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晩期資本論(連載最終回)

2015-12-09 | 〆晩期資本論

十六ノ2 ポスト資本主義の展望(3)

「労働時間の社会的に計画的な配分」がなされるという共産主義社会においても、剰余労働はなお必要とされるが、その性質・目的は資本主義的剰余労働とは大きく異なる。

剰余労働一般は、与えられた欲望の程度を越える労働としては、いつでもなければならない。・・・・・・・・・・・一定量の剰余労働は、災害にたいする保険のために必要であり、欲望の発達と人口の増加とに対応する再生産過程の必然的な累進的拡張のために必要なのであって、この拡張は資本主義的立場からは蓄積と呼ばれる。

 剰余労働は「資本主義制度や奴隷制度などのもとでは、それはただ敵対的な形態だけをもち、社会の一部分のまったくの不労によって補足される」が、「資本はこの剰余労働を、生産力や社会的関係の発展のためにも、またより高度な新形成のための諸要素の創造のためにも、奴隷制や農奴制などの先行諸形態よりも有利な方法と条件のもとで強制するということ」を、マルクスはいくぶん皮肉を込めつつ、「資本の文明的な側面」とネガ‐ポジティブに表現する。

・・・・資本は、・・・・・・・・・・・・・社会のより高度な形態のなかでこの剰余労働を物質的労働一般に費やさせる時間のより大きな制限と結びつけることを可能にするような諸関係への物質的手段と萌芽とをつくりだす。なぜならば、剰余労働は、労働の生産力の発展しだいでは、総労働日が小さくても大きいことがありうるし、また総労働日が大きくても相対的に小さいことがありうるからである。

 つまり、問題は剰余労働の時間的長さではなく、生産性であるから、資本主義の発展に伴い、生産性が高まれば、労働時間の短縮と生産性の向上を結びつけることができ、それがポスト資本主義の道を用意するというのである。

年齢から見て、まだ、またはもはや、生産に参加できない人々のための剰余労働のほかには、労働しない人々を養うための労働はすべてなくなるであろう。

 冒頭でも見たとおり、保険財源や拡大再生産のための剰余労働は共産主義社会でもなお存在するとはいえ、不労者を扶養するための剰余労働は、子どもや老人のような労働不適格者のためにする労働を除いてなくなるだろうというのである。

じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。

 逆言すれば、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働せざるを得ない状態は、「必然性の国」である。「必然性の国」でも、生産力の拡大によって「自由の国」に近づくが、「自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである」。すなわち―

社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめ、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。

 この状態はすなわち共産主義的生産様式に移行した段階を示している。これもポスト資本主義の一つの到達点ではあるが、マルクスによれば、「しかし、これはやはりまだ必然性の国である」。

この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花開くことができるのである。労働日の短縮こそは、根本条件である。

 マルクスが展望するポスト資本主義の最終到達点とは、このように、人間が最小限の労働時間で自発的に労働するような社会であった。マルクスはこれを「真の自由の国」という抽象的な言葉でしか語っていないが、あえて名づければ「高度共産主義社会」であろうか。

☆総括☆
以上で、晩期資本主義時代における『資本論』全巻再読の試みは終了する。この書はマルクスの他のほぼすべての著作と同様に、未完の書であり、完結篇も続編も存在しない。ただ、マルクスの没後およそ三十年―『資本論』第一巻出版からちょうど五十年―を経た時、マルクス主義を標榜する体制としてロシアを中心とするソヴィエト連邦というものが現われた。共産党が支配したその体制下での生産様式について、マルクスは生きて分析することはもちろんなかったが、もし存命中にこれを目撃していれば、必ずや関心を寄せ、『資本論』続編を書いたはずである。しかも、合理的に推測して、そこでの論述はネガティブなものとなったはずである。なぜそう言えるか、については、可能であれば、別連載にて解き明かしてみたい。(了)

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晩期資本論(連載第79回)

2015-12-08 | 〆晩期資本論

十六ノ2 ポスト資本主義の展望(2)

 マルクスは、ポスト資本主義の到達点をどのように考えていたか。これについては、意外にも、第一巻の第一章という早い段階で先取り的に触れられていた。「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」というのが、それである。マルクスは明示しないが、これを共産主義社会の一定義とみなしてよいだろう。

ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。ロビンソンのすべての生産物は、ただ彼ひとりの個人的生産物だったし、したがって直接に彼のための使用対象だった。この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。

 ロビンソンとはデフォーの有名な冒険小説の主人公ロビンソン・クルーソーのことである。よく知られているように、ロビンソンは船の難破で無人島に漂着し、たった独りでの自給自足生活を始める。「ロビンソンの労働」とは、そうしたロビンソンの自給自足を前提とした種々の有用労働のことである。すなわち―

彼の生産的諸機能はいろいろに違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろな仕方でしかないということを知っている。必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな機能のあいだに配分するようになる。彼の全活動のうちでどれがより大きい範囲を占め、どれがより小さい範囲を占めるかは、目ざす有用効果の達成のために克服しなければならない困難の大小によって定まる。経験は彼にそれを教える。

 こうした「ロビンソンの労働」とは、分業制によらず、また交換を前提としない生活の必要に応じた純粋に個人的な労働ということになる。冒頭で見た共産主義社会では、こうした「ロビンソンの労働」の規定が個人的でなく、社会的に再現されるという。

その生産物の一部分は再び生産手段として役だつ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。したがって、それはかれらのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展度とにつれて、変化するであろう。

 共産主義社会にあっても、再生産は行なわれる。従って、再生産問題を扱った第二巻で分析に用いられた生産手段生産部門(部門Ⅰ)と消費手段生産部門(部門Ⅱ)の区別は共産主義社会にも基本的に妥当するだろう。

彼(ロビンソン)の財産目録のうちには、彼がもっている使用対象や、それらの生産に必要ないろいろな作業や、最後にこれらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やさせる労働時間の一覧表が含まれている。ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭(である)。

 商品生産をしないロビンソンが実際に財産目録をつけたとすれば、このように労働時間を軸とした一覧表となったであろう。さしあたり彼の生産物はすべて自家消費のためのものであるが、共産主義的生産においては社会成員への分配が予定される。
 その際、マルクスは「商品生産の場合と対比してみるために、ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう」として、労働時間を基準とする分配方法を仮説的に提示している。

労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分け前の尺度として役だつ。人々がかれらの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。

 このように、マルクスは労働時間を直接に基準とする生産・分配の仕組みを構想していた。つまりマルクスの計画経済は「労働時間の社会的に計画的な配分」を軸とするものであり、後のソ連が実行したような経済開発計画のようなものではなかったのである。
 最終的にマルクスは、労働時間が表象された一種の引換給付券的な有価証券である労働証明書の制度を提案しているのであるが、その実際的な問題点については別連載『共産論』中の記事で触れてあるので、ここでは割愛する。

およそ、現実世界の宗教的な反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表わすようになったときに、はじめて消滅しうる。社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのである。

 ロビンソンの労働や共産主義的分配関係に関する言述で繰り返されていたように、マルクスは人間と諸物の関係が単純で透明なものになることが、物神崇拝的な認識から自由になる道であると考えていた。ロビンソン的自給自足はその究極であるが、「物質的生産過程を、自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御におく」共産主義的計画経済も、そうした単純化・透明化を社会的な次元で達成する一つの方法として把握されている。

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晩期資本論(連載第78回)

2015-12-07 | 〆晩期資本論

十六ノ2 ポスト資本主義の展望(1)

 『資本論』は全巻を通じて資本主義の構造分析の書であるため、資本主義の後に来るべき経済体制については、主題として展開していない。しかし、マルクスは所々で、ポスト資本主義体制の展望を抽象的な覚書きの形で述べている。特に、第一巻末では資本主義からポスト資本主義への転化が生じることを弁証法的定式によって示している。

資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である、しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。

 この簡潔な定式には、自分の労働にもとづく自給自足的な私有世界が否定されて、資本主義が成立するも、今度はその資本主義から自己否定的に生産手段の共同占有を基礎とする生産体制が発生することが言い表されている。そのような自己否定が生じるのは、以前にも引用したように、「生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達」した時である。マルクスは続けて、次のような時間軸を示している。

諸個人の自己労働にもとづく分散的な私有から資本主義的な私有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有から社会的所有への転化に比べれば、比べ物にならないほど長くて困難な過程である。

 これを裏返せば、資本主義は「事実上すでに社会的生産経営にもとづいている」ということになる。実際、マルクスは第三巻で、特に所有と経営が分離される株式会社の制度をもって社会的所有への過渡的形態とみなしていた。

それ自体として社会的生産様式の上に立っていて生産手段や労働力の社会的集積を前提している資本が、ここでは(株式会社では)直接に、個人資本に対立する社会資本(直接に結合した諸個人の資本)の形態をとっており、このような資本の企業は個人企業に対立する社会企業として現われる。それは資本主義的生産様式そのものの限界のなかでの、私的所有としての資本の廃止である。

 上掲の弁証法的定式で言われていた「否定の否定」とは、このように株式会社制度の段階に達した資本主義のことであった。言い換えれば、「これは、資本主義的生産様式そのもののなかでの資本主義的生産様式の廃止であり、したがってまた自分自身を解消する矛盾であって、この矛盾は、一見して明らかに、新たな生産形態への単なる過渡点として現われるのである」。

労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働の対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。

 労働者たち自身の協同組合工場とは、「労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形で」運営される自主管理工場のことであり、マルクスはこの形態を株式会社からさらに一歩進んだ生産形態、資本と労働の対立が廃止されるポスト資本主義体制に向けた最初のステップとみなしていたようである。

このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのようにして自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。

 マルクスはこのように、労働者たちの自主管理工場も、資本主義的工場制度からの発展形態と規定し、その際に信用制度が重要な触媒となることを強調して、次のように総括する。

資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。

 しかし、その後の歴史の流れを見ると、マルクスが展望したように、「多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだんと拡張されて行く」ということにはならず、協同組合企業は未発達のまま、株式会社企業も次第に経営者専横型の権威主義的な生産形態として確立されるようになっている。
 株式会社形態からポスト資本主義へというマルクスの弁証法的展望はいささか楽観的に過ぎた面はあるが、マルクスも株式会社形態の限界性についてクギは刺していた。

・・・株式という形態への転化は、それ自身まだ資本主義的なわくのなかにとらわれている。それゆえ、それは、社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を克服するのではなく、ただこの対立を新たな姿でつくり上げるだけである。

 従って、さしあたり労働者の協同組合企業という次のステップに進むにはただ待つのみでは足らず、そこには何らかの人為的な変革という政治行動が必要とされるであろう。それはマルクスの言葉によれば、「民衆による少数の横領者の収奪」である。

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晩期資本論(連載第77回)

2015-11-24 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(4)

 マルクスは、「価値がそれ自身の諸成分から発生するかのような外観」を生じさせる要因について、詳細に考察しているが、ここでは行論上それらは割愛するとして、幻惑的な「外観」を剥ぎ取って正しく規定し直された命題は―

・・・・商品の価値は、新たにつけ加えられた労働を表わしているかぎりでは、つねに、三つの収入形態をなしている三つの部分に、つまり労賃、利潤、地代に分解するのであって、この三つのもののそれぞれの価値の大きさ、すなわちそれらが総価値に占めるそれぞれの可除部分は、・・・・・・別々の特有な法則によって規定される・・・。

 さらにこの命題を階級関係の形成にもつながる分配関係の観点から言い換えれば、次のようになる。

・・・・・年々新たにつけ加えられる労働によって新たにつけ加えられる価値は、・・・・・・・・三つの違った収入形態をとる三つの部分に分かれるのであって、これらの形態はこの価値の一部分を労働力の所有者に属するもの、一部分を資本の所有者に属するもの、そして第三の一部分を土地所有権の保持者に属するものとして、または彼らのそれぞれの手に落ちるものとして、表わしているのである。つまり、これらは分配の諸関係または諸形態である。なぜならば、それらは、新たに生産された総価値がいろいろな生産要因の所有者たちのあいだに分配される諸関係を表わしているからである。

 ここで分配というとき、「年間生産物が労賃、利潤、地代として分配されるという、いわゆる事実」、つまり「生産物のうちの個人的消費にはいる部分にたいするいろいろな権利」としての分配関係と、「生産関係そのもののなかで直接生産者に対立して生産関係の特定の当事者たちに割り当たる特殊な社会的機能の基礎」となる分配関係とが区別される。後者の意味での「分配関係は本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両者とも同じ歴史的・一時的な性格をもっている」とされる。このような社会的機能の基礎を成す分配関係から、資本家、労働者、土地所有者の三大階級もまた派生してくる。そうした資本主義的分配関係をさらに仔細にみると―

労賃は賃労働を前提し、利潤は資本を前提する。つまり、これらの特定の分配関係は、生産条件の特定の社会的性格と生産当事者たちの特定の社会的関係とを前提するのである。

 より具体化すれば、「ただ、賃労働の形態にある労働と資本の形態にある生産手段とが前提されているということによってのみ―つまりただこの二つの本質的な生産要因がこの独自の社会的な姿をとっていることの結果としてのみ―、価値(生産物)の一部分は剰余価値として現われ、またこの剰余価値は利潤(地代)として、資本家の利得として、資本家に属する追加の処分可能な富として、現われる。しかも、ただ剰余価値がこのように彼の利潤として現われることによってのみ、再生産の拡張に向けられ利潤の一部をなしている追加生産手段は新たな追加資本として現われるのであり、また、再生産過程の拡張は一般に資本主義的蓄積過程として現われる」。この理こそ、まさに『資本論』全巻に通ずる主要命題であった。

利潤は、・・・・生産物の分配の主要因としてではなく、生産物の生産そのものの主要因として、資本および労働そのもののいろいろな生産部面への配分の部分として、現われる。利潤の企業者利得と利子への分裂は、同じ収入の分配として現われる。

 「個々の資本家には、自分が本来は全利潤を収入として食ってしまえるかのように思われる」利潤は、保険・予備財源や競争法則などの制限を受けるほか、資本主義的生産過程全体も生産物価格に規制され、その規制的生産価格もまた利潤率の平均化やそれに対応する資本配分により規制されるというように、「利潤はけっして個人的に消費できる生産物の単なる分配範疇ではない」。
 また利潤の企業者利得と利子への分裂という形での分配にしても、自己増殖する剰余価値を生み出す資本という資本主義的生産過程の社会的な姿からの発展であり、「それは、それ自身のうちから信用や信用機関を、したがってまた生産の姿を発展させる。利子などとして、いわゆる分配形態が規定的な生産契機として価格にはいるのである」。

地代について言えば、それは単なる分配関係であるように見えるかもしれない。・・・・・・しかし、(1)地代が平均利潤を越える超過分に制限されるという事情、(2)土地所有者が生産過程と社会的生活過程全体の指揮者および支配者から、単なる土地賃貸人、土地の高利貸、単なる地代収得者に引きずり下ろされるという事情は、資本主義的生産様式独自の歴史的な結果である。

 地代は資本主義的生産様式以前から存在するが、資本主義的地代はそうした旧来の古典的な地代とは本質を異にし、資本主義的な生産関係から派生する非生産的な、ある種の寄生的土地所有関係の産物である。

・・・・・資本主義的分配は、他の生産様式から生ずる分配形態とは違うのであり、その分配形態も、自分からそこから出てきた、そして自分がそれに対応している特定の生産形態とともに消滅するのである。

 先に「分配関係は本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両者とも同じ歴史的・一時的な性格をもっている」と言われていたとおり、生産関係と分配関係が表裏一体であれば、両者の命運も一蓮托生である。

ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したことがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立が、広さと深さを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。

 ここで示唆されているのは、資本主義的生産様式が発展し切って、生産諸力との間に自己矛盾を来たした暁のことである。こうして第一巻末で、発達した資本主義から新たな生産様式が内爆的に生起することがやや図式的に示されていたことに再び立ち帰ることになるが、これについては稿を改めて検討する。

☆小括☆
以上、十六では全巻の補論の意義を持つ第三巻第七篇「諸収入とそれらの源泉」に即して、資本主義社会における典型的な三大階級の形成という観点から、整理を試みた。

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晩期資本論(連載第76回)

2015-11-23 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(3)

 『資本論』第二巻では、資本を生産手段の生産に係る部門Ⅰと消費手段の生産に係る部門Ⅱとに分けて分析する再生産表式が展開されていたが、マルクスは最終篇で再度この問題に立ち帰っている。
 なぜなら、「われわれがここでこの問題に立ち帰るのは、第一には、前のところ(第二巻)では剰余価値がまだ利潤(企業者利得プラス利子)と地代というその収入形態では展開されていなかったからであり、したがってまたそれをこれらの形態で取り扱うことはできなかったからである」。以下は、収入形態での展開を付加した修正版表式を説明した部分の長文引用である。

部門Ⅱの生産物には労賃や利潤や地代が支出され、要するに収入が消費されるのであるが、この部門Ⅱでは、生産物は、その価値から見れば、それ自身三つの部分から成っている。一つの成分は、生産中に消費された不変資本部分の価値に等しい。第二の成分は、生産で前貸しされて労賃に投ぜられた可変資本部分の価値に等しい。最後に第三の成分は、生産された剰余価値に、つまり、利潤プラス地代に等しい。部門Ⅱの生産物の第一の成分、不変資本部分の価値は、部門Ⅱの資本家によっても労働者によっても、また土地所有者によっても、消費されることはできない。それは彼らの収入のどんな部分もなしてはいないのであって、現物で補填されなければならず、またこの補填ができるためには売らなければならない。これに反して、この生産物の残りの二つの部分は、この部門で生みだされた収入の価値に、つまり、労賃・プラス・利潤・プラス・地代に等しい。

部門Ⅰでは、生産物は、形態から見れば、同じ諸成分から成っている。しかし、ここで収入を形成する部分、労賃・プラス・利潤・プラス・地代、要するに可変資本部分・プラス・剰余価値は、こここではこの部門Ⅰの生産物の現物形態では消費されないで、部門Ⅱの生産物で消費される。だから、部門Ⅰの収入の価値は、部門Ⅱの生産物のうちの、部門Ⅱの補填されるべき不変資本をなしている部分で消費されなければならない。・・・・・(その)部分は、その現物形態のままで部門Ⅰの労働者や資本家や土地所有者によって消費される。彼らは、自分たちの収入をこの生産物Ⅱに支出する。他方、その現物形態にあるⅠの生産物は、それが部門Ⅰの収入を表わしているかぎりでは、部門Ⅰの生産物によって不変資本を現物で補填される部門Ⅱによって生産的に消費される。最後に、部門Ⅰの消費された不変資本部分は、ちょうど労働手段や原料、補助材料などから成っているこの部門自身の生産物のうちから補填され、この補填は一部はⅠの資本家どうしの交換によって行なわれ、一部はこの資本家の一部分が自分自身の生産物を直接に再び生産手段として充用することができるということによって行なわれる。

 マルクスが改めて再生産表式に立ち返ったもう一つの理由として、「・・・第二には、まさにこの労賃、利潤、地代という形態にはアダム・スミス以来全経済学を一貫している信じられないような分析上の大間違いが結びついているからである。」ということがあった。
 ここで言う「大間違い」とは、「諸商品の価値は結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに分解する」との所論を指している。マルクスはこのような謬論が生じる要因となる五つの「困難」を列挙しているが、上記の修正再生産表式との関連で重要なのは次の第四及び第五の点である。

(4)・・・さらに一つの困難が加わってきて、それは、剰余価値のいろいろな成分が互いに独立のいろいろな収入の形で現われるようになれば、いっそうひどくなるのである。すなわち、収入と資本という固定した規定が入れ替わってその位置を変え、したがって、それらはただ個別資本家の立場からの相対的な規定でしかなくて総生産過程を見渡す場合には消えてしまうかのように見える、という困難である。たとえば、不変資本を生産する部門Ⅰの労働者と資本家の収入は、消費手段を生産する部門Ⅱの資本家階級の不変資本を価値的にも素材的にも補填する。

(5)・・・・・・・剰余価値が別々の、互いに独立した、それぞれ別々の生産要素に関連する収入形態すなわち利潤と地代とに転化するということによって、もう一つ別の混乱が起きる。商品の価値が基礎だということが忘れられてしまう。また、次のようなことも忘れられてしまう。すなわち、この商品価値が別々の成分に分かれるということも、これらの価値成分がさらに収入の諸形態に発展するということ、すなわち、これらの価値成分が別々の生産要因の別々の所有者たちとこれらの個々の成分との関係に転化し、一定の範疇と名義にしたがってこれらの所有者のあいだに分配されるということも、価値規定やその法則そのものを少しも変えるものではない、ということがそれである。

 こうした事情から、「価値がそれ自身の諸成分から発生するかのような外観」、あるいはそのように錯認する取り違えが起きるというのである。その詳細の考察は次章に回されているが、ここではこうした「取り違え」を矯正する簡単な論理として、さしあたり次のことが指摘されている。

・・・まず第一に、商品のいろいろな価値成分がいろいろな収入においてそれぞれ独立な形態を受け取るのであって、このような収入として、それらの源泉としての商品の価値にではなく、それらの諸源泉としての別々の素材的生産要素に関連させられるのである。それらはこの素材的生産要素に現実に関連させられてはいるが、しかし価値成分としてではなく、諸収入として、生産当事者たちのこれらの特定の諸部類、すなわち労働者、資本家、土地所有者の手に落ちる価値成分として、である。

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晩期資本論(連載第75回)

2015-11-10 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(2)

資本―利潤(企業者利得・プラス・利子)、土地―地代、労働―労賃、これは、社会的生産過程のあらゆる秘密を包括している三位一体形態である

 マルクスは、資本主義社会の三大階級の形成要因となる資本主義的生産様式の三つの要素を、このように―いささか皮肉的に―キリスト教の三位一体論になぞらえて、定式化している。ただし、「利子は資本の本来の特徴的な所産として現われるが、企業者利得は、それとは反対に、資本にはかかわりのない労賃として現われるので」、第一位の要素である資本―利潤は、資本―利子に集約される。

・・・資本―利子、土地―地代、労働―労賃という定式では、資本、土地、労働は、それぞれ、その生産物であり果実である利子(利潤ではなく)、地代、労賃の源泉として現われる。前者は理由で後者は帰結であり、前者は原因で後者は結果である。・・・・・・・・すべての三つの収入、すなわち利子(利潤ではなく)、地代、労賃は、生産物の価値の三つの部分であり、つまり一般に価値部分であり、または、貨幣で表現すれば、ある貨幣部分であり価格部分である。

 マルクス特有の皮肉的な比喩によれば、「公証人の手数料とにんじんと音楽との関係」ぐらいに表面上は無関係に見える利子、地代、労賃の三つの部分が、資本主義経済システムにおいては、三位一体的に結びついている。この理をマルクスは木にたとえて、「この三つの部分は、一本の多年生の木の、またはむしろ三本の木の、年々消費してよい果実として現われる。」と表現している。この結合関係をより経済学的にまとめると―

土地所有と資本と賃労働とは、次のような意味での収入の源泉から、すなわち、資本は資本家が労働から引き出す剰余価値の一部分を利潤の形で資本家のもとに引き寄せ、土地の独占は別の一部分を地代の形で土地所有者のもとに引き寄せ、そして労働は最後に残る処分可能な価値部分を労賃の形で労働者のものにするという意味での源泉から、・・・・・・・・・・・現実の源泉に転化して、この源泉からこれらの価値部分が発生し、また、生産物中のそれに相当する部分、つまりこれらの価値部分がそのなかに存在するかまたはそれに転換されうる生産物部分そのものが発生することになり、したがって、それを究極の源泉としてそこから生産物の価値そのものが発生することになるのである。

 こうしたメカニズムはしかし、「生産関係そのものを一つの物に転化させる」物象化が支配的な資本主義社会における「現実の生産過程は、直接的生産過程と流通過程との統一として、いろいろな新たな姿を生みだすのであって、これらの姿ではますます内的な関連の筋道はなくなって行き、いろいろな生産過程は互いに独立し、価値の諸成分は互いに独立な諸形態に骨化するのである」。

企業者利得と利子への利潤の分裂は、・・・・・・・・剰余価値の形態の独立化を、剰余価値の実体、本質にたいする剰余価値の形態の骨化を完成する。

 先の「骨化」の第一段階である。すなわち、「利潤の一部分は、他の部分に対立して、資本関係そのものからまったく引き離されてしまい、賃労働を搾取するという機能から発生するのではなく資本家自身の賃労働から発生するものとして現われる。この部分に対立して、次には利子が、労働者の賃労働にも資本家自身の労働にもかかわりなしに自分の固有な独立の源泉としての資本から発生するように見える」。

最後に、剰余価値の独立な源泉としての資本と並んで、土地所有が、平均利潤の制限として、そして剰余価値の一部分を次のような一階級の手に引き渡すものとして、現われる。その階級とは、自ら労働するのでもなければ労働者を直接に搾取するのでもなく、また利子生み資本のようにたとえば資本を貸し出すさいの危険や犠牲といった道徳的な慰めになる理由を楽しんでいることもできない階級である。 

 土地―地代の段階まで来ると、このように価値の諸成分の骨化と呼ばれる現象は完璧の域に達する。すなわち、「ここでは剰余価値の一部分は、直接には社会関係に結びついているのでなく、一つの自然要素である土地に結びついているように見えるので、剰余価値のいろいろな部分の相互間の疎外と骨化の形態は完成されており、内的な関連は決定的に引き裂かれており、そして剰余価値の源泉は、まさに、生産過程のいろいろな素材的要素に結びついた様々な生産関係の相互にたいする独立化によって、完全にうずめられているのである」。

資本―利潤、またはより適切には資本―利子、土地―地代、労働―労賃では、すなわち価値および富一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義的生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合生が完成されている。

 マルクスはこうした資本主義的社会編制を「魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界」と揶揄しているが、「現実の生産当事者たちがこの資本―利子、土地―地代、労働―労賃という疎外された不合理な形態でまったくわが家にいるような心安さをおぼえるのも、やはり当然のことである。なぜならば、まさにそれこそは、彼らがそのなかで動きまわっており毎日かかわりあっている外観の姿なのだからである。」とも指摘する。実際、われわれ資本主義社会の住人は、まさに魔法にかかったように、この三位一体を当然のごとくに受け止め、通常は疑問を感ずることなく、生活しているのである。 

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晩期資本論(連載第74回)

2015-11-09 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(1)

 『資本論』第三巻の最終篇は全巻の総括を兼ねた補遺に相当し、一部未完に終わっている未整理部分から成るが、全体の趣旨としては、資本主義における資本家‐労働者‐地主の三大階級の形成要因に関わっている。

労賃、利潤、地代をそれぞれの収入源泉とする単なる労働力の所有者、資本の所有者、土地所有者、つまり賃金労働者、資本家、土地所有者は、資本主義的生産様式を基礎とする近代社会の三大階級をなしている。

 ただし、この三大階級編制はあくまでもモデル的な規定であり、「争う余地なく、近代社会がその経済的編制において最も著しく最も典型的に発展している」英国ですら、「中間階級や過渡的階層が・・・・・・到る所で限界設定を紛らわしくしている」。現実の階級編制は複雑多岐にわたるわけである。

・・・まず答えられなければならないのは、なにが階級を形成するのか?という問いである。そして、その答えは、なにが賃金労働者、資本家、土地所有者を三つの大きな社会階級にするのか?とう別の問いに答えることによって、おのずから明らかになるのである。

 ここでのマルクスの問題提起は、経済学的というより、社会学的である。すなわち三大階級の形成要因を解明しようというのである。

一見したところでは、それは収入が同じだということであり、収入源泉が同じだということである。三つの大きな社会的な群があって、その構成分子、それを形成している個々人は、それぞれ、労賃、利潤、地代によって、つまり彼らの労働力、彼らの資本、彼らの土地所有の経済的実現によって、生活しているのである。

 ここで、マルクスは階級の形成要因を収入源泉によって分類する立場を示している。そこで、第三巻最終の第七篇も「諸収入とそれらの源泉」と題されている。このような収入源泉による階級分類は、今日の社会調査でも利用されているところである。

とはいえ、この立場から見れば、たとえば医者や役人も二つの階級を形成することになるであろう。なぜならば、彼らは二つの違った群に属しており、二つの群のそれぞれの成員の収入はそれぞれ同じ源泉から流れ出ているからである。同じことは、社会的分業によって労働者も資本家も土地所有者もそれぞれさらにいろいろな利害関係や地位に無限に細分されるということ―たとえば土地所有者ならばぶどう畑所有者や耕地所有者や森林所有者や鉱山所有者や漁場所有者に細分されるということ―についても言えるであろう。

 収入源泉別の社会階級分類による限り、ここで指摘されているとおり、その分類は無限細分化され、三大階級論は失効する。この後、細分化された「階級表」のようなものを展開する意図がマルクスにあったかどうかは、マルクスの草稿が途切れているため、想像するほかないが、経済原論の性格が強い『資本論』の分析においては、細部は捨象し、三大階級論モデルを基本とすることになるだろう。

・・・生産手段をますます労働から切り離し、分散している生産手段をますます大きな集団に集積し、こうして労働を賃労働に転化させ生産手段を資本に転化させるということは、資本主義的生産様式の不断の傾向であり発展法則である。そして、この傾向には、他方で、資本と労働からの土地所有の独立的分離が対応している。言い換えれば、資本主義的生産様式に対応する土地所有形態へのすべての土地所有の転化が対応している。

 これこそ、『資本論』全巻を通じての基本命題であった。三大階級編制もこの発展法則の展開過程で形成される。

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晩期資本論(連載第73回)

2015-11-03 | 〆晩期資本論

十五ノ2 土地の商品化

 マルクスは地代に関する分析に関連づけて、地代とは独立して形成され得る土地価格(地価)の問題にも言及している。そこにおいて、彼は三つの大きな法則を立てる。

Ⅰ 土地の価格は、地代が上がらなくても上がることがありうる。すなわち、
1 単なる利子率の低下によって。そのために地代はより高く売られるようになり、したがってまた、資本還元された地代、土地価格は上がるのである。
2 土地に合体された資本の利子が増大するので。

 原理上、地価=資本還元された地代と定式化すれば地価は年間地代を年利子率で割った商で表わされるから、利子率の低下は地価上昇を促進することになる。1980年代末の日本で、85年プラザ合意を契機とする低利子がその後、地価高騰によるバブル経済を惹起したのも、一つにはこの法則による。

Ⅱ 土地価格は、地代が増大するために上がることがある。

 これは比較的オーソドックスな地価上昇局面であるが、土地生産物の価格変動に対応していくつかの場合がある。

地代は、土地生産物の価格が上がるために増大することがありうる。この場合には、最劣等耕作地での地代が大きくても小さくても、または全然存在しなくても、つねに差額地代の率は高くなる。

 差額地代率とは、「土地生産物を生産する前貸資本にたいする、剰余価値のうちから地代に転化する部分の割合」をいい、「差額地代を生む土地種類では生産物中のますます大きくなる一部分が余分な超過生産物に転化するということのうちに、この率が含まれている」。

土地生産物の価格が変わらなければ、地代は・・・・・・ただ次の二つの理由のどちらかによってのみ増大することができる。すなわち、一つには、旧来の地所での投下資本量は不変で、より良質な新たな地所が耕作されるという理由によってである。

 要するに、新地開墾の場合である。「この場合に旧来の地所の価格は上がらないが、新たに着手される土地の価格は旧来の地価よりも高くなる」。

あるいはまた、相対的な豊度も市場価格も変わらないが、土地を利用する資本の量が増大するという理由によって、地代は増大する。

 これはつまり、現地所で逐次的投資がなされる場合であるが、差額地代率が同じでも投下資本量が倍増すれば、地代も押し上げられる。この場合、「(土地生産物の)価格の低下は起きていないのだから、第二の投資も第一の投資と同じに超過利潤をあげ、これは借地期間の経過後にはやはり地代に転化する」。

・・・土地の価格は、土地生産物の価格が下がる場合でも、上がることがある。
この場合には、差額の増大によって優等地の差額地代が増大し、したがってまたその土地の価格が増大したということもありうる。または、そうでない場合には、労働の生産性が上がって土地生産物の価格は下がったが、生産の増加がこれを補って余りあるということでもありうる。

 前者は土地改良により優等地の地代が上昇した場合、後者は労働生産性が上昇し、最劣等地でも生産物量が増大する場合である。

Ⅲ ・・・以上に述べたことから次のように結論される。すなわち、地価の上昇から無条件に地代の上昇を推論することはできないし、また、地代の上昇はつねに地価の上昇を招くとはいえ、地代の上昇から無条件に土地生産物の増加を推論することはできないということになる。

 ここまでの法則定立に関して、マルクスはいつものように原論的な方法論をとり、「競争上の変動や土地投機はすべて無視することにする。あるいは、・・・・・・・・小さな土地所有も問題にしないことにする。」と断っているが、小土地所有の例外則については、後の箇所で検討している。

すでに見たように、地代が与えられていれば地価は利子率によって規制されている。利子率が低ければ地価は高く、逆ならば逆である。だから、正常な場合には高い地価と低い利子率とが連れ立って行くはずであって、もし利子率が低いために農民が土地に高く支払うとすれば、同じ低利子率はまた彼にも有利な条件で経営資本を信用で提供するはずであろう。現実には、分割地所有が優勢であれば事態はそうではなくなってくる。

 先に見た法則Ⅰは分割地所有による自営農には妥当しない。自営農にとっては土地所有は生活条件でもあるが、「このような場合には、土地所有にたいする需要が供給を越えることによって、地価は利子率とは無関係に、またしばしば利子率に反比例して、引き上げられる」。

それだからこそ、このような、生産そのものには無関係な地価という要素が、・・・・・生産を不可能にしてしまうまで上がることがありうるのである。・・・・
地価がこのような役割を演ずるということ、土地の売買、商品としての土地の流通がこの程度まで発展するということは、実際には資本主義的生産様式の発展の結果である。

 すなわち土地の商品化である。マルクスは原理上、労働生産物だけを商品と呼ぶが、ここではより広い意味で土地を商品をみなしている。マルクスはこのような土地の商品化が、「まさに農業がもはや、またはまだ、資本主義的生産様式のもとに置かれておらず、すでに没落した社会形態から伝来した生産様式のもとに置かれている」ような、農業資本主義の未発達な段階で起こるとみている。

・・・・この場合には、生産者が自分の生産物の貨幣価格に依存するという資本主義的生産様式の不利が、資本主義的生産様式の不完全な発展から生ずる不利といっしょになる。農民は、自分の生産物を商品として生産することができるような条件なしに、商人となり産業家となるのである。

 このような自営小農経営の矛盾は、農業の資本化が未発達なまま、農産物の市場開放による国際競争にさらされようとしている現代日本の農業状況においては、明瞭に顕在化しつつあると言える。

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晩期資本論(連載第72回)

2015-11-02 | 〆晩期資本論

十五 農業資本の構造(5)

 前回まで検討されてきたのは、農業分野にも資本主義的経営が及んだ段階における借地農業資本という形態を前提としているが、本章冒頭でも記したように、このような資本主義的農業はまだ世界的に普及しているとは言えず、発達した資本主義国を含め、小土地を所有する農民による自営農が広く行なわれている。マルクスは資本主義的地代の歴史を考察する中で、このような「分割地所有」に関しても分析を加えている。

農民はこの場合には同時に彼の土地の自由な所有者であって、彼の土地は彼の主要な生産用具として現われ、彼の労働と資本にとって不可欠な従業場面として現われる。この形態では借地料は支払われない。したがって、地代は剰余価値の区分された形態としては現われない。といっても、それは、他の点では資本主義的生産様式が発展している諸国では、他の生産部門と比べての超過利潤として、しかしおよそ農民の労働の全収益がそうなるのと同様に農民のものとなる超過利潤として、現われるのではあるが。

 このように超過利潤を生産者自らが取得する自己労働は、労働者を雇わない自営的生産活動全般に見られる現象である。「当然のこととして、この場合には農村生産物のより大きい部分がその生産者である農民自身によって直接的生活手段として消費されなければならず、ただそれを超える超過分だけが商品として都市との商業にはいるのでなければならない」。
 マルクスはこのような場合にも差額地代は成立するとみなし、その差額地代は超過余剰生産物に表象されると観念するが、あくまでも観念上のことである。

この形態では農民にとって土地の価格が一つの要素として事実上の生産費にはいるのであり、・・・・・・つまり、資本還元された地代にほかならない土地価格がこの形態では一つの前提された要素なのであり、したがってまた地代は土地の豊度や位置のどんな差異にもかかわりなしに存在するように見えるのであるが、まさにこのような形態の場合にこそ、平均的には、絶対地代は存在しないものと、つまり最劣等地は地代を支払わないものとみなしてよいのである。

 土地持ち自営農民にとっては土地は生産用具であり、同時に生活手段でもあるので、地代ではなく地価が主要な要素となる。それゆえ、土地そのものが生みだすとされた絶対地代は成立しないのである。しかし農民が農業を廃業して、所有土地を資本に貸し出す借地農業資本へ移行すると、絶対地代を生じることになる。

自営農民の自由な所有は、明らかに、小経営のための土地所有の最も正常な形態である。すなわち、この小経営という生産様式にあっては、土地の占有は労働者が自分自身の労働の生産物の所有者であるための一つの条件なのであり、また、耕作者は、自由な所有者であろうと隷属民であろうと、つねに自分の生活手段を自分自身で、独立に、孤立した労働者として、自分の家族といっしょに生産しなければならないのである。

 言い換えれば、「土地所有は、この場合には個人的独立の発展のための基礎をなしている。それは農業そのものの発展にとって一つの必然的な通過点である」。なお、文中「隷属民」に言及されているのは、一定の権利が保障された封建的な農奴形態を示唆している。

分割地所有は、その性質上、労働の社会的生産力の発展、労働の社会的な諸形態、資本の社会的な集積、大規模な牧畜、科学の累進的な応用を排除する。
高利と租税制度とはどこでも分割地所有を貧困化せざるをえない。資本を土地価格に投ずることは、この資本を耕作から引きあげることになる。生産手段の無限の分散化、そして生産者そのものの無限の孤立化、人力の莫大な浪費。生産条件がますます悪くなり生産手段が高くなっていくということは、分割地所有の必然的な法則である。この生産様式にとっての豊作の不幸。

 こうした小農経営の非効率さと後継者不足はしだいに大規模集約農業への移行を準備する。とはいえ、「大きな土地所有は、農業人口をますます低下していく最小限度まで減らし、これにたいして、大都市に密集する工業人口を絶えず大きくしていく。こうして大きな土地所有によって生みだされる諸条件は、生命の自然法則によって命ぜられた社会的な物質代謝の関連のうちに回復できない裂け目を生じさせるのであって、そのために地力は乱費され、またこの乱費は商業をつうじて自国の境界を越えてはるか遠く運びだされるのである」。

大工業と、工業的に経営される大農業とは、いっしょに作用する。元来この二つのものを分け隔てているものは、前者はより多く労働力を、したがってまた人間の自然力を荒廃させ破滅させるが、後者はより多く直接に土地の自然力を荒廃させ破滅させるということだとすれば、その後の進展の途上では両者は互いに手を握り合うのである。なぜならば、農村でも工業的体制が労働者を無力にすると同時に、工業や商業はまた農業に土地を疲弊させる手段を供給するからである。

 これは農業資本主義が全面化した段階に関する素描である。もっとも、工場栽培が発達すれば、「工業的に経営される大農業」からさらに農業と工業とが融合した「農工業」の段階に進む可能性もある。この場合は、もはや土地を利用しない農業となるので、土地の荒廃という問題も生じない。むろん『資本論』ではこのような段階までは見通されていない。その代わり、マルクスは土地所有制度そのものから解放された未来社会について言及している。

より高度な経済的社会的構成体の立場から見れば、地球にたいする個々人の私有は、ちょうど一人の人間のもう一人の人間にたいする私有のように、ばかげたものとして現われるであろう。一つの社会全体でさえも、一つの国でさえも、じつにすべての同時代の社会をいっしょにしたものでさえも、土地の所有者ではないのである。それらはただ土地の占有者であり土地の用益者であるだけであって、それらは、よき家父〔boni patres familias〕として、土地を改良して次の世代に伝えなければならないのである。

 「より高度な経済的社会的構成体」とは、第一巻で「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」として対照されていた未来社会を指すであろう。ここでは明示されていないものの、土地が私的にはもちろん、公的にさえ所有されない―言わば無主物となる―共産主義的な土地管理のことが抽象的な暗示として述べられているのである。

☆小括☆
以上、十五では第三巻第六篇「超過利潤の地代への転化」全体を参照しながら、農業資本の構造について、検討した。ただし、建築地地代や鉱山地代のような非農業地代と土地価格を取り出して分析した第四十六章については除外し、地価の問題に関して改めて続く十五ノ2で検討する。

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晩期資本論(連載第71回)

2015-10-20 | 〆晩期資本論

十五 農業資本の構造(4)

差額地代を分析するにあたっては次のような前提から出発した。すなわち、最劣等地は地代を支払わないということ、または、もっと一般的に言い表せば、地代を支払う土地は、ただ、その生産物にとっては個別的生産価格が市場規制的生産価格よりも低く、したがってそこに地代に転化する超過利潤が生ずるような土地だけだということである。

 個別的生産価格と一般的生産価格の差額として把握される差額地代は、理論上そのような差額を生み出す土地においてのみ成立することになる。しかし、土地所有者にしてみれば、最劣等地だからといって、それを無償で貸し出すほど甘くはない。となると、差額地代の前提は崩れる。

・・・もし最劣等地Aが―その耕作は生産価格をもたらすであろうにもかかわらず―この生産価格を越える超過分すなわち地代を生むまでは耕作されることができないとすれば、土地所有はこの価格上昇の創造的原因である。土地所有そのものが地代を生んだのである。

 これが差額地代に対して絶対地代と呼ばれる地代の形態である。差額地代が土地そのものではなく、土地の豊度の違いに応じた言わば相対地代であることに対照される。

土地の単なる法律上の所有は、所有者のために地代を生みだしはしない。しかし、それは、土地が本来の農業に使用されるのであろうと、建物などのような別の生産目的に使用されるのであろうと、その土地の経済的利用が所有者のためにある超過分をあげることを経済的諸関係が許すまでは、自分の土地を利用させないという力を、所有者に与える。

 土地所有権の法的効力は土地を排他的に支配することであり、地代を当然に含むものではないが、地代が発生するまでは土地を未開発に保持する権利がある。そこで、「この土地所有の存在こそは、まさに、土地への資本の投下にとっての、また土地での資本の任意の増殖にとっての、制限をなしているのである。」とも言われる。

・・・・土地所有が設ける制限のために、市場価格は、この土地が生産価格を越える超過分すなわち地代を支払うことができるようになる点まで、上がらざるを得ない。ところが、農業資本によって生産される商品の価値は、前提によれば、その商品の生産価格よりも高いのだから、この地代は(すぐあとで検討する一つの例外[本来の独占価格にもとづく場合]を除いては)生産価格を越える価値の超過分またはそれの一部分をなしている。

 このように、絶対地代の本質は農産物の価値が生産価格を越える超過分である。つまり、「この絶対的な、生産価格を越える価値の超過分から生ずる地代は、ただ、農業剰余価値の一部分でしかなく、この剰余価値の地代への転化、土地所有者によるそれの横取りでしかないのであって、ちょうど、差額地代が、一般的規制的生産価格のもとで、超過利潤の地代への転化、土地所有者によるそれの横取りから生ずるのと同じことである」。

・・・・理論的に確実なことは、ただこの前提のもとでのみ農業生産物の価値はその生産価格よりも高くありうるということである。すなわち、与えられた大きさの資本によって農業で生産される剰余価値は、または、同じことであるが、その資本によって動かされ指揮される剰余労働(したがってまた充用される生きている労働一般)は、社会的平均構成をもつ同じ大きさの資本の場合より大きいということである。

 言い換えれば、農業における資本構成が社会的平均資本の構成よりも低いということであり、従って「もし農業資本の平均構成が社会的平均資本の構成と同じかまたはそれよりも高ければ、絶対地代はなくなるであろう」。また「もし農業資本の構成が耕作(技術)の進歩につれて社会的平均資本の構成と平均化されれば、やはり同じことが起きるであろう」。実際、近年における農業の機械化や遺伝子組み換え技術、さらには未来先取り的な栽培工場制度などの発達により、農業における資本構成は高度化しているように見える。
 ただし、マルクスも予測したように、「農業での社会的生産力の増進は、自然力の減退をただ埋め合わせるだけか、または埋め合わせもせず―この埋め合わせはつねにある期間だけしか作用できない―、したがって農業では技術的発展が起きても生産物は安くならないで、ただ生産物がさらにより高くなることが妨げられるだけだということもありうる」。そのため、現代でも農業の高度な資本化は起きていないのだとも考えられる。

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晩期資本論(連載第70回)

2015-10-19 | 〆晩期資本論

十五 農業資本の構造(3)

・・・超過利潤は、流通過程での偶然のできごとによって生みだされるのではなく正常に生みだされるものであるかぎり、つねに、二つの等量の資本および労働の生産物のあいだの差額として生産されるのであって、この超過利潤は、二つの等量の資本および労働が等面積の土地で用いられて不当な結果を生む場合には、地代に転化するのである。ついでに言えば、この超過利潤が等量の充用資本の不当な結果から生ずるということは、けっして無条件に必要なことではない。いろいろに違った投資では不等な大きさの資本が充用されていることもありうる。しかも、たいていの場合、これが前提である。

 マルクスは、差額地代の分析に当たり、「二つの等量の資本および労働が等面積の土地で用いられて不当な結果を生む場合」―差額地代Ⅰ―と「いろいろに違った投資では不等な大きさの資本が充用されている(場合)」―差額地代Ⅱ―とを区別して考察する。マルクスも認めるように、実際の経済界では、むしろⅡの不等量資本投入型のほうが普通であり、Ⅰの等量資本投入型は理論モデルであるが、彼はいつもの流儀で、まずは理論モデルから検討する。
 その際、マルクスは、土地の豊度の異なる四通りの土地を想定した経済表を作成して縷々検討しているが、ここでは行論上すべて割愛し、検討結果のみを示す。

(1)順序は、でき上がったものとしては―その形成過程がどんな進み方をしたにせよ―、どの表でも、下がっていくものとして現われる。なぜならば、地代を考察するにあたっては、いつでも、まず、地代の最大限を生む土地から出発して、最後に、全然地代を生まない土地に達するであろうからである。
(2)地代を生まない最劣等地の生産価格はつねに規制的市場価格である。・・・・・・・・
(3)差額地代は、そのときどきの与えられた耕作発達程度にとって与えられたものである土地種類の自然的豊度の相違(ここではまだ位置は考慮に入れない)から生ずる。・・・・・・・・
(4)差額地代の存在、そして等級別の差額地代の存在は、下降順序で優等地から劣等地に進むことによっても、また逆に劣等地から優等地に進むことによっても、または二つの方向が交錯することによっても、生じうる。・・・・・・・・
(5)差額地代は、その形成様式がどうであるかにしたがって、土地生産物の価格が変わらなくても、上がっても、下がっても、形成されることがありうる。

 このように差額地代論は、最劣等地では地代が発生しないという前提の下、最劣等地の生産価格が規制的市場価格を形成するという理論法則によって成り立っている。しかし、このような想定はあくまでも理論上のものである。

・・・結局、差額地代(Ⅰ)は、事実上はただ土地に投下される等量の諸資本の生産性の相違の結果でしかなかった。ところで、それぞれ生産性の違う諸資本量が次々に同じ地所に投下される場合と、それらの資本量が相並んで別々の地所に投下される場合とでは、ただ結果は同じだということだけを前提して、二つの場合のあいだになにか区別がありうるであろうか?

 結論から言えば、「差額地代Ⅱはただ差額地代Ⅰの別表現にすぎないもので、事実上はⅠと一致するものだということである」。すなわち、「どちらの場合にも、投資額は等しいのに土地が違った豊度を示すのであって、ただ、Ⅱではいくつかの部分に分かれて次々と投下されて行く一つの資本のために同じ土地がすることを、Ⅰではいろいろな土地種類が、社会的資本のうちからそれぞれの土地種類に投下される等量の諸部分のためにするだけのことである」。
 次いで、このように差額地代Ⅰを基礎的前提としてそのヴァリアントとして想定される差額地代Ⅱの変動に関して、生産価格が不変・低下・上昇の三つの場合に分けて詳細な分析が加えられるが、これについても割愛する。最終的に、両者の関係は次のようにまとめられる。

要するに、差額地代Ⅰと差額地代Ⅱとは、前者は後者の基礎でありながら、同時に互いに限界をなし合うのであって、そのために、ある場合には同じ地所での逐次的投資が必要になり、ある場合には新たに追加される土地での並行的投資が必要になるのである。それと同時に、また別の場合、たとえばより優良な土地が列に加わる場合にも、差額地代ⅠとⅡとは互いに限界として作用し合うのである。

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晩期資本論(連載第69回)

2015-10-06 | 〆晩期資本論

十五 農業資本の構造(2)

地代を分析するにあたっては、まず次のような前提から出発しようと思う。すなわち、このような地代を支払う生産物、つまりその剰余価値の一部分したがってまた総価格の一部分が地代になってしまうような生産物―われわれの目的のためには農産物またはそれとともに鉱産物を考慮に入れれば十分である―、つまり土地生産物または鉱産物が、すべての他の商品と同じように、その生産価格で売られるという前提である。

 このような生産物の平均的販売価格=生産価格という仮定に立ちつつ、「どのようにして利潤の一部分は地代に転化することができるか、したがってまた、どのようにして商品価格の一部分が土地所有者のものとなることができるか」が最初の問題となる。

地代のこの形態の一般的な性格を明らかにするために、われわれは、一国の工場の大多数は蒸気機関によって運転されるが、ある少数のものは自然の落流によって運転される、と想定しよう。

 ここでマルクスは地代を原理的に論じるため、いったん農業問題を離れ、工業の仮設例を持ち出す。しかも、当時は先端的だった蒸気機関を用いず、落流を利用した水車で稼動する古典的な工場を想定するという。もっとも、現代に至って、水力のような自然エネルギーが再び注目される中では、古くて新しい設例と言えるかもしれない。

いま、落流が、それの属する土地とともに地球のこの部分の所有者すなわち土地所有者とみなされる主体の手にあるものと考えてみれば、その場合に彼らは落流への資本の投下を排除し、資本による落流の利用を排除する。彼らは利用を許すこともできるし、拒むこともできる。しかし、資本はそれ自身で落流をつくりだすことはできない。それゆえ、このような落流の利用から生ずる超過利潤は、資本から生ずるのではなく、独占でき独占されてもいる自然力を資本が充用することから生ずるのである。このような事情のもとでは、超過利潤は地代に転化する。

 ここでは落流の属する土地所有者から土地を借りて工場経営する単純な借地経営の例が想定されている。工場を経営する資本家自身が土地所有者である場合も、観念上こうした「転化」を認めることができる。

第一に。この地代はつねに差額地代であることは、明らかである。

 何と何の差額かと言えば、「独占された自然力を自由に処分することのできる個別資本の個別的生産価格と、その生産部面一般に投下されている資本の一般的生産価格との差額」である。従って、地代が超過利潤を上回る水準になれば、そのような逆転差額をもたらす借地経営は個別資本にとって引き合わないことになる。

第二に。この地代は、充用資本の、またはそれによって取得される労働の、生産力の絶対的な上昇から生ずるのではなく、・・・・・・・この地代は、ある一つの生産部面に投下されている特定の個別資本の相対的な豊度が、生産力のこの例外的な、天然の、恵まれた条件から排除されている投資に比べて、より大きいということから生ずるのである。

 要するに、個別資本にとって地代の負担は蒸気機関を利用するよりも、落流を利用したほうが利益を得られるという見込みに支えられている。しかし、通常は自然力に頼るより蒸気機関などの技術革新を進めたほうが効率的であるので、この設例は初めから理論上のものである。現代にあっても、資本による自然エネルギーの利用が想定ほど進まない要因の一つとして、このことが関係しているだろう。

第三に。自然力は超過利潤の源泉ではなく、それは、ただ、例外的に高い労働生産力の自然的基礎であるがために超過利潤の自然的基礎であるにすぎない。

 落流の水力が直接に超過利潤を生み出すのではなく、水力が労働生産性の基礎となる結果として、超過利潤の基礎となるにすぎないという趣意である。超過利潤は、あくまでも剰余労働という人力によって生産される本則に変わりない。

第四に。落流の土地所有は、剰余価値(利潤)のこの(超過)部分、したがってまた落流の助けを借りて生産される商品の価格一般のうちのこの部分の創造とは、それ自体としてなんの関係もない。

 マルクスはこれに続けて、「この超過利潤は、土地所有が存在しなくても、たとえば落流の属する土地が工場主によって無主の土地として利用されているとしても、やはり存在するであろう。」と指摘するが、これは剰余価値生産を本旨とする資本主義的生産の場合のことであって、共産主義的生産において土地が無主とされる場合には、そもそも利潤を生まない。

第五に。落流の価格、つまり、土地所有者が落流を第三者または工場主自身に売った場合に受け取るであろう価格は、この工場主の個別的費用価格に入るとしても、さしあたり商品の生産価格に入らないことは、明らかである。

 これは広い意味での地価の問題だが、マルクスは労働生産物だけを価値生産物とみなすので、土地のような自然物は価値生産物に当たらないことになる。「この価格は、地代が資本還元されたもの以外のなにものでもない」。つまり、地価は差額地代が自然力そのものの価格として表現されたものにすぎないことになる。しかし、土地が独立した投資対象物として転々譲渡される現代資本主義においては、労働生産物ならぬ土地も一個の商品として、地代の資本還元にとどまらない固有の価格を持っている。

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晩期資本論(連載第68回)

2015-10-05 | 〆晩期資本論

十五 農業資本の構造(1)

 『資本論』第三巻が最後に取り上げる大きな論題は、農業問題である。農業といっても、ここで取り上げる農業は土地所有農民による家族営農ではなく、資本主義的に経営される農業である。典型的には、大資本が土地所有者から農地を借り受けて大規模に営む集約農業である。しかし、このような型の農業は今日ですら世界で主流化しているとは言えず、ここでのマルクスの議論は未来先取り的な原理論の色彩が強い。

土地所有は、ある人々がいっさいの他人を排除して地球の一定部分をかれらの個人的意志の専有領域として支配するという独占を前提する。これを前提すれば、問題は、資本主義的生産の基礎の上でのこの独占の経済的価値、すなわちその経済的実現を説明することである。

 農業資本の土台は、土地の近代的所有にある。マルクスは別の箇所で、これをひとことで「地球の私有」と表現している。「われわれにとって土地所有の近代的形態の考察が必要であるのは、要するに、農業における資本の投下から生ずる特定の生産・交易諸関係を考察することが必要だからである。この考察がなければ、資本の分析は完全ではないだろう」。

資本主義的生産様式の大きな成果の一つは、この生産様式が一方では農業を社会の最も未発展な部分のただ経験的な機械的に伝承されるやり方から農学の意識的科学的な応用に、およそ私的所有とともに与えられている諸関係のなかで可能なかぎりで転化させるということであり、この生産様式が土地所有を一方では支配・隷属関係から完全に解放し、他方では労働条件としての土地を土地所有からも土地所有者からもまったく分離して、土地所有者にとって土地が表わしているものは、彼が彼の独占によって産業資本家すなわち借地農業者から徴収する一定の貨幣租税以外のなにものでもなくなるということであ(る)。

 冒頭でも注記したとおり、このような本格的な借地農業資本はいまだに全般化はしていない。ただ、人口増大による食糧難に直面する途上国では多国籍食品資本(穀物メジャー)による借地農業経営(リースバック型も含む)が進行してきている。また日本のように協同組合型の家族営農を基本としてきたところでも、農家継承の困難と市場開放の圧力に直面する中、農協制度の形骸化が進み、農業法人のような資本主義的営農の制度が立ち現われてきている。

・・特殊な土地生産物の栽培が市場価格の変動に左右されること、また、この価格変動につれてこの栽培が絶えず変化すること、そして資本主義的生産の全精神が直接眼前の金もうけに向けられていること、このようなことは、互いにつながっている何代もの人間の恒常的な生活条件の全体をまかなわなければならない農業とは矛盾している。

 資本主義的農業経営は、いやがおうにも作物の栽培を市場変動と利潤獲得競争の中に巻き込むが、それは食糧生産という人間の生活条件を支える営為とは本来矛盾するという批判的指摘である。

資本主義的生産様式の場合、前提は次のようなことである。現実の耕作者は、資本家すなわち借地農業者に使用されている賃金労働者であって、この借地農業者は、農業を、ただ資本の一つの特殊な搾取部分として、一つの特殊な生産部面での彼の資本の投下として経営するだけである。この借地農業者‐資本家は、この特殊な生産部面での自分の資本を充用することを許される代償として、土地所有者に、すなわち自分が利用する土地の所有者に、一定の期限ごとに、例えば一年ごとに、契約で確定されている貨幣額を支払う。

 これが近代的地代であり、地代とは「資本主義的生産様式の基礎の上での土地所有の独立・独自な経済的形態」と定義される。「さらに、ここでは近代社会の骨格をなしている三つの階級がみないっしょに互いに相対して現われている。―すなわち賃金労働者と産業資本家と土地所有者である」。この三者が近代資本主義社会に共通する三大階級である。

地代が貨幣地代として発展することができるのは、ただ商品生産という基礎の上だけでのことであり、もっと詳しく言えば、ただ資本主義的生産という基礎の上だけでのことである。そして、それは、農業生産が商品生産になるのと同じ度合いで、したがって非農業生産が農業生産にたいして独立に発展するのと同じ度合いで、発展する。なぜなら、それと同じ度合いで、農業生産物は商品となり、交換価値となり、価値となるからである。

 こうした資本主義的農業における地代は、商品生産としての農業生産が生み出す剰余価値の転化部分を成す。この場合、地代を取得する「土地所有者は、ただ、剰余生産物および剰余価値のうちの・・・・・彼の関与なしに大きくなって行く分け前を横取りしさえすればよいのである」。このような借地農業資本における剰余価値としての地代論が、以降の中心テーマとなる。

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晩期資本論(連載第67回)

2015-09-23 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(5)

 マルクスは、信用制度の持つ価値増殖の限界打破と恐慌誘発性という二面的な性格に着目していたが、そのことを資本主義に付きものの景気変動の諸局面に分けて分析している。

再生産過程が、・・・・・・繁栄状態に達したならば、商業信用は非常に大きく膨張するのであるが、その場合、この膨張には、・・・・・円滑に行なわれる還流と拡大された生産という「健全な」基礎があるのである。この状態では、利子率は、その最低限度よりは高くなるとはいえ、やはりまだ低い。実際、この時期こそは、低い利子率、したがってまた貸付可能な資本の相対的な豊富さが産業資本の現実の拡張と一致する唯一の時点である。商業信用の拡大と結びついた還流の容易さと規則正しさは、貸付資本の供給を、その需要の増大にもかかわらず、確実にして、利子率の水準が上がるのを妨げる。

 好況とは、簡単に言えば、高利潤率かつ低利子率の局面である。手形を中心とした商業信用も正常に機能し、かつ銀行資金は潤沢で、貸付金利も低いという資本蓄積にとっては理想状況である。

・・・こうなると、準備資本なしに、またおよそ資本というものなしに事業をし、したがってまったく貨幣信用だけに頼って操作をする騎士たちが、ようやく目につくようになってくる。いまではまた、あらゆる形での固定資本の大拡張や、新しい巨大な企業の大量設立が加わってくる。そこで利子はその平均の高さに上がる。

 好況期には、低金利に支えられ、起業ブームも沸き起こる。銀行からの借入金に依存した新規事業が多数立ち上げられる一方、対等合併の形での巨大企業の設立も起こる。このような好況絶頂期の局面では、利子率が上昇を見せ始めるが、そのわけは―

・・・・労働力にたいする需要、したがってまた可変資本にたいする需要の増大は、それ自体としては利潤をふやすのではなく、むしろそれだけ利潤を減らす。とはいえ、労働力にたいする需要の増大につれ、可変資本にたいする需要、したがってまた貨幣資本にたいする需要も増加することはありうるのであり、これはまた利子率を高くすることができるのである。

 好況絶頂期には当然にも労働力に対する需要も増大する。それは労賃上昇圧力となり、利潤率は低下する。一方で労賃支払いの必要上銀行信用への依存度は高まり、そのことが利子率上昇要因となる。
 マルクスは他の利子率上昇要因として、生活手段や原料価格の高騰や中央銀行からの準備金流出なども挙げているが、ここではそれらの詳細な検討は割愛する。

・・利子が再び最高限度に達するのは、新しい恐慌が襲ってきて、急に信用が停止され、支払が停滞し、再生産過程が麻痺し、・・・・・・貸付資本のほとんど絶対的な欠乏と並んで遊休産業資本の過剰が現われるようになるときである。

 好況絶頂期には、過剰蓄積の状態に達している。すなわち、「過剰生産と眩惑的景気の時期には、生産は生産諸力を最高度に緊張させて、ついには生産過程の資本主義的制限をも越えさせてしまうのである」。恐慌局面では倒産防止のための緊急的な融資への需要が殺到し、貸付資本は欠乏する一方、銀行では焦げ付き防止のため、高利子や貸し渋りも発生する。

・・・一見したところでは、全恐慌はただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現われる。そして、実際、問題はただ手形の貨幣への転換可能性だけなのである。しかし、これらの手形の多くは現実の売買を表わしているのであって、この売買が社会的な必要をはるかに越えて膨張することが結局は全恐慌の基礎になっているのである。

 外見上は信用制度の急停止に伴う信用恐慌・貨幣恐慌に見える恐慌の内実は、過剰蓄積がもたらす産業恐慌、商業恐慌にほかならない。 

貸付可能な貨幣資本の増加は、必ずしも現実の資本蓄積または再生産過程の拡張を示しているのではない。このことは、産業循環のなかでは恐慌を切り抜けた直後に貸付資本が大量に遊休している段階で最も明瞭に現われる。このような瞬間には、生産過程は縮小されており・・・・・・・・・・、商品の価格は最低点まで下がっており、企業精神は麻痺してしまっていて、一般に利子率の水準が低いのであるが、この低水準がここで示しているものは、まさに産業資本の収縮と麻痺とによる貸付可能資本の増加にほかならないのである。

 恐慌を切り抜けた後に続く不況局面では、生産過程の縮小、物価低落という状況下で、再び銀行の貸付資本が増加するも、融資需要は乏しく、低利子へと回帰していく。ここから理論上は、不況回復期を経て、冒頭で見た「再び過度の膨張に先行する繁栄状態」に帰っていくことになる。まとめると―

 このように、利子率に表わされる貸付資本の運動は概して、産業資本の運動とは反対の方向に進むのである。まだ低いとはいえ最低限度よりも高い利子率が恐慌後の「好転」および信頼の増大とともに現われる段階、また特に、利子率がその平均的な高さ、すなわちその最低限度からも最高限度からも等距離にある中位点に達する段階、ただこの二つの時期だけが、豊富な貸付資本と産業資本の大膨張とが同時に現われる場合を示している。しかし、産業局面の発端では低い利子率と産業資本の収縮とが同時に現われ、循環の終わりには高い利子率と産業資本の過剰豊富とが同時に現われるのである。

 マルクスは「この産業循環は、ひとたび最初の衝撃が与えられてからは同じ循環が周期的に再生産されざるをえないというようになっている。」と法則化するが、実際の景気変動の歴史は、必ずしも単純な周期的反復を示してはいない。特に恐慌抑止のための経済政策の技術が進歩した現在では、恐慌を未然に防止することもできるようになってきている。しかし、それは資本主義的な景気循環を本質的に除去しているわけではなく、過剰蓄積に伴う経済危機は恒常的に潜在化している。

☆小括☆
以上、十四では『資本論』第三巻第五篇第二十五章乃至第三十二章から、信用制度の役割・機能について分析を加えた箇所をかいつまみ、参照しながら検討した。なお、金本位制を前提に通貨・為替制度を検討した第三十三章乃至第三十五章と、資本主義以前の古典的な金融制度を歴史的に分析した第三十六章の参照は除外する。

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晩期資本論(連載第66回)

2015-09-22 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(4)

 マルクスは、商業信用及び銀行信用を二大部門とする信用制度全般が資本主義経済において果たす役割を大きく四本の柱にまとめている。

Ⅰ 利潤率の平均化を媒介するために、または全資本主義的生産がその上で行なわれるこの平均化の運動を媒介するために、必然的に信用制度が形成されるということ。

 これは特に高利潤資本の再生産過程では銀行からの借入や信用買い付けなどの信用諸制度の利用が活発化する一方、低利潤資本では逆に信用制度の利用が抑制されることで、利潤率の平均化が調節的にもたらされることを意味している。

Ⅱ 流通費の節減
1 主要流通費の一つは、自己価値であるかぎりでの貨幣そのものである。貨幣は信用によって三つの仕方で節約される。
・・・・・・・・
2 信用によって流通または商品変態の、さらには資本変態の、一つ一つの段階を速くし、したがってまた再生産過程一般を速くするということ。

 命題1の貨幣節約の態様として、(A)貨幣の不使用(B)通貨流通の加速化(C)紙券による金貨幣の代替が挙げられている。現代ではこれに貨幣の電子化という現象が加わり、通貨流通の瞬時化、ひいては命題2の再生産過程の超高速化を導いている。

Ⅲ 株式会社の形成。これによって―
1 生産規模の非常な拡張が行なわれ、そして個人資本には不可能だった企業が現われた。同時に、従来は政府企業だったこのような企業が会社企業になる。
2 それ自体として社会的生産様式の上に立っていて生産手段や労働力の社会的集積を前提している資本が、ここでは直接に、個人資本に対立する社会資本(直接に結合した諸個人の資本)の形態をとっており、このような資本企業は個人企業に対立する社会企業として現われる。それは、資本主義的生産様式そのものの限界のなかでの、私的所有としての資本の廃止である。
3 現実に機能している資本家が他人の資本の単なる支配人、管理人に転化し、資本の所有者は単なる所有者、単なる貨幣資本家に転化するということ。

 資本主義的な大規模生産を可能とする株式会社企業は、信用制度、特に銀行信用なくしては存立し得ないであろう。その意味で、信用制度は株式会社の形成・発展を促進する。上記のⅠ及びⅡが信用制度の言わば直接的な役割であったのに対し、これは結果的な役割と言える。
 命題2の「資本主義的生産様式そのものの限界のなかでの、私的所有としての資本の廃止」という弁証法的な社会的所有論は、第一巻結論部でも「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」という有名な科白を含むより抽象的な命題として言及されていたところであるが、現代の資本企業は命題3にあるような「所有と経営の分離」を特質とする新たな間接所有的な私的所有形態として再編されている面もあり、「私的所有としての資本の廃止」は必ずしも実現されていない。
 マルクスも第三巻ではこのことを認め、「株式という形態への転化は、それ自身まだ、資本主義的なわくのなかにとらわれている。それゆえ、それは、社会的な富と私的な富という性格のあいだの対立を克服するのではなく、ただこの対立を新たな姿でつくり上げるだけである。」と付言している。
 それどころか、このような資本主義的な限界内での私的所有の揚棄という矛盾は、「新しい金融貴族を再生産し、企画屋や発起人や名目だけの役員の姿をとった新しい種類の寄生虫を再生産し、会社の創立や株式発行や株式取引についての思惑と詐欺の全制度を再生産する。それは、私的所有による制御のない私的生産である。」とも指摘される、まさに現代資本主義において観察されるような現象を生み出す。

Ⅳ ・・・・・・・信用は、個々の資本家に、または資本家とみなされる人々に、他人の資本や他人の所有にたいする、したがってまた他人の労働にたいする、ある範囲内では絶対的な支配力を与える。

 これもまた、Ⅲの命題3から導かれる信用制度の結果的な役割である。ここでは、「人が現実に所有している、また所有していると世間が考える資本そのものは、ただ信用という上部建築のための基礎になるだけである」。例えば「社会的生産物の大部分がその手を通る卸売業」の場合、「投機をする卸売商人が賭けるものは、社会的所有であって、自分の所有ではない。資本の起源が節約だという文句も、同様にばかげたものになる、なぜならば、彼が要求するのは、まさに他人が彼のための節約すべきだということでしかないからである」。 同じことは、株式を資産として保有する投機だけを目的とした株主についても言える。銀行も融資先企業に対して、外部的な債権者としての支配力を有する。
 かくして「社会的資本の大きな部分がその所有者ではない人々によって充用される」ことで、「信用制度が過剰生産や商業での過度な投機の主要な槓杆として現われるとすれば、それは、ただ、その性質上弾力的な再生産過程がここでは極限まで強行されるからである」

・・・・信用制度は生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進するのであるが、これらのものを新たな生産形態の物質的な基礎としてある程度の高さに達するまでつくり上げるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務である。それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進するのである。

 信用制度は資本主義的な価値増殖に内在する限界を打ち破る役割を持つが、その投機的性格から恐慌の要因ともなり、それが古い生産様式の解体を促進するという趣意である。
 言い換えれば、「信用制度に内在する二面的な性格、すなわち、一面では、資本主義的生産のばねである他人の労働の搾取による致富を最も純粋かつ最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させ、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格、しかし、他面では、新たな生産様式への過渡形態をなすという性格」がもたらす(マルクスは明示しないが)信用制度の五番目の役割である。
 マルクスは、これを「信用制度の発展―そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な廃止」という一句にまとめている。ただ、信用制度が金融恐慌のような破局的事態を招くことについては先例も存在するが、それが資本所有そのものの廃止を潜在的であれ含んでいるかどうかについては、疑問の余地があろう。

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