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近代革命の社会力学(連載補遺23)

2022-09-30 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(2)朝鮮王朝晩期の情勢
 14世紀末に創始された朝鮮王朝は、儒学教理を精神的な支柱としつつ、創始者・李成桂の子孫が歴代国王を世襲し、両班階級を支配層とする体制を一貫して保持し、王を廃位する政変は経験しながらも、王朝交代も革命も経験することなく、数百年にわたり安定的に存続していた。
 その秘訣は、江戸時代の日本とも似て、日本や琉球との通商関係を例外とする事実上の「鎖国」政策と中国歴代王朝への服属によって定常的に体制を維持していくという徹底した保守主義にあった。
 しかし、甲申事変が発生した1880年代の朝鮮王朝は充分な指導力を持たない最後の国王・高宗の治世下、西洋列強や明治維新後の日本からの圧力を受け、長い王朝史の中でも特に混乱を極めた晩期に当面しようとしていた。
 それに先立ち、1870年代から、ともに野心的な国王父君・李昰応(大院君)と国王正妃・閔玆暎(閔妃)が権力闘争を繰り広げていたが、両派の争点の一つは、西欧列強に対する開国か攘夷かという対外政策にあった。その点で、幕末期の日本とも類似し、列強の帝国主義的膨張に直面した「鎖国」体制晩期の動揺を示していた。
 朝鮮では大院君勢力が攘夷政策を追求したのに対し、閔妃勢力は開国政策を志向するという対立軸ができていたが、1873年の政変で大院君の追い落としに成功した閔妃勢力は、明治維新後、新体制を樹立した日本との修好条規の締結を皮切りに、西洋列強との通商条約の締結に進んだ。
 特に日本との関わりは強化され、日本の支援で軍隊の近代化が進められていたところ、劣遇されたことに不満を持つ封建的な旧式軍隊を扇動する形で、復権を狙った大院君が1882年にクーデターを起こし(壬午事変)、一時的に権力に返り咲くが、閔妃勢力は清国を頼り、復権大院君政権を打倒し、大院君は清国に連行された。
 こうして、以後は閔妃政権の時代となるが、清国を頼ったためにかえって清国への従属が強まり、中朝商民水陸貿易章程をもって朝鮮が清国の属国であることが明定される一方、壬午事変では朝鮮在留日本人も標的にされ、多数の日本人が殺害されたことから、改めて懲罰的内容を持つ済物浦条約が締結され、邦人保護を名目とした日本軍の朝鮮駐留を認めさせられた。
 このように清国と日本の挟み撃ちのような状況に陥ったことは、権力を取り戻した閔妃政権の自立的な政策遂行を制約し、権力維持のために清国と日本、後には極東に触手を伸ばすロシアの間を浮動する日和見主義に赴かせた。
 内政面では、閔妃政権は外戚門閥が権力と利権を独占する19世紀の朝鮮を特徴づけた勢道政治の流れの中にあり、元来はマイナーな一族であった外戚・閔氏による支配が行われていた。
 その中心にあったのは、言うまでもなく閔妃であったが、彼女は巫術に傾倒し、関税収入を含む莫大な国費を祭祀に充てるなどの専横が見られた。結果、財政難をまかなうため、悪貨鋳造策に走ってインフレーションを招くなど、社会経済の混乱も深まったことは甲申事変を誘発する動因となる。


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