ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第143回)

2020-09-07 | 〆近代革命の社会力学

十九ノ二 ハンガリー革命

(1)概観
 1918‐19年のハンガリー革命は、同君連合の二重帝国を形成していたオーストリア‐ハンガリー帝国が解体していく過程で、共時的に発生したものであるので、前回まで見たオーストリア革命と密接に連関しており、オーストリア革命の副産物と言える事象である。しかし、同時にオーストリア革命とは異なる経過もたどっており、固有の事象でもあるという微妙な関係にある。
 ハンガリー革命がオーストリア革命と異なった点として、明確な二段階的経過をたどったことがある。すなわち、第一段階は二重帝国からの離脱・独立を導いた独立革命であり、引き続いて、共産党による二次革命が継起する。
 このような経過をたどった要因として、オーストリアでは弱小集団にすぎなかった共産党がハンガリーでは強力だったことがある。特に、その指導者クン・ベーラがロシアのレーニンを思わせるカリスマ性を有していたことが共産党の台頭を促した。
 他方、第一段階の独立革命を主導したのは、オーストリアとは異なり、社会民主党とリベラル貴族、ブルジョワ急進派の連合勢力であったが、独立革命の結果、成立したハンガリー第一共和国は国際的な承認が得られなかったうえ、指導者となったカーロイ・ミハーイには転換期の指導力が欠けていた。
 その結果として、共産党が支持を伸ばし、あっけなく二次革命が成功するが、その結果、成立したハンガリー・ソヴィエト共和国は、レーニンのボリシェヴィキ体制を範としていながら、内戦中だったレーニン政権からは同盟と援助を得られなかった。
 このことは、二重帝国解体の過程で独立したチェコスロヴァキアや、革命に乗じてルーマニア系住民の多い東部トランシルヴァニア地方を占領していた隣国ルーマニアとの間で国境紛争が先鋭化し、複雑な情勢下に置かれていたハンガリー・ソヴィエト共和国の命運を左右し、最終的に、ルーマニアの侵攻・軍事介入によって転覆される結果に終わった。
 このように、革命体制が内戦に忙殺されるボリシェヴィキに見捨てられた経過は、前年のフィンランド未遂革命で現れたフィンランド社会主義労働者共和国と同様である。ただ、フィンランドでは国内の反革命勢力の反撃力が強く、労働者共和国は実効支配自体を確立できずに終わったのに対し、ハンガリーのソヴィエト共和国は5か月に満たないながらも、実効支配を示したのであった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 比較:影の警察国家(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿