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近代革命の社会力学(連載第161回)

2020-10-26 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ三 イラン・ギーラーン革命

(4)「モスクワの裏切り」から崩壊へ
 ギーラーン革命の最終的な挫折の契機となったのは、革命政権の後ろ盾であったロシア政府の外交方針の転換、言わば「モスクワの裏切り」であった。そして、その裏切りの決定的な契機ともなったのが、ギーラーン革命と同時進行的に発生したテヘランのカージャール朝内部での軍事クーデターである。
 1921年2月、カージャール朝のコサック旅団を率いるレザー・ハーンが、イギリスの支援の下にクーデターを起こし、初めは戦争大臣として、続いて首相としてカージャール朝政府の実権を掌握した。レザーは支援を受けたイギリスよりもロシアに歩み寄り、友好善隣条約の締結を急いだ。
 イラン系少数民族の貴族出自のレザーは心情的に親ボリシェヴィキではなかったが、イギリスとロシアの競争的侵出という事態の下、イランの独立性を回復するうえで、ロシアとの戦略的融和を望んだのである。
 こうした新政権の姿勢により、ロシアもさしあたりレザーが率いるカージャール朝政府を承認し、イランから赤軍を撤退させたうえ、ギーラーン革命政府に対しては解散を求めたのである。これに対して、ヘイダルが調停者として実権を持っていたギーラーン革命政府は抵抗を見せる。
 しかし、一度は政権に呼び戻されたミールザーが、またも共産党が綱領を修正し、共産党主体のソヴィエト政権樹立の方針を掲げたことに対し、9月にクーデター(未遂)を起こして再び政権を離脱、「調停」政権は失敗していた。
 そうした中、前回見たように、革命政府は独力でテヘラン進軍を企てるが、カージャール朝軍によって撃退された。1921年10月以降、レザーはギーラーン革命政府に対する掃討作戦を開始する。この作戦はモスクワの黙認または示唆の下に行われたものであったため、ギーラーン革命政府の命運は尽きたも同然であった。1921年11月、革命政府首府ラシュトが陥落し、ギーラーン革命は挫折したのである。
 ミールザーは山中に逃亡・潜伏中に凍死したが、遺体は反革命派の地主の手で斬首され、晒された後、レザーのもとへ首級として持ち込まれるという封建的な報復が行われた。ちなみに、ヘイダルは1921年9月のジャンギャリー派クーデタ―により逮捕され、処刑されたとされる。
 他方、スルタン‐ザーデやエフサーノッラーといったイラン共産党の残党は、レザー政権下で同党が禁止された後、ソ連に亡命し、活動していたが、いずれも30年代のスターリン時代に粛清されている。その他の残党は地下で活動し、カージャール朝を廃してレザーが建てたパフラヴィ―王朝下の1941年、トゥーデ党(人民党)の名で実質上復活している。
 ギーラーン革命における二大連合勢力のうち、ジャンギャリー運動の直接の継承はミールザーの死後、なされなかったが、1949年にトゥーデ党が非合法化された後、若き日に立憲革命に参加したこともあるベテラン政治家モハンマド・モサデクが結成したナショナリスト政党・イラン民族戦線に間接的な形で継承されたとも言える。


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