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近代革命の社会力学(連載第148回)

2020-09-23 | 〆近代革命の社会力学

二十 エジプト独立‐立憲革命

(2)ウラービ運動とその挫折
 エジプトでは、1919年に始まる独立‐立憲革命に遡ること約40年の1881年‐82年、アフマド・ウラービ大佐に率いられた立憲未遂革命があった。軍内人事の平等要求に始まったこの革命は短期で挫折したが、エジプトにおける最初の立憲運動として、長期的な視野で見れば、1919年革命の遠い萌芽と言えるものであった。その意味で、ここから記述を始める。
 指導者の名を取り、「ウラービ運動」(または「ウラービ革命」)とも呼ばれるように、この立憲蜂起の主役はウラービであった。彼はムハンマド・アリー朝下で組織された近代エジプト軍のエリート将校で、開明的な第4代君主サイード・パシャと第5代イスマイール・パシャの代に、アラブ系としては異例の昇進を果たした。
 しかし、債権国として内政干渉にも及ぶようになっていたイギリスとフランスの策動によりイスマイールが廃位され、息子のタウフィーク・パシャが第6代君主となると、再びトルコ系優遇策が復活したことから、特に軍内では人事への不満がたまっていた。
 加えて、1870年代には、財政難から軍の大規模なリストラと縮小も断行された。そうした中で、アラブ系軍人のリーダーとなっていたウラービ大佐は、1881年1月、軍内人事の平等を求める嘆願書を提出した。しかし、当局は彼に反逆容疑をかけて逮捕した。これに対し、彼の配下の兵士らが決起してウラービを救出したうえ、宮殿を包囲し、ウラービの支持者による政権樹立を要求した。
 これを機に、翌年の2月にかけて、ウラービ派とタウフィークの間で攻防が続くが、この間にウラービの要求は次第に広がり、単なる軍内人事問題から、より広い立憲政治の確立、さらにイギリスやフランスの内政干渉の排除といった政治問題に及んでいた。
 このように、ウラービ運動は一気に立憲運動へと展開するのであるが、その背景には、この頃、ようやくエジプト人というまとまりでの民族意識が芽生え始め、彼の運動はアラブ系兵士から公務員、商店主、改革派宗教指導者といった幅広い階級に支持されたことがあった。
 1882年2月には、タウフィークの譲歩により、ウラービ大佐が実質的な宰相格の軍務大臣に任命され、事実上の「ウラービ内閣」が発足したが、ここに至って君主制廃止の構えをすら見せ始めたウラービに脅威を抱いたタウフィークと、ウラービが借款を破棄することを警戒する英仏の利害が一致して、イギリスの軍事介入を招いたのであった。
 82年9月、アレクサンドリアに上陸したイギリス軍は、貧弱なエジプト軍を難なく破って首都カイロに進撃、制圧し、ウラービ政権を崩壊させた。ウラービは逮捕され、死刑判決を受けるも、減刑され、セイロン島(現スリランカ)に流刑となった。
 こうして、ウラービ運動はイギリスの圧倒的軍事力の前に挫折したが、その要因として、彼の運動が政治的に十分組織されていなかったことがある。実際のところ、彼は1879年に民族主義政党を組織していたのだが、自身が軍籍を保っていたことや、議会制度の欠如のゆえ、政党としては発展しなかった。そして、遠くセイロンに流されたウラービ自身も、忘れられた存在となった。


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