十六ノ2 ポスト資本主義の展望(3)
「労働時間の社会的に計画的な配分」がなされるという共産主義社会においても、剰余労働はなお必要とされるが、その性質・目的は資本主義的剰余労働とは大きく異なる。
剰余労働一般は、与えられた欲望の程度を越える労働としては、いつでもなければならない。・・・・・・・・・・・一定量の剰余労働は、災害にたいする保険のために必要であり、欲望の発達と人口の増加とに対応する再生産過程の必然的な累進的拡張のために必要なのであって、この拡張は資本主義的立場からは蓄積と呼ばれる。
剰余労働は「資本主義制度や奴隷制度などのもとでは、それはただ敵対的な形態だけをもち、社会の一部分のまったくの不労によって補足される」が、「資本はこの剰余労働を、生産力や社会的関係の発展のためにも、またより高度な新形成のための諸要素の創造のためにも、奴隷制や農奴制などの先行諸形態よりも有利な方法と条件のもとで強制するということ」を、マルクスはいくぶん皮肉を込めつつ、「資本の文明的な側面」とネガ‐ポジティブに表現する。
・・・・資本は、・・・・・・・・・・・・・社会のより高度な形態のなかでこの剰余労働を物質的労働一般に費やさせる時間のより大きな制限と結びつけることを可能にするような諸関係への物質的手段と萌芽とをつくりだす。なぜならば、剰余労働は、労働の生産力の発展しだいでは、総労働日が小さくても大きいことがありうるし、また総労働日が大きくても相対的に小さいことがありうるからである。
つまり、問題は剰余労働の時間的長さではなく、生産性であるから、資本主義の発展に伴い、生産性が高まれば、労働時間の短縮と生産性の向上を結びつけることができ、それがポスト資本主義の道を用意するというのである。
年齢から見て、まだ、またはもはや、生産に参加できない人々のための剰余労働のほかには、労働しない人々を養うための労働はすべてなくなるであろう。
冒頭でも見たとおり、保険財源や拡大再生産のための剰余労働は共産主義社会でもなお存在するとはいえ、不労者を扶養するための剰余労働は、子どもや老人のような労働不適格者のためにする労働を除いてなくなるだろうというのである。
じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。
逆言すれば、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働せざるを得ない状態は、「必然性の国」である。「必然性の国」でも、生産力の拡大によって「自由の国」に近づくが、「自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである」。すなわち―
社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめ、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。
この状態はすなわち共産主義的生産様式に移行した段階を示している。これもポスト資本主義の一つの到達点ではあるが、マルクスによれば、「しかし、これはやはりまだ必然性の国である」。
・・・・・かの物質代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。
マルクスはこの記述の直前で、資本主義的生産が「人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然条件を、攪乱する。」と指摘している。これは今日の用語で言えば、資本主義が物質代謝≒生態系メカニズムを攪乱し、生態学的な持続可能性を損なうことを予見した先駆的な記述である。
さらにマルクスは、そこから反転的に「・・・かの物質代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する」とも予見している。これは、共産主義的生産様式が生態学的持続可能性の回復を目的としたある種の計画経済体制をも予定していることを想定したものとも解釈できるところである。
この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花開くことができるのである。労働日の短縮こそは、根本条件である。
マルクスが展望するポスト資本主義の最終到達点とは、このように、人間が最小限の労働時間で自発的に労働するような社会であった。マルクスはこれを「真の自由の国」という抽象的な言葉でしか語っていないが、あえて名づければ「高度共産主義社会」であろうか。
☆総括☆
以上で、晩期資本主義時代における『資本論』全巻再読の試みは終了する。この書はマルクスの他のほぼすべての著作と同様に、未完の書であり、完結編も続編も存在しない。ただ、マルクスの没後およそ三十年―『資本論』第一巻出版からちょうど五十年―を経た時、マルクス主義を標榜する体制としてロシアを中心とするソヴィエト連邦というものが現われた。共産党が支配したその体制下での生産様式について、マルクスは生きて分析することはもちろんなかったが、もし存命中にこれを目撃していれば、必ずや関心を寄せ、『資本論』続編を書いたはずである。しかも、合理的に推測して、そこでの論述はネガティブなものとなったはずである。なぜそう言えるか、については、可能であれば、別連載にて解き明かしてみたい。(了)