ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第356回)

2021-12-30 | 〆近代革命の社会力学

五十一 グレナダ・ニュージュエル革命

(3)人民革命政府の樹立と展開
 労働組合独裁政治が強固に定着していたグレナダで、突如革命の道が切り開かれた遠因として、1976年の総選挙におけるゲイリー政権与党による不正行為があった。この選挙では、前出の私兵集団マングース・ギャングが有権者を脅迫するなどの投票妨害が指摘されていた。
 しかし、選挙結果はまたしても与党・統一労働党の勝利であったが、与党は議席を減らし、NJMを中心とする野党連合が15議席中6議席を獲得する躍進を見せた。しかし、ゲイリー独裁は変わらず、選挙後は政府支持派とNJM支持派との流血的な街頭抗争が激化していく。
 そうした騒乱状態の中、NJMは単独での武力革命の可能性を模索するようになり、アメリカの黒人活動家の支援を受けつつ、軍事部門をソ連を含む海外で秘密裏に訓練した。
 1979年に入り、ゲイリー政権がマングース・ギャングを使ってNJM指導部の殺害を企てているとの風評が流れると、NJMは同年3月、ゲイリー首相がニューヨークの国際連合本部に滞在中の空隙を狙って革命蜂起し、無血のうちに政権を掌握した。
 NJMは人民革命政府の樹立を宣言し、NJM指導者モーリス・ビショップが首相に就任した。革命後、NJMはそれまで混合的だったイデオロギーを整理し、マルクス‐レーニン主義を公称したが、共産党の結成には至らず、イデオロギー的には曖昧なままであった。そのため、通常は革命政府が第一に取り組む新憲法の策定を先送りし、立憲統治を確立しないまま、政令による統治を継続した。
 もっとも、人民革命政府はイデオロギーや憲法起草はさておき、NJM本来の政策志向的な性格を反映して、教育や医療などの社会政策や道路建設などのインフラストラクチャーの整備に優先注力した。その結果、1981年までにグレナダはカリブ地域内で相対的に低い失業率と高い経済成長率を記録したほか、識字率の向上や医師数の増加などの社会開発も急進展した。
 他方、外交的には、ゲイリー政権を支持していた旧宗主国イギリスとは関係が悪化し、経済援助の差し止めを受ける反面、キューバとの結びつきが強まり、キューバからの建設労働者がインフラの整備に貢献した。しかし、こうした親キューバの外交方針はアメリカの強い警戒を招き、IMFや世界銀行からの融資の差し止めなどの間接的な経済制裁を招き、最終的には武力侵攻への動因ともなる。
 しかし、グレナダ人民革命政府はそうした英米からの制裁措置にもかかわらず、政策志向の展開により、先述したような社会経済開発に一定成功した点で、第三世界の小国の社会主義革命における成功モデルとなろうとしていたが、それを内的に妨げるような動きが顕在化してくる。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿