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近代革命の社会力学(連載追補4)

2022-11-18 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(7)ベルギー独立革命

〈7‐3〉独立革命後の諸状況
 ベルギーの独立革命は1830年12月のロンドン会議でひとまず国際的に承認を得たものの、オランダはこれに不服であった。そのため、独力で武力による奪還を図り、1831年8月に再びベルギーに侵攻した。
 当初のベルギー軍は民兵団程度のものにすぎず、数日でベルギーは陥落寸前となったが、ベルギーはフランスに応援を要請、フランス軍が支援介入に乗り出したことで、蘭仏戦争の危機に直面した。そのため、イギリスの仲介を経て停戦が合意され、ベルギー侵攻作戦は十日間で収束した。
 このいわゆる「十日戦争」ではオランダが勝利寸前で外交的に敗北したことでベルギー独立は確証される結果となったが、オランダはなおも旧南ネーデルラントの奪還に執着し、独立承認を拒んでいた。最終的に、オランダと五大国(英仏露墺独)、ベルギーの間で締結された1839年のロンドン条約をもってようやくベルギーの正式な独立が確定した。
 ところで、ベルギー独立革命は総体としてカトリック系南ネーデルラントのプロテスタント系オランダへの反感をエートスとしてはいたものの、特にフランス語を母語とするワロン人の反オランダ感情を基盤としてワロン人主導で実行されたことで、独立ベルギーはフランス語至上主義となり、オランダ語を母語とするフラマン人との間で、言語をめぐる対立関係が顕在化する。
 この対立関係は俗に「言語戦争」と呼ばれ、実際に武器を取る内戦に発展することはなかったものの、国の分裂を招きかねない深刻な対立軸となった。この対立はひとまず両言語を対等に扱う平等法の制定で中和化されるが、最終的にはワロン地域とフラマン地域とを分ける不安定な言語分割連邦制へと止揚されていく。
 ちなみに、ベルギーの土台となった旧南ネーデルラントには独自のドイツ語圏に属するルクセンブルクも含まれていたが、ルクセンブルクはベルギー独立革命に参加し、いったんベルギー領となった。
 しかし間もなく東西分割され、ワロン系住民の多い西部はベルギー領(リュクサンブール州)に、東部はベルギーを離れ独立した後、一時オランダと同君連合を形成し、1890年以降に大公国として再独立するという複雑な経過をたどった。
 こうし言語分断を内包しながらも、独立ベルギーのドイツ出身初代国王レオポルド1世は、ベルギーを永世中立国として独立の担保としつつ、欧州の経済強国に発展させる野望を抱き、立憲君主制憲法の枠を逸脱した政治介入により、国政を指導した。
 王太子としてその遺志を継いだレオポルド2世の時代には、欧州列強に先駆けてアフリカ大陸侵出を図り、コンゴ、後にはルワンダ、ブルンディを植民地化し、ベルギ―を帝国主義国家に押し上げた。
 しかし小国ゆえの無理な海外膨張であったため、その植民地経営は苛烈を極め、20世紀のアフリカ諸国独立に際しては、コンゴ動乱ルワンダやブルンディの凄惨な民族紛争を誘発するなど、禍根を残すことになる。


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