ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

奴隷の世界歴史(連載第26回)

2017-10-31 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

北米のブラック・セミノール
 新大陸における逃亡奴隷マルーンの中でも独異な形態を取ったのが、北米のブラック・セミノールと呼ばれる集団である。これは、アメリカ南部の逃亡黒人奴隷がフロリダの先住民族セミノールの居住地へと避難することによって形成された新たな部族集団である。
 当時のフロリダはスペイン領であり、大西洋奴隷貿易に参入し、中南米では黒人奴隷を使役していたスペインは、北米では英国への対抗上、英国植民地内の黒人奴隷にフロリダ逃亡を奨励していたのである。
 スペイン当局はかれらを解放し民兵として組織したが、他方でスペイン民兵とはならず、独自に共同体を形成したマルーンのグループもあった。こうしたグループは現地の先住民セミノールとの関わりを深めた。北米先住民には独自の奴隷慣習があり、マルーンはセミノール首長の奴隷となることで庇護された。
 もっとも、このセミノール奴隷は通常何らかの強制労働に従事させられる奴隷とは異なり、マルーンは武装した独自の共同体を持ち、セミノール首長に家畜や作物を上納することで庇護を受けるという農奴的な関係性のものであった。こうしてマルーンはそのアフリカ起源の慣習を維持しつつ、セミノールにも同化し、独自の軍事共同体を構成し得た。これがブラック・セミノールである。
 ブラック・セミノールの運命は18世紀後半から19世紀前半にかけて、英国割譲、スペイン返還、アメリカ編入とめまぐるしく変化したフロリダの情勢に大きく左右された。独立したアメリカ合衆国はブラック・セミノールの解体と逃亡奴隷の返還を目指していた。
 親英/スペイン派であったセミノール自体も合衆国の標的となっており、19世紀に三次にわたるセミノール戦争が発動された。そのうち最も長く1835年から42年まで続いた第二次セミノール戦争はブラック・セミノールのハイライトであった。
 この戦争の要因は、セミノールとブラック・セミノールをまとめて不毛な西部オクラホマ準州へ強制移住させる合衆国の政策にあった。この裏にブラック・セミノールの奴隷復帰という狙いを嗅ぎ取ったブラック・セミノールは戦争と並行して、農園でのゲリラ的な奴隷反乱を煽動・支援したのである。
 結局、合衆国の勝利に終わった戦後、ブラック・セミノールはオクラホマへ移住させられたが、その一部は離反してメキシコへ集団逃亡し、現地で民兵となった。残留者はそのままセミノールとして暮らし、奴隷制廃止後は自由人開拓者となった。

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奴隷の世界歴史(連載第25回)

2017-10-30 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

逃亡奴隷共同体
 大西洋奴隷貿易で「輸出」されたアフリカ奴隷の行き先は、サントメ島のような近場を例外として、多くは新大陸のプランテーションであった。そこでは、過酷な強制労働が待ち受けていたが、当然と言うべきか、逃亡者も絶えなかった。
 これらの逃亡奴隷はマルーンと呼ばれ、山中で武装化し、自治的共同体を形成するようになる。こうしたマルーン共同体は、新大陸とその周辺島嶼各地に散在するようになるが、その最も古いものはポルトガル植民地ブラジルで形成された。広大なブラジルには、マルーンが集住するに適した未開拓地が多数残されており、かれらには有利な条件があった。
 キロンボと呼ばれたブラジルの逃亡奴隷共同体はブラジル各地に多数形成されたが、中でも17世紀初頭、北東部に形成されたキロンボ・ドス・パルマーレスは最盛期2万人の人口を擁する一種の自治国家として、一世紀近く存続していく。
 先住民や貧困層白人なども吸収しつつ独立を目指したパルマーレスは17世紀後半、ポルトガルに敗れて奴隷として連行されたコンゴ王国王族の出身とも言われるガンガ・ズンバとその甥ズンビの下で一種の王国として最盛期を迎えるが、ズンビがポルトガル植民地軍に敗れ、終焉した。  
 一方、フランス植民地島ハイチではマウォンと転訛したマルーンは国家的な共同体よりも、ゲリラ的なネットワークを形成し、白人プランテーションを襲撃、奴隷を救出解放する活動を展開した。中でも1750年代に活躍したフランソワ・マッカンダルは西アフリカ由来のブードゥー教司祭でもあり、プランテーションの飲食物に毒を仕込んで殺害するテロ作戦により恐れられた。
 彼は結局、捕らえられ残酷に処刑されたが、ハイチにおけるマウォンのゲリラ活動は後世に引き継がれ、マッカンダルの死からおよそ30年後のハイチ独立革命につながっていくのである。
 同じカリブ海域の英国植民地島ジャマイカでも18世紀、マルーンが団結して反英闘争を開始した。その中心に立ったのは、クジョーとその妹分の女性戦士ナニーであった。クジョーは1739年まで8年間続いた対英戦争(第一次マルーン戦争)を率いた。ナニーのほうは後にナニー・タウンと命名された町にマルーン共同体を形成し、事実上の首長として統治した。
 ただ、第一次マルーン戦争を終結させた条約はマルーン共同体の存続を認める見返りに逃亡奴隷拘束に協力するという妥協的な内容であったため、1795年には再び一部マルーンが蜂起し、第二次マルーン戦争となるが、結局、英国の実質勝利に終わり、反乱したマルーンはカナダと西アフリカのシエラレオーネへ強制送還されてしまう。
 とはいえ、ジャマイカのマルーン戦争は19世紀初頭以降、人道主義的潮流からの奴隷制廃止運動とは別に、奴隷制度の持続可能性に関して懐疑を生じさせ、英国の奴隷貿易・奴隷制廃止へ向けた政策転換の契機になったと考えられる。

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貨幣経済史黒書(連載第2回)

2017-10-29 | 〆貨幣経済史黒書

File1:リュディア貨幣王国の運命

 経済学上、貨幣は機能別に理解されており、①支払②価値尺度③蓄蔵④交換手段のいずれか一つの機能を有する共通物であれば、貨幣とみなす。このような特定の目的のみを有する貨幣は先史時代からあったとされるが、四つの機能すべてを備え、かつ貨幣による取引が社会的な慣習化する貨幣経済となると、歴史時代の産物である。そのため、貨幣経済は文明の証とみなされやすい。
 貨幣経済が開始されるためには、貨幣の統一的かつ反復的・大量的な鋳造が必要要件である。そのような鋳造貨幣のシステムを最初に発明したのは、アナトリア半島に所在したリュディア王国と目されている。リュディアはアナトリアの古代帝国ヒッタイトが滅亡した後に出現した都市国家群の一つに始まり、紀元前12世紀から同6世紀半ばまで続いた国である。
 比較的長期間存続したわけだが、リュディアを特に有名にしたのは、晩期の紀元前7世紀に発明した現時点で世界最古と目される鋳造貨幣であった。ギリシャ語で琥珀を意味するエレクトロンと呼ばれる貨幣がそれである。この国でなぜ鋳造貨幣が誕生したと言えば、まずその原料となる砂金の産地であったこと、その都であったサルディス(現トルコ領サルト)は東西交易ルートの要衝であり、国際商取引が極めて活発であり、取引の安全・敏速の要請が強かったことにある。
 当初は砂金をそのまま価値尺度として用いたが、より敏速な計算を可能とするべく、溶解加工して重量を均一化した硬貨という物品が改めて発明されたと見られる。リュディアの貨幣は紀元前6世紀半ばに出たクロイソス王の通貨改革によって、金貨と銀貨に整理統一され、国家が保証する国定通貨制度が初めて導入された。
 クロイソス王は、個人としても当時世界一の富豪となった。これは、硬貨の発明により貨幣の蓄蔵機能が最大限に発揮された最初の例もある。半ば伝説であるが、同時代ギリシャのアテナイの政治改革家ソロンと謁見した際、最も幸福なのは富豪の自分であると自慢し、ソロンから金より価値の高いものもあると反駁されたという。
 富者の代名詞にもなったクロイソスは世界で初めて貨幣の蓄蔵に至福を見出す貨幣愛を実践した人物であったかもしれない。彼の貨幣への信念は、ギリシャ人でないにもかかわらず、ギリシャの聖地デルポイ神殿に高価な奉納を捧げ、当時東に興隆していたペルシャと戦う上での同盟国の伺いを立てた事にも現れている。おそらくデルポイの巫女を買収しようとしたのだろう。
 ところが、彼は神託の解釈を取り違え、同盟国をスパルタと誤解してしまった。結果、ギリシャ諸都市を次々攻略して帝国化の兆しを見せていたリュディアはペルシャとの戦争に敗れ、クロイソスは捕虜となり、リュディアはペルシャに併合されてしまうのである。クロイソスはペルシャのキュロス2世によって恩赦され、処刑は免れたが、世界一の富豪王はあえなく転落したのであった。
 陥落した王都サルディスがペルシャ軍に略奪蹂躙されても「我が財産でないから構わぬ」と無関心だったというエピソードもあるクロイソスは、世界初の利己主義的な私有財産家でもあったかもしれない。こうして、世界で初めて鋳造貨幣を発明した栄誉ある国は、為政者としては無責任な金満王のために、発明から一世紀ほどで滅びてしまったのである。

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貨幣経済史黒書(連載第1回)

2017-10-22 | 〆貨幣経済史黒書

前言

 筆者は、メイン連載『共産論』をはじめ、共産主義的計画経済の仕組みをより詳説した『持続可能的計画経済論』などを通じて、貨幣経済によらない経済システムの可能性を提唱してきたところであるが、おそらくこの主張は貨幣経済の絶対化という現況ではなかなか理解されにくいかもしれない。
 貧困や多額の負債、破産、投資の失敗、詐欺・盗難被害など貨幣にまつわる何らかの不幸を実体験しない限り、貨幣さえあれば欲しい物は何でも手に入るという貨幣経済の技術的な便利さに目を奪われて、貨幣経済以外の経済システムを想像することもできなくなっているのが現代文明人である。
 そうした想像力の貧困状態を脱することは容易でないけれども、貨幣経済の裏面を歴史的に追ってみることで、貨幣経済の真の恐ろしさを追体験することは可能かもしれない。とはいえ、通常の経済史の概説書等に当たってみても、貨幣経済の暗黒面に焦点を当てたものはほとんど見られず、ハイパー・インフレーションや金融恐慌などの負の事象に言及しつつも、多くは貨幣経済を人類の輝かしい文明として称賛し、その進歩的な側面に焦点を当てた「白書」として記述されている。
 当連載は、そうした通例とは逆に、貨幣経済の暗黒面に焦点を当てた稀な試みとなるだろう。その意味で、当連載は「貨幣経済史黒書」と命名される。当面は不定期連載ながら、これを通じて、貨幣経済の本当の恐ろしさを歴史的に追体験することを可能としたい。表示はしないが、「本当は恐ろしい貨幣経済」という副題を付してもよいだろう。
 記述に当たっては、日本に限定せず、世界歴史上に位置づけられた貨幣経済史の全体を概観するように努め、最後に「貨幣経済史の終焉」として、貨幣経済からどのようにして脱却できるか、というこれまでの連載で必ずしも充分に触れることのできなかった問題についても、考察してみたい。

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民衆会議/世界共同体論(連載第12回)

2017-10-19 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第3章 民衆会議の組織各論①

(3)民衆会議の基本構制
 民衆会議は全土と地方の各圏域に相似的なネットワークとして設置されることになるため、代議員の選出方法、任期や運営などに係る基本構制はすべての民衆会議で共通している。
 まずその構成員となる代議員は、抽選によって選出される。その際、単純な抽選ではなく、免許制とし、免許を取得した有権者の中から抽選する制限抽選制を採る。
 抽選の場合、選挙とは異なり、選挙区のような地域区分制はなく、全域一区である。従って、全土民衆会議であれば、例えば日本全域から抽選される。ただし、連合型の場合は、連合領域圏を構成する準領域圏ごとに同数または人口に比例した数の代議員が抽選される。
 全域一区を採る場合、選出された代議員の居住地は均一にならないが、民衆会議代議員は居住地の利益代表者ではなく、あくまでも民衆の代表者であるから、地域的な不均一は問題とならないのである。
 また、民衆会議は政党なき民主主義の制度であるから、政党ベースで代議員が選出されることもない。従って、政党の結成自体は禁止されないが、政党としてまとまって代議員を送り込むことは禁止される。
 代議員は任期制であるが、任期は長すぎても短かすぎても適切ではなく、ローテーション制により入れ替えを定期的に行なうことが民主主義に適うので、1期5年程度に固定することが望ましい。連続での再選は認めないが、期間をおいて再選されることはできる(ただし抽選制のため、当選確率は低い)。
 民衆会議の運営は、議長を中心に副議長並びに常任委員会及び特別委員会の委員長で構成する政務理事会が行なう。民衆会議は全権統括機関であるため、内閣や首長部局のような行政機関・部署は独立に設置されず、民衆会議の運営機関である政務理事会が行政機関的な機能も同時に果たす。
 議長及び副議長(複数)は、代議員の中から選出する。常任委員会及び特別委員会の委員長は各委員会で互選する。その際、議会のような会派の結成は事実上の党派政治の形成につながるため禁止され、代議員は個人単位かつ所属委員会ごとに活動する。所属委員会は三つ程度まで兼任してよいものとする。
 なお、民衆会議制は国家なき統治を前提とするため、国家元首はそもそも存在し得ないが、全土/連合民衆会議議長は象徴的に元首的な役割を果たす。同様に、地方自治体にも首長は存在しないが、地方民衆会議議長は象徴的に首長的な役割を果たす。

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奴隷の世界歴史(連載第24回)

2017-10-18 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

アフリカ奴隷供給国家
 大西洋奴隷貿易が極めてシステマティックな国際貿易システムとして確立されるに当たっては、奴隷の主要な供給元となる西アフリカ沿岸部から安定的に奴隷が提供される必要があった。複数の地場黒人国家がそうした「奴隷供給国家」と呼ぶべき役割を果たしていた。
 これらの奴隷供給国家は西洋向け奴隷を提供するために戦時の伝統であった奴隷狩りを常態化し、奴隷貿易のシステムにおいては不可欠の当事者かつ共犯者の関係にあった。この事実は、旧奴隷貿易をめぐる現代の損害賠償請求に際しても黒人側を一方的な加害者として単純化できない困難を生じさせるであろう。
 最も早くに奴隷供給国家となった国の一つが、コンゴ王国である。同国は、14世紀末に建国されたが、15世紀末、西アフリカに進出してきたポルトガルと対等な国交を樹立した。以後、カトリックを受け入れ、国王もカトリック教徒となる。
 しかし、同時に財源をポルトガルとの奴隷貿易に置いたため、コンゴは初期大西洋奴隷貿易の拠点となる。特に、沖合いのポルトガル植民地サントメ島が奴隷商人の商業拠点かつ奴隷を使役したサトウキビやカカオのプランテーションとなった。
 結果として、奴隷商人の横暴やポルトガル人による王政干渉などの問題が相次ぎ、1526年、時の国王アフォンソ1世は奴隷貿易の制限を宣言するも、ポルトガルはこれを無視した。国王はローマ教皇に直訴する挙に出たが、教皇庁もポルトガルの奴隷貿易を容認しており、効果はなかった。
 ポルトガルによるコンゴ干渉はアフォンソ1世の没後、さらに強まり、事実上の属国化された。17世紀にはオランダに押されたポルトガルの後退を突いて中興を果たすも、再びポルトガルに攻め込まれ、同世紀後半から18世紀初めの内戦によって衰退していったのである。
 一方、コンゴより遅れて大西洋貿易最盛期に奴隷供給国家として繁栄したのが、現在のベナンに当たるダホメ王国である。同国は15世紀初頭に現在のナイジェリア南東部に建国されたオヨ王国の属国でありながら、独自に奴隷供給国家として国力を蓄えていった。
 ダホメは強力な王が支配する専制的軍事国家であり、奴隷貿易の見返りとして西洋から火器を輸入して、よく知られた女性軍団を含む強力な常備軍を結成し、地域の軍事大国に成長していった。そして、19世紀にはゲゾ王の下でオヨ王国からも独立し、最盛期を築いたのである。
 ゲゾ王は、欧州での奴隷廃止運動から奴隷貿易終焉を見越して、アブラヤシ栽培など奴隷貿易に代わる収益源にも手を広げたが、奴隷貿易終焉後の植民地化の潮流の中で、ダホメはフランスに侵攻され、二度の戦争に敗れ植民地化された。
 同様の運命は、他の奴隷供給国家にも降りかかった。いかに奴隷貿易を奇禍として繁栄したところで、奴隷の大量「輸出」による社会共同体の崩壊は、軍事力による植民地化という新たな西欧列強の国策の前には、無力をさらけ出したのであった。

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奴隷の世界歴史(連載第23回)

2017-10-17 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

大西洋奴隷貿易:最盛期
 ポルトガルが先鞭をつけた大西洋奴隷貿易が最盛期を迎えるのは、16世紀末にポルトガルが台頭したスペインによって併合され後退した後の17世紀から18世紀にかけてのことである。
 スペインでは先住民奴隷が酷使や疫病により激減すると、補完として黒人奴隷を必要とするようになり、王室が商人集団に対して保証となる前金と引き換えに一定数の奴隷輸送販売の独占権を付与するという一種の請負契約(アシエント)の法的仕組みを整備して奴隷貿易を促進したのであった。
 ポルトガルの後退に付け込む形でオランダが割り込み、1637年、奴隷貿易の拠点であったエルミナ城をポルトガルから奪取し、17世紀前半までにギニア海岸を我が物とした。その後、ポルトガルは南下してアンゴラを征服するとともに、東アフリカ方面に侵出してモザンビークを植民地化し、新たな奴隷貿易拠点とした。
 イギリスは、初めロンドン商人を中心とする王立アフリカ会社が奴隷貿易を独占し、欧州とアフリカ西海岸とカリブ海域(西インド諸島)をつなぐいわゆる三角貿易の経済的な仕組みを最初に確立した。王立会社は独占批判を受け17世紀末に解散となったが、イギリスはスペイン王位継承戦争後の1731年ユトレヒト条約でスペインのアシエントを譲り受ける形で三角貿易を継続し、以後18世紀を通じて三角貿易の利益をほぼ独占した。
 この大西洋奴隷貿易は貿易船による奴隷の長距離輸送という過酷なプロセスを含む点で、イスラーム奴隷貿易にも見られない非人道的な性格を帯びていた。過密状態の輸送船内の環境は劣悪で、約5週間を要した航海中の死亡率は最大20パーセントに達したとされる。
 衰弱した奴隷は海中に遺棄されることもあった。そのことが保険金訴訟に発展したのが、ゾング号虐殺事件である。一方、奴隷船内で奴隷が反乱を起こすこともあったが、成功することはなく、残酷に制圧されるか、乗っ取りに成功しても漂流するだけであった。
 また、いったん奴隷として売却されれば後宮職員や側女、軍人としての立身もあり得たイスラーム奴隷とは異なり、大西洋奴隷貿易における黒人奴隷は、売却先でもプランテーション労働者として過酷な労働を強いられる運命にあった。
 ただし、場合によっては農場主の召使などの家内奴隷となり、主人の温情によって個別的に解放されることもあった。そうした解放奴隷が比較的多かったのが、後に独立するフランス植民地のサン‐ドマングや北アメリカであった。
 かくして初期から通算すれば3世紀に及んだ大西洋奴隷貿易によって輸送された黒人奴隷の総数については正確な記録もなく、論者によって様々な数字が提出されているが、最小推計でも1000万人、最大推計では5000万人に達するとされる。
 いずれにせよ、当時の人口規模では奴隷供給元となるアフリカの諸王国の存亡に関わる数字であり、実際、アフリカ社会は大西洋奴隷貿易の影響で衰退・崩壊していったのである。

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奴隷の世界歴史(連載第22回)

2017-10-16 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

大西洋奴隷貿易:初期
 大西洋奴隷貿易は、西洋列強による大航海時代の開幕と密接に連関している。従ってまた、それは大航海にいち早く寄与したポルトガルによって始められる。このポルトガル主体の大西洋奴隷貿易の時代を、ここでは初期とみなすことにする。
 当時、地中海や紅海を舞台とする奴隷貿易は圧倒的にイスラーム圏の独断場であったため、西洋人による奴隷貿易はイスラーム勢力の手がまだ届いていなかったアフリカ大陸西海岸沿いが狙い目となった。ポルトガル人による最初の奴隷貿易の記録は1441年、現西サハラでの奴隷狩りによるものである。 
 もっとも、聖典で奴隷の存在を一定の条件下で許容するイスラーム教と異なり、キリスト教における奴隷の可否は聖書上不明であったところ、15世紀半ば、時のローマ教皇ニコラウス5世がポルトガルに対し、異教徒の奴隷化を認める勅許を下したことで、奴隷貿易には宗教上もゴーサインが出た。
 これに機に、奴隷貿易は1450年代を通じて活発化していき、西アフリカ沿岸地域が奴隷の供給元となる。この地域には、中小の黒人部族勢力が興亡し、相互に奴隷狩りを行なっていたが、ポルトガル人はこれら勢力と提携し、奴隷を常時購入するシステムを作り上げたのだった。
 ポルトガルは1482年、現ガーナにエルミナ城を築き、以後、ここが大西洋奴隷貿易の拠点となる。ポルトガルはアフリカ西海岸で獲得した奴隷を当時カリブ海域やブラジルの植民地で経営していた砂糖プランテーションの労働者として輸送したが、この大西洋をまたぐ奴隷貿易システムこそ、大西洋奴隷貿易の原型となる。
 ちなみに、ポルトガルとともに大航海時代を築いたスペインはアフリカに植民地を築けず、新大陸の植民地では現地先住民を奴隷化して労働力とするシステムを構築していたこともあり、スペインの大西洋奴隷貿易への参入は遅れることとなった。
 このポルトガルを主体とする初期奴隷貿易の裾野は戦国時代の日本にも、二つの方向から及んでいた。一つは黒人奴隷の持ち込みである。中でも最も著名な存在は、織田信長の家臣に取り立てられた黒人武士の通称弥助である。彼はイエズス会のイタリア人巡察師ヴァリニャーノが来日した際に同伴し、信長に譲った黒人奴隷で、出身はポルトガル領モザンビークと見られている。
 もう一つは、日本人の被奴隷化である。戦国武将たちが戦利品として敵方の領民を拉致する「人取り」の慣習によって獲得された人間をポルトガル商人に奴隷として売却することが行なわれていたのである。幸いにも、この「日本人奴隷貿易」は豊臣秀吉のバテレン追放令に付随して発せられた奴隷売買の禁止令と徳川幕府による「鎖国」政策のおかげで終息した。

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民衆会議/世界共同体論(連載第11回)

2017-10-06 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第3章 民衆会議の組織各論①

(2)二つの類型:連合型と統合型
 前回、全土民衆会議と地方民衆会議の完全な対等性について論じたが、もう少し補足的に細かく見ると、両者の関係性にも二つの種別がある。一つは連合型であり、もう一つは統合型である。
 前者の連合型とは、現行の国家制度で言えば連邦制に相応するもので、これは複数の包摂領域圏―準領域圏―が連合して一つの領域圏を形成する型である。この場合、準領域圏は領域圏に準じた相当に広範な自主権を持つことになり、準領域圏民衆会議は地方民衆会議としては最も強力なものとなる。
 それに対して、後者の統合型は領域圏の統合性がより高く、準領域圏は存在せず、領域圏内の広域自治体は地方圏である。地方圏民衆会議も独自の憲章を持つことができるが、連合型における準領域圏ほどに広範な権限は持たず、全土民衆会議の権限が比較的強い。
 ちなみに、統合型を基本としつつも、ある特定の地方圏の民族的・文化的独自性を尊重するため、一般の地方圏よりも強い自治権を保障する特別地方圏のような制度を設けることもできる。
 とはいえ、民衆会議のシステムにおいて、全土民衆会議と地方民衆会議はあくまでも対等関係に立つから、連合型と統合型の相違は、現行国家制度における連邦国家と中央集権国家の相違ほどには大きくなく、その相違は相対的であって、「中央集権型」という類型は存在し得ない。
 また、各領域圏が連合型と統合型いずれの形態を選択するか、また上述した特別地方圏を設置するか否かは、各領域圏民衆会議の討議と議決に委ねられる。さらに、連合型における準領域圏にいかなる権限を与えるか、また連合型における準領域圏及び統合型における地方圏内部の地方自治体の権限関係如何についても、同様である。

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民衆会議/世界共同体論(連載第10回)

2017-10-05 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第3章 民衆会議の組織各論①

(1)全土民衆会議と地方民衆会議
 本章及び次章では、半直接的代議制の制度である民衆会議の具体的な組織構成を見ていく。まず民衆会議の全体的なシステムについて見ると、この制度は議会制度における国会(国民議会)と地方議会のように、全土と各地方に相似形的な会議体―全土民衆会議と地方民衆会議―が置かれる構成を採る。
 ここで留意すべきことは、民衆会議システムは国家という制度を前提とせず、国家に代えて領域圏―究極的には世界共同体に包摂される―と呼ばれる統合的または連合的な政治体を前提とするということである。従って、ここに「全土」とは各領域圏の全域を意味する。
 その点、国会と地方議会とは組織上全く別個の機関であって、相互に連絡関係もないのが通例であるのに対し、全土民衆会議と地方民衆会議とは有機的につながる一つの会議体システムの一環である。従って、両者には活動上の連絡関係がある。
 ただし、全土民衆会議と地方民衆会議の関係は国家を前提とした中央‐地方の上下関係ではなく、完全な対等関係である。従って、全土民衆会議は地方民衆会議に対して指令することはできず、地方民衆会議も全土民衆会議に対して拘束力のある要求をすることはできない。
 地方民衆会議は地方議会と同様に、地方自治体ごとに設置される。地方自治のあり方は民衆会議の組織構成とは別個の問題であるが、筆者はかねてより三層自治を提唱している。すなわち、基礎自治体としての市町村に加えて、中間自治体としての地域圏、広域自治体としての地方圏の三層である(拙稿参照)。
 三層自治で組み立てるとすれば、地方民衆会議も市町村‐地域圏‐地方圏のそれぞれの圏域に設置されることになるが、この三層の民衆会議もまた上下関係ではなく、対等関係で結ばれたネットワークを構成する。
 このようにして、民衆会議は全土と三層の各地方にそれぞれ隈なく設置され、その全体が一つの民衆会議のネットワークとして機能する有機的な統治システムであると言える。
 そして、この民衆会議システム全体の運営規範の位置づけを持つ民衆会議憲章が、実質上憲法に相当する共通規範となるが、地方民衆会議もそれぞれこの共通憲章の範囲内で、自主的に独自の憲章を制定することができる(例えば、X市民衆会議憲章、Y地域圏民衆会議憲章、Z地方圏民衆会議憲章)。

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奴隷の世界歴史(連載第21回)

2017-10-03 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

イスラーム奴隷貿易:前期
 世界奴隷貿易の時代の幕開けを画したイスラーム奴隷貿易は、西欧列強による大西洋奴隷貿易が開始される以前と以後で大きく分けることができる。ここでは、そのうち大西洋奴隷貿易開始以前をイスラーム奴隷貿易の前期とみなすことにする。
 この時代は、イスラーム勢力が発祥地の中東のみならず、シチリア島やイベリア半島など南欧にまで拡大された8世紀に始まる。この時代、イスラーム勢力は地中海を支配したが、当時は地中海こそが文明世界をつなぐ最重要海路であったから、地中海をまたぐ交易が「世界貿易」であった。
 この貿易において、アラブ人が奴隷として取引したのは、アフリカ黒人以上に、スラブ系やコーカサス系、時にイングランド人やアイルランド人等にまで及ぶ白人や中央アジアのテュルク系の異教徒諸民族であった。
 しかも、初期の奴隷貿易、特にスラブ人奴隷の取引には北欧バイキングが一枚かんでいた。バイキングとイスラーム世界のつながりについては、スウェーデンのビルカのような北欧の交易都市遺跡から多くの証拠となる出土品が発見されており、自身も武装略奪商人であったバイキングが世界奴隷貿易の開始に果たした役割は小さくない。
 ちなみにバイキング自身も、略奪で獲得した男女をスレールと呼ばれる奴隷として使役していた。スレールは売買の対象となる最下層身分ながら、その待遇は比較的穏当で、独立世帯を有し、穀物や家畜を主人に上納する農奴的な性格も持っていた。
 イスラーム奴隷貿易で獲得された奴隷は、主にイスラーム諸王朝の後宮使用人や兵士として使役された。特にテュルク系の奴隷は兵士として重用され、解放されると軍人として立身し、後にはそうした解放奴隷軍人自身が王朝を樹立することさえあった。
 イスラーム奴隷貿易ではアフリカ黒人奴隷も取引の対象とされたが、その主要な供給地は東アフリカ沿岸であった。かれらはザンジュと呼ばれ、兵士や私的な家内奴隷として売られた。
 特にアッバース朝下のイラク南部では有力者に私領地で農業奴隷としてザンジュが使役される風潮があった。これは後に西欧列強がカリブ海地域などで営んだプランテーションに似ているが、奴隷の待遇は劣悪であったため、869年にはアラブ人革命家に煽動されたザンジュが蜂起し、勢力を挽回したアッバース朝軍により鎮圧されるまで、十年以上にわたり独自の革命政権を維持する事態となった。
 この「ザンジュ革命」は黒人奴隷による反乱・革命としては先駆的なものであったが、それが奴隷制廃止につながることはなく、東アフリカはその後、イスラーム奴隷貿易の後期には最重要の奴隷供給拠点として確立される。
 他方、西アフリカはサハラ砂漠を隊商で往来するサハラ交易ルートが確立されると、やはり黒人奴隷貿易の供給地となった。ここではイスラーム化したガーナ王国などの地場王朝が召使や兵士として自国民を奴隷として輸出するという協力関係が見られた。
 こうした前期イスラーム奴隷貿易は、イスラーム世界でテュルク系のオスマン帝国が強勢化し、西欧列強が大航海時代を迎える16世紀に転機を迎える。すなわち、奴隷貿易の主導権がアラブ人からトルコ人に移り、西欧列強というライバルが出現したのである。

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奴隷の世界歴史(連載第20回)

2017-10-02 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

世界奴隷貿易
 前回まで奴隷制廃止への長い歴史を見たが、その前史として、人類は国境を越えた奴隷売買が世界経済システムの基盤を成すという異常の時代を経験している。物の売買が圧倒的な中心を占める現代の貿易常識では想像し難い人身売買に支えられた貿易システムが確立されていたのであった。
 それは通常、西欧列強を主体とする「大西洋奴隷貿易」の名で知られている。しかし、実際のところ、大西洋奴隷貿易の周縁には日本人をも含むアジア人奴隷の売買も包含されていたし、イスラーム世界では西欧列強に先立って、アラブ人を主体とする奴隷貿易システムが形成されていたのであり、それら全体を包括して、「世界奴隷貿易」と名付けることができる。
 こうした「世界奴隷貿易」の始まりをいつと捉えるかは難しい問題であるが、先鞭をつけたのは上述のとおり、アラブ人である。それはイスラームの創唱後、イスラーム勢力の拡大とともに中世に始まる。そうした初期のイスラーム世界における奴隷制については改めて次章で見るが、アラブ奴隷貿易が本格化したのは、大西洋奴隷貿易より700年ほども遡る。
 アラブ奴隷貿易はやがてオスマン帝国の台頭によって、オスマン帝国主導に置き換わり、20世紀初頭まで継続されていく。その全体を「イスラーム奴隷貿易」と呼ぶことができる。そうした意味で、奴隷貿易の禁止が初めて国際条約化された19世紀末までの世界奴隷貿易の歴史は、その大半を「イスラーム奴隷貿易」が占めていると言ってよい。
 より有名な西欧列強による「大西洋奴隷貿易」は「イスラーム奴隷貿易」に遅れて、かつ存続期間も限られた事象ではあったが、その貿易範囲の地理的広大さと後世に残した負の遺産の大きさに鑑みて、世界奴隷貿易の歴史的な象徴となっているのである。とはいえ、本章では「大西洋奴隷貿易」に限局することなく、「イスラーム奴隷貿易」を含めた「世界奴隷貿易」の時代の全体像を把握することに努める。

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