ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第275回)

2021-08-05 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(5)スーダン革命

〈5‐1〉独立から1964年民衆革命へ
 エジプト南部で隣接するスーダンは、19世紀エジプトに成立したムハンマド・アリー朝による征服を受けてエジプト領となるが、そのムハンマド・アリー朝がイギリスの支配下に置かれると、イギリス・エジプトの二重支配下に編入されるという数奇な経過をたどった。
 この間、19世紀末にはイスラーム救世主マフディを称するムハンマド・アフマドが武装蜂起し、イスラーム国家(マフディ国家)を樹立した(拙稿)。これもある種の地方革命のような事象ではあったが、マフディ国家は基本的に反近代的な祭政一致体制であり、近代的な意味での革命とはみなせない事象であった。
 マフディ国家がイギリス軍の掃討作戦によって粉砕されると、1899年以降、スーダンは改めてイギリス・エジプトの支配下に編入され、エジプトと一体的なイギリスの勢力圏となる。その後、20世紀における独立運動はアラブ系住民の多い北部を中心に隆起し、穏健イスラーム主義政党のウンマ党がその中核を担ったのは、エジプトとの相違点である。
 そのウンマ党の指導部が上述のマフディ国家樹立者ムハンマド・アフマドの子孫たちによって担われたことは偶然ではなく、スーダンではマフディ国家が敗北した後も、マフディ運動の余波が近代的に姿を変えて長期的に持続していたことを意味する。
 そうした中、1952年のエジプト共和革命は必然的にスーダンにも波及し、エジプト革命政府がスーダンの領有権を放棄したことで、イギリスからの独立の機運が高まった。ウンマ党は基本的に穏健主義であり、武装革命ではなく、交渉を通じて独立を勝ち取り、1956年にスーダン共和国が発足した。
 しかし、スーダンはアラブ系優勢の北部と黒人諸部族が割拠する南部の対立が激しく、独立直前の55年には早くも南北間の武力衝突が発生するなど統一が困難で、共和制といっても単独の大統領は選出できず、主権評議会による合議制で発足した。
 こうした不安定状況を打開するべく、1958年にイブラヒム・アブード国軍最高司令官がクーデターを起こして政権を掌握、軍事政権を樹立した。アブードは自ら初代大統領に就任し、南スーダン問題を最大の課題として、軍主導で改めて国作りに着手するが、その強権主義的手法は多くの反発を呼び、課題の解決には程遠かった。
 政権が弾圧を強め、長期執権の兆しが見えた1964年10月、首都のハルツーム大学での反政府的なセミナーに乱入した警察が学生や労働者3人を射殺したことを契機に抗議行動が広がり、やがては全土的な市民的不服従とゼネストに発展した。
 反体制派は一部の軍将校とも連携し統一国民戦線を結成してアブード政権と対峙した結果、アブード大統領はついに辞任に追い込まれ、6年に及んだ軍事政権が解散、暫定文民政権が発足したのである。
 この1964年の革命は大学での小さな弾圧事件を導火線として、武器を持たない学生と労働者が蜂起したもので、2010年代におけるアラブ連続民衆革命の遠い先取りとも言える非暴力の民衆革命であった。軍事政権崩壊後の暫定政権も社会主義的ではなく、64年革命自体はアラブ連続社会主義革命の潮流とは別個に生じた事象と言える。
 しかし、アブード軍事政権時代を通じて軍部が政治化を来しており、中堅・若手将校を中心にナセリストや共産党と連携する者も育っていた。かれらは、エジプトにならった自由将校団運動を結成する。
 失敗に終わったものの、1966年に共産主義者の将校グループがクーデター決起したことは、64年民衆革命後の文民政権の不安定さと機能不全の中で、将校主導での革命の小さな芽が発現したものと言えたであろうが、文民政権はそれを摘み取る力能を持たなかった。


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