ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

農民の世界歴史(連載第20回)

2016-11-30 | 〆農民の世界歴史

第5章 日本の農民反乱

(4)近世農民一揆

 徳川幕藩体制は、豊臣政権が先鞭をつけた身分の固定化を継承し、より厳しい身分制度を確立した。農村も再編され、自治的な惣村は消滅したが、城下町のような都市と異なり、完全な統制下には置かれなかった。
 すなわち村請のような連帯責任制とともに、村役人による半自治制が維持され、庄屋のような豪農は農村指導者として強い権力を持った。そうした中で、江戸時代は百姓一揆が頻発する時代となり、一面では、百姓一揆の歴史であった。江戸時代初期から幕末直前あたりにかけ、長い百姓一揆事案のリストが作成できるほどである。
 その多くは天領ではなく、藩領での一揆であった。徳川幕府は多くの配下大名に領地を細切れに安堵することで領主の政治経済力を分散抑制する策を採ったため、慢性的財政難から増税搾取に走る中小藩が少なくなく、百姓一揆を誘発したのである。
 例外として、冷害に苦しむ東北地方北部の盛岡藩は広大な領地を持ちながら、不作による飢饉を契機とする百姓一揆が頻発し、江戸時代を通じて全国有数の一揆多発藩であった。米の石高制を全国一律に適用し、稲作基盤の領主制に執着した幕藩体制の矛盾が現れた悲劇である。
 江戸時代の長大な一揆事案のリストを一定の視点から分類すれば、義民直訴型と民衆蜂起型の二種を区別することができる。前者の最も著名な例は、佐倉藩の佐倉惣五郎による直訴事件である。彼は半ば伝説化されているが、これら義民は豪農である庄屋・名主層から出て、農村代表者としてあえて死罪を覚悟で直訴に及んだものであり、みな郷土の英雄として語り継がれている人物たちである。
 こうした義民直訴は江戸時代の比較的初期(17世紀後半期)に集中している。これは中世以来の惣村的な気風が近世農村にも残されていたことの証しであるが、その後下火となったのは、各藩で村役人クラスの懐柔・統制を強化し、貧農と富農を階級的に分断して農村の管理を引き締めたためかもしれない。
 これに対し、民衆蜂起型の百姓一揆は江戸時代の全体を通じて頻発している。一揆の大半はこのタイプと言ってよい。江戸時代最初期の島原の乱も、純然たる百姓一揆とは言えないが、当時の島原藩主松倉氏のキリシタン弾圧とともに苛烈な農民搾取が蜂起の大きな契機となっており、乱を鎮圧した幕府でさえ、時の藩主松倉勝家をある種の戦犯として現役大名級に対しては唯一例外の斬首刑に処したほどであった。
 典型的な百姓一揆を誘発したのは、江戸時代中期における幕府主導の年貢増徴政策と農民の強訴・逃亡禁止策だった。これにより、一般農民は農奴的立場に置かれ始めた。そうした中で幕閣を巻き込む騒動に発展したのが、美濃郡上藩で宝暦年間に発生した郡上一揆であった。
 この時期には、江戸近郊の幕府天領でも、農民の伝馬(運輸)賦役強化に反発して発生した中山道伝馬騒動、やはり天領の飛騨国で発生した大原騒動などの大規模一揆が発生し、騒然としていた。19世紀に入ると、天保の大飢饉を契機とする大小の一揆が頻発するが、やはり重要な天領である甲斐国で大規模な一揆・天保騒動が発生する。
 こうして一揆は藩内規模のものから次第に幕府膝元の天領下にも拡大していくことになるが、これは幕末に向け、幕府権力の弱体化が進んでいたことと軌を一にしていたものと思われる。

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農民の世界歴史(連載第19回)

2016-11-29 | 〆農民の世界歴史

第5章 日本の農民反乱

(3)農民出自豊臣政権

 室町時代末期の戦国へ向かう混乱の中、下克上により戦国大名にのし上がった武家は、新領地内の一円支配を確立するため、惣村農民の自治を抑制・解体することに注力した。そのため、土一揆の発生は次第に下火となり、加賀一向一揆の革命体制も1580年までに崩壊した。
 時代の新たな主人公となった戦国武将・大名には旧荘官クラスから出た富農出自の武家が多かったが、そうした中にあって豊臣氏は別格的な存在であった。豊臣氏(旧姓木下氏)の出自については純然たる農民か、それとも半農的な下級武士かでいまだ定説は確定しないようであるが、いずれにせよ下層階級から出たことは間違いない。
 ちなみに、秀吉の生母で後に息子の栄進に伴い大政所称号まで得る仲〔なか〕は中世では被差別民であった鍛冶屋の娘と伝えられ、最初の夫で秀吉の実父と目される弥右衛門と死別後、織田氏の同朋衆(お抱え芸能集団)の一人竹阿弥なる男と再婚したとされる。というように、秀吉の出自は明の太祖洪武帝並みに庶民的である。
 彼のあまりに有名な立身出世伝は割愛するが、大名・天下人にのし上がった秀吉の最大の政策は、百戦錬磨の戦国大名たちを統制することと同時に、当時最大化していた自治農民の政治的力量を削ぐことにあった。
 その最大の政策手段が検地である。検地自体は秀吉の発明ではなく、彼が仕えた織田氏をはじめ、戦国大名が獲得した新領地の生産高を確定するために実施していたが、秀吉のいわゆる太閤検地はその範囲の広さと方法の徹底ぶりで集大成的な意義を持っていた。
 太閤検地は全国に及び、かつ農村による自己申告制ではなく、多くは実計測制により、数値のごまかしを防いだ。これによって農地の権利関係を整理しつつ、実際の耕作者を特定・課税し、中間搾取者を一掃するとともに、自治的な惣村を解体していった。
 こうした太閤検地に対する反発が一揆として表出されたのが、1590年の仙北一揆であった。これは越後の上杉氏に命じて実施させた出羽国横手盆地の検地に対して、二次にわたり発生した大規模一揆であり、検地で権利を喪失する在地領主層の反発を背景に、配下農民も加勢して起こされた一揆であった。
 秀吉のもう一つの手段は、兵農分離である。元来、多くの武家が武装化した開発領主層に出自しているため、領民たる農民は戦時には武装した兵士として動員される立場にあった。中世末期には、ある程度軍事に専従する侍衆のような在地武士層が生まれていたが、秀吉の実家のように、農民との境界線はあいまいであった。
 一揆となれば、こうした武装農民の戦闘力は相当なものであり、領主層や天下人にとっても脅威であった。そこで、秀吉は大名間の私戦を禁ずるとともに、刀狩を実施して、農民その他民衆の武装権を剥奪しつつ、兵士と農民を身分上も分離したのであった。
 これは、農民出自とされる秀吉にとっては、自身のような成り上がりの存在を自ら否定するに等しい策であり、このような身分の固定化は続く徳川氏によってより体系的な身分的階級制度として確立されていくことになる。

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老革命家カストロ逝く

2016-11-28 | 時評

フィデル・カストロはある意味で、最後の革命家であった。武力革命家という意味においてである。彼がゲリラ活動から武力革命を成功させ、その後半世紀以上革命体制を持続させた手腕は比類なきものだったが、このような形態の革命はもはや過去のものである。

その点、筆者は革命の方法として、Ⅰ民衆蜂起とⅡ集団的不投票の二つを提唱しているが、歴史的な革命のほとんどがⅠ型であり、カストロが主導したキューバ革命はその最後の輝かしい成功例であった(拙稿参照)。

このタイプの革命に伴いがちな権威主義的革命体制の出現はキューバも例外に漏れず、今日まで多くの政治犯・亡命者を出してきたことは事実である。ロシア革命のキューバ版である。相棒だったチェ・ゲバラが生きていればキューバはもっと違っていただろうという見方もあるが、どうだろうか。

社会主義キューバは後ろ盾ソ連を失った後もしぶとく生き延びてきたが、それはゆっくりしたスピードながら、なし崩しの市場経済化・対米融和へ向かうことによってであり、すでに開始されているポスト・カストロ時代にはその流れは加速するだろう。

いずれにせよ、Ⅰ型革命の時代はほぼ終焉したと見る。となると、いよいよⅡ型革命の出番とである。

この型の革命にはカストロやチェ・ゲバラのようなカリスマ的革命家を必要としない。無名の民衆が集合的な革命家である。それだけに机上の革命構想に終始したり、せいぜいゼネスト程度で収束してしまうかもしれない。しかし、失敗の先にこそ成功あり、である。

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農民の世界歴史(連載第18回)

2016-11-22 | 〆農民の世界歴史

第5章 日本の農民反乱

(2)農民自治と土一揆

 武家支配下で荘園公領制から解放された農民が形成するようになった村落は、それまでの荘園公領とは異なり、職住分離型の自治的共同体としての惣に発展していく。その点、近江は先進地域であり、鎌倉時代後期の13世紀後半から惣が形成された。
 原初の惣では名主層が指導者となるが、先進地域の惣では小農民を含めた多数の構成員を持つある意味では「民主的」な運営が確立されていく。惣は田畑や山林を共有財として持ち、入会地や水利の管理、惣内の治安維持にも村掟に基づき共同で当たった。
 こうして自治体としての力量をつけた惣が領主に対する団体交渉に及ぶことは必然であった。その際、惣ごとに一致団結することがいわゆる一揆の本来の意味であり、そうした惣ごとの一揆を通じた要求行動は室町時代に入ると活発化した。
 その背景は様々あるが、室町時代になると守護の権限が次第に強化され、惣の自治と緊張関係に立つようになったこと、貨幣経済の発達に伴い、土倉のような高利貸が盛んとなり、負債に苦しむ農民も続出してきたことがある。
 これらの新たな政治・経済上の強者に対して、農民は一揆を結成して、時に強硬な抗議・要求行動を取るようになった。これが土一揆であったが、「土」という表現は農民層に限らず、農民層出自が多かった運送業者の馬借や地侍、国人のような中下層武士層を含む階級的表現である。
 そうした土一揆の最初の最も大規模なものが、1428年の正長の土一揆であった。これは当初、近江の馬借が起こした徳政一揆が畿内一円の農民一揆に拡大したものであり、事態を重視した幕府が鎮圧に乗り出すも、失敗した。
 この時、幕府は要求事項の徳政令を拒否したものの、奈良の守護として強力な支配権を握っていた興福寺は徳政令の施行を余儀なくされ、一揆は一定の成果を上げたことであった。その証明として、今日でも柳生の徳政碑文が残されているところである。
 正長の土一揆に事実上成功した畿内農民らは、1441年にも再び大規模な嘉吉の土一揆を起こした。一揆の拡大を恐れた幕府は、山城国限定ながら正式の徳政令の発布に初めて踏み切り、一揆を京都周辺で食い止めることに成功したものの、これにより幕府の威信は揺らぐこととなった。
 応仁の乱の内戦を経て、いっそう室町幕府の権力が弱体化する中、土一揆が一揆を越えて一種の民衆革命に発展したのが、1485年の山城国一揆である。山城国と言えば、40年前の嘉吉の土一揆でも中心となった地域である。山城国はかねて最有力守護大名畠山氏の影響力の強い地域であったが、お家騒動により域内が混乱する中、農民が国人勢力と連携して決起し、畠山氏の支配を排除して自治的な革命政権である惣国体制を樹立したのである。
 この山城惣国体制は要衝地である山城国の直轄領化を狙っていた室町幕府が一揆をあえて鎮圧せず、事実上黙認したことにも助けられ、向こう8年にわたり維持されたが、農民と幕府側の切り崩し工作に遭った国人の利害対立などから、崩壊した。
 とはいえ、このような惣を拠点とした革命的自治体制は、遅れて別の形で発生し、100年近くも維持されることになる加賀一向一揆の先例とも言えるものであり、惣村農民の政治的な力量の増大を示す事象であった。

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農民の世界歴史(連載第17回)

2016-11-21 | 〆農民の世界歴史

第5章 日本の農民反乱

(1)日本における農民の階級分裂

 マルクスが『資本論』の注記において、「日本は、その土地所有の純封建的な組織とその発達した小農民経営をもって、たいていはブルジョワ的偏見にとらわれているわれわれのすべての史書よりはるかに忠実なヨーロッパ中世の姿を示している」と記した日本の封建制は、ヨーロッパのそれとは相当に異なった形成過程を持っている。
 飛鳥時代以降整備された中国流の律令制的班田制が中国の場合以上に建て前と化し、崩壊した後は、貴族や寺社を主体とする荘園制が発達したが、この時期の荘園制はある程度、西洋型封建制に近似していたかもしれない。
 しかし、荘園経営そのものに知識も関心もない貴族層は実際の田地経営実務を有力農民層である田堵に任せるようになった。やがて実力をつけた田堵は新田開発も積極的に担うようになり、開発領主化していく。
 開発領主には地元の郡司級豪族も含まれていたと見られるが、多くは農地の兼併によって富を蓄積した名主と呼ばれる農民(富農)出自であった。開発領主には農民に対する強力な支配権が与えられたため、この段階で農民間に階級分裂が生じ、一般の耕作民は農奴に近い存在となったと考えられる。
 開発領主層は次第に中央貴族らに土地を寄進して庇護を得る寄進荘園の荘官の地位を得るとともに、在庁官人にも任命され、地方行政まで握るようになった。かれらはまた、自衛のため武装もし、武士化していく。武家政権時代に入ると地頭制度が施行されるようになり、土地関係がいっそう複雑化するが、当初の地頭は武士化した荘官がそのまま御家人・地頭に補任され、武家支配体制に編入されていくケースが多かった。
 後に在地の国人等から下克上していく武家の多くは、家系を飾るため、源・平・藤氏のいずれかの系譜を称することが多かったが、確実に系図をたどれる家系はわずかで、多くは旧荘官層出自、元をただせば農民であったと考えられる。
 例えば、源氏系を称した徳川氏にしても、その系図は家康の頃に政治的に作出されたもので、旧姓の松平氏は三河の山あいの開発領主の出自である可能性が高い。しかも鎌倉時代の松平氏の事績は不明であり、地頭に補任された記録もないことから、元来は一介の名主にすぎなかった可能性すらある。
 とはいえ、武家政権下で地頭制が行き渡ると、農民の生活形態は一変した。従来は開発領主に従属する荘園公領の農奴的性質が強かったものが、地頭という新しい管理者の出現により、荘園公領制が崩壊し始めたことで、農民の自治的な村落の芽生えが見られたのであった。
 その際、村落農民らのまとめ役となったのが、名主層である。名主は旧開発領主層の末席に連なるような存在であったが、荘園公領制の解体に伴い、独立性を強め、村落の指導者として台頭していくのである。こうして、日本の場合は、農奴制的な従属からの農民の自治的な解放がやがて農民反乱の基盤となっていったであろう。

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農民の世界歴史(連載第16回)

2016-11-15 | 〆農民の世界歴史

第4章 ヨーロッパの農民反乱

(4)ロシア農民戦争

 ヨーロッパで最も遅く農奴制が立ち現れたのは、ロシアであった。元来、中世ロシアでは西欧的な封建制が確立されず、農民には移動の自由があり、ある種の季節労働者であったが、それが反動的に農奴制に変質したのは、雷帝の異名を持つイワン4世の時代である。
 雷帝は1580年代、一連の勅令を通じて、段階的に農民の移動を禁止した。ここには雷帝の下、集権的な帝国の建設が鋭意進められる中、大土地所有を制限された領主たちの経済特権を代償的に保証しようという狙いがあったと見られる。
 この政策は17世紀に成立したロマノフ朝の第2代皇帝アレクセイの時代に正式に立法化され、ここにロシア農奴制の法的基礎が置かれた。それは西欧農奴制がおおむね慣習的な制度であったのとは対照的に、詳細な法典に整備されたことを特徴とする。
 こうして西欧とは逆に、集権国家が整備される過程で反動的に現れたロシア農奴制もある種の「再版農奴制」と言えたが、むしろ西欧が封建制を脱して近世へ向かう時期に発現してきた「後発農奴制」と呼ぶべき特異なものであった。元来は、相対的な自由を保持していたロシア農民にとっては不本意な制度改悪であり、禁令にもかかわらず、逃亡農奴は後を絶たなかった。
 その際、ロシア南部に成立していた軍事的自治勢力であるコサックが逃亡農奴のサンクチュアリーとなっていたことから、ロシアにおける農民反乱はコサックの反乱という独特の形態を取ることになる。こうした農民反乱の性格を持ったコサックの大規模な反乱は、17世紀から18世紀にかけて三たび発生し、それぞれ指導者の名を取ってラージンの乱、ブラヴィンの乱、プガチョフの乱と呼ばれている。
 このうち、最も大規模に帝国を揺るがせたのが一連の反乱の最後のもので、1773年に勃発したプガチョフの乱である。これはその規模からいって、一つの戦争と呼ぶべきものであった。時代はエカチェリーナ2世女帝の治世であり、ロシア帝国にとっては全盛期であった。それは同時に、ロシア農奴制の最悪期でもあり、この時代の農奴は市場で売買されたり、債務の抵当にすら入れられたりするようになり、言葉の真の意味での農奴ではなく、奴隷に近い存在にまで貶められていた。
 元来は啓蒙思想の持ち主であったエカチェリーナはロシア全域で農民反乱がゲリラ的に頻発していた治世初期には農奴制の改革を志向しようとしたこともあったが、領主貴族層の猛反対にあっていた。そうした中、彗星のように現れたのがドン河流域を拠点とするドン・コサックの一人エメリヤン・プガチョフであった。彼はエカチェリーナ女帝がクーデターで廃位に追い込み、不審死を遂げた夫で先帝のピョートル3世を僭称しつつ、農奴制廃止を掲げて蜂起した。
 彼は単なる反乱指導者にとどまらず、農民や労働者、少数民族を動員した混成軍を組織しつつ、周辺都市を占領し、一定の統治機構を備えたある種の地方革命政権の樹立にまで及んだ。しかし、ドン・コサックの領域を超えた急激な膨張がもともと限界のある寄せ集め戦力の拡散を招いた。
 決定的な戦略ミスはカザン攻略に失敗し、戦力を消耗したことであった。この戦いで盛り返したロシア帝国軍に大敗した反乱軍残党は敗走するが、ピョートル3世の僭称が家族の証言で暴かれ、同志の裏切りによって捕らわれたプガチョフはモスクワに護送され、公開処刑された。
 こうしてプガチョフの乱は一年余りで失敗に終わった。乱後、女帝は再発防止のため、かえって農奴制を強化する反動的姿勢を鮮明にしたため、ロシア農奴制はさらに継続し、法的に廃止されるのはプガチョフの乱からおよそ90年後の農奴解放令によってであった。

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農民の世界歴史(連載第15回)

2016-11-14 | 〆農民の世界歴史

第4章 ヨーロッパの農民反乱

(3)ドイツ農民戦争

 仏英に遅れて農民反乱が勃発するのが、まさに遅れたドイツであった。中世のドイツは名ばかりの神聖ローマ帝国に包摂されていたが、「帝国」の実態は数百にも及ぶ封建的領邦の集合にすぎなかった。そうした封建的分裂はローマ教皇の財源確保にも好都合であり、ドイツは聖職者の所領を通じたローマ教皇庁の一大収奪場とされていた。
 そのため「ローマの牝牛」とも揶揄されたドイツでは、世俗領主より以上に、教会による収奪への農民の反感が募っていた。それが頂点に達するのは、16世紀、財政難の教皇庁がドイツに対する収奪を強化した時である。中でも、課税より手軽な集金策としてひねり出された免罪符の販売事業は教皇庁による詐欺的とも言える新手の収奪であり、これに対して反旗を翻したのがマルティン・ルターであった。それは宗教改革の始まりであったが、一方では農民戦争の始まりでもあった。
 ルターの宗教改革はまずはルターに感化された騎士階級の反乱を惹起したが、次いで農民反乱を刺激した。西南ドイツを中心にゲリラ的に同時多発した反乱では、かつての仏英の農民反乱とは異なり、農奴制廃止などの明確なマニフェストが掲げられた。いつしかドイツ農民は知的な力量を蓄積していたのだった。
 時に「大戦争」とも称されるドイツ農民戦争のクライマックスは1524年、中部の都市ミュールハウゼンで、宗教改革者トマス・ミュンツアーによって指導された反乱である。ミュンツァーは、ルターに感化されたルター派説教師であったが、農民反乱に懐疑的なルターとは袂を分かち、独自の思想に基づいて農民階級を鼓舞した。
 彼の思想はある種の共産主義に基づく神の国の樹立を求める革命思想であり、ルターのより穏健な改革思想とは明白に対立した。彼を危険視したルターは諸侯に呼びかけて、鎮圧軍を組織させた。武力で劣る農民軍は25年、あっけなく敗北し、ミュンツァーも捕らえられ、処刑された。
 これを最後に、農民戦争は10万人とも言われる犠牲を残して終結した。こうしてドイツ農民戦争は実践的には無残な失敗に終わったわけだが、上述のとおり、反乱軍が掲げたマニフェストは後代の人権宣言の萌芽とも言えるような要素を宿しており、思想的にはブルジョワ革命の先駆けとしての意義を認め得るものであった。
 とはいえ、農民戦争の挫折により、ドイツでは農奴制がいっそう強化される反動現象が生じる。とりわけ農民戦争の舞台とならなかったエルベ河以東のプロイセンを中心とする地域では騎士領主が強力な権限の下、封建的な農場を経営することが普及していった。これは、16世紀の大航海時代以降、仏英などの農奴制が次第に解体し、西欧の都市化が進んでいく中、都市向け商品作物の輸出基地となったドイツでは農奴制が強化されるという皮肉な逆行現象であった。
 講学上「再版農奴制」とも呼ばれるこの東方ドイツ特有の制度は、むしろ「反動農奴制」と呼ぶべき歴史反動であったが、農場経営者たる領主(ユンカー)は、領内の教会と教会運営の学校を通じて農民を精神的にも支配したため、農民は覚醒せず、農民反乱も起こりにくい構造が形成された。
 この封建反動が法的に正されるのはフランス革命の余波を受けた19世紀初頭、プロイセンの自由主義改革の中で農奴解放が制度化された時である。しかしユンカー層はその後も資本主義体制に適応しつつ、新たな形態の搾取を開始していくのであるが、これについては章を改めて見ることにする。

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アメリカン・ファシズムへ?

2016-11-10 | 時評

8月に連載終了した『戦後ファシズム史』拙稿の末尾で、次のように書いた。

アメリカン・ファシズムとも言うべき「トランプ政権」が現実のものとなるかどうか、現実のものとなったとして、その政策綱領を修正なしに実行できるかどうかは、アメリカにおける「自由主義」の牽制力がどこまで働くかにかかっているだろう。

一般得票数で下回った候補を勝たせてしまうアメリカの古式な間接選挙制度は、そのような危うい道を用意してしまったようだ。とはいえ、労働者階級の反動化がファシズムの底流になるという歴史法則どおりの結果ではある。しかし、現時点ではタイトルに?印を入れておくのは、トランプ次期政権がアメリカン・ファシズムの性格をはっきりさせるかどうかはまだ確定しないからである。

「米国第一」「偉大な米国の復権」といった愛国主義イデオロギーに基づくムスリム入国禁止や国境の壁などの公約をそのまま、あるいは修正してもムスリムの入国審査の強化や不法滞在者の大量検挙・送還、不法入国企図者の即時射殺といった強硬策を実行するなら、アメリカン・ファシズムの道である。

その点、トランプはドイツ系移民のルーツを持ちながら、どこかピエロ的気質を備えている点では、しかつめらしいヒトラーよりはイタリア人のムッソリーニに近いと言えるかもしれない。

しかし、トランプに不信感を抱く議会共和党の圧力で公約を撤回、または実質撤回に等しいほど希釈化するならば、それでもイタリア元首相ベルルスコーニのような右派ポピュリストの政権の性格は免れないだろうが、ファシズムは際どく免れる。

いずれにせよ、オバマ→トランプという転換は唐突で一貫性がなく見えるが、必ずしもそうではない。すでに国際的なパワーとして斜陽化し、国内的にも分裂したアメリカを既成政治家の手で辛うじて現状維持するのでなく、独善的な扇動家に委ねていっそう斜陽化させ、分裂・解体を促進するという「一貫」した道が選択されたのだからである。

そのようにして米国一極体制が決定的に壊れていくのは好ましいことだが、懸念すべきは、管理ファシズムの道を行くロシアのプーチンを好感しているらしいトランプが親露政策に転換して、「露米ファシズム連携」のような奇異な国際秩序が形成されるかもしれない点である。

このような関係は欧州のネオ・ファシズムの潮流をも刺激して、欧州各国にも同様の傾向をもった管理ファシズム政権のブームを巻き起こし、すでにそうした政権がいくつもひしめくアジア・アフリカと合わせ、世界が急速にファッショ化する危険を内包している。

それは日本の前ファッショ的な右派政権にとってもさらなる躍進の推進力となると同時に、アメリカの従属的同盟国として、一つの難しい選択も迫られる。

「米国第一」のトランプ次期政権が駐留米軍縮小または撤退をちらつかせて負担増を要求することには困惑するだろうが、一方でトランプが同盟国の核武装を容認するらしいことを逆手に取れば、コアな政権支持層の隠された願望である核武装も夢ではなくなるだろう。負担増か核武装か―。見ものである。

トランプ政権の登場はコミュニストにとってはいっそう後退・閉塞を強いられるような事態に見えるが、決してそうではなく、このような反動現象は、むしろ「与えて奪え」の格言に沿った一過程とポジティブに捉えたい。

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農民の世界歴史(連載第14回)

2016-11-08 | 〆農民の世界歴史

第4章 ヨーロッパの農民反乱

(2)仏英の農民反乱

 13世紀を過ぎると、西欧農奴制は揺らぎ始める。その要因については貨幣経済の浸透という経済的な要因が大きいと考えられているが、より精神的な要素として、貨幣経済が農奴を覚醒させたということもあっただろう。貨幣計算は打算的な仕方においてではあるが、人を知的に啓発する。
 また14世紀以降、地球環境が寒冷期(小氷期)を迎え、西欧でも寒冷化により生産力の低迷が生じたことも、農奴制の限界をさらけ出したと考えられる。そこに黒死病ペストの大流行という自然現象による打撃も加わった。
 農奴制の中心地でもあった仏英両国では、英仏百年戦争の影響も顕著であった。危機に陥った国王や封建領主は増税の収奪強化で対処しようとした。そうした中、フランスの農民がまず敏感に反応した。1358年、フランス王国首都パリ近郊のイル・ド・フランス地方の農民が集団的に蜂起したのだ。
 この反乱の直接的な要因としては、その二年前のポワティエの戦いで国王ジャン2世がイングランドの捕虜となるという屈辱的敗戦の後、国内が動揺する中、領主が増税や農民の賦役強制などに走ったことへの反発にあったとされる。
 当時の農民衣ジャックにちなんでジャックリーの乱と呼ばれるこの反乱は数週間で鎮圧されたものの、その間に領主館が襲撃され、女・子供も皆殺しにされる残酷な暴動に発展した。反乱はパリ市長エティエンヌ・マルセルによって支持され、連携したマルセルによって一時パリは革命解放区の様相を呈した。
 マルセルはフランス王位を狙っていたナバラ王カルロス2世との連携も企図したが、カルロスは農民反乱の鎮圧に動いたため、実現せず、マルセルも失墜、暗殺された。結局、反乱は失敗に終わる。
 この乱からおよそ20年後の1381年、今度はイングランドで同種の農民反乱が勃発する。イングランドは英仏戦争を優位に進めていたとはいえ、決め手に欠け、戦争の長期化は財政難を招いていた。そのため、人頭税の強化が断行されたことに加え、ペスト禍の中、封建領主による反動的な農奴制強化も加わり、農民の反発が頂点に達していたのだ。
 反乱指導者の名を取ってワット・タイラーの乱と呼ばれるこの反乱は比較的組織的に行なわれ、市民の助力も得てロンドンを占領、時の国王リチャード2世との謁見がかなった。国王は反乱側の農奴制廃止や免責などの要求を受け入れる姿勢を示したものの、おそらくこれは懐柔のための計略であり、第二回謁見時にロンドン市長がタイラーを殺害するという挙に出た。
 これを機に、政府は反乱指導者の検挙・処刑に動き、反乱は失敗に終わったのだった。ちなみに、この反乱はジョン・ボールなる改革派神父によって精神的に教導されており、彼の言葉「アダムが耕しイヴが紡いでいたとき、誰がジェントリー(地主階級)だったのか」は、近代の階級闘争の先駆けとも言える響きを備えていた。
 14世紀後半に起きた仏英二つの失敗した農民反乱は西欧農奴制晩期における農民の政治的な覚醒と領主権力の弱体化を示すエピソードであった。15世紀以降は、農奴解放とその結果としての小作農民の増大により農奴制及びそれを土台とする封建制が解体されていく時代である。

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農民の世界歴史(連載第13回)

2016-11-07 | 〆農民の世界歴史

第4章 ヨーロッパの農民反乱

(1)農奴制の濃淡

 中世ヨーロッパと言えば、農奴制が代名詞のようになるが、農奴制の発現はヨーロッパでも濃淡があった。つとに帝政ローマ晩期には、隷属的な小作人を使役するコロナートゥスが発達しており、その土台の上に西ローマ帝国を継承したゲルマン諸王朝の下では農奴制が発達したと、一応は言えるだろう。
 その点、ゲルマン人は多数の部族に分かれ、統一性がなく、王権を形成しても、その内部は初めから地方豪族の連合体に近いものであった。それら豪族は地元に領地を保有し、農奴に耕作させて利益を上げるという仕組みが確立された。
 ここに農奴という訳語は「奴」という語を残しつつ、「奴隷」という表現は慎重に回避しているように、いわゆる奴隷ではないが、領主に人格的に従属し、移転や職業選択の自由はない限りで束縛されているという微妙な法的地位をよく示している。その点で、西欧の農奴は9世紀に大反乱を起こしたイスラーム世界の農業奴隷とは異なる。
 このような西欧型農奴制の中心地は、ほぼ西欧全域に及ぶ王権を築いたカロリング朝を継承したカペー朝下のフランスとフランス西部の半独立的封建領主が相次いで王家となり、フランス的なものが移植されたイングランドということになる。
 ちなみに、11世紀から13世紀にかけては地球全体が比較的温暖だったと推測されており、中世農奴制の繁栄期もこの時代とほぼ一致している。この時期、特に西欧は気候が良く、緯度の高いイングランドですらブドウ栽培が隆盛化したほどであった。
 そうした農業適合環境に恵まれつつ、農奴制は高い農業生産力を上げた。その背景として、農業技術の発達や貢納後の生産物を農奴が留保できる生産物地代制への変化などの改革による生産意欲の向上などもあったと考えられる。

 一方、ローマ帝国の延長体としての東ローマ=ビザンツ帝国の状況は相当に異なる。ここではコロナートゥスはあまり発達せず、小土地保有者の自由農民から成る農村が軸となっていた。自由農民は屯田兵として兵役を負いつつ(テマ制)、入植・農業開発も担った。
 さらにビザンツ帝国の特質として、農民出自の皇帝も輩出したことが挙げられる。初期の最も著名な皇帝であるユスティニアヌス1世もマケドニア近郊の農民の子であったし、ビザンツ全盛期を演出したマケドニア朝創始者バシレイオス1世はじめ、マケドニア朝ではクーデターで帝位に就いたロマノス1世やミカエル4世も農民の子とされるように、最も多くの農民出自皇帝を出している。
 しかし、皮肉にもこのマケドニア朝の時代に大土地所有制が発生し、自由農民の村落は解体されていった。その後、西欧封建制に類似したプロノイア制と呼ばれる制度が発達するが、これは貴族の軍事奉仕制度であり、領主権を認めるものではなかったと解されている。
 結局、ビザンツ帝国領内では西欧型の農奴制は成立しなかった。しかし、ラテン帝国による占領を経て、末期のパレオロゴス朝になると、西欧化を来たし、プロノイア制の封建制への接近傾向が強まったが、そうした準封建的分裂はまさに帝国の末期状態を示していた。

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農民の世界歴史(連載第12回)

2016-11-01 | 〆農民の世界歴史

第3章 中国の農民反乱史

(4)太平天国の夢

 李自成の農民反乱を横取りする形で中国大陸の新たな覇者となった女真系後金は間もなく、清に国号を改称し、中国最後となる王朝を確立した。これもモンゴル系元と同様の異民族王朝であったが、はるかに卓越した統治能力を持つ王朝であった。
 清の繁栄は17世紀から18世紀にかけて続き、この間、農業生産力の増大もあり、今日の巨大人口・中国につながる最初の人口爆発現象が起きる。この時代の人口爆発は、ほぼ農民人口の増大を意味していた。繁栄の果実であった人口爆発は食糧難の要因となり、かえって19世紀以降、清体制が衰退・同様する契機ともなる。対外的にも、西洋列強の進出が活発化し、1840年のアヘン戦争が大きな転機となる。
 アヘン戦争での敗北後、アヘン輸入量の増加とそれに伴う銀の高騰は、銀納税が定着して久しい農村経済を圧迫し、流民を出す一方で、農民の団結力を高め、結社運動も盛んになった。そうした中、1851年に勃発したのが太平天国の乱である。これは、客家出身の科挙試験落第者洪秀全を指導者とする宗教結社太平天国が起こした乱で、南京を占領し、十年以上にわたり一種の解放区を維持したもので、歴史用語としての単なる「乱」を越えた革命であった。
 太平天国は当初、拝上帝会を名乗っていたように、当時中国社会にも広く浸透していたキリスト教から派生した新興宗教結社である点で、従来の宗教結社とは異なる新しい潮流を象徴していた。しかも、太平天国というわかりやすいユートピアのイメージも、大衆を動員し得た秘訣であったろう。
 参加者は必ずしも農民とは限らなかったため、太平天国の乱を単純な農民反乱とみなすことは正確でないが、その末端は貧農や逃亡農民等であったため、農民反乱の性格をも帯びていた。同時に、「滅満興漢」の民族主義的なスローガンも掲げる漢人の民族主義レジスタンスの性格もあった。
 しかし、従来の一揆的な反乱とは異なり、天朝田畝制のような明確なイデオロギーと政策綱領を擁していた。その中心は農地を生産性により九階級に分け、男女問わず分配し、生産物は個自の消費分以外は国庫に保管し私有は認めない。冠婚葬祭儀礼の費用や孤児・老人の扶養料は国庫から支出するといったもので、全体として農村共産主義の先駆け的な思想を示していたのである。
 これだけ見れば、農村共産主義革命と評価できる点もあり、事実、後の中国共産党は太平天国を先行の範例として大いに参照したのである。しかし、共産党体制と異なり、太平天国は持続的ではなかった。一つには当時の清朝は動揺しながらもなお事態掌握力を保持していたこともあるが、それ以上に、太平天国指導部が堕落したことである。
 如上のような理想主義的綱領は何一つ実現しなかったばかりか、洪秀全は天王を称して壮麗な宮殿に鎮座し、皇帝然として民衆とは接しなかった。統治手法も、清朝との対峙を名目に、軍事独裁制に近いものであるばかりか、天王以下指導部にだけ一夫多妻特権を認めるなど、道義的にも堕落・反動化していた。しかも、天王洪秀全は政務を主導しようとしないため、当初は炭売り出身の楊秀清が事実上の宰相格となり、次第に専横化していく。
 楊独裁に対する反感から、指導部の内紛も激しくなり、56年の内乱(天京事変)では楊一族とその配下二万人が粛清される事態となった。それでも、洪秀全の権威の下、新指導部を再編して太平天国は続いていくが、清朝側でも弱体化した中央軍に代え、地方軍閥や西洋人傭兵隊による掃討作戦が展開され、太平天国は追い詰められていく。
 最終的には、64年の洪秀全の死が打撃となり、太平天国は崩壊した。結局のところ、この革命は洪秀全個人のカリスマ性によって支えられていた点に限界があった。同時に、革命が理念・綱領倒れに終わりやすいことを示す教訓事例でもあった。
 こうして、太平天国は儚い夢として潰えたが、その経験は後の近代革命家たちにも少なからぬ影響を及ぼし、巨大な農村人口を擁する農業大国・中国における革命のあり方に関しては、半世紀以上後のロシア革命以上に重要な先例となるのである。

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