ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「女」の世界歴史(連載第7回)

2016-01-26 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(2)古代ギリシャ・ローマの女権

②巫女の宗教‐政治
 古代ギリシャ及びローマでは、公式的には女性は法的権利を制限され、政治の場から排除されていたが、一つ例外があった。巫女である。古代ギリシャの場合は、全ポリス共通の中央神殿でもあったデルポイのアポロン神殿の神託を伝える巫女ピューティアは格別の権威と特権を持った。
 ピューティアの選抜方法について詳細はわかっていないが、世襲ではなく、デルポイ出身女子の中からその身分や教養程度にかかわりなく、適性や人格によって選抜されたと言われる。ある種の能力主義だったようである。
 ひとたびピューティアに就任すれば、財産の所有や公的行事への参加、住宅の提供、免税など女性としては異例の特権が与えられた。その限りでは、古代ギリシャにおける最上層階級に属したとも言える。それはしかし、ポリスの命運にも関わる神託を伝えるという重責の代償を伴っていた。
 神託のお告げ自体はピューティアの憑依を介した宗教的なプロセスではあったが、その内容はしばしば政治性も帯び、神託の受託が政治過程にも組み込まれていたため、各ポリスの有力者は有利な神託を引き出すための情報工作まで行なったと言われ、ピューティアは一介の巫女を越えたある種の政治的な機能を果たしていた。
 古代ローマでこれに相当し、しかもはるかに組織的で政治性が強かったのは、ウェスタの巫女団である。ウェスタはギリシャの護国神でもあったヘスティアの対応神とされる。従って、ローマでもウェスタは護国神として崇敬された。
 ただ、ギリシャにおけるヘスティアの護国神としての地位は象徴的なもので、汎ギリシャ的な枢要性を持ったのは、上述のようにデルポイのアポロン神殿の巫女であったのに対し、ローマではウェスタ神に仕える巫女団が宗教‐政治的に実力を持った。
 広くローマ自由民の女子から30年任期で選抜されたウェスタ巫女には厳格な処女性が義務付けられ、禁欲の戒律違反は死罪に相当した。そうした制約の反面、ウェスタ巫女は財産所有、投票、重要行事への出席のような女性としては格別の特権を与えられ、またしばしば政治的な決定に際しても意見を徴されるなど、政治的な役割を負い、ある種の恩赦の権限すら持ったようである。
 ウェスタ巫女団が果たした最も代表的な政治的役割として、後のローマ帝政の祖となる若きカエサルがスッラにより予防的に粛清されようとした時、ウェスタ巫女団の助命嘆願を受け入れて免じた一件がある。この嘆願運動にはスッラの支持者を含む多くの俗人たちも加わっていたが、権威あるウェスタ巫女団の口添えが効いたことは間違いなく、当時独裁官だったスッラですらウェスタ巫女団の意思には公然と逆らえなかったことを示している。
 もしこの時まだ政治活動を始めていなかったカエサルが粛清されていれば、その後のローマの歴史が大きく変わっていたことは間違いなく、カエサルの命を救ったウェスタ巫女団は後から見れば歴史を作る役割を果たしたことになる。
 しかし、ウェスタ巫女団が権威を持ったのは主として共和政時代であり、皮肉にも、彼女たちが救ったカエサルが道筋をつけた帝政が始まると、次第に皇帝が超越的な存在となり、さらにキリスト教の国教化に伴い、ウェスタ巫女団も紀元394年には解散されたのである。

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「女」の世界歴史(連載第6回)

2016-01-25 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(2)古代ギリシャ・ローマの女権

①古代ギリシャの女性排除
 古代ギリシャは同時代の世界において最も先進的な文明世界を形成していたことはたしかだが、こと女性の扱いに関しては芳しい記録を持たない。ただ、元来ギリシャ人は国家を家庭の集合体として観念したので、家庭の守護神である炉の女神ヘスティアは同時に国家の守護神でもあった。こうした女神崇拝は遠い過去、家政を仕切った女性の地位の高さを反映した痕跡かもしれないが、古拙期を過ぎ、古典期都市国家ポリスにおける女性の地位はすでに低下していた。
 もっとも、古代ギリシャはポリスごとに異なる文化・慣習を持つ多様体であったので、しばしば対照される代表的な都市国家アテナイとスパルタとでは女性の地位にもかなりの相違が見られた。
 まず民主制の手本としてしばしば参照されるアテナイにおける女性の地位は極めて低かった。女性は法人格を与えられず、家父長が支配する家の属員にすぎなかった。基本的な財産権もなく、従って市民権もないため、奴隷や未成年者同様、名高い直接民主制の民会に参加する権利も与えられなかった。アテナイの「民主主義」とは成人男性による成人男性のための成人男性の差別的民主主義であった。
 こうした徹底した女性排除を逆手にとって喜劇に仕立てたのが、劇作家アリストパネスの『女の民会』である。この作品の中では、通常男性しか参加できない民会に女性たちが男装して参加し、アテナイの統治権を女性に与えることを決議する。
 しかも、この女権体制は私有財産の廃止と共同ファンドの創設を旨としたある種の共産国家でもおり、またすべての男性は醜い女性を優先するという条件付きでアテナイのどの女性とも性関係を持つことができるという皮肉な性的平等が示される。この社会転倒的な喜劇作品は、裏を返せば当時のアテナイの女性排除の制度を象徴的に表わしてもいる。
 自身は男性であったアリストパネスの「女性シリーズ」喜劇には、もう一つ『女の平和』という戦争を題材にした作品がある。これは当時長期化していたアテナイ‐スパルタ間のペロポネソス戦争を終結させるため、両ポリスの女性たちが集団でセックスストライキを起こすという話である。
 ここにも登場するスパルタはスパルタ主義教育の名でも知られる軍国主義ポリスであったが、意外にもスパルタにおける女性の地位はアテナイよりもはるかに勝っていた。スパルタの女性たちは、軍国を支える兵士の母として尊重され、軍事活動に従事する男性に代わって財産を管理し、所有することもできた。
 とはいえ、スパルタ女性の地位もあくまで「軍国の母」としての尊重の結果であって、政治的な権利は保障されていなかったことに変わりなく、総じて古代ギリシャでは政治家または政治的実力者として記録に残る女性は存在しない。この点、アテナイの歴史家トゥキディデスがいみじくも記した言葉「(女性たちにとって)最大の栄光は、良くも悪くも、男性たちの間でほとんど話題にもならないことだ」は、古代ギリシャ女性の地位を物語っている。

補説:古代ギリシャの少年愛
 古代ギリシャにおける高度に論争的なテーマとして、「少年愛」がある。古代ギリシャでは成人男性市民の義務として少年愛が課せられていたとされる。これは、同性愛の公然制度化と見ることもできるが、プラトンが特に強調したように、成人男性が愛する少年を精神的に育成するという点に力点があるもので、肉体的な同性愛関係そのものではなかったと理解されている。
 実際、多くの場合、それは精神的な友愛の関係にとどまっていたであろうが、肉体関係も否定されてはいなかったらしく、精神主義の建て前と現実には齟齬があったと考えられる。その限りで、古代ギリシャでは女性が排除される一方で、男性同性愛者は排除されず、むしろ少年愛を実践する成人男性は義務を果たす模範市民とさえみなされていたのである。
 古代ギリシャの都市国家は、スパルタに限らず、すべて戦士を社会の中核として発達した軍国であったので、戦士の給源となる男性が社会を主導し、反面女性が排除されがちであったが、一方で男性を良き戦士=市民に育成するためのある種教育的な意義から、少年愛の制度化が生じたのだと言えるかもしれない。
 反対に、成人女性の少女愛については知られていない。ただ、時代的にアテナイの民主制樹立より100年ほど遡る女性詩人サッポーは出身地レズボス島に少女のための一種の女学校を作り、少女への愛を歌ったと解釈される愛の詩を多く残したことから、女性同性愛の象徴のように語り継がれた。
 彼女は半ば伝説化された人物であり、現実のサッポーは既婚者で、娘もいたとされるが、大胆に推測すれば、サッポーは男性の少年愛に相当するような方法で女子の育成を構想していたのかもしれない。

※当ブログの過去の連載記事等では、アテナイを「アテネ」と表記しているが、本連載では正確を期し、古代都市国家時代の名称に近い「アテナイ」と表記する。

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戦後ファシズム史(連載第16回)

2016-01-22 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐4:ギリシャの反共軍政
 ギリシャにおける反共擬似ファシズムは、戦前と戦後の二度出現している。一度目は1936年から41年にかけてのメタクサスの独裁時代である。この体制は、35年に王政復古したばかりで政情不安の中、共産党の伸張を懸念した国王ゲオルギオス2世が職業軍人出身の老政治家イオアニス・メタクサスに暫定政権を委ねたことに始まる。
 共産党が呼びかけたゼネストを阻止するために非常事態宣言が発令された36年8月4日にちなんで「8月4日体制」とも呼ばれるメタクサス独裁体制は表面上イタリアのファシズムを真似ていたが、本質上は王制の枠内にある非常事態政権であり、その点では同時代の日本に近い擬似ファシズムであった。
 しかも、第二次世界大戦では中立を保ち、ドイツやイタリアのファシスト政権とは距離を置いたため、両国からは睨まれ、侵略の危険にさらされた。41年にメタクサスが死去すると、この危険は現実のものとなり、ギリシャはバルカン半島支配を狙うナチスドイツの侵攻を受け、ドイツ軍に占領された後、ドイツ・イタリア・ブルガリアの枢軸諸国による三分割統治下に置かれる。
 戦後独立を回復したギリシャでは、レジスタンスの主力を担った共産党と反共保守勢力との内戦に陥るが、その裏で米国が反共勢力を支援しており、ギリシャは戦後冷戦体制の始まりを画する舞台ともなった。
 共産勢力の敗北によって内戦が終結した後、ギリシャ経済は「ギリシャの奇跡」とも評された順調な成長を見せるが、国王パウルス1世と後継の息子コンスタンティノス2世はしばしば不適切に政治に介入し、政局の混乱を招いていた。その混乱は65年にコンスタンティノス2世と時のゲオルギオス・パパンドレウ首相の対立で頂点に達した。パパンドレウは60年代に躍進したギリシャのリベラル政党・中道同盟の指導者であったが、その左派的改革政治は国王や保守層・軍部と衝突していた。
 しかしパパンドレウは大衆的な支持が強く、67年に予定されていた総選挙では中道同盟が第一党に就く見込みだったが、単独過半数には達せず、明確に左派の統一民主左翼と連立する可能性が高いと見られていた。
 そうした中、反共右派の牙城でもあった軍部が動く。総選挙の二週間前のタイミングを狙って、おおむね大佐級の中堅軍人らがクーデターを起こし、全権を掌握した。当初は文民を傀儡首相に立てたが、67年末に実権回復を狙ったコンスタンティノス2世が逆クーデターの企てに失敗し、国外に脱出した後、クーデターの実質的な黒幕であるゲオルギオス・パパドプロス大佐が首相に就任し、軍事独裁制の性格を露にした。
 彼はCIAの訓練を受けた後、ギリシャ中央諜報局に勤務し、米CIAとの連絡担当官を務めたこともある情報将校の出身であり、その背後には米国の影がちらつく。クーデターそのものに米国が直接関与した証拠はないが、米政府はクーデターの翌年に軍事政権を承認している。
 この軍事政権の性格は同年代の中南米に林立していた反共軍事政権と同様、共産主義の脅威を名分にあらゆる不法手段で左派を弾圧するというものであり、戦前のメタクサス体制と類似していたが、その反人道性においてはそれを上回っていた。パパドプロスはファシズム体制にならって個人崇拝の導入も図ったが、典型的に軍人気質のパパドプロスは不人気で、ある程度の大衆的支持もあったメタクサスとは対照的に、大衆的基盤を確立することは最期までできなかった。
 経済政策面では自由市場経済を掲げ、ギリシャの主要産業である観光を軸に、海外投資の誘致と工業化を目指し、当初は堅調な経済成長を見せたが、オイルショックを転機にインフレに陥る点でも、中南米の同類体制と同様であった。
 73年、パパドプロスは仕切り直しのため、事実上亡命していたコンスタンティノス2世を廃し、共和制移行を宣言、自ら大統領に就任して形式上民政移管を主導しようとするが、これに反発したクーデター同志の憲兵司令官ディミトリオス・イオアニディスがクーデターを起こし、パパドプロスは拘束され、あえなく失権した。
 イオアニディスは当時軍事政権の弾圧司令塔でもあった憲兵隊を握る最強硬派であり、彼が操る新たな軍事政権の抑圧性はいっそう高まった。対外的にも強硬策に出て、74年にはかねてよりギリシャ系住民とトルコ系住民の間で対立のあったキプロスでギリシャ系民兵組織を扇動してクーデターを起こさせ、傀儡政権を樹立した。
 これに対して、トルコ系住民の保護を名分としてトルコがキプロスへ侵攻したことをめぐり、軍事政権内部で対立が起き、元来傍流に置かれていた海軍と空軍は出撃を拒否、軍事政権は事実上内部崩壊した。この後、74年中に国民投票による王制回復否決を経て、正式に共和制での民政移管が実現する。
 中南米とは異なり、ギリシャの民政下ではパパドプロスやイオアニディスをはじめとする軍事政権首脳らは直ちに起訴された。これは彼らの軍事政権が陸軍中堅クラスを主体としており、全軍規模のものではなかったことにもよる。ナチスの「ニュルンベルク裁判」にもなぞらえられたこの一連の歴史的な裁判の結果、パパドプロスらには死刑判決が下った(後に終身刑に減刑)。
 このように迅速な司法処理がなされたことで、その後のギリシャでは軍の非政治化と議会制の回復が確定し、同種の軍事政権が再現される可能性は潰えている。しかし、現時点でもギリシャ系(キプロス共和国)とトルコ系(北キプロス・トルコ共和国)で南北に分断されたキプロスの状況は、ギリシャ軍政期の負の遺産である。

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戦後ファシズム史(連載第15回)

2016-01-21 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐3:チリのピノチェト体制
 前回包括的に扱った南米における「コンドル作戦」体制に属する反共擬似ファシズム政権のほとんどは軍部が全権を掌握する集団的独裁型であったが、チリでは一人の軍事独裁者アウグスト・ピノチェトが17年にわたり統治した点で、趣きを異にしていた。その限りで、この体制は本来のファシズムに接近することになった。
 ピノチェト政権が成立した経緯については、かつて共産党の歴史を扱った『世界共産党史』の中でも簡潔に述べたことがあるので繰り返さないが(拙稿参照)、選挙で正当に選ばれた政権をクーデターで転覆し、しかも現職大統領を自害に追い込んだ非民主性と冷酷性においては、コンドル体制の中でも際立っていた。 
 現代史的には、このクーデターに米国がどの程度関与していたのかが論議されている。現在までに明らかにされている情報による限り、米国は直接にクーデターを教唆してはいないものの、CIAは事前に計画を知りつつ黙認し、米政府はクーデター後の軍事政権を支持したという間接的ないし側面的関与があったと見られている。
 ともあれ、クーデター成功後、陸海空軍にチリ特有の警察軍を加えた全軍合同の軍事政権が成立し、そのトップに座ったのが陸軍司令官ピノチェトであった。彼はアジェンデ前大統領によって任命されていながら、クーデターに出てその信任を裏切ったのだった。
 ピノチェト政権は発足直後、共産主義者の根絶を掲げ、左派に対する収容、拷問、殺戮などあらゆる不法な手段による徹底した弾圧を断行した。マルクスやフロイトの書籍に対する焚書のようなナチスばりの思想統制も繰り出された。
 弾圧の中心に立ったのはチリのゲシュタポの異名を持つ74年設立の秘密警察・国家諜報局で、同局は軍人を含む反軍政派要人の暗殺など国際的な破壊工作も実行し、国境を越えたコンドル作戦においても司令塔的役割を果たしていた。
 しかし、ピノチェト政権がより注目されたのは経済政策の面であった。コンドル作戦体制の多くは反共の観点から自由市場経済を志向する傾向が強かったが、ピノチェト政権は特に明瞭にこの方向を目指した。
 そのため、政権はミルトン・フリードマンに代表されるシカゴ学派の経済イデオロギーを採用し、今日で言う新自由主義経済政策を実験的に導入したのである。このような政策転換は当初こそ、前任のアジェンデ左派政権時代の経済失政から脱却する効果を示したため、フリードマンらによって「チリの奇跡」と称賛・宣伝された。
 こうした経済政策での「成功」が一面的に強調されることによって、ピノチェト体制の反人道性が覆い隠され、先進国ではいち早く同様の新自由主義政策を実行する英国のサッチャー首相のようにピノチェトを「改革者」として崇拝するような風潮すら生じた。このことも、他の同種コンドル体制よりピノチェト政権が延命される要因となっただろう。
 しかし、ピノチェト政権が長期化するにつれ、貧富格差の拡大などマイナス面も顕在化してくる。そのうえ、事後評価によればこの間の経済成長率もせいぜい平均3パーセント台にとどまり、80年代になるとマイナス成長に陥るとともにハイパーインフレの発現、失業率の増大など経済破綻の様相も呈し始めた。最終的には、ピノチェト政権自身がシカゴ学派を離脱してしまうのである。
 程度の差はあれ、こうした新自由主義政策の挫折と対外債務の累積はコンドル体制全般の命取りとなり、80年代以降、各国で漸次軍部の政権放棄・民政移管へとつながるが、80年代末の新自由主義経済政策の軌道修正で経済再生の兆しが見えたことに自信を強めたピノチェトは政権に執着し、88年には自身の任期延長を問う国民投票を実施するも、結果は反対多数で、やむなく90年をもって退任した。
 こうしてピノチェト独裁は終焉したが、ピノチェトは民政移管後も陸軍司令官兼終身上院議員として軍・政界に居残り、睨みを利かせていた。これには自身の政権下での人権侵害に対する責任追及を阻止する狙いもあったであろう。
 国際的には、スペインの人権法に基づく国外起訴がなされ、98年にはスペイン司法当局の要請で病気療養のため英国滞在中のピノチェトがいったん拘束されたが、英国は本人の健康状態を理由に身柄引渡しを拒否し、帰国を認めた。
 ピノチェトに対する国内での起訴は2004年になってようやくなされたが、すでに90歳に近い高齢であり、最終的には健康状態を理由に公訴棄却となり、審理を受けないままピノチェトは06年に死去した。これにより、チリではアルゼンチンとは対照的に、コンドル体制時代の大量人権侵害の真相究明と執権者処罰はなされずに終わった。
 ピノチェト体制は最期まで軍事政権の形態を変えなかったが、擬似ファシズムが限りなくファシズムに接近し、かつ戦前型のファシズムが採用した経済統制的な志向とは反対に、新自由主義的経済政策を追求した点で、記憶に残る体制であった。このような傾向性は、現在あるいは未来のファシズム体制にとっても有力な先例となる。

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「女」の世界歴史(連載第5回)

2016-01-13 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(1)古代文明圏と女権

③ヌビアの女王たち
 今日のエジプト南部からスーダン北部にかけてのヌビア地方に、かつて古代エジプトと並行する形でクシュと呼ばれた黒人系の王国が存在した。ヌビアはエジプト新王国時代にエジプトの植民地にされるが、独立後は逆にエジプトに侵攻・占領し、エジプト第25王朝を築くほど強勢化した。
 この王国は何度か首都を替えているが、ヌビア系エジプト王朝がアッシュールバニパル率いるアッシリアの侵攻により崩壊し、ヌビア勢力が本拠に撤収した後、しばらくして今日のスーダンの首都ハルツーム北東部付近のメロエに遷都が行なわれる。
 このメロエ朝は一連のヌビア王国最後のもので、紀元前3世紀から古代エジプトより長い紀元後3世紀頃まで続くが、興味深いことに、この時代に複数の単独女王を輩出している。この統治女王たちは現地の言葉でカンダケと呼ばれていた。
 その初例は、紀元前2世紀代に出たシャナクダケトである。これ以前には数百年遡る最初の王朝の最後に一人の女王の名が記録されているだけで女王は忌避されていたと見られるのに、突然女王が出現した経緯や彼女の詳しい事績も明らかでないが、残されたレリーフにはシャナクダケトが戦士の姿で描かれていることからすると、女性戦士としての功績から女王に登位した可能性もある。
 メロエ朝で記録に残るカンダケはシャナクダケトを含め、10人近くを数えるが、事績が明確な人物は限られる。その中で、紀元前1世紀代に出たアマニレナス女王は紀元前27年から22年にかけてのローマ帝国との交戦に関してストラボンの歴史書でも言及されている。彼女はプトレマイオス朝の滅亡によりすでにローマのものとなっていたエジプトに侵攻して緒戦で勝利を収めるが、間もなく女王が没すると、メロエ軍はローマ軍の反転攻勢により押し戻され、最終的にはローマのアウグストゥスと比較的有利な条件で講和する。
 次いで紀元後1世紀代初頭に出たアマニトレ女王はメロエ朝全盛期を演出したと見られ、この時代にはエジプトの影響を受けたピラミッドが数多く築造されている。彼女はまた新約聖書・使徒言行録中でエチオピア人の改宗に関連して言及される「エチオピア女王」を指すとも考えられている。
 メロエ朝では終末期になるにつれ、女王の登位頻度が高くなり、紀元4世紀の最後の王もラヒデアマニという女王であった。このようにクシュ王国の最終王朝が多くの女王を輩出した理由は不明だが、カンダケの権威が極めて高かったことはたしかである。
 このような現象は隣接するエジプトとは異質である。クシュ王国は一時エジプトを支配して以来、エジプト文明の強い影響を蒙り、それはピラミッド建設や宗教にも現われているが、元来は異なる民族文化圏に属しており、ヌビア独自の社会構制が古代国家としては異例の女王支配を発現させたのであろう。

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「女」の世界歴史(連載第4回)

2016-01-12 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(1)古代文明圏と女権

②古代エジプトの女王たち
 古代エジプトは、メソポタミアと近接しており、文化的にも共有する点があったが、メソポタミアに比べれば女権に対していくぶん開かれていたように見える。とはいえ、最終王朝となるギリシャ系のプトレマイオス朝を除けば、純エジプト王朝時代の女性ファラオは極めて例外的であった。
 確証のある最初の女性ファラオは中王国時代に属する第12王朝最後のセベクネフェルである。彼女は先代ファラオのアメンエムハト4世の妃からファラオに即位したと見られるが、その事績はほとんど明らかでなく、おそらく男子が絶えたための中継ぎ的な治世だったと見られる。
 次の女性ファラオは新王国時代第18王朝のハトシェプストまで待たねばならなかった。彼女は先代ファラオのトトメス2世の異母姉にして妃でもあったが、夫の没後、義理の息子トトメス3世が年少のため、共治女王として実権を握ったと見られている。その意味では後見的な登位のはずであったが、彼女には政治的野心があったと見え、戦争によらない平和外交と交易を重視する独自の政策転換を主導した。
 こうした点で、彼女は純エジプト王朝時代に統治女王として長く政権を保った唯一の存在であった。それだけに周囲を取り巻く男性陣の反発も強かったと見られ、公的な場では男装していたとされる。そして没後はその事績を抹消されるという報復的処遇を受けた。これを主導したのが母王から自立した息子のトトメス3世だったかどうかは別として、女性ファラオへの反発の強さを象徴している。
 ハトシェプストの後、続く第19王朝でも、セティ2世の正妃タウセルトがファラオに即位した。彼女は夫の没後、跡を継いだ幼帝の下で宰相とともに後見役として権勢を持ったが、ハトシェプストとは対照的に、治世二年にして内乱の中で死亡し、第19王朝最後のファラオとなった。純エジプト王朝時代は、彼女を最後に統治女王を輩出していない。
 ただ、エジプト王朝ではファラオの正妃は「大妃」の称号を持ち、とりわけハトシェプストが属した第18王朝に始まる新王国時代は「大妃」が政治的な実力も持った例外的な時代であった。宗教改革で知られるアクエンアテンの大妃ネフェルティティもそうした一人である。
 純エジプト王朝が終焉し、ギリシャ系王朝であるプトレマイオス朝になると、国王とその妃でもある女王の共同統治が原則化される。その理由は明確でないが、外来の異民族王朝であるがゆえに、夫婦共治によって王権の基盤を強化する必要に迫られたためと考えられる。この場合、近親婚のエジプト的慣習が純エジプト時代以上に強化され、女王は国王の姉妹、叔母、姪など血縁者であることがほとんどであった。
 プトレマイオス朝の歴代女王たちは積極的に施政にも関わり、クレオパトラ2世のように夫の国王に対してクーデターを起こすなど政治的謀略を企てることもあり、時に独自の政治行動も示すまさしく統治女王であったため、プトレマイオス朝は政情不安が常態化していた。
 プトレマイオス朝最後にして古代エジプト王朝全体の最後のファラオでもあったクレオパトラ7世も、そうした女王の一人であった。クレオパトラも当初は近親婚した二人の弟と相次いで共治したが、彼女が違っていたのはカエサル、アントニウスという異国ローマの英雄たちと自由に交際し、その間に子をもうけたことだった。
 ある意味で、クレオパトラは自身の恋愛感情に忠実に生きようとする「自立」した女性だったとも言えるが、そのことで、ローマも共和制から帝政に移行する重大な変動期にあった複雑な国際情勢の荒波に飲まれ、自身と王国双方の命取りとなったのであった。

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「女」の世界歴史(連載第3回)

2016-01-11 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅰ部 長い閉塞の時代

第一章 古代国家と女性

[総説]:国家と男性権力
 「女」の世界歴史における長い閉塞の時代の始まりとなる古代国家の時代、女性たちの地位はすでに後退していたが、必ずしも完全に排除されていたわけではなかった。数は限られるものの、古代国家にも女王が現われているし、王ではないものの政治的な実力を備えた女性も存在していた。その意味では、古代国家の時代には「男尊女卑」という観念は必ずしも一般的ではなかったと言える。
 こうした例外的な女王/女性権力者はたいてい男性権力に空白や無能・幼少などの事情が生じた時の中継ぎや後見の役割を負って登場するケースがほとんどではあるが、女性権力者が否定されていたわけではなかった点において、古代国家形成前の先史時代において女性の地位が高かったことの残影と見る余地もあるだろう。
 とはいえ、古代国家における権力は圧倒的に男性のものであり、女性はよくてサブの役割にすぎなかったことも否定できない。言い換えれば、例外的に女権は認められたが、ここで言う「女権」とは力の謂いであって、当然にも近代的な性の利を意味してはいなかった。
 もっとも、女権の許容度にも文明による相違が見られ、女権にかなり開かれた文明圏から逆に極めて忌避的だった文明圏まで濃淡が見られる。第一章では、そうした文明圏による濃淡差を考慮しながら、古代国家における「女」の姿をとらえていく。

**********

(1)古代文明圏と女権
 先史時代から連続する紀元前の古代文明圏の中で、女性の活動が比較的史料上確認しやすいのは、メソポタミア文明圏とエジプト文明圏であるので、ここでは特にこの二つに焦点を当てることにする。

①古代メソポタミアの女権
 今日の中東地域の中心部をカバーする古代メソポタミア文明圏では女権は極めて忌避されており、女王の存在はほとんど記録されていない。しかし、古代メソポタミア文明の先駆者であるシュメール人の社会では、元来男女対等の長老会議によって統治されたという説もある。
 ところが時代が進むにつれ、男性優位が強固に確立されていく。その理由は不明だが、多数の都市国家が林立抗争するようになるにつれ、戦士となる男性の発言力と権力が増強されていったことが考えられる。後にいくつもの帝国が興亡し、征服戦争が多発するようになれば、なおさらのことである。
 そういう女権忌避風潮の中で、シュメール王名表に記されたクババ(ク・バウ)女王は稀有の存在である。彼女はシュメール都市国家キシュ第三王朝の創設者かつ同王朝唯一の君主でもあった単独女王である。彼女は経歴も異色で、元は酒場の女将だったとされ、ジェンダーのみならず階級上昇という観点からも注目される。
 ただ、100年間も在位したとされる彼女の存在と事績は伝説的であり、史実性の確認は困難だが、メソポタミア地方では神格化され、彼女を祀る神殿がメソポタミアに拡散する。特に、北メソポタミアからアナトリアにかけての諸王朝では篤く信仰された。
 クババの後、息子のプズル・シンがキシュ第四王朝を開き、その息子でクババの孫に当たるウル・ザババがその家臣サルゴンに簒奪され、アッカド帝国に取って代わられたとされる。とすると、キシュ第三及び第四王朝は「女系王朝」という稀有の存在だったことになる。
 クババよりは史実性が確認できる古代メソポタミア文明圏の女性権力者としては、時代下って新アッシリア王国時代全盛期の王センナケリブの妃ナキア(側室)がいる。側室の一人にすぎないナキアが権力を掌握し得たのは、熾烈な王位継承抗争に際して息子のエサルハドンを王太子に立てることに成功したためであった。
 王位に就いたエサルハドンは海外遠征に多忙で、しばしば国を留守にしたため、王母ナキアはそうした間の国王代理者を務めて、国政に関与したとされる。その他、神殿築造などもこなし、実質的には共治女王のような地位にあったと見られている。そうした権力関係は、エサルハドン王の背後に寄り添うように描かれたレリーフにも残されている。
 エサルハドンの息子でナキアの孫に当たるのが、著名なアッシュールバニパル王である。アッシュールバニパルを後継者に指名するに当たっても、ナキアの関与があったと言われるほどの政治的な実力を備えた例外女性権力者であった。

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緊急事態改憲の急迫

2016-01-10 | 時評

安倍首相が年頭会見で、今夏の参議院選挙の争点に改憲を掲げたことで、いよいよ改憲が正式に政治日程に上ってきた。政権はその手始めを緊急事態条項の追加に定める方針を固めたとされる。

筆者は、昨年の本欄で改憲への道筋を二段階に分け、第一段階では「プライバシー権」や「環境権」などの新しい人権の追加という比較的支持されやすい「加憲」から入るのではないかと予測したが、この予測は修正の必要がありそうである。*ただし、ある種のオブラートとしてこうした「加憲」が緊急事態とセットで持ち出されてくる可能性はなお残されている。

「緊急事態」改憲は元来、東日本大震災を奇禍として台頭してきた提案であった(拙稿参照)。大震災の記憶が消えていない今なら、これを突破口にできると踏んだのだろうか。

海外の憲法を見ると、たしかに緊急事態(非常事態)の規定を持つ憲法は少なくない。最近のものでは、南アフリカ憲法に見られる。しかし、南ア憲法の緊急事態条項は緊急事態下でも侵害することが許されない基本権の内容や限度を詳細に表式化し、司法審査の可能性まで定めたものである。

近代的なブルジョワ民主憲法が国家権力を法的に制約することを目的としている以上、このような歯止め的な規定の仕方は当然のことである。しかし、現在、日本の改憲勢力が企てている緊急事態条項は、果たしてこのような歯止め条項であるのか疑わしい。

自民党改憲草案を見ると、緊急事態下にあっても、「第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。」(第九十九条第三項)という包括的な注意規定があるのみで、具体的な制限の内容・程度などがいっさい明らかでない。

これは、むしろ緊急事態を理由に基本的人権を広範囲に制約するところに狙いがあるようである。そうだとすれば実質において明治憲法下の戒厳令の復活に等しいことであり、9条と並んで現行憲法の目玉である基本的人権に対する大規模な攻撃である。

こうした点への批判を考慮して、緊急事態下での国会議員任期の延長(選挙の延期)に焦点を当てた部分改正を画策する動きもあるようだが、国会議員の任期延長は政権の延長にもつながることで、緊急事態に名を借りた政権与党の居座りを正当化する。

歴史上ファシズム体制やそれに近い権威主義強権体制の始まりは常に緊急事態宣言であった。その下で、緊急事態に名を借りた苛烈な人権抑圧や大量殺戮までが正当化された例は数多い。

次の参院選は歴史上初めて未成年者の選挙参加も予定されているところであるので、緊急事態改憲への理解が有権者の間でどこまで進むか危惧の念を禁じ得ない。

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戦後ファシズム史(連載第14回)

2016-01-08 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐2:「コンドル作戦」体制
 
冷戦期の南米では、1960年代から70年代にかけて、次々と親米反共の軍事独裁政権が成立していくが、やがてこれらの体制は「共産主義の撲滅」を大義名分に連携して左派に対する殺戮作戦を展開し始める。
 「コンドル作戦」と命名されたこの共同作戦は、主としてチリ、アルゼンチン、ブラジル、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイの六か国を中心に断行された。そこでこれら「コンドル作戦」に参加した体制を「コンドル作戦」体制(以下、「コンドル体制」と略す)と呼ぶことにする。
 その中でも、パラグアイのストロエスネル体制については先行してすでに論じたが、それはこの体制が他のコンドル体制とは趣を異にし、軍部のみならず既成政党も利用した不真正ファシズムの特徴を備えていたためである。パラグアイを例外として、その余のコンドル体制はすべて軍部が支配する軍国的な擬似ファシズムの形態を採っていた。
 その多くは軍部による集団指導体制であったため、単独の独裁者が一貫して支配した例は少ないが、73年から90年まで続いたチリのピノチェト独裁体制はその例外であるので、次回個別に取り上げることにする。
 コンドル体制は、1954年という冷戦初期に成立していたストロエスネル体制を除けば、59年のキューバ社会主義革命とその直後のキューバ危機を背景に、米国が地政学的な「裏庭」とみなす中南米へのキューバ革命のドミノ的波及を防止するという目的から、米国を黒幕として実行された反共工作の結果として出現した。
 その際、クーデターとその後の軍事政権の中心となった軍人の多くは、米国が1946年に南方軍内に設立した「アメリカ陸軍米州学院」(現西半球安全保障協力研究所)で特殊訓練を受けたエリート将官らであった。
 この「学院」は中南米において反共軍事作戦の技術を訓練することを目的としたまさに反共教育機関であり、そこでは被疑者への拷問のような不法な人権侵害手段も教育されていたとされる。修了生らはそれらの技術を国に持ち帰り、軍事クーデターや軍事政権下での反共弾圧作戦に応用していったのである。最大推定で計8万人の犠牲者を出したともされるコンドル作戦は国境を越えたその集大成と言えるものであった。
 コンドル体制に含まれるすべての体制についてここで詳述する余裕はないが、中でもとりわけ苛烈な結果をもたらしたのは、76年の軍事クーデターで成立したアルゼンチンの軍事政権である。
 アルゼンチンでは、第一部で論じたように、旧ファシズム体制の指導者ペロンが高齢で返り咲くも急死、後継の妻イサベルも政権運営に失敗する中、76年に軍部がクーデターで全権を掌握する。当時のアルゼンチンでは左傾化したペロン主義武装組織などによる破壊活動が横行していたのは事実であり、76年クーデターもこうした騒乱状態の回復を名分としていた。
 しかし、軍事政権はそうした治安回復の目的を越えて、「国家再編プロセス」なるイデオロギーを掲げ、左派に対するあらゆる不法手段を駆使した殲滅作戦を展開した。その犠牲者数は未だに確定していないが、最大推計で3万人ともされ、一連のコンドル体制の中でもおそらく最大級の犠牲者を出したと見られる。
 英国との領有権紛争であるフォークランド戦争に敗れて退陣に追い込まれた83年まで、六代の軍人大統領をまたいで続いた軍事政権下での「国家再編プロセス」は、後に「汚い戦争」と命名され、アルゼンチン現代史上の汚点とみなされている。
 コンドル体制は、80年代の冷戦晩期に入ると、82年のボリビアを皮切りに順次退陣・民政移管がなされ、90年のチリを最後に終焉する。その共通的な背景として、経済政策での失敗と国際的な人権批判の高まりがあった。
 しかし、コンドル体制下での反人道犯罪に対する司法処理はおおむね21世紀に持ち越された。とりわけ、アルゼンチンの「汚い戦争」に関しては民政移管後の文民政権により一部指導者の裁判が行なわれたものの事実上の免責法である終結法が制定されたことで、全容解明は法的に不可能になったが、軍政時代に行方不明となった青年たちの母親グループなどが真相解明を求めて運動を続けた。
 その結果、03年に終結法が廃止され、改めて関係者の責任追及が可能となった結果、76年クーデター当時の指導者で81年まで軍政大統領を務めたホルヘ・ヴィデラ元将軍に対する審理も改めて行なわれ、2010年に終身刑判決が確定した。
 他方で、64年から85年まで20年以上続いたブラジル軍事政権下の反人道犯罪については軍政下で制定された免責法のために全く審理がなされていないなど、コンドル体制下での反人道犯罪に対する司法処理の熱意には国による温度差が大きく、なお全容解明には至っていない。

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戦後ファシズム史(連載第13回)

2016-01-07 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐1:グアテマラの30年軍政
 
今回以降、前回言及した反共軍事独裁ドミノ現象の範疇に含まれる多数の事例の中から六つの代表的な事例を取り上げていくが、筆頭は中米の小国グアテマラの軍政である。
 この体制は一人の独裁者に率いられた単一の政権ではなく、複数の政権の連続体ではあるものの、冷戦初期から晩期に至るまで米国を後ろ盾に長期間存続し、反人道的なジェノサイドを断行した点で象徴的な反共(擬似)ファシズム体制と言えるものであった。
 実はグアテマラの反共軍政の歴史は戦前に遡り、1931年から44年にかけてのホルヘ・ウビコ独裁政権の先例がある。ウビコはファシズム信奉者ながら米国を後ろ盾としたため、第二次大戦では連合国側に付いたが、その体制は強固な反共を軸とするファシズムの特徴を持っていた。
 このウビコ独裁政権は44年の民主革命によって崩壊し、曲折を経て50年の大統領選挙では44年革命の立役者の一人で、軍人でもあった左派系ハコボ・アルベンス・グスマンが当選する。アルベンス自身は共産主義者ではなかったが、アルベンス政権は大土地所有制の解体を軸とする農地改革を断行するなど国内保守層や米国の目には「容共的」と映る政策を遂行し始めた。
 これに危機感を抱いた米国は54年、CIAを通じて反アルベンス派武装集団を支援する形で軍事クーデターを実行させ、アルベンス政権の転覆に成功した。民主的に選挙された政権を打倒したこのクーデターは、「民主主義の旗手」を標榜する米国が黒幕的に関与するその後の中南米各国における軍事クーデターの悪名高い先例となった。
 このクーデターにより政権に就いたのは、かつてはアルベンスの友人で44年革命にも参加しながら離反していたカルロス・カスティージョ・アルマス大佐であった。カスティージョを大統領とする新たな軍事政権はアルベンス政権の政策を覆し、実質的にウビコ時代の政策を復活させた。
 カスティージョは56年に新憲法を公布し、改めて四年任期の大統領に就任するも、翌57年、警護隊員によって暗殺された。この事件の背後関係は不明のままであるが、カスティージョの急死によりグアテマラ軍政は以後、軍部内の不和も影響して不安定なものとなる。しかしカスティージョ政権が3年ほどの短い期間内に断行した強制収容、超法規的処刑や強制失踪などの不法な手段による徹底的な左派排除策は、後継軍事政権に継承されていく。
 以後、形式上文民政権の形が取られた66年から70年の間を除き、86年の民政移管まで継続されたグアテマラ軍政では長期執権の独裁者は現われなかった代わりに、歴代の軍部が集団的に統治する軍国的な擬似ファシズムの形態が採られた。
 特に1961年にアルベンス派下級将校らによって結成された反乱軍の蜂起を契機に、グアテマラ内戦が勃発すると、軍国体制は強化されていった。この武装反乱は70年代以降、グアテマラ人口の4割近くを占めながら白人支配層による大土地所有制の下、貧農の被差別階級に落とされてきたマヤ系先住民族を主体とする解放戦に移行していく。
 これに対し、軍政側は先住民集落の殲滅殺戮作戦を中心とした民族浄化政策で対抗した。この政策は軍政内の対立を背景に82年のクーデターで大統領に就いたエフライン・リオス・モント将軍の政権下で頂点に達し、大虐殺の様相を呈した。
 リオス・モントは82年末に内戦勝利を宣言したが、キリスト教原理主義者でもあり、その狂信的なまでの過激な政策が軍部内でも忌避され、翌83年のクーデターで失権する。新たな軍事政権は内戦の一段落や軍政に対する国際的批判の高まりといった内外情勢を受け、86年に民政移管を実現し、実質30年余りに及んだ軍政に終止符が打たれた。
 しかし内戦自体は民政下でも冷戦終結をまたいでさらに10年続き、96年の和平合意をもってようやく終結した。この間の犠牲者数―反政府側の手による犠牲も含む―は内戦終結前後の人口が1000万人に満たなかった中で最大推計20万人にも及ぶ20世紀における政治的惨事の一つとなった。
 救いは軍政時代の反人道犯罪が21世紀に入って国内裁判所でも審理される道が開かれたことである。特に民政移管後も国会議長に就任するなど政界実力者に復帰していたリオス・モント元大統領が2013年に至り、ジェノサイドの罪で禁錮80年の有罪判決を受けたことは画期的であった。
 ただ内戦の要因でもあった白人層が政治経済を掌握し、先住民層は貧困層を形成する非対称な社会構造は本質的に変化していない。民政移管後、旧反政府武装勢力(グアテマラ民族革命連合)も政党化され、議会参加しているとはいえ、弱小勢力にとどまる。犯罪発生率も高く、治安問題を理由に軍部が再び前面に登場してくる可能性もゼロではない。

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年頭雑感2016

2016-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字は「安」であった。これが選ばれたのは、「安保法制」をめぐる攻防が昨年最大級のイベントだったからのようであるが、たまたま「安保法制」を主導した時の首相の苗字の頭文字とも一致しているので、掛け字のようでもある。

「安」の本来的な意味は安らかということだが、昨年の「安」は決してそのような本義で選ばれたのではなさそうである。むしろ「安」のあり方をめぐって、国内的にも先鋭な対立が生じたことの反映だろう。そういう微妙な選字のせいか、報道もほとんどなされなかったように見える。意図的な報道自粛だとすれば、そこまで報道の自由の減弱が進行していることになる。

それはともかく、「安」をめぐる対立は真の「安」と見せかけの「安」との間で生じている。真の「安」は文字どおり、安らかで泰平であることだが、見せかけの「安」は軍事的な手段で確保される無事のことである。

難民数が過去最高を記録した昨年、世界の漢字を選ぶとすれば、おそらく「難」になるはずであるが、これも後者の見せかけの「安」が生み出した「難」である。

こうした「難」の高まりをめぐっても、二つの「安」の対立は生じ得る。一つはこれを人道問題ととらえ、難民保護の強化を訴える立場であるが、それは見せかけの「安」を脅かすと認識されるので、反対論も盛り上がり、反難民を高調する勢力を勢いづかせるだろう。そこから新たなファシズムが欧米でも派生してくる可能性は十分にある。

本来、人は難民として外国で保護されるのではなく、自分が生まれ育った場所で平穏に生涯を過ごすのが一番の「安」であるが、そのためには真の「安」を脅かす見せかけの「安」を一掃すべきところ、各国の支配層は見せかけの「安」に拠っている。

見せかけの「安」の究極的な狙いは、グローバル資本主義の集大成的な構築という点にある。昨年の「難」も、大きく見れば、そのような晩期資本主義の構造が生み出した生活破壊であり、その大元を再考しない限り、「難」を真の「安」に変えることはできない。しかし残念ながら、今年も世界はそのことに気がつこうとしないだろう。

かくして、毎年の「年頭雑感」が実質上同一の内容に帰するのはさびしい限りだが、それが現実である。「新年」の実感は年々薄れ、前年からさらに後退が進む「更年」としてしか認識できないこの頃である。

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