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近代革命の社会力学(連載第4回)

2019-08-06 | 〆近代革命の社会力学

一 北陸一向宗革命 

(3)一揆衆の形成と革命の成因  
 北陸一向宗革命の動力源となったのは、同時代の西日本各地に現れたのと同様の一向一揆である。一向一揆は、浄土真宗の信仰を共有する信徒の抵抗運動であるとともに、信仰共同体でもあった。  
 このような信仰共同体であれば他宗派にも見られるが、浄土真宗のそれが特に強い結束を形成したのは、浄土往生という信仰を核としていたことが大きいと考えられる。それはキリスト教の千年王国論に匹敵するような政治的要素を帯びたユートピア思想である。  
 しかし、浄土真宗が単なる信仰共同体を超えて政治運動・革命運動にまで昇華されていくに当たっては、開祖親鸞の子孫でもある第8世法主蓮如の登場を待つ必要があった。蓮如は僧であると同時に、時代の変化を見据えた卓越した政治活動家という側面を持っていた。  
 彼は当時、「中央」の室町幕府が衰微し、戦国乱世に向かいつつあった守護領国制の不安定さの中で先の見えない不安感にとらわれていた農民や商人、地方の土豪・国人といった幅広い階層の人々に開祖親鸞の教えをわかりやすく説く集会=講を組織するという布教手法を創案した。  
 蓮如の講は、階級にかかわりなく、誰でも聴講できる平等な法話集会であり、これを基盤として階級横断的な信仰共同体が形成されていった。一向一揆が同時代の土一揆や後世の百姓一揆とは異なる独自の性格を持った所以がここにある。  
 蓮如が北陸へ赴いたのは、師の法相宗僧侶経覚の提案によるものであったが、これもタイムリーであった。当時の北陸は蓮如が拠点を置いた吉崎御坊の所在した越前も含めて、一強的な守護大名を欠き、諸勢力が入り乱れ、政情不安が常態化していたからである。  
 ただ、蓮如自身が北陸における一向宗革命にどの程度直接に関与したかについては、不明な点がある。前回見たとおり、蓮如は当初加賀守護職の富樫氏に接近し、その庇護を期待していたが、時の当主富樫正親が一向宗弾圧に転じると、蓮如の北陸での地位も危うくなった。  
 しかし、蓮如はこの時、反富樫の一揆を蓮如の名で煽動したとされる門弟の下間蓮崇[しもつまれんそう]を破門処分に付している。蓮崇が蓮如の名を騙ったことが理由とされる。蓮如はこの処分を下した後、吉崎を退去して畿内方面に移っており、一揆衆が加賀で富樫氏を打倒したときも、北陸には所在しなかった。
 こうしたことから、蓮如を革命の直接的な指導者と見ることはできないが、信徒による革命の精神的指導者としての地位にあったことは間違いなく、彼の存在なくして、一向宗革命が成功することはなかったと言ってよいだろう。  
 革命の戦略的な成因という観点から見ると、一揆衆に国人や地侍のような武士層が参加していたことが大きい。一向宗革命は武装革命の一種であり、実際、最終的に富樫氏を打倒するに当たっては篭城する富樫氏を包囲戦で破っている。このような軍事的成功は、充分な武器も戦略も持たない農民一揆では困難であった。  
 そうした意味では、一向宗革命の主導勢力は国人や土豪といった郷士的中間階級であり、その本質は時代先取り的なブルジョワ革命だったとみなすことができるかもしれない。従って、革命成就後の統治の中心も、かれら中間階級であった。


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