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近代革命の社会力学(連載第78回)

2020-03-03 | 〆近代革命の社会力学

十一 ハワイ共和革命:ハワイ併合

(4)「共和国」から合衆国準州へ
 1894年7月に樹立された「ハワイ共和国」は、アメリカ独立記念日である7月4日に宣言されたように、アメリカへの併合プロセスはいったん頓挫したとはいえ、「共和国」支配層となった革命派がアメリカへの併合の道を追求することを放棄したわけではなかった。
 そのため、憲法もアメリカ合衆国憲法を模倣していたが、先住ハワイ人などのアジア系には公民権を保障しないなど、白人至上の人種差別的体制を正当化するものであり、併合を視野に入れた移行準備体制の性格が強かった。
 初代大統領に就任したサンフォード・ドールは宣教師の息子であるが、ハワイ生まれの白人であり、自身は法律家として、王室の実質的な顧問弁護士となり、カラカウア王により最高裁判所判事に任命されるなど、当初は王室とも友好関係にあった。しかし、最終的には王室を裏切り、白人既得権益層の代弁者となったのである。
 こうした白人系ハワイ「共和国」に対して、当然にも先住ハワイ人層は不満であり、95年にはワイキキでの些細な衝突を引き金に、先住ハワイ人の王党派が武装放棄した。最初で最後となるこの反革命武装蜂起は二週間にわたって続いたが、最終的には武力に勝る政府軍が制圧に成功した。
 この事件は、王党派の象徴的存在であった前女王リリウオカラニを排除する口実にも使われた。彼女は蜂起に関与していなかったにもかかわらず、反乱容疑で拘束され、有罪判決を受けたが、以後、共和国に忠誠を誓い、政治活動に関与しないことを条件に釈放された。
 そうした中、アメリカ側で情勢の大きな変化があった。先に関税法が再改正され、ハワイ産砂糖への関税を免除する互恵制度が復活したため、革命の経済的背景ともなっていた不況が解消されたことに加え、政権交代があり、海洋進出に積極的なマッキンリー大統領が新たに就任したのだった。
 マッキンリーはハワイ併合に消極的だったクリーブランド前大統領の政策を一転させ、ハワイ併合法案の議会通過を積極的に後押しした。折からの米西戦争も追い風となり、当時スペイン領土であったフィリピンの獲得も視野に入れたマッキンリー政権はハワイを東アジアに兵力を送り込む軍事拠点として必要とした。
 こうして、アメリカ側でのハワイ併合プロセスが急展開し、1898年7月に併合法案が上下両院で可決、同月7日にはマッキンリー大統領の署名を経て、正式にハワイのアメリカ併合が実現することとなった。
 ただし、ハワイの扱いは準州という制約的なものであった。準州は正式の州とは異なり、準州民に合衆国正副大統領の選挙権がなく、連邦議会に代表者を送れるものの、投票権は与えられないという制約があった。また準州知事や裁判官も合衆国大統領による任命制とされた。
 ハワイが正式の州に昇格するのは1959年を待たなければならなかったとはいえ、1900年に制定されたハワイ基本法では、先住ハワイ人にも公民権が保障され、従来の白人至上の差別的体制は修正された。ただし、中国系・日系などのアジア系移民の公民権は否定されていた。
 こうして、ハワイ共和革命は、ハワイのアメリカ併合という変則的な形で確定することとなった。このような数奇なプロセスを辿った革命は歴史上も稀であり、ほぼ同時並行的に勃発したフィリピン独立未遂革命とは逆の方向性を持った奇妙な「革命」であった。


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