公安警察が創設されたことと併せ、政治的かつ集権的な国家警察組織も立ち戻ってきた。
 さらに52年7月には同年5月1日に皇居外苑でデモ隊と警察部隊が衝突して多数の死傷者を出した「血のメーデー事件」を契機として、破壊活動防止法が制定されている。
 同法は特高が政治犯取締り法規として濫用し、特高とともに廃止されていた旧治安維持法よりは穏健な内容にとどめられていたものの、支配層の思惑の上では同法の復刻版と言うべき治安法規であって、その所管・執行機関として法務省に公安調査庁が設置された。
 これはすでに51年に戦前における思想弾圧の中心を担った思想検事の流れを汲む公安係検事が創設されたこととも合わせ、治安面での「逆コース」の要であった。
 こうして軍事・治安分野での「逆コース」と同時に、国民形成に関わる教育分野も「逆コース」のもう一つの主要な舞台となった。その出発点はやはり自衛隊発足年の54年、公立学校教員の政治活動を広範囲に禁じたいわゆる「教育二法」の制定であった。さらに56年には米国の制度にならって教育行政の分権化・民主化の目的で導入されていた地方自治体教育委員会の委員公選制が任命制に切り下げられた。
 以上のような上部構造に係る「逆コース」に比べ、下部経済構造に係る「逆コース」の開始はやや遅れるのであるが、それでも53年には大資本中心の経済体制を復活させるべく、企業結合の規制緩和を柱とする独禁法改定がなされ、55年には財閥解体を目指した過度経済力集中排除法も廃止となった。
 こうした「逆コース」を追い風として早くも憲法改正問題が浮上し、54年に吉田茂の後任として首相に就任した戦前の文部大臣経験者で、いったんは軍国主義者として公職追放されていた鳩山一郎の下で、改憲準備組織の性格を持つ内閣憲法調査会が設置されることとなった。
 結局のところ、この時期の改憲は実現しないのであるが、改憲問題の提起は「逆コース」の始動を明瞭に象徴する出来事であったことは間違いない。

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戦後日本史(連載第6回)

2013-06-03 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第1章 「逆走」の始動:1950‐60

〔一〕「逆走」の発端‐朝鮮戦争

 占領=革命理念の反共・保守的な転回はすでに1947年の冷戦開始時に起きていた。よって、占領=革命の成果を逐次反故にしていく「逆走」の開始時点を1947年とみなしてもあながち誤りとは言えない。
 とはいえ、この年の5月3日には占領=革命の一つの法的な結晶である新憲法が施行されており、47年はその他の一連の革新的な新施策の裏づけとなる法体系が整備された年でもある。具体的に言えば、家父長制を廃し両性の平等に立脚する新民法、不敬罪や大逆罪等の神権天皇制時代の政治犯罪条項を削除した刑法改正、地方自治の確立を目指す地方自治法や警察の民主化の要となる警察法、財閥復活を阻止する独占禁止法などがそれである。
 こうして47年から50年までの占領第二期は、革命的な流れと反革命的な流れとがせめぎ合う期間だったと言えるが、後者の反革命的な流れを決定づけた出来事が、50年6月に勃発する朝鮮戦争であった。
 ソ連を後ろ盾とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が米ソの朝鮮半島分割支配ラインである北緯38度線を越えて米国を後ろ盾とする大韓民国に進攻して朝鮮半島の武力統一を目指したことをきっかけに始まったこの戦争は、東西冷戦の構造が実戦の形をとって現れた最初の国際戦争であり、終結したばかりの第二次世界大戦に続く第三次世界大戦の危険性をも孕む画期的な出来事であった。
 米国にとっては、日本を反共の砦として再構築する新戦略が早速実際に試される出来事でもあった。GHQは出来たばかりの新憲法の目玉である日本の非武装化を早くも見直さざるを得なくなった。
 開戦から2か月後の50年8月、GHQは憲法9条に対する最初の修正要求となる新たな武装部隊の創設に係る一つの重大な指令を発する。ただし、あらゆる戦力の不保持を明記した9条との形式上の整合性を担保するため、武装部隊の名称は「警察予備隊」とされた。
 「警察予備隊」というと、一見警察力を補完する重装治安部隊のような組織とも思えるが、実のところ、この新組織は占領軍が朝鮮戦争に出動し空白となった日本の防衛を目的として創設された準軍隊と呼ぶべき武装部隊であった。要員募集も当初こそ旧日本軍軍人は回避する形で行われたが、隊員の経験不足が問題となり、間もなく旧日本軍の軍人経験者も採用されるようになった。
 これをきっかけとして、先に公職追放されていた軍国体制要人らの追放解除が51年から52年にかけて実施される反面、50年以降、共産主義者に対する公職追放が行われた。朝鮮戦争は、こうして軍国の亡霊を呼び戻す結果となった。
 いわゆる「逆コース」施策は1950年にはまだ本格的に開始されないが、「逆走」自体はこの年を起点とすると理解されるのである。

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スカイツリー考

2013-06-01 | 時評

東京スカイツリー開業から一年を過ぎ、在京テレビ放送もツリーへ移行した。日本が世界に誇る尖塔にまだ登っていないばかりか、行って見てもいない筆者はもう立派な非国民だろう。

筆者がスカイツリーに否定的なのは、高所恐怖だけが原因ではなくて、あのように高さを誇示するような建築思想に批判的だからだ。どうも日本を含むアジアのほか、アメリカにも「高層建築=近代化の象徴」という公式があるようで、むやみに高い建物を建てて喜んでいる。こういう皮相な発想は近代化の元祖・西欧にはないから、西欧では建物の高さを競い合うような風潮は見られない。西欧は首都でも古い町並みがよく保存されていて、意外にのどかな感じである。

もっとも、スカイツリーは単に物理的に高いだけがとりえではなく、芸術的にも先行の東京タワーより価値が高いという評価もあろうが、筆者からすると、専ら物理的な高さを追求していることがすでに芸術性を低めているし、周辺の下町風情を疎外する景観侵害の疑いも持たれる。西欧なら首都でも建築制限規制がかかったかもしれない。

アジアには「アジア的近代化」の考え方があると言われるかもしれないが、それは二番煎じの薄味近代化論だろう。それよりも前近代の面影深い墨田の下町―今、模範国民的スカイツリー客の傍若無人な振る舞いに悩まされている―を静かに散策したほうがよさそうだ。

移行前の試行では受信障害が広範な地域に生じ、社会的なコストのかかる「対策」を強いられたことからして、電波行政的にも疑問の拭えない尖塔である。

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