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近代革命の社会力学(連載第156回)

2020-10-14 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(5)世俗的共和国の創出
 帝政を廃止した後、単一の新トルコ政府となった大国民会議は、引き続いて連合国との交渉に入り、1923年7月、セーヴル条約に代わる新たなローザンヌ条約を締結した。この新条約では、アナトリア・ルメリア権利擁護委員会が目指していた旧バルカン半島領土の回復は成らなかったが、アナトリア半島領土の保全と戦争賠償金の免除という成果を得た。
 この条約交渉の成功により、権威と名声を高めたケマルは、23年10月、大国民会議決議をもって初代大統領に就任し、新生トルコ共和国のトップに立った。さらに、翌年にはいったん存置されていたカリフ制も廃止、名実ともに世俗的共和制に移行した。
 オスマン帝国以前からのイスラーム的伝統であるカリフ制の廃止には反発もあったが、このようにケマルが議論のあったカリフ制廃止を急いだのは、600年以上も持続してきたオスマン帝国の体制を根底から覆し、新生トルコを近代的な世俗共和国として再編せんとするまさに革命的な意志の表れであった。
 実のところ、こうしたイスラーム世界における近代的な世俗共和制の試みには、先例があった。すなわち、民族的・文化的にも近い隣国アゼルバイジャンで1918年から20年にかけて存在した「アゼルバイジャン民主共和国」である。
 これはロシア革命を機に帝政ロシア版図から独立したアゼルバイジャン民族主義勢力が建てた時限的国家であり、政教分離や信教の自由、アメリカをはじめ多くの欧米諸国にも先駆けて女性参政権を保障したイスラーム圏初の社会実験の場であった。
 しかし、この国家は慣れない多党制を追求したために政情が安定せず、対外的にもアルメニアとの領土紛争に巻き込まれた末、ロシアのボリシェヴィキの革命輸出政策によって赤軍に侵攻され、最終的にはソ連に吸収・編入されていった。
 新生トルコは、イスラーム圏ではアゼルバイジャンに次ぐ世俗共和国の試みとなったが、それは着衣その他の文化的慣習に至るまで徹底した脱イスラーム化政策として追求された。永年の法体系であったシャリーア法の廃止、イスラーム神学校の閉鎖、アラビア文字に代わるラテン文字の導入なども断行され、それはある種の「文化大革命」であった。
 イスラーム圏にあってまさに歴史を覆す革命的な施策を断行するに当たっては、議会から「アタチュルク(父なるトルコ人)」の公式称号を得たケマルの父権的な権威がすべてであった。それは、ほとんど個人崇拝の域に達していた。
 とはいえ、当時のイスラーム圏を代表していたトルコで徹底した脱イスラーム化の世俗的共和革命が実現されたことのインパクトは大きかったが、その大きさのゆえに、当時の周辺イスラーム圏では同種の連続革命の余波は生じなかった。ただし、限定的な影響の波及は見られた。
 隣国イランでは1921年、18世紀末以来のカージャール朝に代わり、ケマルと同様に職業軍人出自の人レザー・ハーンがクーデターで政権を握ったが、彼は共和制移行ではなく、25年に自ら国王に即位し、新王朝パフラヴィー朝を興す道を選択した。
 もっとも、パフラヴィー朝は君主制の枠内で、列強の侵出を食い止めるとともに西欧近代化路線を追求したため、ある種の革命的な王朝ではあった。しかし、この路線は1979年、二代目国王モハンマド・レザー・シャーの時代に至り、反作用としてのイスラーム共和革命によって覆されることになる。
 さらに、イランの東隣アフガニスタンでは、イギリスの侵略を排除した時の国王アマーヌッラー・ハーンが1926年以降、トルコの例にならった世俗主義の改革策を断行したが、これは保守勢力の反発を招き、29年、イギリスの支援を受けた少数民族タジク人の反乱により王位を追われ、亡命した。アフガニスタンの共和革命も、1970年代まで持ち越しとなる。


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